方正友好交流の会
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星火方正
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第10号(2010年5月発行) / 1冊33記事 を表示しています。

  第10号(2010年5月発行) 第10号(2010年5月発行)表紙

あの歴史に立ち会う一「方正地区日本人公墓」建立前後の回想1
趙喜晨(北京)
1961年、26歳の時、私は黒竜江省人民政府外事弁公室に異動を命じられ、1985年、仕事の必要から他の部門に異動するまで、ずっとそこで仕事をした。この25年間、私はほとんど居留民関係の仕事に従事した。 /// 続きは本誌ご参照
琿春と岐阜県満州開拓団6
小島正憲
2005年4月、私は工場の立地調査のため琿春市を訪れた。まず琿春市長と面談し、市の概況を尋ねた。そのとき琿春市長がわが社のパンフレットを見て、本社が岐阜県だということに気づき、私に琿春市と岐阜県とは縁が深いと話してくれた。戦前、琿春市に岐阜県の朝日・和良・高鷲の3村が開拓団として入植していたというのだ。それを聞いて私は、その奇縁にびっくりした。なぜなら小島衣料本社には、30年ほど前、その和良や高鷲村から従業員さんが働きに来てくれていたからである。ひょっとすると、この琿春から引き上げた人の関係者がいたかもしれない。私は琿春市に運命的なものを感じ、どうしてもこの工場を成功させねばと心に誓いながら、同年11月、輝春市経済合作区で独資工場の稼動を開始した。 /// 続きは本誌ご参照
東京の商店街からも開拓団に参加したのだ!―「こや定ふれあいスクール」に参加して9
吉川雄作
去る3月17日、「こや定ふれあいスクール」なる催しに、当会参与の奥村氏らとともに参加した。「こや定」が「都立小山台高校定時制」の略称と知るまで少し時間がかかった。その「こや定」では、「生徒の生きる力を高め、人権の尊重、多文化の理解、市民の育成、国際平和をテーマに特色ある教育活動を実施」(案内文より)を謳っている。今回のテーマは「東京の満蒙開拓団を知ろう―武蔵小山商店街と戦争」で、教育活動=授業の一環としながら一般市民にも見学を呼びかけて実施されたものだ。講師の一人に、奥村氏と私も加わる「ちば中国帰国者支援交流の会」の会長であり、日本中国友好協会理事でもある飯白栄助氏が、開拓団体験者として招かれている。 /// 続きは本誌ご参照
私の方正之路:二つの弔い11
奥村正雄
福地正博さん(享年72歳)の訃報を聞いたのは、昨年暮れも押しつまった12月30日である。電話で知らせてくれた劉玉琴夫人(71歳)の声は驚くほど冷静だった。逝去は28日。肺がんで入退院を繰り返していたので、夫の死はすでに彼女の胸の中で、数え切れないほど覚悟を迫られていたせいかとも思ったほどである。 /// 続きは本誌ご参照
2009年夏中国・旧満州の旅18
名井佳子
2009年の夏、たまたま4大学5人の先生方の企画「中国・旧満州調査の旅」に誘われました。日程表を見ると初日に731部隊遺跡となっていたので、ハルピンまで行くのなら是非方正地区日本人公墓へも行って欲しいと頼みました。4泊5日という短期の旅の中に、ハルピンから相当距離のある方正までの無理な願いでしたが幸い快く受け入れて頂きました。 /// 続きは本誌ご参照
前の経験を忘れず、後の教訓とする一日本映画「嗚呼 満蒙開拓団」を見て21
趙喜晨(北京)
最初に日本大使館がこのたび「嗚呼 満蒙開拓団」の観賞会に招いていただいたことにお礼を申し上げます。同時に羽田澄子さんほかこの映画を作られた関係者のご努力によって、このような血と涙の歴史的シーンを見せていただいたことに対して感謝しなければなりません。「嗚呼 満蒙開拓団」は、20世紀の1930,40年代にさかのぼって日本の開拓団の人達が中国東北地方でなめた悲惨な経歴を、間際で追求し記録したものであり、見た後、悲痛な思いをさせられます。 /// 続きは本誌ご参照
北京での「嗚呼 満蒙開拓団」鑑賞会を終えて25
佐渡京子
2010年1月23日、「嗚呼 満蒙開拓団」鑑賞会実行委員会主催、自由工房と北京日本人会協力のもと、北京の国際交流基金の多目的ホールで、映画「嗚呼 満蒙開拓団」の鑑賞会が行われた。中国での初の上映会である。この映画が開催されるきっかけになったのは、2009年9月、大類善啓さんが、北京の日本大使館を表敬訪問されたことである。その際に、大使館の梅田邦夫首席公使にこの映画について話され、それに興味を持った梅田公使に、自由工房から映画のDVDが贈られ、映画に感銘した公使の発案で、その後大使館内での上映会につながった。 /// 続きは本誌ご参照
中国での波紋―「嗚呼 満蒙開拓団」:日本国内だけではなく、その反響が中国でも広がり始めていることを示す1通の手紙28
石金楷(中国ハルピン市日本残留孤児養父母懇親会秘書長)
尊敬する羽田澄子さま。「爆竹鳴って古い年が去り、正月の飾りで新春を迎える」中国の伝統的な祝日の春節を迎えるにあたり、あなたとご家族が、寅年に楽しく健康で望むようにおめでたいことがありますよう、お祈りいたします。 /// 続きは本誌ご参照
日本に帰還しなかった兵士たち―映画「鳴呼 満蒙開拓団」を見て自作映画を考える29
松林要樹
日本に帰らず、タイ・ビルマ国境に残り続けた6名の元日本兵を追った「花と兵隊」という記録映画を、私は約3年かけて作った。異国での戦後をどう生きたのかということを描いた。2009年8月より全国公開され、現在いろいろな場所で自主上映会を開いていただいている。今回、映画「鳴呼 満蒙開拓団」を見せていただいた。戦後60年以上の時が流れ、私が制作した映画「花と兵隊」同様、証言者は高齢化し、次々と鬼籍に入っている、時間との勝負なのである。 /// 続きは本誌ご参照
方正とランプーン、二つの慰霊塔に思うこと―「嗚呼 満蒙開拓団」と「花と兵隊」31
森一彦
映画「嗚呼 満蒙開拓団」の冒頭シーンは、中国残留孤児裁判の判決の日から始まる。この映画を手がけた羽田澄子監督は、この物語が“過去の証言”ではなく、現在進行形の問題であることを告げている。満蒙開拓団の人々は、かつて1945年8月のソ連軍の侵攻とともに、関東軍に棄てられた。そして、息絶えた人々も、中国人によって育てられ生き抜いた人々も、戦後は日本から見棄てられつづけた。そして、ようやく祖国への帰国を果たした人々も、言菓も通じない日本の社会から棄てられつづけたのだ。 /// 続きは本誌ご参照
深谷シネマで『嗚呼 満蒙開拓団』を観る33
芹沢昇雄
中国・方正に中国政府が建ててくれた『日本人公墓』が在ることも、隣に『養父母の墓』が在ることも知っていたが、世間には殆どには知られてこなかったであろう。「方正友好交流の会」の大類善啓さんたちの長い間のご尽力や、この羽田澄子監督のこの映画はその認知に大きく貢献したに違いない。 /// 続きは本誌ご参照
次の世代に伝えたい―「鳴呼 満蒙開拓団」自主映画会に関わって34
渡部通恵
この映画に出会うまでば満蒙開拓団とか満蒙義勇軍とかという言葉も意味も知りませんでした。知らないことを知ることから、すべては始まるということで、上映にかかわることから始めました。 /// 続きは本誌ご参照
涙が止まらなかった―映画「鳴呼 満蒙開拓団」を見て36
畠山孝
私は今、1926年生れの85歳です。戸数17戸ある農漁村で育ち、畑を耕し、漁草や魚を食べて暮らし、夜は電灯もなく、ラジオも聞けずの田舎育ちをしてきました。その頃、中国と戦争をしており、村からも何人かの若者が軍人として出征し、戦死者も町全体で何人かが出たと聞いておりました。 /// 続きは本誌ご参照
追想―映画「鳴呼 満蒙開拓団」を見て38
松浦周之助
「この子は日本人の子供だ」と偶々出会った中国人から呼びかけられた。1946年、北満でも朝から暑い朝、私は中国人の農家に使われ、牛や馬7頭を引き連れて、約5キロ離れた放牧場まで片目の馬に乗りながら、主人の中国人と一緒に毎Hのように行く途中でした。 /// 続きは本誌ご参照
関東軍の無策に怒る―「嗚呼 満蒙開拓団」を観て39
吉川健
私は元満州電電社員(通信手)で新京におりましたが、昭和20年6月熱河省承徳電報局に転勤しました。当時17歳でした。8月9日ソ連の侵攻により承徳在の関東軍西南防衛軍司令部はさっさと錦県に後退、私たちは取り残されました。8月19日ソ連モンゴル連合軍が隣の駅まで来たという情勢によりトラックで錦県に脱出しようとしたのですが、途中建昌という山の中で捕らえられてしまいました。 /// 続きは本誌ご参照
真実かどうか冷静に見つめたい―「嗚呼 満蒙開拓団」を観て想うこと40
高嶋敏展
子供の頃、テレビで見た中国残留孤児の肉親探しのニュースは不思議だった。なぜ、もっと早く探しに来なかったのか。なぜ、子供を捨てて親だけ日本に帰って行ったのか。「嗚呼 満蒙開拓団」で描かれていた事が事実であれば、謎のいくつかが解けた事になる。城山三郎の小説で好きだった広田弘毅のイメージも少し変わった。敗戦が濃厚になった時点でも大陸に人植を続けさせ、既成事実の為にわざと引き揚げを遅らせる。今、イスラエルがヨルダン川西岸やガザ地区で行っている既成事実、占領地へ入植を続けているのはまったく同じ手法だと感じた。いつの世も「お上」のなさる事に庶民は翻弄されている。 /// 続きは本誌ご参照
映画『嗚呼 蒙開拓団』と講演で私が学んだこと42
加納佳子
朝鮮半島、中国大陸、そしてアジアの国々に侵略して植民地化するための国策により、甘い言葉で大陸に狩り出され、かけがえのない人生を踏みにじられ翻弄された人々、そして戦況の悪化で敗戦が時間の問題となった時にもなお、執拗に狩り出された人々の当時の様子を、大類様のお話と満蒙開拓団の記録映画によって知ることができました。 /// 続きは本誌ご参照
私の六方拝―「鳴呼 満蒙開拓団」自主上映会に参加して思う43
高尾源峰
老人になる程、修業しなければならないと教えられた。私の実践は写経を中心に行っている。まず朝、早く起き、2時半を起床時刻に定めている。寒中でも冷水摩擦はかかさない。清めた後、六方拝をし、座禅(20分)、読経(10分)ラジオ深夜便の心の時代をきく。そして写経―今日まで200巻(1巻約80OO字)大般若経を書いた。 /// 続きは本誌ご参照
松江は女性パワーで溢れていた―『鳴呼 満蒙開拓団』自主上映会に参加して45
大類善啓
『鳴呼 満蒙開拓団』は、東京の岩波ホールで好評裡に上映を終えた後も、個性的なプログラム編成で活動する各地の映画館で次々に上映され、また今でも自主上映会で盛んに取り上げられている。その自主上映会のひとつが2月14日(日)松江で行われ、主催団体から演出の羽田澄子さんに講演の要請があった。が今一つ、羽田さんのお身体が本調子ではない。まして地方へ遠出するとなると難しいということで、代わりに出掛けることになった。 /// 続きは本誌ご参照
アンケート集49
ベアテの贈りものを届ける会
映画「嗚呼 満蒙開拓団」羽田澄子監督演出作品、講演会演題「方正日本人公墓が意味するものとは」、講師大類善啓氏(方正友好交流の会事務局長) /// 続きは本誌ご参照
愛国主義はエゴイズムだ―トルストイや北澤博史さんのことなど、思いつくまま63
大類善啓
ろくな番組はないと思っているテレビだが、その中でNHKの教育テレビはなかなかいい番組をやる。つい最近も、ロシアの文豪トルストイの日露戦争当時の発言を特集した番組があり、実に見応えがあり最後まで見てしまった。 /// 続きは本誌ご参照
ニッポン 人・脈・記:神と国家の間[8]―愛国心の跋扈は許さじ65
早野透(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2010年2月8日付夕刊)
2008年、パリで、日本の本2冊の仏訳が出版された。幸徳秋水の「廿世紀之怪物帝国主義」と中江兆民「三酔人経綸問答」である。訳者は、日本研究者クリスティーヌ・レヴィ(55)。東京・恵比寿の日仏会館に、彼女を訪ねた。 /// 続きは本誌ご参照
語り続け、伝えつづけ―北澤博史さんを悼む66
高良真木
『二つの祖国一ある中国残留孤児の証言』の著者・北澤博史さんが2月24日、小田原の病院で亡くなった。昨年の春頃から調子が良くないと伺っていたが、入退院をくりかえし、とうとう逝かれてしまった。1940年、5歳の北澤博史少年は、両親と姉二人、弟三人といっしょに満洲信濃村開拓地に入植した。 /// 続きは本誌ご参照
身も心もまる裸68
北澤博史
自分の国を守ることであるのなら国民の犠牲はつきものである。戦前の大人達は、国の行いの良し悪しは別として、みんなそういって行動していたようだ。私が五歳で満州へ連れて行かれた昭和十五年ごろは、戦争のため日本の経済は貧しかったという。戦争に勝って国をよくしよう、そのために、日本は満州を侵略し経済の立て直しをしようと思いついたらしい。 /// 続きは本誌ご参照
ハルピン便り:アメリカ留学生と養母と70
石金楷
春節のあとに行われた2010年第1回例会で、残留孤児の養母・李叔蘭がまた日本へ旅行したいという希望をのべました。連絡会では、まだ未確定ですが、この養母の晩年の希望を叶えてあげるため、5月末もしくは6月初めに「養母訪日チーム」(自費)を編成して、日本へ訪問する予定です。メンバーは養父母、孤児、残留婦人の子供、連絡会の責任者という構成です。日程は1週間、東京で2日、千葉県で1日、友好交流を行いたい。その外、東京周辺の観光を考えています。再会の日を待っています。 /// 続きは本誌ご参照
収集されていない元満洲開拓団員の遺骨71
宮下春男
「満洲国」に国策として送り込まれた農業開拓団は、計画では昭和20(1945)年時点で総数約1200団、約32万人の規模であるが、実際に送り出されたのは約27万人程度と言われている。「満洲開拓史」(昭和41年刊、同史刊行会)によれば、昭和25(1950)年10月に外務省が各県と開拓民自興会県支部を通じて調査した、20年8月9日ソ連軍侵攻から21年12月25日までに葫蘆島経由遣送終了までの在籍者は241,160名であったが、約10%の調査未了の開拓団があったという。 /// 続きは本誌ご参照
残留日本女性ドラマ好調―中国 対日観変える視聴者も80
大木聖馬     転載元:読売新聞(2010年2月19日付朝刊)
第2次大戦後に中国に残留した日本人女性の半生を描いた連続テレビドラマ「小姨多鶴」(多鶴おばさん)が、中国国内で人気を呼んでいる。日本人は、侵略者として扱われることが多い中、戦争被害者として描かれた異色の作品で、ドラマを通じて対日観を変える視聴者も多い。 /// 続きは本誌ご参照
日本に残留し定住したある中国人―在日華僑・韓慶愈が生きた「もう一つの昭和史」(第6回)81
大類善啓
《前回までの粗筋》新中国の誕生は、華僑たちの帰国熱を促し、韓も1953年第1回の帰国船に学生代表として中国に行き、天津で廖承志に面会した。その時廖は、韓に中国に帰国せず「日本に残り、華僑向けの新聞を出せ」と指示。日本に戻った韓は、『大地報』という新聞を創刊した。日中関係は徐々に発展、韓は通訳などでも大活躍。1970年には訪中し、新しい中国を見る。文化大革命の時期は、日本にいる華僑とはいえ様々な間題にぶつかった。その混乱のなか、中国にとって必要なのは日本の先進的な科学技術や工業技術ではないかと思い、『日本工業技術』という雑誌の刊行を思いつく。横やりも入ったがなんとか発行にこぎつけた。イデオロギーや思想ではなく、現実を見ていこうという動きがやっと芽生えてきた。 /// 続きは本誌ご参照
中国・日本人公墓への旅(2010)―映画「嗚呼 満蒙開拓団」のロケ地88
方正友好交流の会
6月23日(水) 新潟空港ロビーに集合 /// 続きは本誌ご参照
第3回近現代の歴史検証と北東アジアの未来を展望する旅―ハイラル、ノモンハン、チチハル、方正を訪ねる旅89
社団法人日中科学技術文化センター
8月19日(木)成田発(CA926) /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い90
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
書籍案内91
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『中国残留日本人という経験「満洲」と日本を問い続けて(蘭信三編)』、『風雪に耐えて咲く寒梅のように二つの祖国の狭間に生きて(可児カ一郎著)』、『満州開拓民悲史一碑が、土塊が、語りかける(高橋健男著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記91
大類善啓
昨年、岩波ホールで上映が始まった『鳴呼 満蒙開拓団』は今でも全国で、主に自主上映会という形で上映され、多くの人たちの感動を呼んでいる。こういう映画を自主的に見ようとする動きがある限り、まだまだ日本も捨てたものではない、と思ってしまう。しかし、そんな考えは甘いのかもしれない。マスメディアがひとたびある論調を張り出すと、人々が一斉になびく風潮は、昔も今もそう変わりがないからだ。その証拠といえば、つい最近まで吹き荒れた検察の小沢潰しと、それに同調するかのような、マスメディアの激しい小沢批判を挙げることができるだろう。 /// 続きは本誌ご参照
 
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