| 第4号(2007年5月25日) |
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衞藤 瀋吉(東京大学名誉教授)
『就友』と題する小さなパンフレットを庵谷磐さんから10年程前に頂いた。庵谷さんは私と同じ奉天一中の先輩、引揚孤児のアフターケアや残留孤児の厚生に身を挺している義人である。『就友』は「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」という会の機関誌である。その表紙に短い詩が記してある。かつて別なところでも紹介したが、激しく胸を打ち、忘れられないので、ここでも紹介させて頂く。 二人の子の手を引き 三日三晩 四六時中歩き続け 五臓 六腑痛めつけて満洲の 見せたい今の幸せぶり 九天直下超特急で
十萬億土からこの世へ ツアーはありませんか」 半世紀以上むかしのことである。敗戦の混乱の中で、ソ連軍の進撃と空襲。攻撃の目標は軍であろうと民間人であろうと差別なく遠慮会釈なかった。占領されれば、掠奪と暴行は毎日のことで、日本人避難者はただじっとこらえなければならなかった。そのことを思うと、この短い詩を読んで涙が溢れるのをこらえ得ない。私だって一歩誤れば惨憺たる暴虐の犠牲となる運命であったかも知れない。現に私は広島で原爆の襲撃をうけ、数ヶ月髪の毛が抜け落ち、数年間白血球減少症に悩まされた。当時放射能の人体に与える影響について種々の臆測があり、結婚のとき人知れず煩悶した。初めて子を持ったとき、ひそかに健常者であるかどうかを疑い続け、以来孫でも生まれる度に一種の恐怖に襲われる。原爆で受けた心の傷は癒しがたい。 同じように、北満からの避難者の心の傷は、なかなか推し測り得ないほど深いに違いない。その難民の集結地方正県!多数の餓死者、凍死者、そして附近の村々では中国人に殺された人も少なくないと聞く。 皆様の努力によって今は、静かな中日友好園林の緑と、豊かな田畠とに囲まれた町となった。そこに周恩来みずから建設、命名を許可した「方正地区日本人公墓」が清潔に保たれていると聞く。そして藤原長作氏の水稲栽培の実践は方正県の名を中国の内外に知らしめることとなった。藤原氏は知る人ぞ知る、後半生を、中国各地で生産力が高く、かつ美味しい寒冷地水稲栽培技術の普及に捧げ尽くした人で、方正はその拠点であった。今、藤原氏亡きのち、藤原式水稲栽培は普及しつつあるという。暗い残酷な歴史の一こまを背負う方正県も、これからは明るい農業集散地として栄えて行くことであろう。 奉天(現在の瀋陽)で生まれ、奉天一中を卒業して内地の上級学校に入った私は、まだ方正県を訪れる機会を得ない。近く是非訪れたいものである。 ところで、方正の物語は単なる敗戦の悲劇の一こまではない。敗戦のとき、中国に取り残された残留孤児たちは、夢にまで見た山河が緑に溢れ、人々は心優しいはずの祖国に帰りたがった。1972年の日中国交正常化以来その道は開け、多くの残留孤児たちが祖国を永住の地と定めた。若くして帰国し得た人々は、日本語の習得も速く、日本の社会文化環境に馴染むことが出来た。しかし40才台、50才台になって帰国した人たちにとっては、日本語は外国語であり、その習得には多大の労力を必要とした。いや勉強しても勉強しても、子供が言葉を覚えるようにはいかなかった。大人になってからの外国語学習は、脳の発達の限度から非常に困難なのである。日本政府の残留孤児担当者はこの課題への心遣いが全くなかった。中途半端な日本語の初歩的学習を済ませて世間に放り出された残留孤児には、困難な前途が立ちはだかり、就職にも近隣とのつき合いにも支障が生じた。いや年齢を重ねれば重ねるほど支障は致命的となった。たまりかねた残留孤児たちは三度国会へ立法的な救済の道を請願したが実現せず、ついに一昨年来裁判に持ち込んで、老齢になってからの生活保障を求めようとしている。私は日本兵や軍属として戦った台湾人には、日本人と同じ軍人年金を与えるべきだとかねて主張してきた。残留孤児も同じである。裁判には呼びかけ人として、その訴訟を励ますとともに、原告側勝訴をひたすら願っている。夢にまで憧れた祖国に見離されるとは、これら悲劇の残留孤児にとって余りにむごい対応の仕方ではあるまいか。 <衞藤瀋吉さん:本会の会員。1923年、中国瀋陽(旧満州奉天)の生まれ。東大教授を定年退職後、亜細亜大学学長を経て、現在東大名誉教授。専門は中国を中心とする東アジア史。著書『近代東アジア国際関係史』『現代中国政治の構造』『無告の民と政治』『大国におもねらず小国を侮らず』ほか。昨年の本会総会では「方正日本人公墓と今日の日中関係について」という題で講演をしていただいた> |
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