方正友好交流の会
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星火方正
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  第37号(2023年12月発行) 第37号(2023年12月発行)表紙

ザメンホフの予言を思い起こそう:シオニズム運動と訣別したエスペラントの創造者1
大類善啓
10月7日、突如、パレスチナの武装組織であるハマスがイスラエルを襲撃、イスラエルの右派政権、ネタニヤフ首相は直ちにガザ地区を攻撃、たちまち中東問題の根幹の最大の地パレスチナが一挙に世界の中心問題として浮上した。ガザが「天井のない牢獄」になっていることなど、どれだけ日本で報道されていただろうか。正直に言えば、イスラエルがアラブ系パレスチナ人をイスラエル南部にあるガザ地区に追いやり、高い壁を築いて、人々を押し込めている状況を日本のメディアはどこまで伝えただろうか。 /// 続きは本誌ご参照
牧野八郎さん ありがとうございました:天寿を全うされた牧野さん(本会参与)の逝去を悼む4
大類善啓
長年、方正友好交流の会の参与として活動されていた牧野八郎さんがこの4月23日、黄泉の国に旅立たたれました。享年93。文字通り天寿を全うされての旅立ちでした。牧野さんは本会の前身である「ハルピン市方正地区支援交流の会」が1993年5月に発足してから30年間、事務局長そして専務理事として方正に関わり続けて活動を支えていただきました。とりわけ私にとっては、1980年代の初頭からご縁をいただき、本当にお世話になった方でした。 /// 続きは本誌ご参照
中国語を生涯の友として:「三つの中国」の想い出7
神崎多實子
本稿は2023年5月28日(日)、東京一橋の日本教育会館で開催した方正友好交流の会・第19回の総会後に行われた神崎多實子さんの講演記録である。 /// 続きは本誌ご参照
お礼と期待を込めて:方正講演会の感想32
星野郁夫
5月28日の方正友好交流の会総会後の講演会、懇親会、そして「星火方正」第36号の送付に感謝とお礼を申し上げます。ありがとうございました。今回のご講演をいただいた神崎多實子さんには、新鮮な響きがありました。満州のお話といえば悲惨で暗いお話があたりまえです。ところが重苦しい歴史の中にあっても、かすかな明るい体験もされた方がいたのだと、お話をお聞きしながら、驚きました。 /// 続きは本誌ご参照
戦争の足音が近づく34
石川尚志
数年前に母が107歳で亡くなって、実家を処分するための遺品整理に着手した。母はすでに80歳になった時にいわゆる終活を始めており、若い頃の思い出の品や家族の写真などほとんど残っていなかった。わずかに残った書類の中に1944年に亡くなった父の死にまつわる資料があり、かねて母から聞いていた話を裏付けるものだった。乗船の沈没による所持品の喪失を証する船長の書状、海軍病院の死亡診断書、それに軍医の名刺の三点である。 /// 続きは本誌ご参照
祖母と“トージョー”の話40
笠井正史
それはたしか私が小学2年生(昭和22年)の頃であったかと思う。わが家は東京大空襲でまる焼けとなり、神奈川県の逗子に父親が元気な頃に買っておいた小さな家に住んでいた当時のことである。静岡市に住んでいた母方の祖母は時折自分の長女である私の母親を訪ねてやってきた。私はその祖母の数少ない男の孫なので、元気にしているか気にしてくれていたようである。なにぶん終戦直後のことなので、昨今の「ばあば」のようにお小遣いだのお年玉をくれたわけではなかった。その頃はどこの母親も祖母も懐に子供にやるようなお金の持ち合わせはなく、子供の方もそのようなことは全く期待していないどころか考えも及ばなかったのが実情であった。飴玉の一つも貰えれば嬉しかった時代のことである。 /// 続きは本誌ご参照
伊勢修学旅行とはなんだったのか?42
松岡勲
2022年、韓国の翰林日本大学校のキム・ヒョンアさん(日本学研究所)が「在日朝鮮人の伊勢神宮修学旅行と戦後教育」を発表した。その中で、「戦後も大阪府の小学校の修学旅行では伊勢神宮参拝を続けていたこと、在日朝鮮人児童が戦前と変わることなく伊勢神宮参拝を強制させられていたこと」を明らかにした。 /// 続きは本誌ご参照
93歳の母との中国(旧満洲)旅行50
小野由美子(高知市)
2023年6月14日、出発までの数々の難問を通過し(ビザ申請が大変だった)、高知空港を出発、伊丹から関空へ移動し、空路中国瀋陽(旧奉天)へ。今回の旅は、2021年冬に開催した王希奇展でお世話になった「一九四六」を描いた画家の王希奇先生の「ぜひ瀋陽にいらっしゃい。歓迎いたします。葫蘆島にもお連れできますよ。」と言ってくださったことから始まっています。 /// 続きは本誌ご参照
93歳 満州の悲劇「次世代へ」57
八田大輔     転載元:高知新聞(2023年8月15日付)
1946年夏、旧満州から日本に船で引き揚げるため、港に列をなした日本人たちがいた。 /// 続きは本誌ご参照
『伝言(中脇初枝著)』:気づけなかった過ち語る58
小林エリカ(作家)     転載元:東京新聞(2023年10月14日付)
満州、新京敷島高等女学校に通う「わたくし」が学徒動員で作った、紙風船。 /// 続きは本誌ご参照
書かないと“なかったことに”:戦争体験者の苦労や思い59
金子徹     転載元:しんぶん赤旗(2023年10月1日付)
作家の中脇初枝さんが長編『伝言』を出しました。終戦間際の「満州」を舞台にした物語です。作品に込めた思いを聞きました。 /// 続きは本誌ご参照
日中学術交流での菊地昌典氏の貢献60
凌星光
大類善啓氏の新著『タンゴ タンゴ タンゴ』を手にして、第6章<嵐子よ、安らかに眠れ>まで目を通した時、菊地昌典氏の名前が目に入り、驚いた。大類氏とはこの20年余り机を並べる仲であるが、彼が1968年の若き頃すでに菊地氏に出会っていたとは知らなかったからだ。 /// 続きは本誌ご参照
千島寛写真集「中国残留婦人:家族」―第十回かなしん自費出版大賞受賞並びに全国新聞社出版協議会「ふるさと自費出版大賞」優秀賞にも選出64
千島寛
昨年7月神奈川新聞社より発行された4人の中国残留婦人を内蒙古自治区、黒竜江省、遼寧省で彼女らの生活に密着しながら(永住帰国した方は日本でも)撮影したものです。旧満州に住み1945年の敗戦後、帰るに帰れなかった日本婦人から故郷日本はどの様に見えているのか。人間にとって故郷とは何かを知りたいと思い戦後50年の1995年からコロナ前の2019年の間に22回中国に渡った。彼女たちがどんなところに住みどんなものを食べていたか分かります。 /// 続きは本誌ご参照
北岡裕さんの<朝鮮>に関する寄稿について65
大類善啓
北岡裕さんから原稿をいただく契機になったのは、以下のような<朝鮮>に関する拙文を友人知人に送り感想を求めたが、意外に反応が少なかったからである。ある人は、北朝鮮については知らないことも多く、みんな感想を控えたのではないかというものだった。 /// 続きは本誌ご参照
エリートスクラムから手を伸ばす:本物の北朝鮮とはなにか68
北岡裕
地下鉄の車内で笑う親子。夜会で踊る女性―――。ジャーナリストの伊藤孝司氏の写真展「平壌の人びと」で展示された写真は、軍事パレードやミサイル、浮浪児たちの写真、私たちが思い浮かべる北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国とは一線を画す日常の風景がほとんど。平凡にして斬新な平壌の風景を伝えている。 /// 続きは本誌ご参照
北朝鮮の「貧困と飢餓」74
石丸次郎     転載元:東京新聞(2023年8月23日付)
飢饉の研究でノーベル経済学賞を受賞したインドの経済学者アマルティア・センは1940年代のベンガル飢饉の際、食料が大量に保管されている店の前で飢え死にする人の存在を指摘した。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓存在の意味とは…75
大類善啓(方正友好交流の会理事長)     転載元:『日中文化交流』(2023年9月1日付)
1993年7月、初めてハルピン市方正県にある日本人公墓の前に立った。日本から多大な被害を受けた中国が建立した公墓である。加害者であった日本人たちが葬られている公墓を見て、深く思うことがあった。日本が逆の立場なら公墓を建立するか、と思ったのである。 /// 続きは本誌ご参照
反戦の思い、受け継いで76
奈良新聞     転載元:奈良新聞(2023年5月1日付)
奈良女子大学在学中に国際補助語のエスペラントを学び、反戦を訴え続けた活動家、長谷川テル(1912~1947年)顕影しようと、奈良・長谷川テル顕彰の会(宮城恭子会長)は30日、在学中にテルが訪れた奈良市般若寺町の般若寺で、「訪問記念の碑」の除幕式を行った。 /// 続きは本誌ご参照
奈良・般若寺:長谷川テル記念碑建立76
大類善啓     転載元:『月刊アナキズム』(2023年7月1日付)
ウクライナでの戦争が一年を過ぎ、今や実質的には世界大戦のような様相を呈している。この戦争でも「わが国の領土」「大ロシア民族」なる言葉が頻繁に出てきており、いかに人々が、いや国家が「民族」という観念に拘り、愚かな戦争を繰り返していることか、と思う。 /// 続きは本誌ご参照
遺児・暁子さんがスピーチ:奈良 長谷川テル記念の碑除幕式77
平松悦雄     転載元:『日中友好新聞』(2023年6月1日付)
奈良・長谷川テル顕彰の会は4月30日、奈良市の般若寺で「長谷川テル記念の碑」除幕式を行い、全国各地から170人が参加しました。 /// 続きは本誌ご参照
淑子、澄子、嵐子、そして満州:『タンゴ タンゴ タンゴ』を上梓して思い出すこと78
大類善啓     転載元:国際善隣協会『善隣』(2023年7月号)
「方正」については少しばかり本誌に書いたことはあるが、お読みでない方もいるだろうと思い、改めて簡単に記しておこう。方正とはハルピン市から東へ180kmのところに位置し、黒竜江省にある。旧満洲にいた「開拓民」たちは同じ黒竜江省にある宝清(ほうせい)県と区別するために、ここを「ほうまさ」と呼んだ。 /// 続きは本誌ご参照
今なぜ周恩来か85
村田忠禧     転載元:『日本と中国』(2023年9月1日付)
『周恩来の足跡(監訳:村田忠禧、主編:李海文)』 /// 続きは本誌ご参照
傷ましき腕87
朝日新聞     転載元:朝日新聞(2023年8月15日付)
川崎市岡本太郎美術館蔵 /// 続きは本誌ご参照
抜け殻だった父 心の傷 いま知った88
後藤遼太     転載元:朝日新聞(2023年8月5日付)
1本のホームビデオを再生すると、白髪の男性が映し出された。 /// 続きは本誌ご参照
桐生悠々と空襲90
西田直晃、岸本拓也     転載元:東京新聞(2023年8月4日付)
1933年、「関東防空大演習を嗤ふ」と題した社説で軍部の怒りを買い、信濃毎日新聞を退社した桐生悠々(1873~1941年)。「反骨のジャーナリスト」の名を歴史に刻んだ掲載から、今月11日で90年となる。空襲の時代と日本の破局を予見した評論は何を訴え、どんな教訓を残したのか。全文を専門家と読み解いた。 /// 続きは本誌ご参照
石橋湛山を学び直す92
大杉はるか     転載元:東京新聞(2023年11月1日付)
戦前はジャーナリストとして日本の植民地政策や日独伊軍事同盟に反対し、戦後は衆院議員として米国依存からの脱却を目指し、首相にもなった石橋湛山。世界平和に向け、日中米ソ平和同盟構想も提唱した。没後50年の今年、超党派の国会議員約40人が「石橋湛山研究会」を立ち上げ、その湛山の考えを学び直している。なぜ今、湛山なのか。世界の分断が進むこの時代に、湛山を学ぶと、何が必要なのかも見えてきそうだ。 /// 続きは本誌ご参照
映画「国葬の日」大島監督に聞く94
西田直晃     転載元:東京新聞(2023年9月3日付)
安倍晋三元首相の国葬から間もなく1年。世論調査が示す賛否は割れ、「社会の分断」と国内外で報じられたが、映画監督の大島新さん(53)はその見方に疑念を抱く。「国葬ほどの政治的な重大事でも、日本人の大多数は賛否を明確に主張していない」。16日から全国公開されるドキュメンタリー映画「国葬の日」の製作過程で見えたのは、日本特有の「個の弱さ」「事なかれ主義」による「民主主義の機能不全」だった。 /// 続きは本誌ご参照
書評:「特攻」のメカニズム(加藤拓著)96
一ノ瀬俊也(埼玉大教授)     転載元:東京新聞(2023年9月17日付)
爆弾を積んだ飛行機が乗員もろとも敵艦船に体当たりする航空特攻は、太平洋戦争の生んだ悲劇の象徴として、戦後さまざまな方面から語られてきた。 /// 続きは本誌ご参照
近代日本のゆがみ・矛盾 全て体現:映画監督・森達也さん97
安田朋起     転載元:朝日新聞(2023年11月2日付)
ドキュメンタリー映画と水俣病は、言葉を選ばずに言えば非常に相性がよい。 /// 続きは本誌ご参照
東電の過去と今 重なる責任:処理水放出スタート98
安藤恭子、岸本拓也     転載元:東京新聞(2023年8月25日付)
東京電力福島第一原発事故で生じた海染水を浄化処理した後の水の海洋放出が24日に始まった。岸田政権の強権ぶりに批判が殺到するが、「今に至る事態を招いたのは東電」という事実を忘れてはならない。東電が起こした事故では、かねて多くの放射性物質が海に注がれた。隠蔽が疑われた局面もあった。9月8日に提訴予定の差し止め訴訟でも、東電の「過去」と「今」が焦点になる。原告側は何を訴えるのか。いま、東電に問うべきことは何か。 /// 続きは本誌ご参照
邪悪なる植民地支配:詩で抗う―忖度しない 詩人夫妻の生き方100
石川逸子     転載元:東京新聞(2023年10月8日付)
私たちが暮らす日本は、平和憲法下の今も同調圧力が強い。戦前、たとえ詩であっても、皇国思想に楯突くことは相当な覚悟を必要としたであろうに、敢然と立ち向かった詩人夫妻がいた。新井徹・後藤郁子だ。 /// 続きは本誌ご参照
多様な仏教 LGBTQ寄り添う:僧侶「レインボープライド」出展101
奥野斐     転載元:東京新聞(2023年4月20日付)
誰もが平等に救われると説く伝統仏教の力で、LGBTQ(性的少数者)に寄り添いたい。日蓮宗の若手住職らが22、23日、東京・渋谷の代々木公園で開かれる国内最大級のLGBTQ関連イベント「東京レインボープライド2023」に初めてブースを出展する。「仏教は多様性だ!」をキャッチフレーズに相談ができる場所となる寺の存在をアピールしたいという。 /// 続きは本誌ご参照
他の人と見た目が違っても…:私を生きる――。一歩一歩102
神谷円香     転載元:東京新聞(2023年8月13日付)
人と違う見た目は、周りからの好奇の視線を常に意識させられてきた―。生まれつきの病気で顔に特徴がある山川記代香さん(29)=三重県四日市市出身=が、自身の経験を振り返り、一冊の本にまとめた。タイトルは「大丈夫、私を生きる。」(集英社)。「病気を知ってもらえたら生きやすくなる。そして、他の人たちと同じように悩みを持つ一人だと伝えていけたら」と語る。 /// 続きは本誌ご参照
健常者の世界揺るがす103
東京新聞     転載元:東京新聞(2023年10月25日付)
大阪を拠点に障害者の身体表現を追究してきたパフォーマンス集団「態変」が今年、旗揚げから40周年を迎えた。主宰の金満里さんは「健常者がつくってきた価値観を批判してきたのが態変。私たちは自分たちの身体で、その前提を逆転させようとしてきた」と語る。 /// 続きは本誌ご参照
民族差別の傷 包んだやさしさ104
大嶋辰男     転載元:朝日新聞(2023年11月2日付)
1989年、四川音楽大学の卒業式。歌をうたうと、男性がヘンななまりの中国語で聞いてきた。「あなた、本当にチベット人ですか?」。 /// 続きは本誌ご参照
貧困・男尊女卑と闘った活動家:伊藤野枝の問い 今こそ105
本田由梨枝     転載元:毎日新聞(2023年9月13日付)
婦人解放運動などに身を投じた女性活動家、伊藤野枝(1895~1923年)が関東大震災の混乱のさなかに、28歳で憲兵に虐殺されて16日で100年となる。”恋多き女性”として、奔放なイメージが先行し死後も冷遇されたが、権力に臆さず自分を貫き、貧困やジェンダー平等など現代にも通じる問題を訴え続けた生き様は再評価されつつある。今も多くの人々の心を動かす理由とは。 /// 続きは本誌ご参照
伊藤野枝コレクション(伊藤野枝著、栗原康編)106
杉本真維子(詩人)     転載元:東京新聞(2023年10月8日付)
明治から大正にかけて、女性解放運動、アナキズム、労働運動の旗手として活躍した伊藤野枝の評論集。栗原康によるスピード感あふれる解説が野枝の太く短く駆け抜けた28年の生涯と呼応する。 /// 続きは本誌ご参照
本音のコラム:すってんてん106
鎌田慧     転載元:東京新聞(2023年9月5日付)
100年前の9月。関東大震災下、軍隊、警官隊が朝鮮人や中国人、疑わしい日本人を大量に虐殺した。 /// 続きは本誌ご参照
京都市で暮らすレズビアンカップル106
速水大地     転載元:しんぶん赤旗(2023年8月3日付)
「結婚の自由をすべての人に」―。 /// 続きは本誌ご参照
アイヌ哀史 北海道を歩く107
木原育子     転載元:東京新聞(2023年10月22日付)
日本の先住民族アイヌの民族衣装を「コスプレ」と表現した現職国会議員が、いまだ党の要職を務めている。人権侵害は論外だが、そもそもアイヌ民族の歴史を社会は本当に理解できているだろうか。どれだけ知ろうとしただろうか。明治期に強制移住させられた「樺太アイヌ」や、ダム建設で集落を分断された「北海道アイヌ」の地を巡りながら、歴史の負の遺産をどう乗り越えられるか考えた。 /// 続きは本誌ご参照
知里幸恵が残したもの:アイヌ神謡集刊行100周年記念フォーラムから109
中川裕(千葉大学名誉教授)     転載元:聖教新聞(2023年10月5日付)
アイヌの口承文学を日本で初めて書籍化した『アイヌ神謡集』の刊行から100年。著者の知里幸恵生誕120年を記念するフォーラムが北海道・登別市民会館で行われた(9月17日、知里森舎主催)。今回は、アイヌ語研究者の中川裕・千葉大学名誉教授の講演要旨を紹介する。 /// 続きは本誌ご参照
親を引き裂く悲劇 今も110
朝日新聞     転載元:朝日新聞
旧満州から引き揚げてきたという、もんぺ姿の女の子。 /// 続きは本誌ご参照
空襲被害者の早期救済を111
本吉真希     転載元:しんぶん赤旗(2023年11月12日付)
空襲被害者たちが国の責任で民間被害者を早期に救済するよう、最後の力を振り絞って署名活動を始めました。戦後78年間、謝罪すらなく放置されてきた被害者の思いは―。 /// 続きは本誌ご参照
空襲の傷痕伝える100歳:機銃掃射で左腕切断112
橋本誠     転載元:東京新聞(2023年8月7日付)
78年前の千葉空襲で左腕を失い、今年6月に100歳になった小林愛子さん=愛知県豊橋市。元軍人のような補償もなく、家族と支え合って生きてきた。癒やされない傷痕を抱えた空襲被害者は、どんな戦後を歩んだのか。終戦の日を前に訪ねた。 /// 続きは本誌ご参照
台湾人犠牲 忘れないで:元従軍看護婦 岸田首相に書簡113
台北共同     転載元:東京新聞(2023年8月12日付)
日本のために戦い命を落とした台湾籍の人々のことを忘れないでほしい―。15日で終戦から78年になるのを前に、日本軍の従軍看護婦だった台湾出身の女性が岸田文雄首相宛てに書簡を出すなどし、思いを訴えている。 /// 続きは本誌ご参照
台湾高雄:日台友好伝える少年工碑114
高雄共同     転載元:東京新聞(2023年10月3日付)
第2次大戦中、故郷を離れ日本の軍需工場で働いた台湾少年エの訪日から今年で80年。日本を「第二の祖国」と慕う元少年エらは戦後、日台交流の礎となり、技術力を生かし台湾経済の発展に貢献した。存命の元少年工が少なくなる中、台湾南部・高雄市に8月、退役軍人の団体が顕彰碑を建立。日台の関係者らは歴史を語り継ごうと活動を続けている。 /// 続きは本誌ご参照
「戦争はいけない」 満蒙開拓伝える 広島の末広さん115
青島顕     転載元:毎日新聞(2023年4月10日付)
戦前・戦中に国策の農業移民として旧満州(中国東北部)に渡った満開拓団や満蒙開拓青少年義美軍の犠牲者を悼む約50人が9日、全国各地から多摩市の「拓魂公苑」に集まった。14歳で義勇軍に加わった広島市安芸区の印刷会社経営、末広一郎さん(97)は4年ぶりに上京。「戦争をしたら戦闘以外でも多くの人が死ぬ。戦争をしてはいけない」と訴えた。 /// 続きは本誌ご参照
開拓団悼む 満州のキスゲ116
新潟日報     転載元:新潟日報(2023年8月2日付)
北海道下川町の渓和集落に7月、淡い黄色の花が初めて咲き誇った。上越市の野田良雄さん(99)が「満州のニッコウキスゲ」と呼んだ花だ。野田さんは80年余り前、戦時中の満州(現中国東北部)から、この花の種をポケットに数粒忍ばせて持ち帰った。 /// 続きは本誌ご参照
迫るソ連軍 集団自決を覚悟した開拓団:母は言った「お前は絶対生きなさい」118
戸松康雄     転載元:朝日新聞・新潟版(2023年8月15日付)
終戦も知らず、旧満州(現在の中国東北部)を逃げ惑った。当時13歳。現地住民の襲撃を受け、大勢が殺された。 /// 続きは本誌ご参照
つなぐ戦後78年:逃避行 父は妹弟を手にかけた―語る会でも言葉にしづらい記憶119
清水大輔     転載元:朝日新聞・長野版(2023年9月22日付)
長野市内で暮らす滝沢博義さん(89)は日本の敗戦翌年の1946年、両親や2人のきょうだいと一緒に中国から引き揚げた。これまで何度か敗戦時の体験を地城の学校などで語り、この夏も集会で誰演した。しかし、言葉にするのが容易でない記憶もあるという。 /// 続きは本誌ご参照
つなぐ戦後78年:引き揚げ経験 演劇に120
青山尚樹     転載元:北陸中日新聞(2023年8月12日付)
「あの惨劇の物語が消えてしまってはいけない」。 /// 続きは本誌ご参照
サハリンから問う「国家」:残留調整人を撮影 新田樹さん121
高知新聞     転載元:高知新聞(2023年8月5日付)
約四半世紀前、ロシア・サハリンの街や市場で聞こえてきた日本語。「私たちは戦争の前にここへ来た朝鮮人です」。彼女たちはなぜ今でも日本の言葉を話すのか―。 /// 続きは本誌ご参照
夢見た開拓 目にした地獄122
本田圭介     転載元:毎日新聞(2023年9月22日付)
鬼となり、目の前で最愛の妻や幼い子どもを手にかける上官がいた。寒さと飢えで多くの仲間が死んだ。ロシアによるウクライナ侵攻の約80年前、夢の大地を求めて海を渡った少年を待ち受けていたのは「地獄」の日々だった。 /// 続きは本誌ご参照
祖国の土 戦後78年:耳に残る避難民の叫び123
和泉皓也     転載元:上毛新聞(2023年8月27日付)
生後1カ月に満たない未弟の体はある朝冷たくなり、草むらに埋められた。冬にかけて別の弟も、妹も亡くした。 /// 続きは本誌ご参照
祖国の土 戦後78年:過酷な移動 弟妹失う124
高橋和真     転載元:上毛新聞(2023年8月28日付)
初めに覚えたのは異国の言葉だった。「怒った時は中国語でまくしたて、いつも大人を困らせていた」。 /// 続きは本誌ご参照
祖国の土 戦後78年:仲間の死「戦争は絶対悪」125
須永彪月     転載元:上毛新聞(2023年8月29日付)
背丈ほどある銃を担ぐと、重たい銃身が肩に食い込んだ。当時13歳。 /// 続きは本誌ご参照
書評:昭和天皇の戦争認識(山田朗著)126
石山久男     転載元:しんぶん赤旗日曜版(2023年10月22日29日付合併号)
天皇とは一体何者なのか。憲法が「国政に関する権能を有しない」と定めてから76年もたつが、今でも影響力の大きい存在のようにも見える。なぜそうなっているのか。本書の表題はいかにも難しそうだが、実はその謎を考えるわかりやすい材料を提供してくれる。 /// 続きは本誌ご参照
書評:満蒙開拓団 国策の虜囚(加藤聖文著)127
高杉貞明     転載元:日中友好新聞(2023年7月15日付)
本書の帯には「初めての通史」とありますが、6年前に岩波現代全書として発行されたものに関連年表とあとがきを追加して岩波現代文庫として発行されたものです。 /// 続きは本誌ご参照
書評:関東軍 満州支配への独走と崩壊(及川琢英著)128
加藤聖文(国文学研究資料館准教授)     転載元:日中友好新聞(2023年6月13日付)
「関東軍」といえば独断専行とか下剋上の代名詞のように言われ、さらには満洲国を強権支配しながら最後は民間人を見殺しにしたと評価は散々である。 /// 続きは本誌ご参照
書評:八路軍とともに(永尾広久著)129
稲村晴夫     転載元:日中友好新聞(2023年10月15日付)
本書は、私の敬愛する弁護士永尾広久氏が本年7月に出したものです。広久氏は、たいへんな読書家ですが、自らを「もの書き」と称し、これまで多くの本を出版しています。 /// 続きは本誌ご参照
未来のために過去を知る責任130
柳沼広幸     転載元:朝日新聞・群馬版(2023年8月18日付)
未来のために、過去を知る責任がある。前橋市の公民館で毎月1回のペースで開かれている学習会がある。日本が中国東北部につくった傀儡国家、旧満州国(1932~45年)の歴史や日本からの農業移民などを学ぶ「群馬満豪開拓歴史研究会」だ。 /// 続きは本誌ご参照
七三一 15歳の記憶開封131
形田怜央菜     転載元:東京新聞(2023年8月19日付)
細菌兵器開発や捕虜への人体実験を極秘裏に実行していた旧日本軍の七三一部隊で十五歳の時、「教育部少年隊」に所属していた滋賀県の男性(93)が本紙の取材に応じ、捕虜の収容施設の様子などを証言した。「あんなにつらい体験をするのは、わしらで終わりでいい」。そんな思いで、しまいこんできた記憶の封印を解いた。 /// 続きは本誌ご参照
78年 消せない記憶132
後藤遼太     転載元:朝日新聞(2023年8月15日付)
今も癒えない、戦争の苦しみに向き合う人たちがいる。兵士も、民間人も戦地で様々な体験をしてきた。終戦から15日で78年。証言を直接聴けなくなるときが、一年、また一年と近づいてくる。 /// 続きは本誌ご参照
証言 戦争:生きる母・娘嫁ぎ 老人・子ども置き去り133
小梶花恵     転載元:しんぶん赤旗(2023年9月7日付)
政府の移住政策で旧「満州」(中国東北部)に渡った移民の多くは、日本の侵略戦争によって幾重もの困難を背負い続けることになりました。一家で「満州」に渡った中島茂さん(88)=長野県飯田市=が帰国できたのは終戦の8年後でした。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州のアナウンサーだった女性が生きた戦後135
藤沢忠明     転載元:しんぶん赤旗(2023年9月14日付)
言葉で戦意をあおり、国民を戦争に総動員した戦前・戦中のラジオ制作者の責任と反省を描いた「NHKスペシャルアナウンサーたちの戦争」(8月14日放送)の「試写室」をきいていただいた評論家の石子順さん(88)。10歳年上のお姉さんは、敗戦の年に旧満州(現中国東北部)の新京中央放送局でアナウンサーをされていました。1931年、天皇制政府が、中国への侵略を開始した9月18日を前に、平和への思いを寄せていただきました。 /// 続きは本誌ご参照
NHKの戦争責任136
小滝一志     転載元:しんぶん赤旗(2023年9月14日付)
この夏、私は2つの作品に深い感銘を受けた。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓の犠牲者悼む137
柳沼広幸     転載元:朝日新聞(2023年9月26日付)
浅間山のふもとにある群馬満蒙拓魂之塔=長野原町北軽井沢=で24日、旧満州(中国東北部)に農業の開拓団や青少年義勇軍として渡り、戦中戦後の混乱で犠牲になった人たちを悼む第49回合祀慰霊法要(拓魂祭)があった。 /// 続きは本誌ご参照
日本人が住民3千人虐殺 平頂山事件138
本吉真希     転載元:しんぶん赤旗(2023年10月8日付)
日本の中国侵略の発端となった柳条湖事件から1年後の1932年9月16日、日本軍は遼寧省撫順市の平頂山村で約3千人の住民を虐殺しました。事件から91年がたち、生存者は全員亡くなりました。平頂山事件とは何だったのか―。中国から遺族が来日して開かれた集会(9月23日、都内。「撫順」から未来を語る実行委員会主催)から考えてみました。 /// 続きは本誌ご参照
終戦前日 満州で日本人避難民1000人超犠牲:葛根廟事件最後の法要139
榊真理子     転載元:毎日新聞(2023年8月24日付)
第二次世界大戦の終戦前日、旧満州(現中国東北部)で日本の民間人が旧ソ連軍の襲撃に遭い、1000人以上が犠牲となった葛根廟事件の慰霊法要が、この夏で幕を下ろした。今年、七十九回忌。事件を体験し、妹を亡くした代表の大島満吉さん(87)は、後牲者の無念を語り継ぐ「代弁者」の役割を長年担い、節目の日を迎えた。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙義勇軍 未完の漫画140
山野舞子     転載元:東京新聞(2023年8月24日付)
戦時中に満蒙開拓青少年義男軍の一員として、水戸市にあった「内原訓練所」や旧満州(現中国東北部)で過ごした経験を描いた漫画が、浜松市の男性宅から見つかった。作者は男性と同じ部隊に所属し、戦後は名古屋市に住んだ細井芳男さん(2005年、81歳で死去)。現地での生活を軽やかなタッチで表現した一方、未完でもある。戦地や戦後の収容所での凄惨な記憶を描き切れず、筆を折った。 /// 続きは本誌ご参照
ひと:70年前の戦犯恩赦の意味を問い続ける―加納佳世子さん(78)141
小早川遥平     転載元:朝日新聞(2023年8月15日付)
7月、フィリピンで開かれた式典で講演した。 /// 続きは本誌ご参照
シベリア抑留者 追悼集会142
東京新聞     転載元:東京新聞(2023年8月25日付)
戦後にシベリアやモンゴルに抑留され、強制労働に従事し死亡した日本人犠牲者を追悼する集いが二十三日、東京都千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑で開かれた。抑留経験者や遺族は、国による積極的な実態解明や次世代への歴史の継承を求めた。 /// 続きは本誌ご参照
デマ妄信 関東大震災143
西田直晃     転載元:東京新聞(2023年8月7日付)
人々に忘れられた虐殺がある。関東大震災直後に千葉県検見川町(現・千葉市花見川区)で、暴徒化した自警団に「不逞鮮人」と決めつけられ、沖縄をはじめとする3人の地方出身者が殺害された「検見川事件」だ。背景には、在日朝鮮人への蔑視にとどまらず、異質な存在それ自体に対する差別感情が見え隠れする。震災から間もなく100年。依然としてデマを妄信し、排他意識を振りかざす現代の日本人に与える教訓は大きい。 /// 続きは本誌ご参照
行商団9人惨殺 千葉「福田村事件」記録復刊145
林容史     転載元:東京新聞(2023年8月8日付)
1923年の関東大震災の直後、デマを真に受けた人々による朝鮮人虐殺が相次ぐ中、香川県の被差別部落出身の行商団9人が千葉県福田村(現野田市)で惨殺された。この「福田村事件」を記録したフリーライター辻野弥生さん(82)=千葉県流山市=の著書「福田村事件 関東大震災・知られざる悲劇」が、大震災から100年を前に復刊された。辻野さんは「都合の悪い歴史であっても、きちんと記録し、若い人たちに伝えなければ明るい未来はない」と訴える。 /// 続きは本誌ご参照
映画「福田村事件」監督 森達也さんに聞く146
青柳克郎     転載元:しんぶん赤旗(2023年8月21日付)
オウム真理教者の実像を教団内部から撮ったり、政権を追及する新聞記者の姿を通じてメディアのあり方を問いかけたり――一味違う視点のドキュメンタリー映画を手掛けてきた森達也監督。初の劇映画「福田村事件」は、関東大護災時の朝鮮人虐殺にかかわる史実に基づいた群像劇です。 /// 続きは本誌ご参照
虐殺と向き合い 作品紡ぐ147
東京新聞     転載元:東京新聞(2023年8月23日付)
100年前の関東大震災で、流言を言じた自警団や軍隊が引き起こした朝鮮人虐殺に向き合う在日コリアン3世の女性がいる。現代美術家の金暎淑さん(49)=東京都目黒区。「殺される側」の自分と日本社会との摩擦を恐れて目を背けてきたが、作品作りを通じ、虐殺の史実について継承に臨む日本人の存在に希望を感じた。「事実そのものを見つめたい」と話す。 /// 続きは本誌ご参照
書評:福田村事件―関東大震災・知られざる悲劇(辻野弥生著)148
永田浩三(武蔵大教授)     転載元:東京新聞(2023年8月26日付)
関東大災時の朝鮮人への虐殺から百年。数ある出来事の中で、今大きな注目を集めるのが福田村事件である。事件の名を冠した森達也監督の映画のよりどころとなったのがこの本。旧版を全面的に加筆し、新版が生まれた。 /// 続きは本誌ご参照
亀戸事件が問うもの 消された労働活動家149
小国智宏     転載元:東京新聞(2023年8月27日付)
1923年の関東大震災の直後、デマの拡散などで多数の朝鮮人、中国人が殺害された。混乱の中、東京・亀戸で労働活動家ら十人が軍隊によって虐殺された。通称「亀戸事件」。超法規的措置が可能な戒厳令下、誰も責任をとらずに収束が図られ、真相は闇に葬られた。労働活動家らはなぜ狙われたのか。北時の時代背景、今に通ずる危機とは。事件から百年を前に考えた。 /// 続きは本誌ご参照
差別意識と恐怖感 根底に151
渡辺真由子     転載元:東京新聞(2023年8月31日付)
関東大震災直後の惨状を伝える都新聞(東京新聞の前身)の紙面を紹介する、東京新聞本社(東京・内幸町)で開催中の展示会の来場者から「人権意識が現在に比べ薄かったような気がする」と指摘を受けた。官憲や自警団が各地で起こした朝鮮人虐殺が、ほとんど触れられていないことへの違和感だ。虐殺は、なぜ発生し、隠されたのか。日本における朝鮮人の歴史に詳しい外村大・東京大大学院教授に聞いた。 /// 続きは本誌ご参照
遊女の死 誇張された悲劇152
原田遼     転載元:東京新聞(2023年9月2日付)
観音像の前で数十人が祈りをささげる。足元の4畳ほどの花園池(弁天池)にはトンボが舞い降りた。東京都台東区の吉原弁財天で1日昼前、関東大震災の慰霊法要が営まれた。 /// 続きは本誌ご参照
朝鮮人虐殺あおった新聞153
原田遼     転載元:東京新聞(2023年9月3日付)
ジョギングやサイクリングの人が行き交う土曜の荒川河川敷。2日午後3時、20~40代の16人による朗読が、関東大震災直後の光景をよみがえらせた。「京成荒川の踏切の所に朝鮮人が20人くらい殺されていたのを見ました」「私は穴を掘らされました。あとで石油をかけて焼いて埋めたんです」 /// 続きは本誌ご参照
朝鮮人虐殺正当化のヘイト団体154
安藤恭子     転載元:東京新聞(2023年9月1日付)
1923年の関東大震災時のデマにより殺害された朝鮮人犠牲者の追悼碑がある横網町公園(東京都墨田区)で、3年前に都にヘイトスピーチ発言を認定された団体が、きょう9月1日にこの碑の前で集会を行うと公表した。ヘイトが起きる恐れがあるとして、公園の利用制限を求める抗議声明も相次ぐが、都の対応は鈍い。国や行政が殺の史実と向き合わないことが、足元の差別をあおる状況を招いている。 /// 続きは本誌ご参照
許すなヘイト団体の妨害活動156
北中一永     転載元:日中友好新聞(2023年10月1日付)
日朝協会東京都連合会や日中友好協会東京都連合会などで構成される朝鮮人犠牲者追悼式典実行委員会は9月1日、東京都墨田区の横網町公園で、関東大震災時のデマにより虐殺された朝鮮人犠牲者らを追悼する式典を開催、会場には多くの人が集まりました。この式典に実行委員会のメンバーとして参加した日中友好協会東京都連合会の北中一永事務局長の報告を紹介します。 /// 続きは本誌ご参照
ヘイトスピーチ根絶への闘い157
安藤恭子     転載元:東京新聞(2023年10月15日付)
在日コリアンに関する発言を「悪意に満ちたデマ」と記され名誉を毀損されたなどとして、2019年の川崎市議選で落選した佐久間吾一氏(57)が神奈川新聞の石橋学記者(52)に対し、損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で東京高裁は今月、石橋記者の敗訴部分を取り消し、佐久間氏の請求を全て棄却した。新聞記者が起こされた異例の訴訟から、ヘイトスピーチとどう向き合うかを考える。 /// 続きは本誌ご参照
在日の学生ら集会 ヘイトに危機感159
東京新聞     転載元:東京新聞(2023年10月10日付)
100年前の関東大震災で起きた朝鮮人らへの虐殺をどう考える―。在日朝鮮人と日本の若者が8月、そんなテーマの集会を東京都内で開いた。ヘイトスピーチなど差別が残る日本社会では「朝鮮人が朝鮮人と言えない」と危機感を表明。虐殺否定の論調があることに「歴史が軽視される現状を変えたい」と訴えた。 /// 続きは本誌ご参照
朝鮮人虐殺の背景に160
慎蒼宇(法政大学教授)     転載元:しんぶん赤旗日曜版(2023年9月3日付)
関東大震災(1923年9月1日)時の朝鮮人虐殺の背景と現在の問題について、慎蒼宇(シン・チャンウ)法政大学教授に聞きました。 /// 続きは本誌ご参照
私たちは人間なのか:ガザ生まれの在日パレスチナ人は叫ぶ161
岸本拓也、曽田晋太郎     転載元:東京新聞(2023年11月14日付)
イスラエル軍によるパレスチナ自治区ガザへの攻撃に抗議し、学生らのグループが12日、東京のJR渋谷駅前でスタンディングデモを実施した。在日パレスチナ人を含む約800人(主催者発表)の参加者が、会場のハチ公前広場を埋めた。主催者の中には、パレスチナを訪れた経験を持ち、友人がいる若者もいる。攻撃で命が次々と失われる中、どんな思いで声を上げているのか。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるものとは―「方正友好交流の会」へのお誘い163
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦に続く日本の敗戦は、旧満洲の「開拓団」の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒のなか、飢えと疫病によって多くの人たちがハルピン市郊外の方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人の松田ちゑさんは方正県政府に、「自分たちで埋葬したいので許可してください」とお願いしました。その願いは方正県政府から黒竜江省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、「方正地区日本人公墓」が建立されました。 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記164
大類善啓
会員諸氏、そして支援者の方々、皆さまのあたたかい会費とカンパのお陰で、このたびも「星火方正」37号を刊行することができました。誠にありがとうございました。また、寄稿いただいた方々、貴重な原稿ありがとうございました。今後もご寄稿いただければと思います。なお、原稿に挿入されている写真は、制作費用の関係ですべてカラーにはできませんでしたが、何卒ご理解いただきたいと思います。 /// 続きは本誌ご参照

  第36号(2023年5月発行) 第36号(2023年5月発行)表紙

﨑山ひろみさん:「一九四六」の向こう側―2023年2月11日 満蒙開拓平和記念館「一九四六」展 オンライン事前学習会より1
三沢亜紀(満蒙開拓平和記念館事務局長)
いろいろな体験談をお聴きしてきた。それぞれの満州がある。ということは、それぞれの葫蘆島もあるのだろう。満州からの日本人の引揚げを描いた王希奇「一九四六」。あの作品に描かれた一人ひとりの向こう側にどのような物語があり、どのような思いで葫蘆島の港に立ったのか。展覧会開催に向けて、4回連続オンライン学習会を実施した。第1回目は満州研究の第一人者である加藤聖文氏に満州からの日本人引揚げの歴史的背景を学び、2回目から体験者3人にお話を聴くというプログラム。3人のうちの2人は開拓団ではない方にお願いしてみた。そのうちのお一人、高知市在住の﨑山ひろみさんのお話をご紹介してみたい。 /// 続きは本誌ご参照
私の「一九四六」2
渡辺一技
「やっとここに来ることができた!」王希奇氏の大作『一九四六』の前に立って、私はそう思った。敗戦翌年の1946年、中国・遼東半島の港、葫蘆島で引き揚げ船への乗船を待つ避難民の群れを描いた大作は、「北とぴあ」地下展示室で公開されていた。「やっと来ることができた」場所は、展示会場のことではない。そこに描かれた地、葫蘆島のことだ。母から幾度となく聞かされた「コロ島」という地名。それは「葫蘆島」と書くのだと知ったのは高校生の時だった。 /// 続きは本誌ご参照
王希奇「一九四六」東京展を見て浮かんだ風景10
戸塚章介
中国の画家王希奇の「一九四六」東京展を見に行った。3m×20mの巨大画に圧倒された。日本への引揚げに望みを託して、葫蘆島にたどり着いた群衆。女性や子供が目立つ。私はかつて丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」を見たことがあるが、それと同じ感銘を受けた。画の中央に遺骨を首から下げた少年が描かれている。頬肉の落ちた顔を斜め上へ向けて、何かを訴えるかのような視線。私は強い既視感にとらわれた。あの時の私と同じではないか。私も1946年6月、葫蘆島から引揚げ船に乗ったのだ。 /// 続きは本誌ご参照
巨大画「一九四六」を拝見して13
中島幼八
葫蘆島からの引揚げ第一船は一九四六年六月に出ている。当方の八丈開拓団については、石井団長の報告書では次のように記録している。 /// 続きは本誌ご参照
小学生から99歳まで2500人以上が見学、今こそ戦争反対の声を大に:「王希奇「一九四六」東京展」の報告15
佐久間徹
「王希奇「一九四六」東京展」が1月12日から15日までの4日間、東京都北区にある「北とぴあ」の地階展示ホールで開催されました。展覧会には、11日のオープニングセレモニーを含め2417人(再入場者を加えると2500人以上)が見学。見学者はアンケートに回答した622人をみますと、北は山形県から南は長崎県までの14都府県の小学生から99歳までの方が見学されました。 /// 続きは本誌ご参照
偽満皇宮博物院内にある御用防空壕と建国神廟20
東海林次男
2016年10月、「ソ満国境」を訪ねる旅(8日間)に参加をした。その時、長春の偽満皇宮博物院見学の最後の方で、御用防空壕と建国神廟の礎石があることを知った。ところが、ツアー旅行のため、それらは素通り。防空壕入口と地下に通じる階段を走って確認し、さらに建国神廟のご神体を避難させる防空壕もあることを案内板で知った。 /// 続きは本誌ご参照
戦地より家族に送られた楽譜:佐倉晴夫軍曹と増田清一大佐28
大野正夫
神奈川県立小田原高校同期卒業の最後の同窓会が、傘寿(80歳)に予定されていた。コロナ禍ため2年遅れで、2022年5月に小田原駅に隣接するホールで開催された。400名の同期卒業生であったが、参加者は50数名であり、一抹の寂しさがあった。しかし、参加者には元気者が多くて和やかな会が進行していった。会も終わり近づいた時に、DVDで「戦地より家族に送られた楽譜「渚」の曲が映像とともに放映された。哀調のある良い歌だなと思いつつ視聴した。この同窓会の席では、小田高11期生傘寿記念集「樫の香」A4版164頁の冊子が配られた。 /// 続きは本誌ご参照
麻山事件の現場に建つ「永世不忘養育之恩」碑35
一條三子
昨2022(令和4)年10月15日、竹内良男氏が主催する「ヒロシマ講座」で大類善啓氏の講演「方正友好交流の会を立ち上げて」を聴講しました。最近しばしば耳にする「方正地区日本人公墓」について詳しく学びたかったからです。その過程で隣に1984(昭和59)年に建立された「麻山地区日本人公墓」の存在を知り、意表を突かれました。 /// 続きは本誌ご参照
「満州分村移民と部落差別」の刊行によせて45
エイミツジモト
2022年2月以来、ウクライナとロシアの激突によって、わたくしたちは想像をはるかに超える厳しい世界情勢や戦闘のすさまじさを前に、言葉をなくす日々がつづく。 /// 続きは本誌ご参照
張龍龍著『中国残留孤児第二世代の移住と定着:政策の展開と家族戦略・ライフコース』について55
飯塚靖
中国残留孤児に随伴して日本に移住した子供たち(残留孤児第二世代)が、どのような形態で移動を実現したのか、言語や文化の違いを乗り越えいかに日本社会に定着したのか、その過程でいかなる困難に直面し、現在はどのような問題を抱えているのか、これは日本で暮らす私たちが当然知らなければならないことである。本書は新進気鋭の中国人研究者による残留孤児第二世代の移住と定着に関する研究書であり、上記の我々の問いに対して、第二世代の人々の生き様がリアルに提示されている。著者の張龍龍氏は1988年生まれ、2019年に早稲田大学大学院文学研究科社会学コース博士課程を修了し、現在は北京工業大学文法学部に勤務しており、本書は博士学位論文を基に刊行されたものである。 /// 続きは本誌ご参照
日本近現代史から考えるウクライナ侵攻57
木村護郎クリストフ
2022年2月24日のロシア軍によるウクライナ侵攻開始から既に1年以上が経った。このヨーロッパにおける戦争を、日本に住む者としてどうとらえたらよいのか、日本の歴史を手がかりにして考えてみたい。 /// 続きは本誌ご参照
中国敵視・安全保障政策の危うさ:“台湾有事”に煽られず自主外交を63
川村範行
岸田政権の安全保障の大転換は危うさを孕んでいる。平和憲法の専守防衛方針をかなぐり捨てて敵基地攻撃能力の行使を認め、増税による防衛費の倍増を決め、軍事大国へと突き進もうとしている。国家と国民の行方を左右する重大な政策転換について、2022年12月の国会閉会後に安全保障関連3文書の改訂を閣議決定し、岸田首相自ら訪米してバイデン大統領のお墨付けを得たとして既成事実化するのは、憲法と議会制民主主義の原則を踏みにじるものだ。 /// 続きは本誌ご参照
政府の原子力政策転換について~「A君への手紙」68
椎名鉄雄
A君、ご無沙汰を続けておりますがお元気ですか。今日は久しぶりに手紙を書かずにいられなくなりました。私の中に許しがたい感情が湧きあがってきたのです。私の思いを記しますので読んでみてください。 /// 続きは本誌ご参照
この国に生まれたるの不幸72
横井幸夫
2012年7月23日の朝日新聞「声」に載った投稿だ。「悪口言う人 悪い所持っていく」(主婦 織戸郁子(神奈川県大和市 58))私の兄は両手足の指が一本もない。私も一本しか指がない、障害者手帳1級と2級の兄妹です。私達が幼い頃は障害者が外に出るにも偏見があり、出会う子どもたちから心ない言葉でからかわれた。 /// 続きは本誌ご参照
山宣と私76
井出亜夫
1929 年(昭和4年)、治安維持法改悪に反対し時の権力の手先によって暗殺された山本宣治「山宣」は私にとって歴史上の人物です。しかし、それから20年余り後、私の叔父井出武三郎が山宣の次女美代さんと縁を得てから、山宣は単に歴史上の人物だけでなく親戚の一員となり、叔母美代さんの長女民子さん、次女文子さん(山宣の孫 永島民男さんは文子さんの夫)とは従姉妹の関係となりました。 /// 続きは本誌ご参照
「ミロンガ」で抱いた想い:タンゴをめぐり交差する群像80
森一彦
大類善啓の新著『タンゴ タンゴ タンゴ』(批評社2023年2月10日刊)を読了した。本書を読んで、どうしても行きたくなった店がある。神田神保町のタンゴ喫茶「ミロンガ」だ。かつて大類に連れられて訪れたことはあったが、時が積み重なったようなレンガ造りのミロンガのなかで、タンゴを聴きながら本書をぺらぺらと捲ってみたかった。1960年代半ば、当時大学生だった大類が、入手したばかりの古本を抱えて入店しひとり思索に耽っていたように。 /// 続きは本誌ご参照
羽田澄子にとっての満洲とは・・・:『タンゴ タンゴ タンゴ』を上梓して思い出すこと86
大類善啓
この2月、『タンゴ タンゴ タンゴ』というタイトルの本を上梓した。サブタイトルは<情感 Sentimiento織りなす魂のしらべ>である。この本については本誌の前頁で森一彦が詳しく書いてくれたので、ぜひお読みいただければ嬉しい。森も藤沢嵐子について紹介したが、嵐子の満洲への思いとは対極的な関係にあるような、羽田澄子さん(以下、敬称略)の満洲体験に触れてみたい。本会の初期からの会員や支援者の方々はご承知だと思うが、羽田は本誌によって方正日本人公墓の存在を知り、それは記録映画『鳴呼満蒙開拓団』に結実した。 /// 続きは本誌ご参照
甘粕正彦について88
大類善啓
たったひとりで古本業をやっている有馬浩一さんとは、神保町にある小さいが、それなりの歴史がある居酒屋でたまに顔を合わせていたが、コロナ禍になってそれもご無沙汰だ。しかし、溜まった古本を処分したいと有馬さんに電話をすると、すぐ飛んで来てくれる。また、お互い〝神保町の住民〟であるので、通りでばったり会うことはある。 /// 続きは本誌ご参照
中国・葫蘆島市から76年前105万人引き揚げの地に感謝!91
長澤保     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2022年9月1日)
日中国交正常化50周年を迎えた。世界各国は新型コロナウイルス感染症感染拡大で、防疫に全力を注いでいる。 /// 続きは本誌ご参照
「面白い」は向こうからやってくる97
藤原作弥     転載元:『きらめきプラス Voluteer』(2002年12月号)
時事通信社解説委員長、日本銀行副総裁、日立総合計画研究所取締役社長と異色の経歴ながらノンフィクション作家としても数々の著書があり、現在も執筆を続ける藤原作弥さんに人生100年時代、人生を振り返り、楽しく生きるヒントを伺いました。 /// 続きは本誌ご参照
今こそ人類人主義を!:国際主義を超えてエスペラントの内在思想を深めよう98
大類善啓(方正友好交流の会理事長)     転載元:ODH草の根歯科研究会『はのねくさのね』(2023年4月発行)
方正は黒竜江省ハルピン市の東180㎞ほどにある。宝清県と区別するために、旧満州の「開拓民」たちは、そこを「ほうまさ」と呼んだ。この方正の地に、国策で満州に渡った「開拓民」たちの死者が眠る公墓がある。 /// 続きは本誌ご参照
刊行挨拶:『タンゴ タンゴ タンゴ 情感 Sentimiento織りなす魂のしらべ』を上梓して100
大類善啓     転載元:日中文化交流市民サークル『わんりぃ』(2023年4月)
「わんりぃ」の会員の方々がタンゴと聞けば、たぶん「藤沢嵐子というタンゴ歌手がいたな」と思い出される方も多いのではないかと思います。タンゴとは何かと説明していくと長くなってきますので、ここではひとまず、19世紀後半にアルゼンチンの首都プエノスアイレスにやってきたイタリアやスペインの移民たちから生まれた音楽と踊りと言っておきましよう。 /// 続きは本誌ご参照
坂本龍一さん、本紙にメッセージ:「原発 時間経つほど危険」102
小椋由紀子     転載元:東京新聞(2023年3月15日付)
音楽家・アーティストの坂本龍一さん(71)が、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から12年となったことに合わせ、本紙にメッセージを寄せた。政府が原発回帰の方針を示していることに関して「なぜこの国を運営する人たちはこれほどまでに原発に固執するのだろう」と批判。コンクリートが劣化し、テロやミサイル攻撃の標的になりかねないとして「むしろ時間が経てば経つほど危険性は増す」と指摘している。 /// 続きは本誌ご参照
ハンセン病音楽家:ハーモニカバンドリーダー 近藤宏一さん 足跡に光を103
石原真樹     転載元:東京新聞(2023年4月12日付)
放送中のNHK連続テレピ小説「らんまん」の音楽を手がける作曲家の阿部海太郎さん(44)が、ある音楽家の足跡を追っている。ハンセン病療養所内でハーモニカバンドを率い、多数の楽曲を残した近藤宏一さん(1926~2009年)だ。音楽家としては無名ながら、その活動には「音楽の本質について考えるべきものがたくさんある」として光を当てたいという。 /// 続きは本誌ご参照
教育の力で私は戦う:日本に留学経験 ミャンマー人男性104
藤川大樹     転載元:東京新聞(2023年4月17日付)
広島大大学院で修士号を取得したミャンマー人の男性がミャンマー東部カイン州で学校を運営し、避難民や国軍統治下の学校に通いたくない子どもたちに勉強の機会を与えている。「軍事政権を終わらせ、民主主義の国を造りたい」。武器ではなく、教育支援を通じて国軍と戦う。 /// 続きは本誌ご参照
人間を侮辱する原発にNO!105
鎌田慧     転載元:東京新聞(2023年4月18日付)
大江健三郎さんと坂本龍一さん。この日本を代表する作家と音楽家は、原発に対する痛烈な批判者であり、運動家でもあった。大江さんは三月上旬、坂本さんは三月下旬、亡くなった。偉大な個性が同じ月に相前後して世を去ったのは、惜しみても余りある。ふたりは「『さようなら原発』一千万署名市民の会」の「呼びかけ人」として集会に参加し、原発政策とそれをすすめる政治家たちへの批判を加えていた。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるものとは―「方正友好交流の会」へのお誘い106
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦に続く日本の敗戦は、旧満洲の「開拓団」の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒のなか、飢えと疫病によって多くの人たちがハルピン市郊外の方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人の松田ちゑさんは方正県政府に、「自分たちで埋葬したいので許可してください」とお願いしました。その願いは方正県政府から黒竜江省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、「方正地区日本人公墓」が建立されました。 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記107
大類善啓
会員及び支援者の皆さんのあたたかいご支援で、36号もなんとか完成し、お送りできることを喜んでおります。また、寄稿いただいた方々を含め、皆さま、ありがとうございました。制作費用の関係で原稿に入っている写真はすべてカラーにできませんでしたが、ご理解のほどお願いします。 /// 続きは本誌ご参照

  第35号(2022年12月発行) 第35号(2022年12月発行)表紙

日本敗戦後の中国で8年間流転した私:父の中国留用から新中国の誕生、後期引き揚げまで1
新宅久夫
解説:本稿は、2022年6月5日(日)、日本教育会館で開催した方正友好交流の会・第18回総会後に行われた新宅久夫(しんたく・ひさお)さんの講演記録である。新宅さんは以下に詳しく記されているが、1935(昭和10)年、旧満洲の新京(現、長春)で生まれ、父親の仕事の関係でその後ハルピンに移り、日本の敗戦をハルピンで迎えられた。敗戦後も中国で残り、1953年に日本に帰国され、得意の中国語を生かして日中間の貿易業務に従事される一方、日中友好運動に関わってこられ、現在、関東日中平和友好会・会長としてご活躍である。 /// 続きは本誌ご参照
国家も軍隊も開拓団員を護らなかった:第13次満洲東京荏原開拓団のこと21
東海林次男
2016年11月26日発行の「東京歴教協ニュース」第416号に、標記のタイトルで、〜棄⺠にされた「満蒙開拓団」を追い求めて〜という副題で雑文を書いた。歴史教育者協議会の東京支部という位置づけの機関紙に書いたもので、ごく限られた会員しか目にしていないので、一部改変して、紹介する。 /// 続きは本誌ご参照
サハリン残留を語る30
太田満
私がサハリン残留体験の語り部になろうとしたのは,中国帰国者支援・交流センターで戦後世代の語り部を育成するための研修会に参加したことがきっかけです。そこで,初めてサハリン帰国者(サハリン等での残留体験を経て日本に永住帰国された方)にお会いしました。その後,残留日本人の体験をよく知るために,北海道やサハリン,韓国にいる残留日本人宅を訪ねました。 /// 続きは本誌ご参照
「前事不忘後事之師」を心に刻み、「日中国交正常化50周年記念魯迅美術学院王希奇教授愛と償いの神戸展」は、9月4日成功裏に閉幕‼4日半で2000名超の来場者!日本のマスメディア7社で14回、中国の人民日報でも報道!!37
宮原信哉(実行委員会(代表:安斎育郎博士)事務局長)
2022年9月29日は、日中国交正常化50周年の記念日です。更に、9月18日は日中15年戦争の発端となった「柳条溝事件」の91周年に当たりました。1931年満州の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖付近で、大日本帝国の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件です。関東軍はこれを中国軍による犯行と発表することで、満州における軍事展開およびその占領の口実として利用しました。神戸展では9月開催に拘りました。当初は9/18開幕、9/29閉幕を予定しました。残念ながら4日半だけの開催でしたが、日中不再戦・恒久的日中友好を心に刻み、故周恩来首相が述べた「前事不忘後事之師」(意訳すると「過去を忘れず未来に活かそう」です)の思いを、一人の日本人として広くお伝えする事ができた絵画展になりました。 /// 続きは本誌ご参照
1945年8月15日「終戦の日」の想い出:敵国劣等国⺠から戦勝国国⺠へ50
凌星光(福井県立大学名誉教授)
毎年8月中旬になると、「終戦(敗戦)」の想い出話が新聞紙上を賑わせる。1933年生まれで12歳の私は、高等小学校一年生であった。当時の事をそろそろ書き残しておかねば先がないと思いながらも、時は過ぎ今日に至ってしまった。 /// 続きは本誌ご参照
「ウクライナ」世界・核戦争阻止:ただちに停戦永続的平和を52
星野郁夫
今年2022年2月24日夜、友人から私のところに電話がかかってきた。友人というのは、1960年代前半、⻘年学⽣運動で苦楽を共にした福島の二本松で、かつて市⻑をされていた根本尚美君からのものだった。忘れもしないこの日は、ロシアのプーチン大統領が隣国のウクライナに向け軍事進攻を開始した日であり、このことについてであった。 /// 続きは本誌ご参照
1950年代、戦没者遺児の靖国参拝の不思議な旅があった65
宮武正明
1959年8月下旬、中学3年生の私は四国・高松から東京まで4泊5日の不思議な旅をした。初めての東京だった。「昭和34年度遺児靖国参拝」。実施は「香川県、各市町村、香川県遺族連合会」、中学3年生・遺児の参加者は687名。当時県内の中学3年生の総数は13500名であったので約5%がこの旅に参加している。終戦前年度(1944年度・昭和19年度)生まれの戦没者遺児の多さがわかる。この大集団を引率したのは、県・市町村の職員および4名の中学校教諭も加わった計47名であった。 /// 続きは本誌ご参照
永遠の隣国72
陳寬
突然、周恩来総理がメインテーブルを離れ、二輪の花を手にして私共のテーブルにおいでになった。先ず一輪を私の左隣りの杉村春子氏に、もう一輪を私の右隣りの高峰三枝子氏に差し出したのだ。同席の皆が一斉に歓声をあげた。その時の周総理のお茶目でチャーミングな笑顔、そして杉村、高峰両氏の驚きと感激の様子は今も尚私の脳裏に濃厚に焼き付いている。時、1972年9月25日午後6時30分、周恩来総理が日本国内閣総理大臣田中角栄氏一行を歓迎するために人民大会堂宴会場で催した宴会席での出来事である。 /// 続きは本誌ご参照
ヒマワリの種74
天野智子
占領されたばかりの町の通りに 機関銃を携えた 一人の若いロシア兵 一人の女性が 若いロシア兵の方へ 歩み寄ってくる /// 続きは本誌ご参照
私の愛しい孫は75
天野智子
あの日 私の孫は 突然家に押し入ってきた ロシア兵たちに連れていかれてしまった 私の夫は ロシア兵たちに代わりに自分を連れていくよう懇願した /// 続きは本誌ご参照
故郷の味76
天野智子
あるとき、昭和ヒトケタ生まれの一郎さんに「故郷の味は何ですか?」と尋ねた /// 続きは本誌ご参照
夢をつなげなかった子どもたちへ77
髙野好美(埼玉県県立高等学校教員)
ここに一枚の写真があります。八十年近く前の集合写真と思われます。よく見ると写っているのは全員若い女性と幼い子供たちです。画像でははっきりしませんが、若い女性たちがみなおんぶ紐をタスキ掛けにしているところを見ると背中に乳飲み子を背負っているのがわかります。季節は夏、日差しが強そうです。背景に写っている石造りの建物には「克東県署」と書いてあります。右手端に写っているトラックはドイツ製の村のトラックで荷台脇には「張文封村」と書いてあります。 /// 続きは本誌ご参照
忘れられた中国の写真家、沙飛80
加藤千洋(平安女学院大学客員教授)
日中国交正常化50周年の幕開けにロシアのウクライナ侵攻が始まり、その戦火が拡大中の本年4月、私は日中戦争(中国では抗日戦争)に題材をとった戦争と人間のドラマを、『沙飛〈中国のキャパ〉と呼ばれた戦場写真の先駆者』と題して上梓した。主人公の沙飛のこと、そして彼の伝奇的な人生の足跡を中国で追った取材の一端をご紹介したい。 /// 続きは本誌ご参照
「中国残留婦人―家族―」写真展開催、写真集を出版して84
千島寛(フリーカメラマン)
写真展は7月18日から20日迄の3日間、かながわ県民センターで開催しました。神奈川新聞社、神奈川県日中友好協会、横浜日中友好協会の後援もあり多数の方々のご来場を得ました。その中には方正友好交流の会の森一彦さん、広田彰夫さん、藤原知秋さんたちが遠路はるばる横浜迄足を運んでくれました。ありがとうございました。 /// 続きは本誌ご参照
悲しみ怒りと報復の連鎖を断ち切って:方正と撫順戦犯管理所への思い86
姫田光義
最近上梓した拙著『中国現代史の散歩道』(桜井書店)の狙いというか願いは、現今の日中関係の悪化の下で、「引っ越しのできないお隣の国々と仲良くしないで日本の真の平和はありえない」との思いから、「平和と日中友好」のための一つの素材を提供したいということだった。 /// 続きは本誌ご参照
『断層の昭和偽りの沃野』を上梓して88
土屋伸
この度、文芸社より小説『断層の昭和偽りの沃野』を刊行しました。昭和という元号で示された1926年から1989年の60余年は、昭和の名のもとにひとくくりできる時代ではありません。戦前、戦中、戦後、高度経済成長期と大きな断層面を持ち、変転の歴史を繰り返した時代です。 /// 続きは本誌ご参照
『転生満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和(牧久著)』について90
東宮春生
『転生』という書名について著者の牧久さんは次のように話しています。左翼が右翼に変わることを一般に「転向」といいます。では、右翼が左翼に変わることは何と言えばいいのか。清朝最後の皇帝で満州国皇帝にもなった溥儀は、撫順戦犯管理所で徹底した思想教育を受け、最後は共産党員、共産主義者になります。実弟の溥傑は、日本で学習院から陸軍士官学校を出て、陸軍大学校まで入った軍人です。そんな二人の数奇な生涯は輪廻転生の「転生」としか表現し様がない。本のタイトルの「転生」にはそんな意味が込められていると紹介されました。 /// 続きは本誌ご参照
『忘却のための記録(清水徹著)』を読んで91
堀泰雄
この本の著者・清水徹は、1930年にソウル市に生まれた。徹の父は、やがて朝鮮半島最北の咸境北道の鉄道機関区に勤務するようになる。1945年8月9日、この日の早朝、ソ連軍は中立条約を破棄し、咸境道地域への空爆を始め、同時に地上からの侵攻も始める。11日には雄基、羅津に、13日には清津に上陸作戦を開始し、清津では日ソ両軍の死闘が繰り返された。咸境北道は戦場と化し、この地に住む朝鮮人や日本人は戦場を逃げ惑う難民となった。 /// 続きは本誌ご参照
『1945わたしの満洲脱出記(稲毛幸子著)』を読んで92
堀泰雄
友人が「読むかい?」ともって来たのがこの本だ。帯には「婦女誘拐、強姦-ソ連兵に狙われた若い娘たち」とあり、著者は、大正生まれ、99歳の女性である。彼女の夫は満州の奥地で、森林の伐採、造林、測量などを行っていた満州林業人、というが、こんな仕事をしていた人がいたとは初めて知った。夫が重要な仕事に従事していたことで、多くの開拓団の避難民が女性、老人、子どもだったのに比べると、男手が家にいたという幸運で、稲毛さんは帰還できたともいえる。 /// 続きは本誌ご参照
槇村浩と飯山達雄のこと93
大類善啓
加齢化現象なのか、この頃、小さい字をよく読み間違えてしまう。前号(34号)の拙文、<王希奇「一九四六」高知展を見に行く>の中、P28の<反骨精神豊かな高知を知る>の中で、詩人の槇村浩のことを紹介したが、植と槇は見た感じは一見似ていたため誤って植村(うえむら)と記してしまった。ご寛容のほどを。 /// 続きは本誌ご参照
「星火方正」へ高まる評価103
大類善啓
このところ、わが方正友好交流の会が出している「星火方正」が好評で、三年ほど前だったか、広告を一切取らないユニークな「週刊⾦曜⽇」の⼩林和⼦編集⻑から、「この充実した会報が会費とカンパで出ているなんて驚きです」という手紙をいただきました。⼩林さんはこの一⽉編集⻑を勇退しましたが、便箋に三枚ほどの手紙をいただき、とても嬉しくなりました。 /// 続きは本誌ご参照
今こそ人類人主義を!:国際主義を超えて、エスペラントの内在思想を深めたい ソ連侵攻と敗戦で生まれた残留婦人と孤児たち106
大類善啓     転載元:善隣(2022年5月号)
中国が文化大革命を終え、新たな改革開放政策に舵を切った1980年代には、日中関係でも新たな現象がいろいろと現れた。その一つが思いもしなかった旧満州からの残留日本婦人や孤児たちの姿だった。それは大きな衝撃を人々に与えた。 /// 続きは本誌ご参照
前号表紙説明の誤りについて115
大類善啓
前号の34号の表紙について、高知市の玉置啓子さんから、高知市にある「日中不再戦」碑が取り上げられたのは嬉しいが不正確な点があるというご指摘をいただいた。玉置さんは日中友好協会高知支部の役員で、平和資料館草の家の役員もしておられる方である。 /// 続きは本誌ご参照
抑留生活 希望の激励117
浦西啓介     転載元:読売新聞(2022年8月15日付)
第2次世界大戦後、旧ソ連軍の捕虜となった近田明良さん(96)(東京都福生市)は抑留先のウクライナで、父親が日露戦争で日本軍の捕虜になったというウクライナ人男性と出会った。「あなたも必ず帰れる」。男性の言葉は寒さと飢えが続く収容所生活で心の支えだった。ロシアによるウクライナ侵略で強制連行に対する非難が強まる中、「いつまで悲劇を繰り返すのか」と憤る。 /// 続きは本誌ご参照
抑留者の道路 無残:元日本兵 露の攻撃に怒り118
竹内駿平     転載元:読売新聞(2022年8月23日付夕刊)
ロシアの侵略開始から半年となるウクライナの東部に、第2次大戦後、ソ連に抑留されて現地に送られた日本人が建設に携わったとされる道がある。 /// 続きは本誌ご参照
戦後77年:氏名不明なお1.5万人 きょう シベリア抑留「追悼の集い」20回目119
青島顕     転載元:毎日新聞(2022年8月23日付)
第二次世界大戦後に旧ソ連・モンゴルに連行され、労働を強制されて亡くなった約6万人の日本の元兵士らの「追悼の集い」が23日午後1時、千代田区の国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑で開かれる。 /// 続きは本誌ご参照
満州移民と孤老たち(上):残留孤児「私たちは4回棄てられた」120
木下貴雄(王栄)     転載元:東京新聞(2022年8月9日付)
2022年は旧満州国(現中国東北部)の建国から九十年という節目の年である。そして、あの悲惨な戦争が終わってから七十七年が経つ。時代は「昭和」から「平成」へ、そして「令和」へと変わって四年。戦争の歴史は確実に風化し、人々の記憶から消えようとしている。中国残留孤児を生んだ「満州移民」の歴史も忘れられようとしている。 /// 続きは本誌ご参照
満州移民と孤老たち(下):落葉帰根「せめて晩年は穏やかに」121
木下貴雄(王栄)     転載元:東京新聞(2022年8月16日付)
二年前に他界した父も中国残留孤児の一人だった。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留日本人2世のいま(上):国の責任で生活支援を122
田中真聖     転載元:しんぶん赤旗(2022年8月19日付)
戦時下の国策で中国東北部(旧満州)に開拓民などとして送られ、1945年の日本敗戦時に中国に取り残された「中国残留日本人」。72年の日中国交正常化以降、1世とともに2世が永住帰国しました。言葉が壁となり安定した収入を得ることが難しいなど多くの困難を抱えています。帰国した2世たちは国の責任で生活を支援することを求めています。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留日本人2世のいま(中):援護不十分なまま25年123
田中真聖     転載元:しんぶん赤旗(2022年8月20日付)
「夏は暑くてもクーラーをつけずに過ごすことが多い。物価高でますます節約志向になりました」空調のスイッチを入れながらこう中国語で話すのは中国残留日本人2世の宮崎一也さん(69)です。長崎市内の県営住宅で妻の智子さん(59)と暮らします。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留日本人2世のいま(下):望みは「新支援法」改正124
田中真聖     転載元:しんぶん赤旗(2022年8月21日付)
日本中国友好協会や九州中国帰国者2世連絡会などは2018年、「中国『残留孤児・婦人』2世の生活支援等を求める請願署名」の活動をスタートさせました。 /// 続きは本誌ご参照
日中50年:「中国にルーツ」半数話せず:4割「当時知らない」残留邦人3世114人 本誌調査125
飯田憲(毎日新聞東京社会部)     転載元:毎日新聞(2022年9月24日付)
日本に永住帰国した中国残留邦人の孫にあたる3世を対象に毎日新聞がアンケート調査を実施したところ、半数以上が「中国にルーツがあることを、話せなかったり隠したりした経験がある」と回答した。1世から直接、当時の体験を聞いたことがない割合は4割を超える一方、このうち「知りたい」と答えた人は8割に上った。3世が1、2世と比べて幼少期から日本社会に溶け込む半面、ルーツとの向き合い方に葛藤を抱えている現状が浮かんだ。 /// 続きは本誌ご参照
証言・戦争:思わず「死んでくれ」と…126
林直子     転載元:しんぶん赤旗(2022年9月24日付)
鉄本良子さん(87)は1935年、植民地下の南朝鮮で日本人の両親のもとに生まれ、10歳の時終戦で日本に引き揚げました。 /// 続きは本誌ご参照
元残留孤児 願う平和:国交正常化50年 帰国者らの思い128
柳沼広幸     転載元:朝日新聞(2022年9月29日付)
第2次世界大戦の日本の敗戦で、混乱する中国に取り残された日本人孤児らがいた。1972年の日中共同声明で国交が正常化したことで日本への帰国を果たした人もいる。9月29日は国交正常化から50年。苦難を乗り越えてきた元残留孤児や帰国者3世らは何を思うのか。 /// 続きは本誌ご参照
日中半世紀 残留孤児のいま:3世代かけ根付いた日本 母を捜し帰国 姓は角栄から129
大久保真紀(朝日新聞編集委員)     転載元:朝日新聞(2022年9月30日付)
中国残留孤児の田中君生さん(82)=東京都江東区=は、「本当の日本人になれた」と言う。実母と生き別れ中国で暮らし、1994年の永住帰国後も苦労を重ねてきたが、いまは心穏やかな日々を送る。子どもや孫が日本社会にしっかりを根を下ろしているからだ。日中国交正常化から29日で50年。3世代のそれぞれの思いは――。 /// 続きは本誌ご参照
私(わたし)と我(Wo)のはざまで―中国残留孤児3世(上):日本人であり中国人 「自分は何者」ルーツ知り語り部に130
飯田憲(毎日新聞東京社会部)     転載元:毎日新聞(2022年9月30日付)
戦前や戦中に旧満州(現中国東北部)へ渡り、戦後の混乱で取り残された中国残留邦人。調査や帰国のきっかけが1972年の日中国交正常化だった。それから30年。日本で生まれ、ルーツに誇りを持てなかった3世は、祖母から体験を聞いたことを機に、「自分は何者なのか」という問いに答えを出した。 /// 続きは本誌ご参照
私(わたし)と我(Wo)のはざまで―中国残留孤児3世(中):自分は「王」再び名乗り 米留学 内面語り合いルーツ受け入れ131
飯田憲(毎日新聞東京社会部)     転載元:毎日新聞(2022年10月3日付)
幼い頃に使わなくなった「王(ワン)」という名字を、自らの意思で再び名乗り始めた。「日本育ちの中国ルーツ。こんな日本人がいてもええやん」。中国残留邦人3世の女性の決断は、母との長年のわだかまりをとくきっかけにもなった。 /// 続きは本誌ご参照
私(わたし)と我(Wo)のはざまで―中国残留孤児3世(下):板挟みの思い発信する 自らの歴史直視 小説や映像に132
飯田憲(毎日新聞東京社会部)     転載元:毎日新聞(2022年10月4日付)
日本と中国を往復し、二つの母国のことを理解するたびに、国同士が緊張を高めている現状が歯がゆかった。中国残留邦人3世の佐藤昇さん(33)=東京都=は、自分の経験をベースにした小説を中国語と日本語の両方で出版。両国の人たちの距離を縮められたと考えている。 /// 続きは本誌ご参照
オピニオン 記者の目:[中国残留邦人3世]二つのルーツで葛藤133
飯田憲(毎日新聞東京社会部)     転載元:毎日新聞(2022年10月19日付)
戦前・戦中に旧満州(現中国東北部)へ渡り、終戦の混乱で現地に取り残された中国残留邦人。私はこれまで当事者を取材するたび、「戦争被害の延長」という見方だけにとらわれすぎていた気がする。この半年間、孫に当る3世たちの取材を重ねる中で、その文脈だけでは語りきれないと強く思うようになった。100人を超えるアンケートから浮き彫りになったのは、1世や2世が経験した言語の壁や生活苦とは違う、「自分は何者なのか」とルーツを巡り、生きづらさや葛藤を抱えている姿だった。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留邦人 苦難継承を:戦後世代が語り部担う「日中のはざま 壮絶な人生知って」134
東京新聞     転載元:東京新聞(2022年10月21日付)
戦前戦中に国策で中国東北部(旧満州)に渡り取り残された中国残留邦人の苦難を語り継ごうと、子や孫の戦後世代が語り部として活躍している。帰国の契機となった1972年9月の日中から半世紀。語り部たちは「日本と中国のはざまで生きてきた壮絶な人生を知ってほしい」と話している。 /// 続きは本誌ご参照
優しさも強く「戦争反対」:早乙女勝元さん死去 90歳、若い世代にも伝え135
三宅千智、井上靖史     転載元:東京新聞(2022年5月12日付)
戦争の惨禍を伝えるため早乙女勝元さんが創設した「東京大空襲・戦災資料センター」(東京と江東区)では11日、2002年3月9日のセンター開館式であいさつする早乙女さんが写るパネルを展示し、追悼の意を表した。 /// 続きは本誌ご参照
81年前 治安維持法で逮捕:「最後の生き証人」自由求め力の限り136
加藤益丈     転載元:東京新聞(2022年5月12日付)
戦前、思想・言論弾圧に利用された治安維持法で逮捕された北海道旭川市の菱谷良一さん(百歳)が11日、支援者とともに国会を訪れ、同法を悪法と認め、弾圧の被害者に謝罪や賠償をするよう国会議員に要請した。 /// 続きは本誌ご参照
沖縄復帰50年:「基地のない平和」遠く 「米軍」集中 県民の思い137
山口哲人、原昌志、村上一樹     転載元:東京新聞(2022年5月14日付)
沖縄の本土復帰から15日で50年。米軍基地の集中は変わらず、普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設計画に伴う名護市辺野古新基地建設への反発も強い。復帰当時を知る人や、基地問題に取り組んできた人たちに思いを聞いた。 /// 続きは本誌ご参照
つなぐ 戦後77年:戦争の心の傷 実態調査を 元兵士の家族ら証言集会138
東京新聞     転載元:東京新聞(2022年8月8日付)
太平洋戦争の戦地から復員し、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を抱えていたとみられる元兵士の家族による証言集会と交流会が7日、東京都武蔵村山市で開かれた。 /// 続きは本誌ご参照
日本兵捕虜の実像 後世に:日露戦争の歴史 ロシア北西部住民が発掘139
小柳悠志     転載元:東京新聞(2022年8月8日付)
ロシア北西部ロブゴロド州に、日露戦争(1904~05年)で日本兵約1800人が暮らした捕虜収容所があった。 /// 続きは本誌ご参照
つなぐ 戦後77年:魚雷で沈没 空母「瑞鶴」 みんな「お母さん」と言って 元乗組員 近藤恭造さん(93)140
加藤益丈     転載元:東京新聞(2022年8月13日付)
甲板に脱出した時には艦体は大きく傾き、海に逃れた仲間は米軍機の機銃掃射を浴びた。 /// 続きは本誌ご参照
つなぐ 戦後77年:戦争協力を自戒 おろかもの之碑 群馬公職追放経験者が61年前建立141
小松田健一     転載元:東京新聞(2022年8月13日付)
群馬県中之条町の古刹に「おろかもの之碑」と刻まれた珍しい石碑がある。 /// 続きは本誌ご参照
伝える 戦後77年:死ぬか殺されるか 極限状況 旧満州国で生まれ育った松村章さん142
柳沼広幸     転載元:朝日新聞(2022年8月17日付)
みどり市大間々町桐原の松村章さん(87)は、旧満州国(現在の中国東北部)の首都・新京(現吉林省長春)で生まれた。満州国は、松村さんが生まれる2年前の1932年、日本が主導してつくった傀儡国家だ。 /// 続きは本誌ご参照
取材ファイル:戦後沖縄 庶民の息遣い 元琉球大教授 早すぎる死惜しむ声143
吉原康和(東京新聞編集委員)     転載元:東京新聞(2022年8月20日付)
悲しみの訃報に接してから半月後の8月上旬、1冊の本が出版社から記者の自宅に届いた。 /// 続きは本誌ご参照
つなぐ 戦後77年:戦時下、獄中15年家族と交わす 言論統制 悲しき1000通144
谷口武     転載元:東京新聞(2022年8月23日付)
自由な言論が統制された戦時下、治安維持法違反の容疑で逮捕され、約15年を獄中で過ごした静岡県伊豆市出身の男性がいた。砂間一良さん(1903~92年)。 /// 続きは本誌ご参照
「私はアイヌ民族」差別で名乗れず:人口06年から10年余でほぼ半減?145
木原育子     転載元:東京新聞(2022年10月22日付)
「私はアイヌ民族です」――。そう名乗れないアイヌが増えている。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特捜部:加害の歴史 見詰めよ 「持っていた権利 取り戻したいだけ」147
木原育子     転載元:東京新聞(2022年5月22日付)
「アイヌ施策推進法」が2019年5月24日に施行されてまもなく3年。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特捜部:今問う部落差別 非当事者に響け ドキュメンタリー映画 異例ロングラン149
西村直晃     転載元:東京新聞(2022年10月24日付)
部落差別の歴史と現状を紹介するドキュメンタリー映画「私のはなし 部落のはなし」が5月の封切りから異例のロングランを続けている。 /// 続きは本誌ご参照
時代を読む:拝啓・安倍晋三様150
田中優子(法政大学名誉教授・前総長)     転載元:東京新聞(2022年10月2日付)
拝啓安倍晋三様。国葬が終わりました。おかげさまで国葬までに実に多くのことが分かり、またあなたさまの言動を改めて思い出すことになりました。 /// 続きは本誌ご参照
1930年代の世界映す エスペラントの手紙:群馬で293通発見 書籍化151
小松田健一     転載元:東京新聞(2022年11月15日付)
世界共通語としてつくられた「エスペラント」を使い、戦前・戦時期に欧米やアジアの人びとと文通していた大量の手紙が群馬県藤岡市の民家で見つかり、その内容を和訳、書籍化した「1930年代を生きたエスペランチストたち」(ホリゾント出版)が刊行された。 /// 続きは本誌ご参照
書評:『周恩来と日本』(王敏著)152
高杉貞明     転載元:日中友好新聞(2022年8月5日付)
新中国建国後、死去するまで首相を務めた周恩来は1917年日本に留学、大学受験に失敗し、1年半ほどで帰国しました。 /// 続きは本誌ご参照
書評:『平頂山事件を考える―日本侵略戦争の闇』(井上久士著)153
福田和男     転載元:日中友好新聞(2022年10月15日付)
平頂山事件研究の第一人者で日中友好協会会長の著書を新著に駆り立てたのは、ウクライナと「満州」が重なって見えたからだという。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特捜部:自国の加害は 本当の愛国は 沈黙破るイスラエルの若者154
北川成史     転載元:東京新聞(2022年11月16日付)
パレスチナ問題を30年以上取材してきたジャーナリストによるドキュメンタリー映画が完成した。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるものとは―「方正友好交流の会」へのお誘い156
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦に続く日本の敗戦は、旧満洲の「開拓団」の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒のなか、飢えと疫病によって多くの人たちがハルピン市郊外の方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人の松田ちゑさんは方正県政府に、「自分たちで埋葬したいので許可してください」とお願いしました。その願いは方正県政府から黒竜江省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、「方正地区日本人公墓」が建立されました。 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記157
大類善啓
会員諸氏、そして支援者の方々、皆さまのあたたかいカンパのお陰で、「星火方正」35号を刊行することができました。ありがとうございました。また、寄稿いただいた方々、ありがとうございました。原稿に挿入されている写真は、制作費用の関係ですべてカラーにはできませんでしたが、ご事情を理解いただきたいと思います。 /// 続きは本誌ご参照

  第34号(2022年5月発行) 第34号(2022年5月発行)表紙

「黒川分村開拓団」での出来事と黒川遺族会の活動1
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
かつて旧満州(現在の中国東北地方)に全国各地から渡満した「満蒙開拓団」、その最後の場面では、現地に取り残され、多くの犠牲を出した悲惨な歴史でもありました。その終戦後の現地越冬の中での悲惨な出来事の中には、女性、子供、老人など、弱い者が更に辛く、悲しい目に遭うことも沢山起きています。その中でも、岐阜県内から渡満した「黒川分村開拓団」での出来事、それは現地暴民等による襲撃から開拓団を守るためにと、開拓団の若い女性たち15人をソ連兵の元に性接待(記事等で多用されるこの言葉自体には私は抵抗感がありますが)のために送り出したという悲しい、惨(むご)い出来事については、それを体験した受難女性の生存者の皆さんの「この事実は語り継ぎ残さなくてはならない」と言う強い思いと、そしてその思いを受けて、このことに近年になって真摯に取り組み始めた黒川開拓団の戦後組織である「黒川分村開拓団遺族会」による熱心な取り組み活動等もあり、広く世に知られるところとなった史実でした。 /// 続きは本誌ご参照
声明文:今般出版の書籍に関して7
藤井宏之(旧満州黒川開拓団・黒川分村遺族会会長)
私ども黒川分村遺族会は、旧満州への開拓団であった黒川開拓団の引揚者による戦後組織として発足し、現在まで現地での犠牲者の慰霊と共に満蒙開拓の史実の語り継ぎ等に取り組んでいる任意団体です。この度、この黒川開拓団での終戦直後の苛酷で悲惨な女性たちの史実等を取り上げた平井美帆著『ソ連兵へ差し出された娘たち』が出版されました。そのことに関し、当遺族会として以下の通り反省等の思いを述べると共に、その上で、当書籍における問題点等についても指摘させていただくところです。 /// 続きは本誌ご参照
黒川開拓団遺族会の声明文を受けて9
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
今般、黒川開拓団遺族会が出された声明文を受けて以下の通りコメントさせていただきます。私共は2013年4月に長野県阿智村に国内初の「満蒙開拓」をテーマに開館した民間運営の記念館です。かつて国策のもとに「旧満州国」へ渡った開拓団。多くの惨い犠牲があった一方で、中国側などにも犠牲を強いた加害の面も持つ歴史であり、さらに国策として推進した立場の人々等にとっても向き合いにくい史実であったため、戦後はほとんど語られないまま、社会の中でも顧みられないまま、風化しつつありました。しかし、今こそこの歴史に向き合い、学び、伝えていかなければならないという思いから、史実継承の拠点となる記念館を立ち上げ、運営しています。その設立趣旨に賛同される多くの皆様方との交流も多い中で、今般の黒川開拓団遺族会の皆様とは開館前から同じ志を持つ立場として交流させていただいています。 /// 続きは本誌ご参照
性接待 伏せられた記憶12
藤井宏之(黒川分村遺族会会長)、聞き手:伊藤智章(朝日新聞編集委員)     転載元:朝日新聞(2018年10月20日付)
終戦直後、混乱する旧満州(中国東北部)で、満蒙開拓団の幹部から指示を受けて旧ソ連兵に「性接待」をした…。90歳前後の元団員女性たちの告白が、衝撃を与えている。当時、何があったのか。性暴力被害は、なぜ秘められてきたのか。証言活動を支える、岐阜県の黒川分村遺族会会長、藤井宏之(66)に聞いた。 /// 続きは本誌ご参照
乙女の碑13
旧満州黒川開拓団・黒川分村遺族会
昭和56年、遺族や元団員による慰霊団が旧満州を戦後初めて訪れ、「接待」の犠牲になって現地で命を落とした女性4人を慰霊しようと話が持ち上がり、翌年3月14日遺族会の浄財で「乙女の碑」を建立・序幕された。当時は犠牲になった女性や家族の思いもあり、碑文をつくることはできなかった。あれから36年がたち、私たちは後世に史実を伝えるため、今ここに「碑文」をつくることに決意した。 /// 続きは本誌ご参照
王希奇「一九四六」高知展を終えて14
﨑山ひろみ(王希奇「一九四六」高知展実行委員会)
「星火方正」の32号「2021年5月刊」でご紹介いただきました王希奇「一九四六」高知展(2021年11月28⽇〜12月5⽇)は、地方都市高知では驚異的な2782人という入場者を迎えて無事終えることができました。コロナ禍で開催が危ぶまれていましたが、秋に入って全国的に収まり始め、高知では11月半ばからゼロの⽇がずっと続いていましたので、県外からも多くの方をお迎えすることができました。 /// 続きは本誌ご参照
満洲引揚者を描く「一九四六 王希奇展」を観て16
新谷陽子
満洲開拓移民引揚75周年に当る2021年、高知市で引揚者を描いた巨大絵画展「一九四六王希奇(ワン・シー・チー)展」が開かれた。1946年、旧満洲(現中国東北部)の葫蘆(コロ)島港から105万人の残留日本人が大送還された史実をテーマにした大作である。 /// 続きは本誌ご参照
満洲引き揚げを描く大作を見て18
下山田誠子
『星火方正』32号に案内が載った美術展を観てきました。王希奇―「一九六四」高知展。戦後生まれの著名な画家、王希奇氏が「一九六四」と題して、残留日本人の大送還をテーマとしたこの大作、縦3メートル、横20メートルに及ぶモノクロの超大作です。松本から神⼾に、そして乗り継いで高知へ、会場は⽴派な高知市⽂化プラザ、ボランティアを含む多くの方が受付をしていました。会場の端から端までの墨絵のような超大作。葫蘆島から引き揚げ船を待つ各地から命からがら辿り着いた引き揚げ者の⻑い、⻑い群れ。多くは、ソ満国境に近い開拓団の方々。絵の中央部にやや光が当たり、うっすらと姿や表情が見てとれますが、他の⻑蛇の列の人たちの表情がわかりません。皆疲れ果てて、着のみ着のまま、裸足の人も沢山います。ここまでやっと辿り着いて命尽きた方もいるようです、端から端まで往復して拝見しました。安堵の顔、疲れきった顔、絶望的な顔など、その方々の背景に少しく想像を寄せてみました。 /// 続きは本誌ご参照
平和への伝言19
たなかすみえ
誰にも話せなかった遠い時 重くのしかかる記憶が何だったのか 何年も何年も 時間が通り過ぎても 忘れることを許してくれなかった心がいた /// 続きは本誌ご参照
奈良・長谷川テル顕彰の会:王希奇「一九四六」高知展鑑賞バスツアーに参加して20
西久美子
コロナ禍のもと、幸いにも感染拡大が収束傾向にある中でのバスツアーで、あまり感染の心配をすることなく、好天にも恵まれた久しぶりの遠出、快適で大変有意義な旅行でした。会場に着くと、﨑山ひろみさんが暖かく出迎えてくださいました。一時間あまりの鑑賞時間があっという間に過ぎ去りました。 /// 続きは本誌ご参照
負の歴史を次世代に語り継いでいかなければ:王希奇「一九四六」高知展で22
越山のぶ子
奈良から24名のバスツアーで新型コロナデルタ株の感染がおさまった時だったので(そんな決心の下)王希奇「一九四六」高知展を鑑賞しに高知までいくことが出来ました。戦後1946年中国満州から引き揚げられた崎山信義さんは自ら乗船した船のまとめ役を務められました。その時の船の中のことを事細かく記された「遺送便覧」というものが高知大学の図書館に所蔵されているそうです。その信義さんの連れ帰られた家族の中の三女ひろみさん(91歳)が中心となり、中国人画家王希奇(61歳)の絵画展「一九四六」が高知市で昨年11月28日~12月5日の期間開かれました。その絵は引き揚げ船に向かう日本人の姿を丹念に描いた縦3m横20mの油絵で水墨画の画法を融合させたものです。 /// 続きは本誌ご参照
王希奇「一九四六」高知展を見に行く24
大類善啓
「星火方正」32号(2021年5月刊)に、<王希奇「一九四六」高知展を開催するにあたって>という文章を、この展覧会実現に力を尽くした﨑山ひろみさんから寄稿していただき、またチラシに掲載されていた「一九四六」の絵を見て、この迫力ある大作を自分の眼で見たいと思い高知に出かけた。四国には一度も行ったことがない。さて、高知に行くにはどうやって行くのだろうと思っていたところ、「奈良・⻑⾕川テル顕彰の会」事務局⻑の⽥辺実さんから、<「一九四六」鑑賞バスツアー>を行う旨のメールが来たので、よしこのツアーに参加しよう、「テル顕彰の会」の人々ともいろいろお話しできると思い、すぐに参加を決めた。 /// 続きは本誌ご参照
「一九四六」王希奇(魯迅美術学院教授)神戸展のお知らせ31
宮原信哉(神戸展実行委員会事務局長)
今回、神戸展を企画した主な理由としては、以下の三点になります。一点目は、中国を代表する国民作家「魯迅」にちなんだ「魯迅美術学院」の王希奇教授授の大作「一九四六」には、戦争被害者や社会的弱者への思いが込められています。この大作の展覧会を、日中友好の思いを込め、中国残留日本人関係者や華僑の方々も大勢いらっしゃる阪神地区で開催したいという思いからです。二点目は満蒙開拓や旧満州(中国東北部)からの引き揚げの歴史を忘れてはならない思いと、併せて戦争がもたらす被害と加害の実相をお伝えしたいからです。三点目は、2022年は日中国交回復50周年の節目の年柄です。1972年9月29日に、田中角栄首相と中国の周恩来首相の間で調印されました。神戸展では9月開催に拘りました。日中不再戦・恒久的日中友好を心に刻み、周恩来首相の「前事不忘 後事之師」(前事を忘れざるは後事の師なり)も忘れてはならない思いです。 /// 続きは本誌ご参照
父の満蒙開拓体験談41
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
この体験談は平成22年(2010年)8月、長野県阿智村内にて開催された「満蒙開拓歴史展」(満蒙開拓平和記念館事業準備会が主催)の際に行われた「満蒙開拓・語り部の会」にて、父・寺沢幸男(てらさわ・ゆきお)が「語り部」の一人として体験談を語った時の元原稿です(8月25日に登壇)。以前に聞き取りしてあったものをベースに、読み上げ用の原稿にとまとめたものです。実際にはこの「語り部の会」の際には、時間的制約、父の体力的な問題等もあり、発表自体はこれを半分程度に短縮したものでした。私的範疇のものですが、編集部よりのご依頼もあり出稿させて頂きました。 /// 続きは本誌ご参照
方正からの残留孤児の子どもを担任して54
松﨑直子
1975年、私が福岡市の中学校教師をしていた時、私の担任クラスに中国残留孤児の子が転入してきました。彼女は16歳で、すでに中学生の年齢を超えていたのですが、教育委員会の指示で、中学一年生となりました。これから私のドタバタが始まります。彼女の両親は中国残留孤児です。それぞれ別の養⽗⺟に育てられ、やがて〝年ごろ〟になった時、養⽗⺟は「お前は⽇本⼈だから⽇本⼈同⼠で結婚した方がよい」と⾔って、残留孤児同⼠で結婚させられたそうです。夫婦は5⼈の子をもうけました。(まだ一⼈っ子政策ではなかった頃) /// 続きは本誌ご参照
旧満洲での思い出56
名取敬和
昭和の初期は世界的な大不況であったと言う。我が冨士見村も国から経済更生村に指定されていた。村政に携わる意欲のある⻘年が、当時の国策として進めていた満蒙開拓移⺠に共鳴し、熱意を持って進めていた。父親も小さな部落ながら村政の末端を担わされていた。そんな関係からも責任を感じていたのか、また、純粋な父は趣旨に洗脳されたのか、当時はどこも⼦沢⼭、七〜⼋⼈は当たり前、我が家も⼋⼈兄弟、父は農家の次男坊、分家で農地も少ない。百姓だけでは生計が立たない。満州に行けば、十町歩もの土地がもらえる。その甘言に乗せられたか真意は聞いていないので解らない。 /// 続きは本誌ご参照
千島寛写真集『中国残留婦人―家族』(仮題、2022年7月発行予定、神奈川新聞社刊)58
千島寛
敗戦後、それぞれの理由で旧満州から故国日本に帰れなかった日本女性4人の写真集です。彼女ら4人は、1914年から1920年の間に生まれていますので1945年の敗戦時、皆25歳以上です。日本人として旧満州に渡り日本人の意識を持ち中国で生きた4人。いずれも日本語に不自由は無い。1995年から撮りはじめました。4人とも70歳を超えていました。日本女性が敵国だった中国で生きて行く基盤は「家族」と見えました。 /// 続きは本誌ご参照
創作曲集「命と平和」発行にあたって59
千秋昌弘
2022年1月、千秋昌弘作詞、森二三作曲「命と平和」創作曲集を発行することができました。私が真剣に詩(詞)を書き出したのはユーラスツアーズの旧満州(中国東北部)の戦跡巡りの2019年の旅でした。ハルピンから「方正」に向かうバスの中、逃避行体験の具体的な話を、藤後博己さんと渡邊潔さんにお聞きし、メモ帳に記録していきました。そして「方正」の日本人公墓の前に立った時、逃避行で死んでいった日本人4500体もの遺骨を、中国人の手によって埋葬された事実を知り、戦の中に「愛」を感じ、いたく心を打たれました。 /// 続きは本誌ご参照
他者への思いやりと慈しみ:三重県熊野市の山奥にある外人墓地について思う60
鶴亀彰
三重県南部の山奥に一つの外人墓地がある。その墓地がある場所は三重県熊野市紀和町板谷である。JR紀勢本線の熊野市駅から30キロ程奥に入った国道311号線に沿った山間地である。戦前ここには紀和鉱山と呼ばれた大きな銅の鉱山があり、一時は2万人を越える人口で賑わった。戦時中、そこでは300人の英国人捕虜が働いていた。マレー方面やシンガポールなどで日本軍の捕虜となり、強制労働のために送られてきていた。終戦までの二年間の銅採掘労働は辛く、苦しいものだったが、村での生活はそれほど酷いものではなかったようである。村人の多くは同じ坑夫やその家族であり、戦時中にも拘わらず、親しい交流もあったらしい。1945年8月15日に戦争は終わり、9月8日には英国人捕虜達は村人に見送られ、村を後にした。しかし、帰れず、この山奥の地の土になった16名の捕虜がいた。戦地での病気やその後の病気で命を落とした人々である。 /// 続きは本誌ご参照
映画『北京の恋』に重ねる思い:歴史・平和・友好とその果てに63
田村美佳
2022年3月某日。河津桜が満開を迎える頃、杭州の友人より微信(中国版メッセージアプリ)に一枚の写真が届いた。送られてきたのは「福井杭州友好公園」と刻まれた石碑の写真。私はその一枚の写真に思わず胸が熱くなり、心を震わせながら「韩宁,我们也已经是20年的好朋友了呀(韓寧、私たちももう20年来の友人ね)」と返していた。杭州と福井の友好都市関係が、私と中国を結びつけてくれたのだ。 /// 続きは本誌ご参照
日本が戦前に中国大陸に作ったもう一つの傀儡政権・蒙古自治邦政府67
横井幸夫
長野県下伊那郡阿智村に満蒙開拓平和記念館がある。天皇、皇后(現、上皇上皇后両陛下)は2016年11月17日にここを訪問した。満州国に置かれた関東軍指令部は1936(昭和11)年に「満州農業移民100万戸移住計画」を策定し、日本政府が国策として受け入れ、実施された。敗戦の1945年までに日本全国から約27万人が渡っていった。村を挙げて送り出す“分村(ぶんそん)”や、複数の村が送り出す“分郷(ぶんごう)”で開拓団を繰り出した。また14、15歳で組織された青少年義勇軍も8万人近く送出された。 /// 続きは本誌ご参照
故石原慎太郎氏の功罪70
横井幸夫
2022年2月1日に石原慎太郎氏が89歳で亡くなった。日本のテレビ、新聞に石原氏を賛美する報道が溢れた。極悪人でも亡くなった人間を批判しないのが日本の麗しき伝統だ。NHKは2月9日に石原氏賛美番組を放映した。番組の見出しは『石原慎太郎を悼む異彩の“太陽”~作家であり、政治家として~』と。フジテレビ(FNN)は岸田首相が石原氏宅を訪問したことを速報で報じた。見出しに『【速報】石原慎太郎氏きょう家族葬岸田首相が弔問「存在の大きさを痛感」』と。 /// 続きは本誌ご参照
人権意識が鈍い日本の大メディア:石原慎太郎追悼記事に思う71
大類善啓
もう旧聞に属するが石原慎太郎(以下、石原と略す)の死去に関する大新聞の報道に関して、どうしても言及したいと思う。共同通信客員論説委員の岡田充さんから、石原追悼報道に関してBCCで短いメールが入り、そこには朝日新聞紙上で田原総一朗氏が「ぶれない石原」と、石原を評価するような談話に触れて、それに対する批判的なコメントが記されていた。「ぶれない政治家」という田原氏のコメントを見て、私が編集している一般社団法人日中科学技術文化センターの会報「きずな」を思い出した。当時の社団の理事⻑・凌星光(現在、顧問)と、当時都知事であった石原との対談記事である。掲載号は2009年夏号(7月刊)。5ページにわたる対談の二人の問答を紹介しよう。 /// 続きは本誌ご参照
本年のコラム:無責任な追悼74
斎藤美奈子     転載元:東京新聞(2022年2月9日付)
石原慎太郎氏は暴言の多い人だった。「文明がもたらしたもっとも有害なものはババア」「三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している」、暴言の多くは、女性、外国人、障害者、性的マイノリティーなどに対する差別発言だったが、彼は役職を追われることも、メディアから干されることもなかった。そんな「特別扱い」が彼を増長させたのではなかったか。 /// 続きは本誌ご参照
新聞を編む:言葉の作用 責任を痛感74
大場司(東京新聞編集局長)     転載元:東京新聞(2022年2月13日付)
1日に亡くなった石原慎太郎元東京都知事の訃報について、読者から批判がたくさん寄せられています。紙面の扱い、足跡や人物像の肯定的な報じ方への批判のほか、とりわけ氏の差別発言の報じ方に厳しい指摘が相次いでいます。 /// 続きは本誌ご参照
「石原節」メディアの責任重い(ほか)75
戒能民江(お茶の水女子大名誉教授)ほか     転載元:東京新聞(2022年2月15日付)
石原氏が2001年、週刊誌の記事で「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄」などと述べた「ババア発言」をした際、損害賠償や謝罪広告を求める訴訟の原告に加わった。女性への暴力を研究する者として、石原発言を暴力そのものだと感じたからだ。放置すれば、なかったことにされてしまう。社会への発信が大事だとの思いもあった。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特報部:ロシアへの信頼 裏切られた 避難の子「死にたくない」…あれは私76
大杉はるか/中山岳(東京新聞)     転載元:東京新聞(2022年3月2日付)
ロシアのウクライナ侵攻に、日本の戦争体験者らが声を上げている。空襲や市街戦、避難民の姿に、約80年前に感じた苦しみが重なるという。平和への願いもむなしく、繰り返される戦争。怒りと悲しみが広がっている。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特報部:反戦デモの意義 ⺠衆の意思 戦争終結の力に78
山田祐一郎/中山岳(東京新聞)     転載元:東京新聞(2022年3月16日付)
ウクライナ侵攻に対し、ロシア国内でも反戦を求めるデモが拡大。侵攻開始の2月24日以降、治安当局に拘束された人は1万4千人を超えた。厳しい弾圧にも負けず、反戦を表明するロシア市民への称賛と連帯は世界各国に広まる。普段はデモを毛嫌いするような日本の保守系政治家らが、都合よくこうした反戦デモを称賛しているのは鼻白むが、とはいえ、反戦で世界が一致することは、事態の打開につながる可能性がある、反戦でもの意義を考えた。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特報部:元ウクライナ抑留者 反戦 次世代に伝えたい80
宮畑譲(東京新聞)     転載元:東京新聞(2022年3月27日付)
ロシアのウクライナ侵攻による惨状をみて、心を痛めている戦争体験者がいる。旧ソ連時代に、現在のウクライナ・ザポロジエで約2年間抑留された近田明良さん(96)=東京都福生市=。「ウクライナの人がどんなにつらく、腹立たしい思いをしているかと考えると涙が出てくる。もっと声を大にして戦争反対を言わなくては」と、一刻も早い終結を願っている。 /// 続きは本誌ご参照
非軍事の努力で脅威除け82
高橋哲哉(東京大学名誉教授)     転載元:東京新聞(2022年3月16日付)
ロシア軍のウクライナ侵攻は、侵略戦争とはどんなものかをまざまざと見せつけている。一刻も早い停戦とロシア軍撤退への道筋をつけることが望まれるが、ここでは日本国内の受け止め方について私見を述べたい。 /// 続きは本誌ご参照
ロシアは侵略直ちに停止を83
田中優子(法政大学名誉教授・前総長)/古館寛治(俳優)/田中美穂(核政策を知りたい広島若者有権者の会共同代表)     転載元:しんぶん赤旗日曜版(2022年3月27日付)
ロシアによるウクライナへのあからさまな侵略に、抗議の声が世界中に広がっています。 /// 続きは本誌ご参照
ウクライナの同報救う:高麗人 国超え連帯84
相坂穣(東京新聞)     転載元:東京新聞(2022年4月7日付夕刊)
ロシアの侵攻でウクライナから逃れた避難民が400万人を超えるなか、朝鮮半島をルーツとする「高麗人」系のウクライナ人を支援するため、韓国で暮らす高麗人団体が募金活動などに奔走している。支援者の国籍はロシアや中央アジア各国などさまざまだが、「われわれは同胞だ」との思いが活動を支えている。 /// 続きは本誌ご参照
バレンボイム「撃ち合いやめ対話を」85
吉田純子(朝日新聞編集委員)     転載元:朝日新聞(2022年3月31日付夕刊)
指揮者のダニエル・バレンボイムがベルリンで6日、。自身が音楽総監督を務めるベルリン国立歌劇場管弦楽団を率いてウクライナ支援の演奏会に登壇し、ウクライナ人との連帯の意思を表明する一方で、ロシア人やロシアの芸術を排除する昨今の動きを「サイアクの連想を呼び起こす」として牽制した。 /// 続きは本誌ご参照
満州から逃避行 光景を思い出す85
宮岸清衛     転載元:北国新聞(2022年3月17日付)
ロシアがウクライナに侵攻し、ロシア軍が女性、子供、老人の避難民を追い詰めている様子をテレビで見て、77年前に満州から逃避行した光景をいやでも思い出します。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓団 体験語り続ける:中国人の不幸の上に築かれた幸せな生活86
北村隆志(しんぶん赤旗記者)     転載元:しんぶん赤旗日曜版(2021年12月5日付)
かつて国策として日本から中国東北部に送り出された農業移民団「満蒙開拓団」。新潟県阿賀野市の須田一彦さん(85)はその一員でした。「開拓団は被害者であるとともに、『侵略』の担い手でした」と、語り部活動では必ず加害の歴史を強調しています。自宅で話を聞きました。 /// 続きは本誌ご参照
大阪空襲から76年 やっと家族に居場所:慰霊碑に名 刻む87
森田真奈子     転載元:東京新聞(2021年12月16日付夕刊)
1945年6月の大阪空襲で、在日朝鮮人2世の鄭末鮮さん(88)=滋賀県野洲市=は母と兄、妹、弟を亡くした。遺品や墓もないまま76年が過ぎた。今夏、4人の名前がJR新大阪駅近くの崇禅寺(大阪市東淀川区)の慰霊碑に、ようやく刻まれた。鄭さんは「碑に名前を刻んだだけとは違う。やっと、4人の居場所をつくれた」と涙ぐんだ。 /// 続きは本誌ご参照
封印されたビデオ~東京大空襲 記憶の継承1:両親の愛 はがきの中に88
井上靖史     転載元:東京新聞(2022年3月16日付)
「優しかったお父さん、お母さん。どうして私一人を置いて死んでしまったのでしょうか」両親ときょうだい二人を東京大空襲で亡くした埼玉県久喜市の元教諭、臺スミ子さん(86)は、未公開のままになっている証言ビデオテープの中で声を詰まらせていた。二月、取材に応じた臺さんの話は一枚のはがきから始まった。 /// 続きは本誌ご参照
封印されたビデオ~東京大空襲 記憶の継承2:家族も知らない 父の記憶89
井上靖史     転載元:東京新聞(2022年3月17日付)
「家族も聞いたことがない話ばかりだ」。東京都西東京市の農家、内田繁勝さん(67)は父、亀三郎さんの生々しい証言に衝撃を受けた。2007年、79歳で亡くなった父は1990年代後半、都の依頼で戦争体験の収録に応じた。未公開の映像を見せてもらった。 /// 続きは本誌ご参照
封印されたビデオ~東京大空襲 記憶の継承3:「破壊的な史実」世界に発信90
井上靖史     転載元:東京新聞(2022年3月19日付)
「これだけの破壊的なできごとなのに、記憶を伝える公立施設がほとんどないのはどうしてなのか」。オーストラリア出身の映画監督エイドリアン・フランシスさん(47)は言う。昨夏、東京大空襲の体験者の証言を集めたドキュメンタリーを完成させた。母国の映画祭で評判となり、日本で公開してくれる配給会社を探している。 /// 続きは本誌ご参照
封印されたビデオ~東京大空襲 記憶の継承4:「都祈念館」整備し展示を91
井上靖史     転載元:東京新聞(2022年3月20日付)
東京大空襲の資料を展示して後世に伝える「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都江東区)が開館から20周年を迎えた。同センターは、300人以上の空襲被害者らの証言を収録したビデオテープや遺品などを公開するはずだった「東京都平和祈念館(仮称)」の建設が進まないことに危機感を抱いた有志が、募金を集めて開設した。戦争資料の活用のあり方について吉田裕館長(67)=一橋大名誉教授に聞いた。 /// 続きは本誌ご参照
空襲被害者救済を:東京大空襲77年 犠牲者の名前読み上げる集い92
本吉真希(しんぶん赤旗記者)     転載元:しんぶん赤旗日曜版(2022年3月27日付)
1945年3月10日の東京大空襲から今年で77年。犠牲者の名前を読み上げ、心に刻む集いが民営の「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都江東区)で開かれました(9日)。発起-河合節子さん(83)の思いはー。 /// 続きは本誌ご参照
よむひと:東京大空襲の戦後史(栗原俊雄著)93
米田綱路(ジャーナリスト)     転載元:東京新聞(2022年3月5日付)
1945年3月10日未明の東京大空襲は、瞬時にして約10万人の命を奪った。犠牲の大半は城東の下町に住む社会的弱者だ。遺体が多すぎて荼毘に付せず、多くは仮埋葬された。隅田川に架かる言問橋のたもとに建つ東京大空襲戦災犠牲者追悼碑は、そんな場所を伝える一例である。 /// 続きは本誌ご参照
読書:731部隊全史:石井機関と軍学官産共同体(常石敬一著)94
山田朗(明治大学教授)     転載元:しんぶん赤旗(2022年3月20日付)
本書は、731部隊研究のパイオニアであり第一人者である著者による40年余の研究の集大成の書である。731部隊について現在、どこまで解明され、何が分からないのか、軍事に従属した研究が何をもたらすのか、戦後米軍がつかんだ情報はどれほどのものだったのか、本書を読めばすべてが分かる。著者は、本書を執筆した動機として防衛省が2015年に科学研究を補助する制度を作り、大学などの研究者を軍事研究に誘導し始めたことを挙げている。研究の自由と公開の自由を制限する軍事研究が行き着いた帰結が731部隊であった。 /// 続きは本誌ご参照
遅すぎた戦後処理の話:傘になり 薪になった人の覚書95
鳥居正孝(村上市肴町)     転載元:サンデーいわふね(2022年3月6日付 ※新潟県村上市地域新聞)
1995年の2月、村上氏羽黒口の鈴木進さん=当時81歳=に中国黒竜江省甘南県宝山村から手紙が届きました。 /// 続きは本誌ご参照
樺太の記憶 継ぐために:引き揚げ75年 証言など集めて映像制作96
東京新聞     転載元:東京新聞(2021年12月6日付)
太平洋戦争の終戦時、約40万人の邦人が居住していた南樺太(現ロシア・サハリン南部)からの集団引き揚げが始まって五日で75年。樺太の歴史伝承を続けてきた「全国樺太連盟」が3月に解散し、記憶の風化への懸念が強まる中、北海道稚内市の大学生が引き揚げ者の証言や手記などを基に映像を制作し、後世に残そうと奮闘している。 /// 続きは本誌ご参照
戦争乗り越え魂の出合いを高らかに:10周年迎えた「再生の大地」合唱団97
大門高子     転載元:日中友好新聞(2022年1月15日付)
日中友好協会東京都連合会主催で、ジェームス三木さんとの「講演と音楽の夕べ」に取り組んで早10年。日本人元戦犯の人間回復を歌う「再生の大地合唱団」は昨年11月30日、東京都武蔵小金井の宮地楽器ホールで10周年の記念演奏会を開きました。 /// 続きは本誌ご参照
本音のコラム:ロシア人排除の是非を問う98
師岡カリーマ(文筆家)     転載元:東京新聞(2022年3月12日付)
世界一忙しいとも言われるロシア人指揮者ゲルギエフが、欧州各地の楽団からほぼ総スカンを食らっている。プーチン大統領のウクライナ侵攻を非難しなかったためだがもともと大統領と親しく公的に支援してきた超大御所だけに、この状況で文句は言えまい。でも煽りを受けているのが政治に近い大指揮者だけではなく、キャリア半ばのロシア人演奏家にも影響が及んでいると聞けば、黙っていられない。コンクールへの参加が取り消された若手もいるという。 /// 続きは本誌ご参照
取材考記:国交正常化50年 残留孤児ら養父母の公墓も行けず 往来制限 日中のすれ違い気がかり98
平井良和(朝日新聞国際報道部・前瀋陽支局長)     転載元:朝日新聞(2022年3月16日付夕刊)
中国黒竜江省ハルビンの市街地から約200キロ東の方正県に、直径が約3メートルのドーム状の墓がある。中国残留日本人孤児を育てた中国人養父母らの公墓だ。戦後も7年となり、中国で私が会えた養父母はいずれも世を去った。昨年、88歳で亡くなった李さんは「公墓で眠りたい」と遺言した。 /// 続きは本誌ご参照
中国人監督 残留孤児テーマに映画:愛を根底に描く日中交流 「再会の奈良」来月公開99
新貝憲弘     転載元:東京新聞(2022年1月19日付)
中国残留孤児をテーマに日中交流を描いた映画「再会の奈良」が、2月4日からシネスイッチ銀座(東京)や伏見ミリオン座(名古屋)など全国で順次公開される。今年九月の日中国交正常化50年を前に、ポンフェイ(鵬飛)監督は「戦争の恨みはいつか消えるが、愛情はいつまでも残ることを感じてほしい」と話している。 /// 続きは本誌ご参照
ひと:京都で在日コリアンの歴史を伝える 金秀煥さん(40)100
吉本博美     転載元:しんぶん赤旗(2022年3月19日付)
拠点は京都府宇治市のウトロ地区。第2次世界大戦中、軍事飛行場の建設のために集められた朝鮮人が、終戦後も第二の故郷として助け合いながら根を下ろした地です。南山城同胞生活相談センターの代表として、住民支援やハングル講座、地域での文化交流に取り組んでいます。 /// 続きは本誌ご参照
この人:「アイヌ通史」を邦訳した英国人研究者 マーク・ウィンチェスターさん(42)100
団奏帆     転載元:東京新聞(2022年1月7日付)
「研究するならとことん向き合い、多くの当事者が読める言語で」。国立アイヌ民族博物館に勤務する傍ら、恩師のリチャード・シドル氏の著書の邦訳「アイヌ通史」を出版した。 /// 続きは本誌ご参照
流転を生きる:国籍を超え 自分は自分101
志田勉     転載元:東京新聞(2022年3月22日付夕刊)
陳天璽(50)は1971年8月、中国出身の両親の6番目の子として横浜・中華街で生を受けた。両親は喫茶店と菓子店を営んでいたが、間もなく一家は国際政治の変革の波に翻弄される。翌年9月の日中国交正常化が契機だった。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特報部:最晩年 北の大地へ アイヌ力 再興を102
木原育子     転載元:東京新聞(2021年11月28日付)
東京を拠点に活動した、アイヌ民族の詩人で古布絵作家の宇梶静江さん(88)=埼玉県白岡市=が24日、北海道白老町に移住した。半世紀前の1973年、東京ウタリ(同胞)会を設立し、アイヌ民族の権利回復運動の中核を担ってきた女性だ。なぜ、人生の最晩年を北の大地で暮らす決断をしたのか。 民族としての存在さえも不可視化され、深い痛みを抱えて生きてきたアイヌが声を上げ始めた。 /// 続きは本誌ご参照
戦争の記憶は捨てられない104
五木寛之(作家)     転載元:しんぶん赤旗日曜版(2022年2月20日付)
作家の五木寛之さんが新著『捨てない生き方』を出しました。増えていくモノとの向き合い方、心豊かに「成熟期」を生きるヒントとは―。 /// 続きは本誌ご参照
この人に聞きたい:お客さんが言わせてくれる105
松本ヒロさん(芸人)     転載元:しんぶん赤旗日曜版(2022年2月20日付)
〈コロナ禍で、ライブの手ごたえを再認識しました〉新型コロナウイルスの感染拡大で激減した仕事が、ようやく昨年は戻ってきました。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特報部:だから私は… おかしな政治 物申す 日本城タクシー社長 坂本篤紀(56)106
中沢佳子     転載元:東京新聞(2022年1月7日付)
「どう、もうかってはる?」のどかな日差しに包まれた大阪市住之江区のタクシー会社。休憩中にくつろぐ運転手たちに、坂本篤紀が声をかける。「ぼちぼちですわ」。漫才さながらの返しに、坂本は「そうか」と目を細める。 /// 続きは本誌ご参照
声を上げて デモのあとさき:民の熱意のバロメーター108
砂上麻子     転載元:東京新聞(2022年1月4日付)
「反原発のデモが盛り上がったのはよかったけど、もうちょっと短期決戦でやれればよかったな…」東京都・高円寺でリサイクルショップ「素人の乱5号店」オーナーの松本哉さん(47)は苦笑いに悔しさをにじませた。 /// 続きは本誌ご参照
中国社会科学院と有澤廣巳文庫109
何方
有澤廣巳先生の一周忌に際して、その生前の中国友人は皆尊敬の心持をもって、中国人民、とくに中國學術界との旧い友人を懐かしんでいる。中日友好増進と両国学術交流促進のために先生が大きな意欲をもち、大いに頑張っておられたことは永遠に忘れられない。先生の深みのある学問、高尚な人格ならびにその卓越する貢献は不滅の灯火の如く、今後も輝いていくであろうし、後進の励ましにもなるであろう。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるものとは―「方正友好交流の会」へのお誘い111
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦に続く日本の敗戦は、旧満洲の「開拓団」の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒のなか、飢えと疫病によって多くの人たちがハルピン市郊外の方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人の松田ちゑさんは方正県政府に、「自分たちで埋葬したいので許可してください」とお願いしました。その願いは方正県政府から黒竜江省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、「方正地区日本人公墓」が建立されました。 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記112
大類善啓
まず、会員及び支持者の皆様、会費やカンパをお送りいただき、今号もこのよう刊行することができました。お陰様で会報を知る人たちも多く、今号にはロスアンゼルスに滞在する鶴⻲彰さんからメールが来て、本誌に寄稿していただくようにもなり、会の存在の広がりを実感しております。改めて寄稿していただいた方々、貴重な新聞記事など資料をお送りいただいた方々、皆さん、ありがとうございました。 /// 続きは本誌ご参照

  第33号(2021年12月発行) 第33号(2021年12月発行)表紙

旧満洲で迎えた敗戦から新中国建設のなかで1
橋村武司
解説:本稿は、2021年6月6日(日)、方正友好交流の会・第17回総会後に行われた橋村武司(はしむら・たけし)さんの講演の記録である。橋村さんは、1932年(昭和7)長崎県対馬生まれ。8歳で父を亡くし、1943年(昭和18)、母と妹と3人で満鉄勤務の伯父を頼ってハルピンに渡った。その後、中学1年で終戦を迎え、1950年、中国に留用された元満鉄社員の義父の家族とともに西部の甘粛省・天水に鉄道新設(天蘭線)のために移住、現地の中学・高校で学んだ。1952年に天蘭線は開通した。この年、中国より日本に引き揚げ、1960年中央大学工学部電気工学科卒業後、シチズン時計㈱入社、水晶時計、事務機器、健康機器の研究・開発に従事。その後、㈱アマダに入社し、レーザ加工機の研究・開発、中国進出計画に携わり、1994年には深圳地区で委託加工工場を立上げた。1995~97年JODC(海外貿易開発協会)専門家として北京清華大学精儀系でセンサーの技術指導に当たる。日本国内では地域産業振興を促進。2000~2009年北京八達嶺鎮で防風固沙の植樹に、北京地理学会と共同活動。中国技協節能建築技術工作委員会外事顧問として建築物の省エネ・環境対策に参画。現在、天水会会長、龍騰グループ代表。日中人材交流、技術移転、文化交流など幅広く活動されている。(大類善啓記) /// 続きは本誌ご参照
無言館ノート「あの夏のまま…」15
横井幸夫
信州・上田市の郊外、塩田平を望む丘の上にひっそりと建つ美術館がある。無言館という。管主の窪島誠一郎(1941~、作家・水上勉の隠し子)と自らも出征経験を持つ画家の野見山暁治(1920~)の二人が全国を回って太平洋戦争で戦死した戦没画学生の遺族を訪ね、遺作を蒐集した。蒐集作品は700点を超す。美術館「信濃デッサン館」の分館として1997年に開館した。私は数年前の初夏に親しい夫婦3組6人で無言館を訪ねた。強い日差しの中、深い緑の林に囲まれた坂道を上ると、丘の上に無言館があった。館内は薄暗く、訪れる人も多くはなかった。明るく、華やかな絵は一枚もない。見る人は無言の絵に、無言で向き合う。美術館入り口を入って左に一枚の裸婦像が掛かっている。絵とその説明文だ。 /// 続きは本誌ご参照
戦争体験の継承:この人にしか語れない喜びと悲しみ―奈良県香芝市から「満州」・シベリアについての発信19
西嶋拓郎(奈良県香芝市)
2021年10月17日(日)深夜放送のNNNドキュメント『凍土の記憶』(96歳が伝えたシベリアの強制労働)は、京都府綾部市のシベリア抑留体験者・原田二郎氏の70歳を過ぎてから始めた「シベリア抑留体験」の語り部活動を見事に伝えていて感銘を受けた。ともかくその語りが自然体で前向きなのだ。 /// 続きは本誌ご参照
中国における日本文学の受容 管見―五味川純平「人間の条件」を端緒に26
平山三男
「質問があります。」思いつめたような顔つきで近寄ってきた受講生がそう言った。「『人間の条件』・・・主人公の梶について、どう思いますか。」都内の予備校の講師室でのことだった。質問に来た予備校生は、その後、都内の大学に入学。卒業後、社会人として数年生活をした後、地方国立大学医学部に入り、今は精神科医として開業している。予備校卒業後、しばらく関係は途切れていたが、最近、連絡がつき、彼の卒業後の経緯を知ることになった。 /// 続きは本誌ご参照
「PTSDの日本兵と家族の交流館」は「日本が二度と戦争を起こさない。誰もが安心して暮らせる社会」をめざし「戦争はしません。白旗を掲げましょう。話し合い和解しましょう」の白旗を掲げ活動しています!31
黒井秋夫
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会(語り合う会)」は2018年1月17日に発足し、2020年5月10日に「PTSDの日本兵と家族の交流館(交流館)」を開館しました。コロナ禍にもかかわらず、開館以来1250名を越える皆さんに来館いただいています。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓団」の生き証人、林正之さんの証言35
千田優子
林正之さん一家は家族総勢10人で満蒙開拓団として旧満州に行き、二人のお姉さんたちは中国人と結婚したため30年以上経って帰国し、現在、日本でそれぞれが自立し仲良く暮らすファミリーです。90歳を過ぎた林正之さんに戦争体験を語って欲しく書き留めたものをまとめてみました。 /// 続きは本誌ご参照
方正県以外にもう一基「日本人公墓」があった―水戸市河和田町本法寺境内に39
末広一郎
中国東北元満洲国・哈爾濱市郊外に、哈爾濱和平公益性墓園があり、そこに”日本人公墓”の石碑が2000年10月30日に建立されました。続いて2001年5月には、”極楽世界碑”が建立されました。暫くして”張氏家之墓”となりました。 /// 続きは本誌ご参照
現地礎で掘り出された遺骨処理のための訪中調査報告43
深田允文     転載元:礎会だより第38号(2000年12月1日発行)
礎会富山大会で、六期仰木道之氏から報告のあった、礎現地で遺骨が掘り出されて野晒しになっているという問題については、その後更に一期津田久稔氏訪中の折に、哈訓病院跡に新設された病院にも、二体の遺骨が保管されていることを知らされ、写真を撮るなどしてそれを確認し、病院長からはこの処理方法について質問されたが、帰国後に然るべく回答する旨を告げて帰国したとの報告があった。 /// 続きは本誌ご参照
「長谷川テル訪問記念の碑」建立募金にご協力を45
宮城恭子/田辺実(奈良・長谷川テル顕彰の会会長/事務局長)
「星火方正」の読者の皆さん。この度、古都奈良の名刹・般若寺境内に、日中戦争のさなか、反戦・平和を世界に叫び続けた長谷川テルさんの顕彰運動の一環として、「長谷川テル訪問記念の碑」建立のための募金を開始できるはこびとなり、『星火方正』の読者の皆さんに一言ご挨拶とお願いを申し上げます。 /// 続きは本誌ご参照
人類は一つの共同体なのだ!―『エスペラント~分断された世界を繋ぐHOMARANISMO~』(大類善啓著)に思う50
椎名鉄雄
私は、本書で紹介されているエスペラントの生みの親、ザメンホフの思想「人類人主義」(HOMARANISMO)は、普遍的価値を保持していると思う。今人類は大きな曲がり角に立っている。人類は、自らの力で切り開いてきた文明の力で自らを窮地に追い込んでいる。今なお地球上では、民族・国家・宗教間の対立・紛争が絶えない。その根源には、ナショナリズムがある。ポーランド生まれのユダヤ人ザメンホフ(ユダヤ人に対する大虐殺を経験)は、「我々は人類の一員である。国家・民族を超えたこの大地に生きる一人の個人を出発点として、この世界を考えていこう」と人類人主義の考え方を提示した。人類を一つの共同体と看做した。一つの共同体に暮らす人類が相互理解を進め、平和な暮らしを築くため、エスペラント(世界共通語)を創った。しかし、一部の国家は、国家間の争いの解決手段として科学技術の粋を集めた原子力兵器の使用も視野に入れている。私は、ザメンホフの「人類人主義」の思想と、その思想実現の為のエスペラント(世界共通言語)は、この危機的な状況を突破する力を秘めていると思う。 /// 続きは本誌ご参照
エスペラントの可能性に思いを巡らしつつ…―『エスペラント』(大類善啓著)を読んで52
滝永登
数年前、50年来の旧友と一献交わす機会があり、そこで「君はなぜエスペラントをやっていたのか」と問われたことがある。いきなりの問いかけだったので、「世界平和」とか「人類愛」などとは、いかにも気恥ずかしく、とっさに「英語が嫌いだったからだ」と答えた。そのときは、質問の意図をかわしたいという心理が働いたのかもしれないが、振り返ってみれば決して的外れな受け答えではなかったと今思う。 /// 続きは本誌ご参照
語り掛ける言葉をめぐって:『エスペラント―分断された世界を繋ぐHomaranismo』を読む56
森一彦
『エスペラント――分断された世界を繋ぐHomaranismo』大類善啓著(批評社2021年5月25日刊)を読了した。読了して、すぐにでも感想が書きたくなった。その一因は、本書に関わった人々の想いが非常に丁寧な本づくりとなって表れているからではないかと感じた。なかでも装幀(臼井新太郎)のカバーデザインは秀逸で、「分断された世界とエスペラント」という本書のテーマに沿って、帯に書かれた<ちょっと変わった人たちだけど、みんな個性豊かなホマラニスト>という世界観を、歴史のなかに埋もれた静かな輝きとして、地中の宝石のように見事にデザイン化している。このような丁寧な本づくりをさせた基をただせば、本書に描かれたひとり一人のホマラニストに対する、著者の愛情と敬意の力に他ならないであろう。 /// 続きは本誌ご参照
エスペラントの内在思想に迫る:『エスペラント―分断された世界を繋ぐHomaranismo』(大類善啓著・批評社)を読んで思う60
初岡昌一郎
この本は表題からはエスペラント語入門書と間違えられかねないが、ザメンホフ博士によって創始されたエスペラント運動とその思想を紹介することに主眼が置かれているので、「エスペラント思想入門」の書と言えるだろう。私が知る限り、本書は日本でこれまでに出版されたエスペラント思想紹介書として最も優れたものだ。何よりも明快でだれにも分かりやすく解説されている。それは筆者がこの思想を自家薬籠中のモノとしているだけでなく、フリーのジャーナリストとしての経験を生かした、並々ならぬコミュニケーション能力と優れた文章力によるところが大きい。 /// 続きは本誌ご参照
心優しき「ホマラニスモ」への誘い―世界語としてのエスペラントに魅せられた群像に触れて62
木村知義
不思議な書だ。エスペラントという言語の歴史を縦糸に、それに魅せられ、あるいはその「伝道師」とも言える人生を歩んだ人々の群像を横糸に、まるで綾なす一反の織物のように丹精込めて物語を織り上げ、そして優しく語りかけてくる。言語の歴史や言語論の解説の書でもなく、ましてや入門書でもなく、エスペラントとともに生きた人間の物語を語ることで、エスペラントという言語が引き受けなければならなかった「運命」を胸に沁みることばで紡いでいく。 /// 続きは本誌ご参照
エスペラント(大類善啓著)65
瀧澤弘和(経済学者・中央大学教授)     転載元:読売新聞(2021年8月22日付朝刊)
ユダヤ系ポーランド人ザメンホフが19世紀末に発表した世界共通語エスペラン卜。彼の理念は国家、民族、宗教の違いを乗り超えた新しい世界を獲得することだった。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの出した1冊の本『エスペラント―分断された世界を繋ぐHomaranismo』66
大類善啓     転載元:一般財団法人日本エスペラント協会「エスペラント」(2021年10月号)
2013年ごろ、改めてエスペラントに注目したのはザメンホフの言うHOMARANISMO(ホマラニスモ)、人類人主義という思想だった。当時、日本と中国では領土問題を契機にナショナリズムが噴出し、中国の「人民日報」からは「国際主義」が消え、頻出してきた言葉が「愛国主義」だった。 /// 続きは本誌ご参照
『エスペラント―分断された世界を繋ぐHOMARANISMO』出版を巡って67
大類善啓
今年2021年5月末に批評社から上梓した表題の拙著は、自分で言うのは気が引けるが予想以上に好評で嬉しい限りである。まず、日本のエスペランティストの中では、世界一有名人ともいえる堀泰雄さんがA4版2頁の分量で拙著を推薦するメールをエスペラント界の友人知人に発信してくれ、かなり拙著が知れ渡った。 /// 続きは本誌ご参照
集団自決兵士いなければ…―家族失った元開拓団員 最後の慰霊68
佐藤勝(信濃毎日新聞)     転載元:信濃毎日新聞(2021年8月9日付朝刊)
「ここへ来ると不思議と気持ちが落ち着くんだ」。8日午前、長野市の花岡平霊園。慰霊碑に手を合わせた岩下博志さん(87、塩尻市片丘)が、ほっとした表情を見せた。76年前、旧満州(中国東北部)で集団自決した中和鎮信濃村開拓団の元団員で、父母と弟4人、妹を亡くした。コロナ下でも仲間と続けてきた慰霊だが、車の運転もままならなくなり「今年で最後」と決めて来た。「いったん戦争になると、皆が―つの方向に向かう」。戦争の怖さをそう訴えている。 /// 続きは本誌ご参照
8月、忘れてならないこと69
大浜敏夫     転載元:八重山毎日新聞(2021年8月9日付)
1945(昭和20)年8月9日は、世界で2発目の原子爆弾が長崎に投下された同じ日の末明、日本のかいらい国家「満州国」に突然ソ連軍が侵攻してきた日でもある。かつて日本全土の約3倍もの面積の中国東北地方に13年間だけ存在した実質日本の植民地「満州国」があった。そこへ国策として日本全国から「満蒙開拓団(以下開拓団)」として送出された農業移民が約27万人もいた。開拓民が最も多かったのは長野県の3万77859人、次いで山形県1万7177人、熊本県1万2680人と続くが、沖縄からも恩納、今帰仁、南風原など七つの開拓団から2994人の開拓民が渡満している。 /// 続きは本誌ご参照
手記『満州開拓団棄民の私』を昨年出版70
青野圭(しんぶん赤旗)     転載元:しんぶん赤旗(2021年9月3日付)
今から76年前の敗戦時、国の「棄民政策」によって旧満州(中国東北部)にとり残された入植者は、凄惨な逃避行を強いられました。中国に残らざるを待なかった子どもや女性も多く、後に日本への帰国を果たした人も、苦難は長く続きました。痛苦の体験をつづった手記『満州開拓団棄民の私』を昨年出版した人がいます。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙 悲惨きわまる逃避行71
西口友紀恵(しんぶん赤旗)     転載元:しんぶん赤旗(2021年9月7日付)
戦後、日本の植民地や占領地から引き揚げてきた民間人は320万人近く。なかでも「満蒙開拓団」は国策によって日本のかいらい国家「満州国」(中国東北部)のソ連(当時)との国境付近に送り出され、1945年8月9日のソ連の突然の参戦、侵攻で悲惨きわまる逃避行を強いられました。 /// 続きは本誌ご参照
元義勇軍 満州で失った青春72
柳沼広幸(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2021年9月11日付)
日本が1931年9月に中国東北部に侵攻を始めた満州事変から90年。翌32年に愧儡国家「満州国」を建国し、農業移民の満蒙開拓団が送り込まれた。群馬からの移民も多い。今の中高生の年代で訓練を受けた満蒙開拓青少年義勇軍もあった。大陸で青春を送り、敗戦で多くを失った。 /// 続きは本誌ご参照
「戦争のリアル」考える糸口に―広島大大学院准教授・中村江里さん73
森田裕美(中國新聞論説委員)     転載元:中國新聞(2021年9月15日付)
戦争は究極の殺し合いだ。戦場や軍隊での体験が原因で心に傷を負い、精神疾患を発症する兵士は少なくない。かつて曰本が突き進んだ戦争でも、精神疾患になった旧日本軍兵士たちがいた。しかし彼らの存在は、戦時中は隠され、戦後は忘れ去れ、長く「見えない問題」にされてきたという。なぜなのか。彼らに光を当てる意義とは―。戦争と心的外傷(トラウマ)の歴史に詳しい中村江里・広島大大学院准教授(38)に聞いた。 /// 続きは本誌ご参照
今日柳条湖事件90年―満州にソ連侵攻、逃走中に衰弱 「連れて行って」仲間の声 今も74
東京新聞     転載元:東京新聞(2021年9月18日付)
1931年9月、日本の旧関東軍が中国・奉天(現在の遼寧省瀋陽)近郊の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破した「柳条湖事件」から18日で90年となる。日本が中国東北部を占領した満州事変の発端となり、現地につくられた「満州国」には新天地での生活を夢見た移民が多数渡った。しかし太平洋戦争の激化を経て、希望は絶望に。当時壮絶な体験をした男性が、平和への思いを語った。 /// 続きは本誌ご参照
歴史を複眼視する重み75
朝日新聞     転載元:朝日新聞(2021年9月18日付社説
9月18日が何の日か、知っていますか。90年前のこの日、中国東北地方の奉天(いまの瀋陽)郊外の柳条湖で、鉄道の線路が爆破される事件が起きた。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特報部:満州事変勃発90年―純真イメージ 友好演出のプロパガンダ 一翼担わされた子どもたち76
飯田樹与(東京新聞)     転載元:東京新聞(2021年9月26日付)
90年前の9月18日、旧日本軍が中国で鉄道爆破事件を自作自演し、満州事変が始まった。半年後には愧儡の「満州国」を樹立させ国際社会から厳しい批判を浴びたが、国民の多くは熱烈に支持した。そんな国内の空気をつくり出す一端を、子どもたちが担わされていたという。子どもと戦争のかかわりを研究する大妻女子大の是沢博昭教授(子ども史)は「純真無垢な子どものイメージを利用したプロパガンダの危うさは、今にも通じる」と警告する。 /// 続きは本誌ご参照
9・18「満州事変」から90年―国会議員の「選良」たちにこそ近現代史教育を78
内田雅敏(弁護士)     転載元:東愛知新聞(2021年9月27日付)
1931年9月18日、中国東北部の奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で日本軍は、謀略によって南満洲鉄道の線路を爆破し、これを中国人の仕業として軍事行動を起こしました。いわゆる満州事変です。翌32年、日本は「五族協和」をうたった満州国を創りました。五族とは、日本、朝鮮、中国、満洲、蒙古の5民族のことです。「五族協和」は建前で、実情は日本の愧儡(かいらい)国家でした。 /// 続きは本誌ご参照
幻の村:哀史・満霞開拓(手塚孝典著)80
瀬川千秋(翻訳家)     転載元:東京新聞(2021年10月2日付)
時がたち風化していく歴史がある一方、歳月を経たからこそ明らかになる歴史もある。本書は1965年生まれの信越放送ディレクターが、長野県内のかつて満州移民だった高齢者を中心に取材を重ね、満蒙開拓の実相に迫ったルポルタージュだ。 /// 続きは本誌ご参照
地下道の7歳 強烈な飢えの記憶―戦争孤児、弟と生きるため盗み殴られ81
清川卓史(朝日新聞編集委員)     転載元:朝日新聞(2021年8月30日付)
終戦後の東京・上野駅地下道で、生きのびるため残飯を拾い、弁当を盗むほかなかった戦争孤児たち。栄養失調で倒れても手を差しのべてくれる人はなく、公的支援も届きませんでした。当時7歳だった女性の証言です。 /// 続きは本誌ご参照
負の記憶 風化させない―朝鮮人虐殺の証言集30年ぶり復刊82
砂上麻子(東京新聞)     転載元:東京新聞(2021年8月31日付)
1923年9月の関東大震災の際に起きた朝鮮人虐殺の記憶を継承するため、東京・下町の有志の手により出版された証言集「風よ鳳仙花の歌をはこべ」が、増補版となって約30年ぶりの復刊を果たした。虐殺の事実を矮小化しようとする論調に危機感を持った市民グループが「正しい歴史を伝える責任がある」と企画した。 /// 続きは本誌ご参照
封印されたビデオ:東京大空襲 体験者の証言―扉1枚 生死を分けた83
井上靖史(東京新聞)     転載元:東京新聞(2021年9月21日付)
一夜にして10万人が亡くなった1945年3月10日の東京大空襲など戦争の記憶を継承しようと、東京都が約300人の体験者の証言を収録したピデオテープが四半世紀公開されず、倉庫で眠っている。貴重な体験を後世に伝えるため、本紙は、ビデオの収録に応じた証言者をできる限り探し出して話を聞いた。六回にわたって紹介する。 /// 続きは本誌ご参照
封印されたビデオ:東京大空襲 体験者の証言―平和継承の思い 応えて84
井上靖史(東京新聞)     転載元:東京新聞(2021年9月21日付)
一夜にして10万人が亡くなった1945年3月10日の東京大空襲など戦争の記憶を継承しようと、東京都が約300人の体験者の証言を収録したピデオテープが四半世紀公開されず、倉庫で眠っている。貴重な体験を後世に伝えるため、本紙は、ビデオの収録に応じた証言者をできる限り探し出して話を聞いた。六回にわたって紹介する。 /// 続きは本誌ご参照
封印されたビデオ:東京大空襲 体験者の証言―家族か吹き飛ばされた85
井上靖史(東京新聞)     転載元:東京新聞(2021年9月22日付)
「家族が吹き飛ばされた」。1945年3月10日の東京大空襲では、「火事場風」と呼ばれる熱を含んだ突風があちこちで吹いた。東京都葛飾区の船渡和代さん(89)は25年前、都の要請に応じてビデオカメラの前で、その恐ろしさをまざまざと語っていた。都が船渡さんに渡したビデオテープを見せてもらった。 /// 続きは本誌ご参照
封印されたビデオ:東京大空襲 体験者の証言―「助けて」の声…逃げた86
井上靖史(東京新聞)     転載元:東京新聞(2021年9月23日付)
惨事の中、とっさにとった行動が悔やまれる。「あの人はどうなったのだろう」。東京都墨田区の甚野年子さん(90)は、76年たった今も脳裏から離れない記憶がある。 /// 続きは本誌ご参照
封印されたビデオ:東京大空襲 体験者の証言―疎開先でも空襲 工場場壊滅87
井上靖史(東京新聞)     転載元:東京新聞(2021年9月24日付)
「中学生のとき、学徒動員され工場で働いた。一歩間違えれば死んでいた。収録に応じたのは、平和がいかに大切かを感じてくれればという思いからだった」 /// 続きは本誌ご参照
封印されたビデオ:東京大空襲 体験者の証言―砲弾の破片 拾いに行った88
井上靖史(東京新聞)     転載元:東京新聞(2021年9月25日付)
「ここまで覚えているかって思うね」東京都豊島区の理容業岡本邦夫さん(86)は、改めて20年以上前に撮影された自らのビデオを見て語った。 /// 続きは本誌ご参照
封印されたビデオ:東京大空襲 体験者の証言―一生残るはずだった89
井上靖史(東京新聞)     転載元:東京新聞(2021年9月26日付)
「祖母は証言が残ると期待して撮影に応じた。多くの人に見てもらわねばならない」。東京都品川区でパソコン教室を開く神尾守さん(49)は、2010に95歳で亡くなった祖母、横谷イセ子さんの証言映像を動画投稿サイト・ユーチューブにアップした。 /// 続きは本誌ご参照
元日本兵墓地 清掃50年―ロシア・ナホトカ祖母と2代のポランティア90
小柳悠志(東京新聞)     転載元:東京新聞(2021年7月5日付)
異郷に眠る元日本兵を、子どもの頃から見詰めてきた。日本海に面したロシア極東ナホトカにシベリア抑留者の墓地があり、1人のロシア人女性がポランティアで清掃に通っている。終戦から76年を迎える今、命の重みを再ぴかみしめながら。 /// 続きは本誌ご参照
台湾の人権問題で闘った日本人たちがいた!91
大類善啓
毎朝、自宅で購読している新聞や事務所で取っている新聞に目を通しているが、詳細に読んでいたら、それこそ時間が取られてしまう。私が畏敬する90歳を超えるTさんは、テレビも見ず、新聞は読まず、ニュースはインターネットでチェックするぐらいだ。それでも社会に対する鋭い発言は衰えを知らず、「大類さん、新聞もテレビもないと、読書がはかどるよ」と言う。確かにそうだろうな、と思いつつ、まだそこまで私は行っていない。まだまだ新聞もテレビも時に頭脳に刺激的なニュースを提供してくれている。 /// 続きは本誌ご参照
台湾の民主化支えた街の日本人94
古谷浩一(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2021年10月18日付)
いまや民主主義のお手本のように言われることもある台湾だが、半世紀前には反体制と見なされた多くの市民が政治犯として捕らわれ、処刑された暗黒の時代があった。非情な独裁政権下、市井の日本人たちがひそかに人権支援をしていた。香港やミャンマ﹈などアジアで自由や人権が脅かされるいま、そうしたかつての日本人の行動が改めて注目されている。 /// 続きは本誌ご参照
知らされざる人権弾圧の歴史―アムネスティ台湾レポート95
大類善啓(ルポライター)     転載元:人類愛善新聞(1977年9月号)
8月の暑い夏の季節を迎えるたびに「ヒロシマ」と「ナガサキ」が人々に思い出され、戦争犠牲者への追憶がほんの束の間、人々の頭をよぎる。 /// 続きは本誌ご参照
対談:元軍国少女が封印した「終戦」―昭和20年夏、満州で起きたことを今こそ語ろう96
澤地久枝×上野千鶴子(構成:篠藤ゆり)     転載元:『婦人公論』(2021年8月24日号)
まもなく8月15日。ノンフィクション作家の澤地久枝さんは、78年前の終戦を満州(現・中国東北部)でむかえた。その後の収容所生活など、引き揚げまでの1年あまりのすさまじい体験は、澤地さんの作家としての原点になっている。社会学者の上野千鶴子さんが、初めて語られる14歳の「終戦」に迫る。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるものとは―「方正友好交流の会」へのお誘い103
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦に続く日本の敗戦は、旧満洲の「開拓団」の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒のなか、飢えと疫病によって多くの人たちがハルピン市郊外の方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人の松田ちゑさんは方正県政府に、「自分たちで埋葬したいので許可してください」とお願いしました。その願いは方正県政府から黒竜江省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、「方正地区日本人公墓」が建立されました。 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記104
大類善啓
会報33号の内容はいかがでしたでしょうか。当初は原稿がいつもより少ないかと心配もしていましたが、締め切りが迫ってくるとどんどん寄稿も増えて頁数も増えました。もちろん、かなりの新聞からの転載もあります。編集している立場から言えば、後から会報を振り返って見れば、「こんな記事があったんだ」と思うこともしばしばあり、新聞の転載は本誌の資料的価値を高めることもあるのだと思ってもいます。 /// 続きは本誌ご参照

  第32号(2021年5月発行) 第32号(2021年5月発行)表紙

この人にしか語りえない喜びと悲しみ―引間政好さんの講演(対談)を聞いて1
滝永登
2020年7月26日、旧満州引き揚げ者の引間政好さんの講演(対談)を聞くという貴重な機会を得た。引間さんは、1941(昭和16)年、日米開戦の年に6歳で満州にわたり、1953(昭和28)年18歳で引き揚げるまで、少年期から青年期にさしかかる12年間を彼の地で過ごしたという。それがどんな時代であったかは、私たちは歴史の教科書で学ぶことはできる。しかし、教科書には決して書かれない一人ひとりのかけがえのない喜びと悲しみは、その人にしか語りえない。 /// 続きは本誌ご参照
とても貴重な会話と記録書でした―「方正へ そして方正を後にして」の引間政好さんの体験を読んで3
柳生じゅん子
この度、『「開拓団員」、引間政好さんの体験を聞く』に、とても胸を打たれました。1ページ目の「引間政好さんのプロフィール」から驚いて赤ペンを引きながら拝読しました。聞き手の大類善啓さんが「今日私がどこまで引間さんのお話を引き出せるか、語って頂けるか……いろいろな体験をお聞きしたいと思います」と始められ、目を引き付けられました。 /// 続きは本誌ご参照
ダリア5
柳生じゅん子
眼底に 炎のかたちして燃えていたもの あれは ダリアの花だったのか /// 続きは本誌ご参照
替え歌―「ラバウル小唄」6
柳生じゅん子
旧満洲からの引き揚げ時 葫蘆(ころ)島に辿り着いた時 一番に船に日の丸の旗がついているのを見つけて 父と母や多くの人達が泣いたという(敗戦後 政府が在外邦人の現地定着方針を決めた為棄民となり一年以上中国に取り残されていたのだ) /// 続きは本誌ご参照
ふたつの苗字8
今村寛明
私には苗字がふたつあります。「今村」と「董」というこのふたつです。「今村」という苗字は私が日本人であることを表す苗字です。日本で生まれて、日本で暮らしている私は当然ながら「今村」と名乗って生活しています。戸籍にも「今村」という苗字で登録されています。しかし、もうひとつの苗字、「董」に関しては滅多に使うことはありません。この苗字は私に中国の血が入っていることを表すからです。 /// 続きは本誌ご参照
国境の街、黒河からの逃避行―中国残留孤児にならなかったボク10
宮岸清衛
75年前(1946)、8月15日の夜、私は葫芦島港(旧満州)のLSTリバティ船の甲板で父と母の3人で空を眺めて、新京(現長春)で死んだ弟妹3人を流れ星に祈っていた。76年前の8月9日。国境の街、黒河(アムール河畔、ソ連と国境)を離脱し北安に逃れ、此処で終戦を迎えて、新京で極寒の冬を生きのびた。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留日本人の孫たちと学んできた「満州」・戦争13
飯島春光
「おい、中国人」「日本語もできないくせに何で日本にいるんだ」「日本人をなめるんじゃねえぞ」「中国人、中国へ帰れ」―2000年4月、長野市篠ノ井西中学校。中国に由来する生徒が大勢いるということ、日本語が不自由な生徒のための日本語指導教室があるということを全く知らずに私は赴任しました。91年に交通事故に遭って5年間の療養生活で社会から隔絶され、さらに生活圏が違ったため、学区内の団地に90年代後半から次々に中国から帰国した人々とその家族が、大勢居住しているということも全く知りませんでした。 /// 続きは本誌ご参照
今、振り返ってみると23
大島満吉
中国に行くと大きな都市には必ずと言ってよいほど戦争(解放)記念館がある。私は長春・瀋陽・ウランホトでの印象が特に強い。ウランホトとは「烏蘭浩特」と書き、内蒙古自治区にある元興安街のことだ。戦争(解放)記念館とは、後世の人々に「忘れまじ」と一つの教育基地として全国展開している施設だ。よって、中国国民は何らかの形で戦争を追体験し、勉強している。 /// 続きは本誌ご参照
王希奇「一九四六」高知展を開催するにあたって29
﨑山ひろみ
中国人歴史画家・王希奇氏が、中国葫蘆島港から引き揚げる多くの日本人を描いた大作「一九四六」を、今年2021年11月28日から12月5日まで高知市で絵画作品展として開催することになりました。2017年東京展の後、石子順氏(漫画、中国映画などの評論家)より「一九四六」の図録(縦30㎝、横2m)が送られてきました。実物の10分の1ということですが、蛇腹に折りたたまれた大きな図録を見て衝撃を受け、なぜ中国の方が、このような日本人引き揚げの絵を描かれたのかと不思議でした。 /// 続きは本誌ご参照
満州の歴史を語り継ぐ高知の会について35
大野正夫(高知大学名誉教授)
筆者は、6歳になる前に奉天より引き揚げた。父親が満鉄に勤めていたので、錦州市の社宅で出生し1945年の終戦を迎えた。錦州駅は交通要所で内戦の激戦地になるとの情報で、奉天の満州社宅に同居・避難して、社宅内で翌年8月末まで過ぎした。満州の生活の記憶は短い年月であったが、私の人生には大きな影響を与えてきたように思う。 /// 続きは本誌ご参照
東日本大震災からの10年間を振り返って37
堀泰雄
被災地を頻繁に訪問するようになった2つの理由2011年3月に東日本大震災が起こってから10年が経った。この間、私は100回以上、東北の被災地を訪問した。何でもないただの老人が、こんなに多く東北を訪問したのには、大きく2つの理由があった。 /// 続きは本誌ご参照
パンデミックの先へ―これからの世界と日中関係にかける私の思い42
木村知義
「なにもかも、とにかく反中、嫌中ばかり、一体日本はどうなっているんだろう。72年の日中国交正常化の頃日本中にあふれた日中友好にかけた熱い感情はどこに消えてしまったのだろうか。尖閣、尖閣と言うが、かつて両国の首脳間で、それぞれに言い分があって言い出せば対立するばかりなので未来の世代に託そうということにしたことを、日本人は忘れてしまったのだろうか…」学生時代からの、すなわち50年来の友人から久しぶりにかかってきた電話でのことだ。「まったくその通りだね」とは返したが、継ぐべき言葉もなく、ただただ、本当にひどい状況になってきたなとお互いに「嘆く」ばかり。日本における「反中国」感情の蔓延は尋常なものではない。 /// 続きは本誌ご参照
『エスペラント―分断を繋ぐHOMARANISMO』(批評社)を上梓して48
大類善啓
2013年5月に発行した「星火方正」16号に「国際主義を超えてHOMARANISMOを!―K・マルクスからL・ザメンホフの人類人主義へ―」という原稿を書いた。「人類人主義」とは、世界共通語エスペラントを創造したザメンホフの思想を表した言葉である。エスペラントではHOMARANISMOと言う。Homaro(ホマーロ)とは人類、ano(アーノ)は一員、それにismo(主義)をつけてHOMARANISMO(ホマラニスモ)、人類人主義とは、国や民族を超えて、「我々は人類の一員である」という思想である。近年、この人類人主義という思想への思いが強かったこともあり、自ら編集している本誌の巻頭にこの原稿を持ってきた。自分で言うのも気が引けるが、拙文は非常に好評だった。「とても感動した」というメールをくれたのは、本号に「この人にしか語りえない喜びと悲しみ」を書いてくれた旧友の滝永登さんだった。滝永さんはプロフィールにあるように、学生時代にエスペラントを学んでいた。 /// 続きは本誌ご参照
冷静さと考える力 養って51
澤地久枝     転載元:朝日新聞(2021年3月31日付朝刊)
私は90歳になりました。新型コロナウイルス感染症のニュースを見ていて、若い人に伝えたいことがあります。日本が第2次世界大戦に負けた1945年8月15日、中国東北部(満州)で女学校の3年生だった私は、学徒動員で陸軍病院で働かされていました。44年から授業はなくなり、1か月間の開拓団への住み込み奉仕など「お国」のために働いていました。 /// 続きは本誌ご参照
共生阻む言葉の壁 中国残留孤児ら 孤立する晩年52
木原育子     転載元:東京新聞(2021年4月4日付朝刊)
中国残留孤児の肉親を捜す本格的調査を1981年に国が初めて四十年。孤児の平均年齢は八十歳近くになった。だが、中国語に対応できる高齢者施設は依然少なく、文化や習慣の違いから孤立して晩年を過ごす人は少なくない。日本で生きるということはどういうことか。「共に生きる」ことの意味を考えた。 /// 続きは本誌ご参照
王林起さんの赤とんぼ54
平井良和     転載元:朝日新聞(2021年1月16日付朝刊)
昨年の年始に国際面で掲載した連載「私は○○人」で紹介した王林起さんが、昨年11月末、肺がんで85年の生涯を閉じた。 /// 続きは本誌ご参照
書評:なかにし礼・著『夜の歌(上・下)』55
丸山至     転載元:日中友好新聞(2021年3月15日付)
なかにし礼は著名な作詞家であり作家。昨年12月に82歳で亡くなりました。『夜の歌』は、ガン治療を行いながら「自分の人生を集大成した自伝的な小説」とあり、幼少期の「満州」からの引き揚げ体験と帰国後の作詞家になってからのことなどが交互に語られます。戦争が終わってからのハルビンでの生活と引き揚げの描写は想像を絶します。 /// 続きは本誌ご参照
書評:フランク・ディケーター・著/中川治子・訳『毛沢東の大飢饉』56
渡辺襄     転載元:日中友好新聞(2021年4月1日付)
本書は、1958年から62年に起きた中国の大飢饉をテーマとするフランク・ディケーターの著書を全訳した文庫本である。役者は中川治子。私が宮城県連合会に事務局員として就職してから、今日もお付き合いの続いている中国残留孤児だったTさんに大飢饉当時の実体験を聞いた記憶がよみがえった。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるものとは―「方正友好交流の会」へのお誘い57
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦に続く日本の敗戦は、旧満洲の「開拓団」の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒のなか、飢えと疫病によって多くの人たちがハルピン市郊外の方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人の松田ちゑさんは方正県政府に、「自分たちで埋葬したいので許可してください」とお願いしました。その願いは方正県政府から黒竜江省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、「方正地区日本人公墓」が建立されました。 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記58
大類善啓
4月10日の土曜日に事務局長の森一彦が原稿をチェックするために事務所に来てくれた。午前中の仕事を終え、昼飯を食べ終えて話した時だ。「大類さん、よくやっていますね」という言葉が彼から出た。文面から見れば、誉め言葉とも言えるかもしれないし、「お疲れさま」とも言えそうだが、もしかしたら、私の疲れた顔を見て、「もうこのあたりでこの会報も終わりにしてもいい時期じゃないですか」とも取れそうだ。 /// 続きは本誌ご参照

  第31号(2020年12月発行) 第31号(2020年12月発行)表紙

「開拓団員」、引間政好さんの体験を聞く―方正へそして方正を後にして…1
引間政好
本稿は2020年7月26日(日)、方正友好交流の会・第16回総会後に行われた「引間さんの体験を聞く」会での記録です。当日司会をした森一彦(本会・事務局長)がテープを起こした記録を基に大類が校正し、また引間さん及び引間さんを方正の会に紹介された新宅久夫さん、引間さんの小学生時代の同級生であり、同じ「開拓民」の一員の高橋章さんらの修正を受けました。文中の注は、各位の意見を取り入れましたが、とりわけ名前を記しませんでした。改めて各位に感謝します。しかしなお、誤りがあるかもしれません。ご指摘をいただければと思います。〔聞き手:大類善啓(方正友好交流の会理事長、本誌編集人)〕 /// 続きは本誌ご参照
「今が最高に幸せだ!」―後日、改めて引間さんに会う17
大類善啓
方正の会の後、引間さんから『我的故郷』(私の故郷の意味)という自分で書かれた小冊子が送られてきた。その後、自宅がある我孫子市の天王台に行き、原稿の確認を含めて補足取材を行ったのでご報告したい。 /// 続きは本誌ご参照
初めての肉声―驚き、怒り、未来への危惧18
星野郁夫
私は、コロナ禍の中で、満洲から帰られた人の肉声を初めて聞いた。7月26日、「方正の会」が企画した「旧満州での体験を聞く会」に参加してのことである。昨年は、丹羽宇一郎さんの貴重なご講演をお聞きした。今年は、満洲から生命からがら逃げ帰った「引間政好」さんの肉声をお聞きし、交流するというものであった。 /// 続きは本誌ご参照
高橋章さんとの出会い21
大類善啓
2020年7月26日(日)の「方正の会」総会と、その後の「引間政好さんの体験を聞く会」には、コロナ禍の中、30人を超える人たちが集まってくれた、その中に、高橋章さんがいらした。初対面である。高橋さんは引間さんとは旧満洲の小学時代の同級生だという。また、金丸千尋さんとも知り合いでもあり、また金丸夫人のキヌ子さんとは小学生時代の同窓生だと自己紹介された。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓団 忘れてはならぬ記憶23
大久保真紀(朝日新聞編集委員)     転載元:朝日新聞(2020年10月13日付)
72年前の夏のことは、いまでもはっきり覚えている。満蒙開拓団として入植した中国東北部(旧満州)で。現地の中国人に襲われ、命からがら逃げ惑った。埼玉県秩父市の高橋章さん(85)は、自分たち開拓団は被害者だが、加害者でもあったことを忘れてはならないと思う。 /// 続きは本誌ご参照
元中川村開拓団の慰霊碑は何故二つあるのか24
高橋章
元中川村開拓団犠牲者の慰霊碑が二つもある訳は、元団長堀口辰三郎氏の個人的な自己弁護にあります。多くの開拓団を犠牲にした自分の行為を隠蔽し、正当化するため、札所十三番「慈眼寺」に二つ目の慰霊塔を建立したのだ。敗戦時に多くの犠牲者を出した原因のすべてを、堀口団長個人の責任に帰するつもりは毛頭ない。だが団長には、団員の生命の安全を守り団員を無事に避難させ、祖国へ連れて帰るという考えが少しもみられなかった。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児「最後の養母」死去28
川瀬大輔(読売新聞・瀋陽)     転載元:読売新聞(2020年11月1日付)
終戦後に中国東北部(旧満州)に取り残された中国残留孤児を育てた養父母が暮らす中国吉林省長春のアパート「中日友好楼」で、最後の養父母だった崔志栄さんが30日、老衰で死去した。98歳だった。戦後75年の今年、戦争の悲劇を知る「生き証人」がまた一人、亡くなった。 /// 続きは本誌ご参照
戦後の中国で、流転8年の私の軌跡29
新宅久夫
今年が敗戦後75年になり、記憶を風化させまいと回顧する事にしました。私は昭和10年(1935年)長春(当時の新京)で生まれ9年間を過ごし、父の都合でハルビンに引っ越し、2年後に日本の敗戦を哈爾浜市(ハルビン市)で迎えました。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓と私33
加藤まり子
私が初めて方正の日本人のお墓について知ったのはたぶん1981年です。当時勤めていた中国専業旅行社の対外連絡室という部署に入った国際電話で、戦後現地で亡くなった開拓団の方のためのお墓について情報が入りました。経営トップは対外連絡室長に「作るための寄付をしてほしいのか墓参団を組織して現地に外貨を落として欲しいのか確認するように」と指示しました。 /// 続きは本誌ご参照
幼少期の錦州・奉天・引揚げと故郷再訪35
大野正夫
私は昭和15(1940)年11月29日、満州・錦州の満鉄(南満州鉄道)社宅で生まれた。父が29歳、母は26歳の時であった。二人の故郷は箱根の麓の小田原である。私の生まれ育ったところを見たく、2009年に中国留学生、高知大学大学院で指導した朱文栄氏と二人で、8月15日、終戦日に錦州を再訪した。終戦日の体験をしたかった。両親から終戦の日は快晴で暑かったと聞かされて育った。私の満州の記憶は、その頃から始まる。5歳になる前であつた。 /// 続きは本誌ご参照
国内各地の「満蒙開拓慰霊碑」の保存を41
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
「満蒙開拓」。戦前・中、旧満州に全国各地から約27万人もの満蒙開拓団(満州開拓団)と称した農業移民等が渡満し、その中から凡そ8万人もの犠牲者を出した悲惨な歴史であり、「被害」と「加害」の混在する歴史でもある。その多くの犠牲を悼むべく、戦後、全国各地に多くの満蒙開拓に関わる慰霊碑、記念碑等が建立された。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓」慰霊碑 都内に点在、地図作成―元高校教員、異郷での悲劇伝え48
栗原俊雄(毎日新聞)     転載元:毎日新聞(2020年6月4日付)
大日本帝国時代、多数の日本人が植民地だった旧満州(現中国東北部)に渡り、敗戦により異郷の地で倒れた。その悲劇を伝える碑が東京都内各地にある。それらを紹介する地図「都内にある『満蒙開拓』慰霊碑」を、元高校教員の竹内良男さん(71)が制作した。 /// 続きは本誌ご参照
「満州」移民関係の2冊の本49
先﨑千尋
最近、旧「満州」移民関係の本を2冊読んだ。齊藤俊江『長野県飯田下伊那の満州移民関係資料目録』(不二出版、2020)と趙彦民『「満州移民」の歴史と記憶』(明石書店、2016)だ。齊藤さんの本は、旧知の元朝日新聞記者・田中洋一さんから毎月メールで届く「歩く見る聞く62」で教えてもらった。趙さんの本は、茨城大学図書館の新購入本のコーナーで見つけ、借りてきた。 /// 続きは本誌ご参照
PTSDの日本兵と家族の交流について54
黒井秋夫
「日本兵のPTSDの存在」を課題に掲げる活動組織は「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」が日本最初で唯一であり、その資料館も「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・子ども図書室」しかないと言う事実がこの問題の困難さ、底深さを物語っています。私の父・黒井慶次郎(1912~1989)は20歳で徴兵され34歳で復員するまで2回従軍しました(1932~1934、1941~1946)。彼は戦争体験含めて、一日中口を開かず、笑顔のない暗い人間でした。復員後の彼は定職を持たず。出身地山形県近在の工事現場の日雇い労働者で暮らしは貧乏でした。家族に降りかかる問題は、いつも妻や私・黒井秋夫より8歳年長の長男(1941~2017)に押し付け、無責任で、私は中学、高校と進むにしたがい「父のような男には絶対なるまい」と思うようなり、尊敬の念を持つことも終生ありませんでした。情愛が通いあう親子関係もありませんでした。 /// 続きは本誌ご参照
戦後75周年『今に想う』出版に際して58
大島満吉
私達の興安街命日会は、旧満州国の興安街の避難民が目的地である葛根廟を目前に、ソ連軍の戦車隊に虐殺され、一割しか生き残れなかった事件の犠牲者を慰霊する団体です。事件は八月十四日午前十一時四十分に起きました。その時刻に合わせて慰霊祭が毎年行われており、六十年をこえる歴史を持っています。場所は目黒区にある天恩山五百羅漢寺を菩提寺としており、毎年三十名前後の集まりでした。それが近年は参加者が増えて五十名を超えるのが普通になりました。事件の生還者が少ない上に、遺族も高齢化して集まりにくい状況なのに参加者が増える数少ない団体なのです。 /// 続きは本誌ご参照
井出孫六先生の御逝去を悼む62
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
去る10月8日、直木賞作家でもある井出孫六先生が御逝去されました。享年89歳、私ども満蒙開拓平和記念館も、また私個人としても大変お世話になっただけに大変残念な思いでいっぱいです。井出先生には当記念館の設立準備会(平成18年8月発足)が立ち上がってしばらくした頃から準備会の名誉顧問になって頂いて以降、大変お世話になり、記念館で発行している「図録」の中にも一文を寄せて頂いています。また「方正友好交流の会」の総会後の記念講演でもお話いただいたこともある等、大変お世話になった先生でもありました。 /// 続きは本誌ご参照
金丸千尋さんを偲ぶ―日中友好文化交流に一生を捧げた人64
新宅久夫
金丸千尋さんは、去る2020年8月14日に惜しまれて逝去されました。1929年生まれ、享年91でした。山梨県に生まれ、1943年旧満鉄奉天の技術員養成所を終了し、1945年満鉄チチハル検車区に配属され、8月に敗戦を迎えました。1946年4月八路軍(解放軍)三師警衛連に入隊後、西満軍区軍工部に転出したが、怪我の為チチハル市人民政府に転属、日本僑民協会の仕事に従事されました。1952年~1958年北京・武漢の行政学院にて学習、1958年日本に帰国しました。 /// 続きは本誌ご参照
金丸千尋―中国・東北との友好に駆けた男65
大類善啓     転載元:「風雪に耐えた『中国の日本人公墓』ハルビン市方正県物語」2003年4月、東洋医学舎刊
互いに信頼し合うこと、そして、何をしてあげたか、何をしてもらったか――考えるだけではなく、行動すること。戦後、解放戦争にも参加した金丸千尋の教訓である。そして中国東北の広野を駆けめぐって日中友好を具現した優しくたくましい男の記録である。 /// 続きは本誌ご参照
中国人の寛大さと慈愛心69
金丸千尋     転載元:『星火方正』5号(2007年12月)
中国で唯一の日本人を祀る「方正地区日本人公墓」が1963年、中国によって建立された。この「公墓」は、『侵略戦争に責任がある一握りの軍国主義者と日本の国民大衆とは別であり、日本国民は戦争の犠牲者である』という中国政府の理念と政策が根底にあったことはいうまでもない。 /// 続きは本誌ご参照
一篇の詩が内包する歴史71
柳生じゅん子
弓田弓子さんの詩集『大連』と出会った時のこと。弓田さんが大連(現在の中華人民共和国大旅市)におられたのは、昭和十四年初夏から昭和二十二年一月まで、その零歳から八歳までの記憶を辿り、作品にしたとあとがきにある。いずれの作品も書かれるべき詩として描かれているが、とくに「南京豆」をあげてみたい。 /// 続きは本誌ご参照
黄砂現象74
柳生じゅん子
窓を閉め切ってとじこもる人がいて かぶさってくる空に苦く顔をしかめる人もいる 黄砂現象の日 風がじわじわと横に這い 景色を薄茶褐色に封鎖し始めると 私の中のざらつく記憶がゆすぶられる /// 続きは本誌ご参照
忘れ去られた、あの日から、75
千秋昌弘
あの日 8月9日 満洲国境越え ソ連軍が攻めてきた /// 続きは本誌ご参照
ゆりっく&るりっく76
渡部通惠
2001年9月11日、はじめてアフガニスタンという国があることを知り、2002年4月25日に「アフガン寺子屋プロジェクトinしまね」を立ち上げました。ある日突然頭の上から、あなたたちはテロリストだから成敗してくれると爆弾が降ってきたのです。何も知らない国民は、いったい何事だと思ったことでしょう。まして、子どもたちは。これまで30年に及ぶ戦争状態(内戦)の中で学校に行けない環境が続いていて、その上でのアメリカからの爆撃です。青空学級で学んでいる子どもたちに、校舎を建設する(形として残るものにする)、募金は1円たりとも建設資金以外には使わないと約束として、私たちは18年間活動しています。活動費は、世話役10人あまりの年会費1万円で賄っております。 /// 続きは本誌ご参照
未完ドキュメンタリー映画『10日間だけの祖国』のこと78
吉川雄作(本会会員)
この写真の女性のことをご記憶であろうか。羽田澄子監督のドキュメンタリー映画、『嗚呼 満蒙開拓団』の中で、「私は日本人……」と訴える場面が強く印象に残る方正在住の徐士蘭さん。この映画を看た元中国大使宮本雄二氏の一言が契機となり、現地コーディネーターとして参加した元本会参与の故奥村正雄氏が招日活動を発案、飯白栄助・是洞三栄子・吉川の自称“四人会”で募金活動を開始。呼びかけに応じて個人150人余、2010年6月方正の自宅で3団体から総額50万円超のカンパが寄せられた。 /// 続きは本誌ご参照
愛新覚羅浩夫人の書簡を紹介―軟禁中のお世話をした山下(甲斐)香都さん79
末広一郎
先ず、本稿をご理解下さるため、甲斐国三郎氏を知って下さい。ご本人による簡単な経歴と自己紹介を。 /// 続きは本誌ご参照
甦らせたい!伊丹万作が遺した言葉86
大類善啓
『愛善世界』という大本(教)信徒の少数派グループが出している月刊誌がある。大本は明治25年、開祖・出口なおという女性が京都府の北部、綾部で神がかりして「お筆先」というものを書き出した。無学文盲の「なお」という、いわば老婆に懸かった《丑寅の金神》が彼女に書かせたのだった。 /// 続きは本誌ご参照
不安が生む分断 繰り返すな―満州のペスト禍記録 85歳が警鐘93
都沙羅(東京新聞)     転載元:東京新聞(2020年10月2日付夕刊)
感染の恐れから特定の人々を差別し、攻撃する―。旧満州(中国東北部)の体験を語り継ぐ「北陸満友会」会長の宮岸清衛さん(85、石川県野々市市)は、満州でペストが流行した際の出来事を記録にまとめている。きっかけは現在の新型コロナウイルスの拡大。当時の日本人が他民族を差別し、集落を焼き払ったことを証言し、「感染不安が人と人を分断した。75年以上たった今も同じことが起きている」と警鐘を鳴らす。 /// 続きは本誌ご参照
戦後75年―群馬と満蒙開拓(1)94
柳沼広幸(朝日新聞)     転載元:朝日新聞群馬県版(2020年8月23~31日付)
本当の地獄 敗戦後だった 襲撃された開拓団 逃避行でも悲劇:前橋→旧満州→長野原 藤川ちゃう子さん(88) /// 続きは本誌ご参照
戦後75年―群馬と満蒙開拓(2)95
柳沼広幸(朝日新聞)     転載元:朝日新聞群馬県版(2020年8月23~31日付)
死線越え帰国 開拓に尽力 召集・捕虜・抑留 波乱の人生:長野原 柴崎三郎さん(94) /// 続きは本誌ご参照
戦後75年―群馬と満蒙開拓(3)96
柳沼広幸(朝日新聞)     転載元:朝日新聞群馬県版(2020年8月23~31日付)
被害者でも 加害者でもある 祖父の体験に学ぶ真の歴史:前橋 小池安好さん(94)、孫の法政大3年・豪樹さん(21) /// 続きは本誌ご参照
戦後75年―群馬と満蒙開拓(4)97
柳沼広幸(朝日新聞)     転載元:朝日新聞群馬県版(2020年8月23~31日付)
谷底目がけ 妹の死体投げた 父の詩残すべき 子らが出版:渋川 故青木覈さん /// 続きは本誌ご参照
戦後75年―群馬と満蒙開拓(5)98
柳沼広幸(朝日新聞)     転載元:朝日新聞群馬県版(2020年8月23~31日付)
満州で離別 弟2人どこに 兄が迎え「残留孤児」免れる:長野原 湯本啓子さん(88) /// 続きは本誌ご参照
戦後75年―群馬と満蒙開拓(6)99
野口拓朗(朝日新聞)     転載元:朝日新聞群馬県版(2020年8月23~31日付)
中国人に預けた妹 心残り 歴史の重み 若者に伝えたい:高崎 飯島治起さん(83) /// 続きは本誌ご参照
戦後75年―群馬と満蒙開拓(7)100
柳沼広幸(朝日新聞)     転載元:朝日新聞群馬県版(2020年8月23~31日付)
中国の家族と 祖国日本へ 親族探せぬまま永住帰国:前橋 原淑江さん(77) /// 続きは本誌ご参照
記憶のなかの「満州」―川本サチさんのふるさと(上・下)101
青野圭(しんぶん赤旗)     転載元:しんぶん赤旗(2020年8月22、24日付)
1924年12月生まれの川本サチさんは今年6月、95歳で永眠しました。戦争の惨禍を体験した世代。お話を伺ったのは92歳の時。何度も「いやねぇ、記憶がはっきりしないわ」とため息をつきました。無理もありません。70年以上も前のことですから。ただ、サチさんが生まれ育った懐かしい故郷は、日本の傀儡国家「満州国(現中国東北部)」だったのです。サチさんの記憶に残る「満州」の暮らしとは―。 /// 続きは本誌ご参照
日中のはざま 残留孤児3代の物語103
大久保真紀(朝日新聞編集委員)     転載元:朝日新聞(2020年11月27日付)
中国残留日本人孤児を祖母にもつ3世が、自叙伝的長編小説「不確かな血」(文景坊出版)を出版した。戦争に翻弄された「おばあちゃん」の人生と、日本で中国という二つの国を背負って生まれた「僕」が抱えてきた葛藤の体験をもとに書かれた。根底にあるのは、歴史を受け継いでいきたいという強い思いだ。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるものとは―「方正友好交流の会」へのお誘い104
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦に続く日本の敗戦は、旧満洲の「開拓団」の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒のなか、飢えと疫病によって多くの人たちがハルピン市郊外の方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人の松田ちゑさんは方正県政府に、「自分たちで埋葬したいので許可してください」とお願いしました。その願いは方正県政府から黒竜江省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、「方正地区日本人公墓」が建立されました。 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記105
大類善啓
まず寄稿していただいた方、また参考資料として関連の新聞記事を送ってくださった方々に感謝いたします。ありがとうございました。最終の原稿チェックには、いつもように森一彦さんを煩わした。寄稿されたご本人も読み直したであろうし、また編集人である私も、原稿を読んでみて誤字脱字はないと思っていても、森さんがまたチェックすると間違いが出てくる。もうこれで間違いはないだろうと思っていても誤字脱字が見つかるかもしれない。また写真を入れるために原稿を短くしていただいたり、締め切りぎりぎりに入稿された原稿があまりに長く、次号に回していただいたのもある。何卒ご寛容のほどお願いします。本号の内容はいかがだろうか。率直なご感想をいただきたい。 /// 続きは本誌ご参照

  第30号(2020年6月発行) 第30号(2020年6月発行)表紙

開館満7周年を迎えて―「コロナ禍」の中で1
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
昨年末から中国・武漢より始まった「新型コロナウィルス」による災禍は年を明けてから日本、そして世界中へと拡大し「パンデミック(世界的大流行)」と化しました。日本国内でも「緊急事態宣言」、「外出自粛要請」等、戦後では初めての異常事態となり、我が満蒙開拓平和記念館も4月初めより臨時休館を余儀なくされ、5月末までの休館延長となっています(6月1日より再開予定)。 /// 続きは本誌ご参照
「日本とドイツの引揚者・帰国者の戦後」シンポジウム報告11
三沢亜紀
2019年10月19日。記念すべきセミナー棟竣工式当日、遠くドイツから引揚げ体験者女性3名をお迎えし、シンポジウム「対話から学ぶ歴史と未来日本とドイツの引揚者・帰国者の戦後」を開催した。この開催経緯と当日の様子について書いてほしいと声をかけていただき、改めて経緯についてさかのぼってみると、シンポジウムのキーマンであった上智大学教授・木村護郎クリストフ先生と方正友好交流の会の大類善啓さんとの出会いに辿りつくのである。お手元にある方は、『星火方正』会報23号2016年12月刊を今一度開いて読み返していただきたい。めぐりめぐって繋がっていく人との出会いから生まれたシンポジウム。まずは開催経緯から辿ってみたい。 /// 続きは本誌ご参照
「満洲国」のエスペランティストたち―「王道楽土」の一断面16
石川尚志
かつて少なからぬ日本人にとって「満洲国」は壮大な「実験国家」、「計画国家」だった。中国東北地方と内モンゴルの悠久な歴史と現に住む諸民族を無視して、白地図を広げると現在の日本の4倍近い広さになる。そこに自由に鉄道網と道路網を広げ都市を描く。鉱物資源と広大な土地があるので豊かな国になるだろう。国には元首と人民が必要だ。好都合なことに、満洲から出た清王朝の最後の皇帝で辛亥革命で倒された溥儀がいる。人民は新たに定義して五族、即ち、満洲、中国、モンゴル、日本、朝鮮の五民族を平等に国民とする(ただし国籍法は制定されず、法的な意味の国民は不在)。行政機構、産業、その他の制度は日本を手本にするが、伝統に縛られ既存権益にまみれた組織は持ち込まない。国造りの標語は「五族協和・王道楽土」だ。このような壮大極まるビジョンに胸を躍らせて「理想国家」建設に邁進した多くの日本人がいた。満洲国は「私の作品」とうそぶいた、今の安倍首相の祖父、岸信介もその一人だった。 /// 続きは本誌ご参照
引揚者となる人たちと歌―そのとき歌い、そのとき聴いた22
藤川琢馬
終戦後、引揚者や抑留帰還者が祖国の地を踏んだとき、彼らの多くにとって、‘焼け跡に流れる’「リンゴの唄」が、まず耳に入ってきたであろう。終戦後2か月も経たない昭和20年10月10日、映画「そよかぜ」が封切られ、21年1月、挿入歌「リンゴの唄」のレコードが発売された。庶民が如何に娯楽に飢えていたかという状況下ではあるが、この歌に対する、内地の人々がまず感じたことは戦後の明るさと解放感であった。ところがこれとは違って私は、違和感、さらには怒りを覚えたというある満洲引揚者の証言に接し、驚いた。引揚者たちの、終戦後引揚げに至るまでの体験は、内地においても多くの人が空襲に遭い、家族と死別し、死と隣り合わせの苦難を経たという体験と、苦難においては同様であっても、それぞれに異質な面があった。両者が遭遇する時間的・空間的な差異のなかの異質な体験は、同一の歌に対して受け止め方を、全く違ったものにしたということを知ったのは、ショックであった。 /// 続きは本誌ご参照
「方正日本人公墓と満蒙開拓団そして日中戦争を勉強する資料」の作成にあたって32
岡邑洋介
「方正日本人公墓と満蒙開拓団そして日中戦争を勉強する資料」というのを作成しました。きっかけは、2018年10月4日から8日まで私の所属する関西紫金草合唱団をはじめ、全国の有志42人でハルビン市を訪問しました。2日目、黒竜江省歌舞劇院音楽庁の大ホールで地元の合唱団と約2時間ほど合唱交流しました。(写真)その様子は当日「42人の反戦人士『紫金草物語』を歌い反戦を誓う」と「ハルビン日報」電子版で数ページにわたり紹介されました。 /// 続きは本誌ご参照
満洲で育った私、夢は方正訪問だ―ぜひ、中国人と対局したい!36
長尾寿
今、日本では、新型コロナウイルスから命と暮らしを護るということで総理大臣談話により突然、日本中の学校が休校となり子どもたちは行き場を失い、親は長い春休みの対応に苦慮しています。そのため低学年の小学生は学校で一時預かりをし、児童クラブ(学童保育)もそのあとの受け入れに大変です。 /// 続きは本誌ご参照
水葬41
柳生じゅん子
毛布にくるんだものが静かに降ろされ 船が汽笛を鳴らした 甲板に並んだ人達が 頭を下げ 敬礼し 手をふって見送った もう一度 長い汽笛が響き渡り あたりを船は旋回した /// 続きは本誌ご参照
本は開げないと燃えない43
柳生じゅん子
風呂を焚こう と父が言った 日本への引揚げが決まった時だった 十歳の少女は それから三日間釜の番をした /// 続きは本誌ご参照
この空は、チベットに続く45
渡辺一枝
子どもの頃から、なぜかチベットに惹かれていた。幼い私は「チベットに行きたいなぁ」と口ずさむことがあり、それであだ名は「チベット」だった。どんな所で、どんな人たちがいるのか何も知らず、ただ、いつか誰かに聞いた「チベット」という響きに憧れていたらしかった。そこに住む人たちのことを初めて知ったのは、中学2年生の時だった。川喜田二郎さんたちが西北ネパールのドルポに入り、植生や動物などの自然環境、また、そこで生きるチベット人の暮らしを調査した報告が新聞に載った。大きな見出しには「鳥葬」の文字があり、私は夢中で記事を読んだ。それまで漠とした憧れだったチベットだが、記事を読んで、そこに生きる人たちの文化や風習にいっそう強く惹かれるようになった。 /// 続きは本誌ご参照
新疆ウイグル自治区での国際協力ご紹介54
小島康誉
2020年正月、札幌から戻ると、「方正友好交流の会」の大類善啓理事長より御心こもった便りが届いていました。数年前に小生が講演した際に出席されて以来、『星火方正』を贈呈いただき、拝読し勉強しています。昨年末にも12月号をお届けいただき、申し訳なく拙著『中国新疆36年国際協力実録』を進呈したことへの礼状でした。 /// 続きは本誌ご参照
武吉次朗氏を偲ぶ59
凌星光
武吉次朗氏が去る4月11日逝去された。訃報に接し私はとっさに、彼から「凌さんの元気が羨ましい」と云われた際の彼の姿が脳裏に浮かんだ。氏はここ数年、体調を崩していたようで、日中関係研究会へは殆ど顔を出さなくなっていたから、多分、2年程前のことではなかったかと思う。武吉氏は1932年生まれで、私より半年年長である。青少年時代を中国で過ごし、26歳の時、帰国された。私は日本生まれの日本育ちで、20歳で祖国へ帰り、定年退職後に日本に戻った。日中両国の架け橋になるという点では、お互いに同じ運命にあったと言える。 /// 続きは本誌ご参照
武吉次朗さんと方正友好交流の会60
大類善啓
武吉さんが亡くなったと、ご夫人と二人の娘さんからの連名でメールをいただき、また一人、冷戦時代の日中関係をよく知る人が消えていくのだと思った。武吉さんには、2006年の方正友好交流の総会後の記念講演会で、日本の敗戦後、中国に残留した経験、いわゆる留用体験、そして新中国建国までの貴重な話をしてほしいと依頼の電話を入れたら、予想もしない辞退の言葉だった。理由は自分の自慢話になってしまうからだと言う。自慢話になっても、今、武吉さんが話さなかったら誰が話せるんですか、と説得して承諾してもらった。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和通信4号(2020年2月)の刊行案内61
方正友好交流の会
この4号をほしい方は、末広一郎さんにご連絡ください。 /// 続きは本誌ご参照
友好訪問―幼年期を過ごした中国は僕のふるさとであり、創作の原点62
ちばてつや(漫画家)/取材・小金澤真理     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2020年1月1日)
実在しているかのようなリアルなキャラクターが時代を超え愛され続けているちばてつや氏の作品。多くの人の心に響く漫画の創作には、幼年期の引き揚げ体験とそれに基づく家族の絆、民族を超えた友人たちとの交流が息づいていた。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留婦人 貴重な語り 藤沼敏子さんが証言集出版64
中里宏(東京新聞)     転載元:東京新聞(2019年12月22日付朝刊)
第二次世界大戦の終戦時、旧満州(中国東北部)で生死の境をさまよった中国残留孤児や残留婦人。これまで帰国者ら二百人近くのインタビューを続けてきた埼玉県川越市の元短大講師藤沼敏子さん(66)が、証言集を出版した。本人たちの語りを、ほぼそのまま記し、貴重な口述の歴史資料となっている。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州の戦争孤児描いた人生65
野呂法夫(東京新聞)     転載元:東京新聞(2020年1月11日付)
終戦後、旧満州(現・中国東北部)で命を落とした戦争孤児たちの悲惨な記録を書き続けた神奈川県小田原市の元小学校教師、増田昭一さん(91)の人生を、教え子がまとめた本「大地の伝言」(夢工房刊)が発行された。 /// 続きは本誌ご参照
東京大空襲75年 ずさん「防空実験」の実相66
石井紀代実、大野孝志(東京新聞)     転載元:東京新聞(2020年3月3日付)
一夜で約10万人が亡くなった米軍の「東京大空襲」から10日で75年。原爆にも匹敵する犠牲者を出した理由の一つに、無差別爆撃を甘く見た日本側の対応がある。典型例が、軍などが全国各地で焼夷弾の消火方法を実演した「防空実験」のずさんさだ。合理性を軽視し精神論でごまかす体質によって、銃後の老人や女性、子どもが亡くなった。民衆の命は、どのように軽んじられたのか。 /// 続きは本誌ご参照
新・20世紀遺跡[72]―満蒙開拓青少年義勇軍訓練所跡(上・下)68
栗原敏雄(毎日新聞)     転載元:毎日新聞(2020年2月27日付)
「蒙開拓青少年義勇軍」の内原訓練所跡(水戸市内原町)近くには「渡満道路」という桜並木がある。訓練所を巣立つ若者たちが植民地・旧満州(現中国東北部)に渡るべく、最寄りの内原駅に向かうために歩いた道だ。陽光の下、貴社がここをたどりながら思い出したのは、画家・宮崎静夫さん(1927~2015年)のことだった。熊本県小国町の農家に生まれた。下城国民学校高等科では級長を務めた。そのころ国策として旧満州への移民が進められていた。41年秋。クラスの担任教師が、生徒たちに義勇軍への参加を勧めるようになった。「先生はクラス全員に呼びかけているのですが、自分を見つめている気がしました」。宮崎さんは生前、記者のインタビューにそう話した。「五族協和」「王道楽土」という満州建国のスローガンを信じてもいた。 /// 続きは本誌ご参照
元復員兵の心の傷 語ろう70
青島顕(毎日新聞)     転載元:毎日新聞(2020年5月10日付)
第二次大戦の元復員兵が負った心の傷について、遺族として伝える活動をしている武蔵村山市中藤3の黒井秋夫さん(71)が10日、自宅前に体験を語り合う「交流館」を開設する。「ごく普通に平和を話せる場にしたい」と話している。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるものとは―「方正友好交流の会」へのお誘い71
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦に続く日本の敗戦は、旧満洲の「開拓団」の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒のなか、飢えと疫病によって多くの人たちがハルピン市郊外の方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人の松田ちゑさんは方正県政府に、「自分たちで埋葬したいので許可してください」とお願いしました。その願いは方正県政府から黒竜江省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、「方正地区日本人公墓」が建立されました。 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記72
大類善啓
コロナ感染危機が進行し、「緊急事態宣言」「外出自粛」なる言葉が飛び交い、本会の事務局がある日中科学技術文化センターもテレワークという名の在宅勤務が基本的な体制になった4月5月の状況下で考えると、編集作業はともかく、会報を発送する作業は難しいと判断せざるを得なかった。発送作業にはいつも10人近くの仲間が集まってくれるが、このような感染危機状況にある中、集まってほしいとは言えない。ともかく千部近い会報を封筒に入れ糊をつけてメール便のシートを張る作業は、それぐらいの人数がいないとはかどらない。その発送作業と、6月7日に予定していた総会と講演会は、まず人が集まってくれないだろうと、3月時点で思った。 /// 続きは本誌ご参照

  第29号(2019年12月発行) 第29号(2019年12月発行)表紙

日本国家の棄民体質を問う―中国残留孤児問題とフィリピン残留日本人問題に携わって思う1
河合弘之
私は1944年4月18日に満州の新京で生まれました。1946年に家族全員で帰国する際、年子の弟は引き揚げ船の中で飢え死にをしています。日本に着くとすぐに病院に連れて行かれ、「この子もあと1日遅れていたら亡くなっていましたね」と医者に言われたそうです。そういうことがあり、中国残留孤児のことはずっと気になっていました。今から30数年前に一人の女性が、日本に帰ってきたが実は父親と名乗り出た人は赤の他人で、危うく強制送還かという報道を読んで、「そんな馬鹿な話があるか、私が戸籍を取るからやらせてくれ」と支援を申し出て、就籍という手続で戸籍を取ったのが私の中国残留孤児支援の第1号の話です。それ以後、中国残留孤児の国籍取得の仕事を本業の傍ら30年以上続けています。その数は約1250人になりました。 /// 続きは本誌ご参照
『日本人の忘れもの フィリピンと中国の残留邦人』の映画監督として6
小原浩靖
終戦75年目の2020年初夏に劇場公開される「日本人の忘れもの フィリピンと中国の残留邦人」で脚本・監督を務めた小原浩靖と申します。この映画は、中国残留孤児の身元未判明者の国籍取得を支援してきた河合弘之弁護士がプロデュースしたドキュメンタリーです。私が河合弁護士から中国とフィリピン、この2つの国の残留者問題をテーマとした1本の作品を作れないか?との依頼を受けたのは2018年の初めなので、2年の制作期間を費やした作品となりました。河合弁護士がフィリピン残留日本人の国籍取得を手がけ始めたのは、2002年が終わる頃。ちょうど中国残留孤児のみなさんが国家賠償訴訟を起こした時期と重なります。フィリピンの問題は、今もほとんど知られていない残留者問題であり、日本政府からの具体的な支援が未だもって講ぜられていない戦後未処理問題です。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓と日中関係10
丹羽宇一郎
《解説》本講演は今年、2019年6月9日(日)、第15回方正友好交流の会総会後の記念講演の採録である。丹羽さんのプロフィールについては冒頭、司会をした森一彦が紹介しているのでここでは省略する。丹羽さんについては、中国大使に就任後すぐに『星火方正』を北京の日本大使館に送ったところ、一か月ほど経った頃だったか、北京から返事をいただいた。大使という大変忙しい業務をぬって返事をいただいたことに驚くとともに感激した。またとても律儀な方だと思った。便箋に書かれた手紙には、我々の会へのねぎらいの言葉と、中国の東北へ行ったら必ず方正公墓に参拝しますと書かれてあった。その言葉通り、厳しい状況にあった日中関係の中での公墓参拝だったのである。(大類善啓) /// 続きは本誌ご参照
一殺多生―その身を命にかえて:「黒川開拓団」にみる女性たちの悲劇21
エィミ ツジモト
2018年初頭、わたくしは、独自の宗教観を信条に、希望に胸を膨らませて満州に入植した開拓団の敗戦後の悲惨な道行を描いたルポルタージュを上梓した。完成まで相当の歳月を要したが、調査・取材の過程で、敗戦後の満蒙開拓団におけるおぞましい実態、特に女性たちのおかれた劣悪な環境が次々と浮き彫りになって、驚愕した。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館「セミナー棟」完成の報告と御礼26
寺沢秀文
日頃は当誌読者の皆様方を始め多くの皆様方より満蒙開拓平和記念館への心温まるご支援、励まし等頂いておりますことに対し厚く御礼申し上げます。さて、この度、当記念館としても開館以来の念願であった新たな「セミナー棟」が完成いたしました。セミナー棟の実現に向けて尊い浄財をお寄せ頂いた皆様を始めご支援、ご協力、ご尽力頂きました全ての皆様方に厚く御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙の歴史忘れず平和の種まきに 記念館にセミナー棟竣工29
二神花帆(中日新聞)     転載元:中日新聞(2019年10月20日付朝刊)
満蒙開拓の歴史を伝える満蒙開拓平和記念館(阿智村)の新館セミナー棟竣工式が十九日、同所で開かれた。同館でガイドを務める松川高校ポランティア部の生徒らも参加。新たな平和教育の拠点として歩みを進めていくことを再確認した。 /// 続きは本誌ご参照
胡暁慧名誉会⻑一行来日30
大類善啓
ハルピン市日本人残留孤児養父母連絡会名誉会長の胡暁慧名誉会長を団長とする訪日団が来日し、2019年10月10日、方正友好交流の会と日中科学技術文化センターへの表敬訪問があり、大類と社団顧問の凌星光が応対した。一行の来日に関しては、日中の草の根交流の推進のため当社団が招聘状を発行した。胡さんら一行には、黒竜江出版集団・副総経理で黒竜江省出版協会会長の丁一平女史、また徐士蘭さんの孫、また未認定の残留孤児、白凱躍氏らも参加された。一行はその後、中国帰国者・日中友好の会の理事長・池田澄江さんらを訪問して帰国した。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児 養父屈の思いは―育てた記憶を証言 若者が撮影31
平井良和(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2019年8月27日付朝刊)
終戦の混乱期に旧満州(現在の中国東北部)で肉親と別れ、孤児となった日本人を引き取った養父母たちの思いを、電子記録や動画に残して後世に伝える取り組みが中国・黒竜江省で進められている。戦後74年が経ち、関係者の高齢化が進む中、若い世代が記憶をつなぐ役割を担おうとしている。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児養父母の愛―子育ての記憶 証言をサイトに32
東慶一郎(読売新聞)     転載元:読売新聞(2019年9月1日付朝刊)
中国黒竜江省の出版社が、「中国養父母記憶館」と題するホームページの制作を進めている。終戦後に満州(現中国東北部)などに取り残された中国残留孤児を育てた養父母のインタビューを動画などで紹介するものだ。戦後74年がたち、当事者の話を聞ける機会が少なくなる中、編集者たちは「可能な限り取材を続け、責重な証言を残したい」との思いで取り組んでいる。 /// 続きは本誌ご参照
中国黒竜江省方正県の「中日友好園林」の紹介33
石金楷
「中日友好園林」は中国における唯一の国際的園林である。その園林は「北方の華僑の故郷」と呼ばれる方正県にある。園林の南は風景が綺麗な砲台山にあり、北は川の水が奔流している松花江にある。中国の国内だけでなく、海外でも著名な旅行の観光地である。「中日友好園林」の前身は「方正地区日本人公墓」であり、敬愛なる周恩来総理の許可によって1963年につくられたものである。日中国交正常化の後、特に1980年代以降、日本の「水稲栽培の王」とも呼ばれる藤原長作先生が黒竜江省科学委員会の要請で方正県に行って寒冷地での稲作技術を伝達した。これは日本政府と民間団体が方正県との友好往来の歴史の始まりとなった。そのあと、日本政府と民間から20個以上の団体が方正県へ友好訪問し、旅行観光や墓参りをした。 /// 続きは本誌ご参照
『満州に渡った朝鮮人たち』を読んで35
李香花
今年6月に行われた李光平写真展をきっかけに、『「満洲」に渡った朝鮮人たち」写真でたどる記憶と痕跡』を手にすることができた。そこには、小さい頃目にしたことある風景が沢山載せられていた。最も印象的だったのが伝統文化の写真だった。小さい頃、正月やお祝いことがあると家族全員が民族衣装(チマチョゴリ)を着て楽器(チャンダン)を鳴らしながら歌を唄い、踊りながらお祝いをしていた。親戚の多くは、今は中国国内の各地、日本、韓国、オーストラリア、アメリカで生活しており、親戚皆が集まるのが難しく、残念に思う。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州の朝鮮人 苦難の足跡―移民2世が記録集を発刊36
安藤恭子(読売新聞)     転載元:東京新聞(2019年6月25日付朝刊)
戦時中、朝鮮半島から1日満州(中国東北部)に渡った中国籍朝鮮族の人々約600人にインタビューした移民2世の李免卑さん(74)=写真=が、その研究を写真と文でつづる記録集を、日本で刊行した。故郷を追われた朝鮮人の苦難の背景には、植民地支配をした日本の集団移民政策がある。李さんは「二度と悲劇が起こらないよう、知られざる事実をありのまま伝え、日中朝の人々の努力で平和につなげたい」と願う。 /// 続きは本誌ご参照
雲南にある日本軍兵士の墓37
古島琴子
雲南省南西部の騰冲(騰衝)に「倭塚」という墓がある。太平洋戦争末期、日本軍は戦死者の遺体を遺棄したまま敗走し、遺体は中國側の手で葬られた。写真(次頁の1)の「倭塚」は激戦地の一つであった謄沖にある中國軍戦死者墓苑の一隅に建てられ、「2万余の日本軍の眠る処」と説明されている。1942年5月、日本軍は中国遠征軍を追ってビルマ(現ミャンマー)から雲南に侵攻した。中国軍はサルウィン河上流の怒江にかかる橋を落として日本軍の侵攻を止めたが、怒江以西の地域は以来2年8ヶ月にわたって日本軍の占領下に置かれた。 /// 続きは本誌ご参照
舞鶴港39
柳生じゅん子
吹雪の車窓に舞鶴港が近づいてきた 目をこらすと 旧満州から引き揚げてきた私達家族がいる /// 続きは本誌ご参照
母の夕陽40
柳生じゅん子
どうしてあんなに大きく朱かったのかしら 満洲の夕陽は。地平線に燃え落ちていく火の玉を見ていると ここは日本なんかじゃないと つくづく思った。嘘の固まりだったものが ドロドロと溶けて とっくに家の入口まで流れて来ていたのに 私は気がつかなかったのね。 /// 続きは本誌ご参照
日本敗戦後の方正での生活を振り返って42
中島茂
1945年12月収容所から、中国人「隋」家に救われ新年を迎えました。それは2番目の姉(千世子)が隋家の兄弟4人の内2番目の人と結婚することで、中国人家庭に入りました。当時私の家族は、母と姉二人と弟の5人でした。隋家は、方正県庁のある街の中に家がありまして、家族総勢7人居たので合わせて12人が一つの屋根の下で一冬過ごしたのです。あまり狭いので翌年母が付近の豆腐屋を営む一人の中国人と再婚することになって、私と弟を連れて隋家を出て暮らすことになりました。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓を訪ねて45
堀内博史
ハルビンの東に位置する方正というところに日本人の墓があることを知ったのは、北京に仕事で駐在していた2018年初頭の頃でした。きっかけはたまたま買った「地球の歩き方大連 瀋陽 ハルビン2019~2020」の346頁に「満蒙開拓団の痕跡を訪ねて」というコラムを見つけたことでした。私はまもなく2018年4月に帰任しましたが、いつかは方正を訪問し日本人のお墓に行きたいと思っていました。そして2019年6月ついに友人と2人で方正を訪ねることができましたが、その際には方正友好交流協会の大類様には大変お世話になりました。また方正では大変印象深いことがありましたので、直近の方正情報提供のためにも訪問に関する出来事を寄稿させていただくことにいたしました。 /// 続きは本誌ご参照
ノモンハンへの旅47
野田尚道
毎年、8月になるとテレビで過去の戦争に関する番組が放送され、お盆の時期と重なることもあり、なかなか直接見ることが出来ないので録画をして後から見るようにしている。昨年8月にNHKスペシャルで『ノモンハン 責任なき戦い』の放送があり、同様に録画をして、お盆過ぎに見た。関東軍の暴走によって無益な戦争が引き起こされ多くの戦死者を出したと記憶をしていたところ、今年になって、昨年縁があった旅行社から第六回戦争を語り継ぐ特別企画「ノモンハン戦跡・内モンゴルと北京ー歴史に触れる旅ー」の案内が届いた。 /// 続きは本誌ご参照
日中友好協会福岡連合会「東北三省をめぐる平和の旅」50
後藤富和
日中友好協会福岡県連合会は2019年9月14日から6日間、「東北三省をめぐる平和の旅」に取り組みました。参加した川添緋砂子さん(83歳)は、市を流れる大河「松花江」の岸辺に立ち、今は亡き養父母に「会いに来たよ」とお孫さんとともに線香を捧げました。哈爾濱市は川添緋砂子さんが幼少期を過ごした街。郵便局員の父は、佐賀県唐津市北波多町から転勤で旧満州の市に、そこで川添さんが生まれます。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙の地「方正」のうた56
千秋昌弘
第二次世界大戦では、8000万人余の人が亡くなりました。ホロコーストで570万人、中国人約2000万人、日本人約300万人、満洲で戦争中亡くなった日本人は24万5千人にものぼり、これは広島・長崎21万人、沖縄戦19万人、東京大空襲97000人を大きく凌ぐ、非常に多くの犠牲者となりました。開拓団の総ては、日本政府に捨てられ、満州国政府に捨てられ、関東軍に捨てられてきました。そのことは何故か今日まで日本政府も国連も世界世論も取り上げず今日に至っています。しかし非業の死を遂げた事実は、消すことのできない冷酷な事実であります。 /// 続きは本誌ご参照
極寒の地に果てた開拓団の人々64
丸山勝子     転載元:朝日新聞(2019年6月15日付)
子供の頃、旧満州(中国東北部)の撫順駅の近くに住んでいた。敗戦から間もないある日、線路上を延々と、長蛇の列をなして歩いてくる人たちを見た。道程の長さ、悲惨さは明らかだった。髪はぼさぼさ、顔も手足も泥だらけ。着衣はぼろぼろで、腰にむしろを巻きつけただけの人もいる。満蒙開拓団の人たちだった。 /// 続きは本誌ご参照
週刊うたごえ―中国の日本人墓地の歴史65
千秋昌弘     転載元:うたごえ新聞(2019年10月21日付)
合唱構成「紫金草物語」(大門高子:詞、大西進:作曲、山下和子・張勇:編曲)を持って何度も中国公演を行ってきた大阪・男声合唱団昴団長千秋昌弘さん。昨年、日中交流ツアーで訪れた「方正」で戦前の満蒙開拓団の犠牲者が眠る日本人墓地を知る。この事実を伝えようと「満蒙の地『方正』のうた」を作り、歌い広めている。歌の背景、千秋さんから。 /// 続きは本誌ご参照
『日中未来遺産』を上梓して―藤原長作氏の「記憶」を日中の未来に向けた「遺産」に66
岡田実
『星火方正』25号に、拙文「「平和の時代のベチューイン」藤原長作と「旅日僑郷」方正県を訪ねて」を掲載していただいたのは2017年12月であった。翌2018年12月、中国は「改革開放」40周年を迎えた。中国はこの40年間、世界第二の経済大国へと急速な発展を遂げたが、その初期、“草の根”で黙々と汗を流し、農村の発展を支えた日本人たちがいたことは、日中双方の国民にあまり知られていない。 /// 続きは本誌ご参照
創作書簡集『11通の手紙』を上梓して69
及川淳子
「日本政府の公式見解を聞きたいのではなく、日中間の歴史問題について君自身がどう考えているかを知りたいんだ」。彼はゆっくりと言葉を選びながら、まっすぐに私の目を見てそう言った。低い声がよく響き、特徴のある話し方で、穏やかに諭すようだった。それは、2005年晩秋の北京で作家の劉暁波を訪ねた時のことだ。1989年の天安門事件に深く関わり、幾度も逮捕されながら、海外亡命という道を選ばずに中国に留まって執筆活動を続けている理由が知りたかった。徹底した非暴力を貫いて、天安門広場でハンガーストライキを決行したことや、武力衝突を回避すべく戒厳部隊と学生たちとの間で交渉役を担った経験談などを期待したが、それよりもまず先に、私が日本人と知って冒頭の問いかけとなったのだ。 /// 続きは本誌ご参照
『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』(津成書院)を上梓して71
藤沼敏子
この本は、私のホームページ『アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言』http://kikokusya.wixsite.com/kikokusya から生まれたものです。中国残留孤児・残留婦人等とその支援者、関係者の方々の協力を得て、2000年7月から2019年8月まで、200人前後の方にインタビューをさせていただきました。その中の中国残留婦人等(「中国残留邦人支援法」対象者。男性、サハリン残留邦人も含まれる。終戦時13歳以上だった方々)34人のインタビューをまとめたものです。 /// 続きは本誌ご参照
『忘れえぬ人たち―「残留婦人」との出会いから』(日本僑報社)を上梓して77
神田さち子
目の前に葉書とFAX一枚を置いてこの稿の執筆に取りかかります。それは私の新著「忘れえぬ人たち」(日本僑報社)に対して山田洋次映画監督からのコメント2葉なのです。“過去の歴史を無かったことにしよう、もう忘れて未来指向で行こう、という今の国にあって、とても大切な御本だと思います“、“「もう何も日本に言いたいことはありません」という、痩せ細った小さい体の残留婦人が言われた言葉を、ぼくは中国引揚者の一人として重く受け止める―神田さち子さんが生涯をかけた作品“。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児二世の移住と定着に関する博士論文を書き終えて79
張龍龍
2013年に残留孤児とその家族研究を始めてから7年経った。その研究の旅を振り返ると、2013年4月に、筆者は中国を離れ、下関市立大学大学院修士課程に推薦入学した。入学後まもなく、北九州市のスーパーで、ある残留孤児と出会った。その時、はじめて「残留孤児」という人びとの存在を知った。「残留孤児」とは、ほとんどの中国人にとって馴染みのない言葉だった。日本と中国の社会を生きてきた残留孤児の生活史を記録したい、という単純な思いを抱き、その翌日、この考えを指導教員に伝えた。「修士論文のテーマとして取り組んでみたら」と指導教員に励まされ、そこから、残留孤児研究がスタートした。 /// 続きは本誌ご参照
戦争体験の継承82
聞き手・青木美希、伊藤恵里奈     転載元:朝日新聞(2019年8月8日付朝刊)
証言発掘近現代史に迫る(羽田澄子さん)、「今と地続き」伝え方腐心(吉田裕さん) /// 続きは本誌ご参照
満州 奪われたピアノ83
読売新聞     転載元:読売新聞(2019年8月9日付朝刊)
世界的なジャズピアニスト秋吉敏子さん(89)=米国在住=が、戦時中の旧満州(現中国東北部)での生活や、引き揚げの苦労を語った証言映像が今月、完成した。当時10歳代だった秋吉さんの生活を一変させ、後の人生に大きな影響を与えた戦争体験。「若い世代に知ってもらいたい」と、平和祈念展示資料館(東京)のインタビューに応じた。9月から同館で上映される。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州から引き揚げ 迫るソ連兵 「自決しか」84
福浦未乃理(東京新聞横浜支局)     転載元:東京新聞(2019年8月12日付朝刊)
「満州はわかる?」―小谷洋子さん(86)=横浜市港南区=が、模造紙に描いた自作の旧満州(現中国東北部)の地図を広げた。一歳の時に家族で満州に渡り、敗戦から約一年後の一九四六(昭和二十一)年十月、十三歳で日本に引き揚げてきた小谷さん。当時の歴史はある程度知ってはいるものの、実際に話を聞くのは初めての私を見て、ひと呼吸置いて語り始めた。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓団「死の谷」伝える―中国・方正の郷土史家 終戦直後、数百人犠牲の地85
東慶一郎(読売新聞)     転載元:読売新聞(2019年8月12日付朝刊)
中国東北部の黒竜江省方正で1945年8月の終戦直後、当時のソ連軍から逃れようとした日本の満蒙開拓団の数百人規模が渡河に失敗し、命を落とした。地元の郷士史研究家らは、民間人が犠牲になった戦争の残酷さを示す史実として伝えていくべきだと訴えている。 /// 続きは本誌ご参照
澤地久枝さんに聞く―国に捨てられた 敗戦時の苦難が原点86
佐藤直子(東京新聞)
東京・永田町の国会議事堂前に毎月三日、「アベ政治を許さない」と書かれたポスターを掲げる人の群れが現れる。安倍晋三首相に退陣を突きつけるデモだ。先頭に立つのはノンフィクション作家の澤地久枝さん(88)。シュプレヒコールもない。組織もない。一人ひとりの意志だけに支えられた行動は四年を超えた。猛暑の夏も体の限界に挑むように澤地さんは路上に立った。戦後七十四年。日本を見つめてきた作家は、何を思うのか。 /// 続きは本誌ご参照
友好訪問:なりたかった自分へ、今からでも遅くない―NPO法人「ほんにかえるプロジェクト」発起人・汪楠さん 受刑者の更生のために本を活かす88
吉井忍(フリーランスライター)     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2019年8月1日)
日中国交正常化の1972年、吉林省長春市に生まれた。母はバスガイド、父は地元の病院の副院長も勤めた外科医。教育熱心な家庭で、父は毎朝家の壁に掛けた黒板に「お題」を書き、その日のうちに詩を作るよう息子に指導した。小学校でも成績は常にトップだったが、親の離婚で一変した。父はのちに残留孤児の日本人女性と再婚、その父に誘い出されて86年、姉とともに神戸行きの船に乗った。 /// 続きは本誌ご参照
開拓民も日本軍国主義の犠牲者89
丸井健太郎     転載元:週刊金曜日(2019年11月1日付)
映画『山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日』を見た。教師・山本慈昭(内藤剛志)は、阿智郷開拓団として、妻・千尋(渡辺梓)と2人の娘を伴い、教え子である国民学校の生徒を引率し、満州(中国東北部)北哈嗎へ赴く。1945年5月のこと。校庭で児意たちは、宮城(皇居)に向かって、遥拝。歌声は明るく響く。 /// 続きは本誌ご参照
ひと:初のエスペラント訳『蟹工船』を出版―堀泰雄さん(77)89
清水博(しんぶん赤旗)     転載元:しんぶん赤旗(2019年6月20日付)
「ヘイ!ニ・イラース・アル・ラ・インフェーロ」―日本語原文の冒頭のせりふ「おい、地獄さ行(え)ぐんだで!」と、調子がよく合っています。 /// 続きは本誌ご参照
Kial mi ekis porti jupon?(エスペラント原文原稿:なぜ私はスカートをはくようになったのか?)90
ブリアーノ ルッセル
私はよく人から、スコットランド人かと聞かれます。なぜでしょう? 私は男ですが、よくスカートをはいているからです。ご存知のようにスコットランドの男たちは、キルトという男性用スカートをはいています。子どものころ私は、異性装者やドラァグクイーン、つまりスカートをはく男性をおかしい人だと思っていました。それ故、自分自身がスカートをはこうと決めたなんて、変なことだろうと実際思ってしまいます。そこで、私がなぜスカートをはくようになったのか、その理由についてお話しましょう。 /// 続きは本誌ご参照
ブリアーノさんとの出会いと彼の原稿について92
大類善啓
この原稿を送ってくれたブリアーノ・ルッセルさんに出会ったのは、この夏(2019年)、スペインのカタロニアの州都、バルセロナで開催されたエスペラントSAT世界大会である。SAT(サートゥと言う)はSen Nacieca Tutamondo(世界無民族協会)の略称であり、国家や民族を無くそうとするエスペランティストの、いわば少数派の世界組織である。エスペラントの最大の世界的な組織はUEA(ウエア)と言って、毎年夏に開催する世界大会には1000人以上、時には2000人近いエスペランティストが参加する。もちろんベテランのエスペランティストの友人に聞けば、半分以上が初心者であり、観光を兼ねて参加する人も多いとのことである。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い94
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記95
大類善啓
今号も多くの方々からの寄稿があり、なかなか充実した誌面になっているのではないかと思っている。寄稿された方々には改めて感謝します。今秋は、中国からの視察団ラッシュの応対で私も、本会事務局がある日中科学技術文化センターでの本業!?の仕事が忙しく、編集業務も慌ただしかったが、ともかく発行することができてほっとしている。 /// 続きは本誌ご参照

  第28号(2019年5月発行) 第28号(2019年5月発行)表紙

丸山邦雄氏らの功績についての再評価1
寺沢秀文
『星火方正』の第27号(昨年12月発行)に掲載された加藤聖文先生の『誰が満洲引揚を実現したのか』と題した論説について、またそこでも触れられている丸山邦雄氏らの功績について、私なりの私見を述べさせて頂きたいと思います。 /// 続きは本誌ご参照
ポール邦昭丸山氏よりのお手紙13
寺沢秀文
これは『星火方正』前号に掲載の加藤聖文先生の論説のコピーをアメリカ・コロラド在住のポール邦昭丸山氏にお送りしたところ、その後にメール添付で寺沢宛て送ってこられた丸山さんよりのお手紙です。今回、丸山さんご自身からも『星火方正』への原稿寄稿を予定していましたが、丸山さんにおかれては今年3月に肩の手術をされたために約2ヶ月にわたりパソコン操作が出来なくなっておられます。丸山さんご本人ともご相談の結果、以前に寺沢宛てお送り頂いていたこのお手紙をその原稿に代えて掲載して欲しいとのご要望であったところから、ここに掲載させて頂きます。 /// 続きは本誌ご参照
性暴力被害の記憶を受け継ぐ17
上野千鶴子
このところ、満蒙開拓団の引揚げ問題にのめりこんでいる。わけても引揚げ時の女性の性暴力経験に、強い関心を持っている。それというのもこの2年間ばかり、上野千鶴子・蘭信三・平井和子編『戦争と性暴力の比較史へ向けて』[上野・蘭・平井2018]という編著を出すのに、並々でないエネルギーを割いてきたからなのだが、この中には、若い研究者による戦時性暴力研究の成果がいくつも収録されている。注目を集めた「慰安婦」問題ばかりではない。満洲引揚げ時の女性の性暴力経験を論じた猪股祐介「語り出した性暴力被害者---満洲引揚者の犠牲者言説を読み解く」、フィリピンの現地女性強姦事件をめぐるBC級裁判記録を分析した岡田泰平「日本軍『慰安婦』制度と性暴力」、敗戦後のパンパンの生存戦略を論じた茶園敏美「セックスというコンタクトゾーン―日本占領の経験から」など、これまで論じられてこなかったテーマが扱われている。 /// 続きは本誌ご参照
視線23
柳生じゅん子
「満洲に転勤しなさい 空襲はないだろうから」 大伯父の言葉に追いたてられ 船で大連に上陸したとき 母が一番先に見つけたのは キャラメル /// 続きは本誌ご参照
母の帽子24
柳生じゅん子
「あんた どこから帰ったの?」って両方で駆け寄ったのよ。女学校の時の同級生と街でばったり会ってね。一目見て満洲から引き揚げてきたとわかった。お互いに毛糸で編んだ帽子を被っていたからよ。ソ連軍が参戦したときに女の人たちは坊主頭にして夜は屋根裏に潜ったりしたのよ。女って悲しいと思う悲劇は言い尽くせないほどあったわ。敗戦後もソ連兵は長くいたし髪を短く切ることは外地で女の人が身を守る痛ましい術だったのね。だから襟足のところを隠すような独特の帽子だったの。お互いに引き揚げてまだ一ヵ月だった。 /// 続きは本誌ご参照
私の引揚げ体験と『星火方正』など27
戸田和歌
田井光枝さん。先日は一年ぶりに再会できましてとても嬉しゅうございました。早速ですがお渡ししました「わんりぃ」の過去の資料につきまして一寸説明させていただきます。私の友人で生長の家関係の人がおります。今回、大類善啓氏が書かれた”わんりい”の234号と235号の記事*を読みましてふとこの友人を思い出しました。彼女は京都出身で、お父様が元大本(教)の信者でいらっしゃられたこと、生長の家の創始者の谷口雅春と一緒に当時活動をされていたと彼女が述べておられました。そこでこの”わんりい”の記事を渡しましたところ彼女に大変喜ばれました。それからさらに彼女が生長の家の方々などにこのコピーで伝え、皆様が生長の家の歴史の一端を大類先生の御文章により当時を垣間見ることが出来たのではと察しています。 /// 続きは本誌ご参照
田井光枝さんとの出会いと戸田和歌さんの手紙32
大類善啓
2016年の初めだったか、日中文化交流市民サークル誌「わんりぃ」の編集発行人だった田井光枝さんから,「なにかエスペラントについて書いてください」と言われた。当初は2、3回のつもりだったが、「興に乗ればもう少し書くかもしれません」と田井さんにお話したところ、「大いに結構、ずっと書いてください」と言われ、国家や民族を超えて、「我々は人類の一員だ」というエスペラントの創始者、ザメンホフの人類人主義という考えなどについて2016年3月号から書き始め、結果的には「日本エスペランティスト列伝」のような形になって2年半ほど28回に亘り連載し、日本のユニークなエスペランティストたちを紹介してきた。 /// 続きは本誌ご参照
生かされた生命―—天津の日本租界での生活を思い出しつつ33
水沼安美
昨年(2018年)の8月、東京新聞に、「語り継ぐ」のタイトルで原稿募集があり、書いて送り採用され掲載されましたがその文は短く、また、ある単語は削除されました。その削除された単語も入れて、戦争中のことを思い出しながら今回、もう少し長くして新たに書いてこのようにまとめてみました。 /// 続きは本誌ご参照
「日本人」はどうやってつくられたか、そして、どこに向かうべきか35
高井弘之
昨2018年は、「明治150年」ということで、「近代日本国家150年」が政府によって礼賛された。そして、それは、いま、その「代替わり」を迎え、メディアを中心にその大讃美が行われている天皇制の150年でもあった。 /// 続きは本誌ご参照
なぜ中国は気前よくベトナムと北朝鮮に領土を譲与したか?―毛沢東、周恩来らの国際主義精神を見る42
凌星光
南シナ海のベトナム領「白竜尾島」はもと「夜鶯島」と言い、淡水のあるかなり広い中国領土であった。しかし、それは1957年に中国から譲与されベトナム領となった。この島は北緯20°01’、東経107°42’に位置し、全島長さ3キロメートル、最も広い幅は1.5キロ、面積は2.5平方キロで、かなり大きな島である。トンキン湾の中心から少しベトナムよりにある島である。1955年時点では、住民は64世帯249人(男127人、女122人)が居住し、すべてが漢民族で漁民としてアワビの生産に従事していた。二つの村があって、大きい方は「浮水洲村」、小さい方は「公司村」と呼び、広東省海南行政区儋県に属していた。 /// 続きは本誌ご参照
法政大学経済学部同窓会建立「平和記念碑」―どう守り、どう伝えるか 学徒出陣を体験した世代が後輩に残すメッセージ45
加藤毅
東京の町田市と八王子市が接する丘陵地帯の一角に、法政大学の広大なキャンパスがある。現在四つの学部、図書館、ホール、各種のグランドや体育館などを備えるが、緑深い樹々に覆われていて、市街地にあって校舎群が密集する市ヶ谷キャンパスとは全く趣きの異なる“多摩キャンパス”である。 /// 続きは本誌ご参照
記憶を記録に―哈爾浜の思い出52
長尾寿
ご縁あって方正友好交流の会に入会させて頂くことになりました。私は9歳の時、葫蘆島から米軍のLSTで佐世保へ上陸した引き揚げ者です。葫蘆島では帰国船を待つ間、収容所周辺を遊び回っていましたが、「あっつ、ヘビだ!」と恐怖の叫び声を発した一瞬、大人達がやってきてへびを捕獲するやいなや、皮を頭から下へ剥がし焼いたのです。「ぼんも食べ!」と見つけたお礼にもらい美昧しく食べたのです。後にも先にもヘビを食べたのはこの一度だけで白い身だったのが印象的です。LSTは戦車を運ぶ軍用船で、私たちは戦車代わりに船倉に詰められ船のエンジン音が響いていました。しかし、船上の甲板では子どもの相撲大会が催されるなど退屈しのぎの余興もあり船内を歩き回っていました。そんな中、母国への上陸を目前にしながら船中で死去された方の遺体を海中に沈め船は汽笛を鳴らしながら回旋する船葬の悲しい出来事もありました。 /// 続きは本誌ご参照
生きるために闘ってきた人生54
中島茂
泰阜村左京 6歳の時父は三信鉄道の線路工夫でしたが、大勢の家族を抱えて生活が近難だった。住んでいた家も同じ部落で母の実家の兄さんから借りていたもの。その叔父さんも満州に行くことになっていて、誘われるように一緒に渡満したのです。敦賀港から朝鮮の新津に着き(確かでないかも)、そこから汽車に乗って満州の華川県大八浪開拓団に入植しました。9月頃でしたがトラックの荷物の上に載って家のある部落に着きましたが、もう寒かったと思います。翌年の4月に開拓団本部の近くにあった小学校に入学し、家から遠い処だったので寄宿舎に入って学校に通いました。 /// 続きは本誌ご参照
ハルピン市と方正県との間に高速鉄道が開通!59
石金諧
ハルピン市と方正県との距離は僅か180キロメートル。昔から両地の間には列車のレールが施設されずにきましたので、ハルピン市から方正へ行くには、高速道路入口への市内移動も含めると、3時間以上を要しました。ところが、2018年9月30日に、ハルピン市と佳木斯市との間に、高速鉄道が正式に開通したのです。これにより、ハルピン市から方正県までは、僅か70分程度で行けるようになりました。 /// 続きは本誌ご参照
牡丹江、ハルビン 鎮魂・平和の旅60
藤後博巳
この随想は、神戸の友人が敗戦直後、旧満州で亡くされたお父さんを偲んで、ご親戚の方も含めて当地を旅する際の参考資料と、私の自己紹介の意味で中国での稀有な体験を知って頂けたらという思いがありました。中国で加害と被害を同時に立たされた私としては、あの忌まわしい戦争の事実を、後代に語り継いでいかなければという自責の念に駆られて、友への手紙という形で記述しました。 /// 続きは本誌ご参照
宝塚市の高碕記念館を見学して70
長澤保
今年は中華人民共和国70周年の節目。日中戦争が勃発して敗戦、82年の時が流れた。日ソ中立条約が破棄をされ、1945年6月9日、ソ連軍はソ満国境を各所から侵攻し、北満に移住しておられた日本人の農業開拓者は、襲撃されて逃避行・集団自決の惨禍に遭遇された。ソ連兵たちは乱暴狼藉を働き、略奪婦女暴行の限りを尽くしたことは史実として知られている。武装解除された日本兵がシベリアへ抑留され、極寒の地で労働させられた体験者とも複数の方々と出会った。私の家族も父が満鉄社員で撫順炭鉱に勤務しており、小学校3年生だった(東公園国民学校)。妹と四人家族で、日本人住宅街に居住していた。 /// 続きは本誌ご参照
この人:日露戦争 捕虜収容所の映画で主演 ロデオン・ガリュチェンコさん(31)72
平松倫(東京新聞)     転載元:東京新聞(2019年4月13日付朝刊)
日露戦争(1904~05年)の際、国内初のロシア人捕虜収容所が松山市に開設され、一流国入りを目指す日本は捕虜を厚遇した。この史実を基に作られ、3月から各地で順次公開中の日ロ合作映画「ソローキンの見た桜」で、負傷して収容された将校を演じた。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館を訪れて73
横井幸夫
私が長野県下伊那郡阿智村にある満蒙開拓平和記念館(以下、記念館)について知ったきっかけは2つある。1つ目。2016年11月17日に天皇・皇后両陛下が記念館を訪れた。私はこのことを新聞で読み知った。ただし訪問に関してのテレビ、全国紙の報道は大きくは無かった。小さな扱いの報道だったといえるだろう。この訪問について寺沢秀文館長は自らのブログ・テラサワ日誌の同年12月26日の記事にこう書いている。 /// 続きは本誌ご参照
林口ヘ行ってきました76
野中酉夫
2017年1月17日、あるテレビ局の番組「世界の村で発見!こんなところに日本人」で、中国黒竜江省の林口という町で暮らす、席静波さんという日本人が紹介された。席さんは中国東北部(旧満州)に入植していた開拓団で暮らしていたが、3歳の頃第2次世界大戦末期の混乱で家族と離別してしまい、天涯孤独になってしまった。その後4人の中国人養父母に育てられながら、74歳になる今日まで中国で生きてきたという経歴の持ち主である。 /// 続きは本誌ご参照
「大地の子」も知らなかった私が、方正地区日本人公墓を訪ねるまで79
大澤大介
中国残留日本人については特別な思い入れは無かった。終戦後の混乱のため中国に取り残された日本人が多くいたこと、そんな身寄りのない日本人を引き取って育ててくれた中国人がいたということ、そういう事実を何となく知っていたに過ぎない。ただ漠然と不思議に思っていたのは、中国人は侵略してきた日本人が憎くなかったのだろうか。そのような疑問を抱きつつも、努めて解明しようとは思わなかった。そんな私が中国残留日本人の問題に関心を抱くきっかけになったのは、会社の業務で残留体験孤児へのインタビューを行ったことだった。 /// 続きは本誌ご参照
合唱を通して中国の人々との草の根の文化交流83
小渕章
私は紫金草合唱団として2001年3月最初の南京公演に参加して以来、これまで紫金草合唱団としては2回、台湾公演を含めると3回、再生の大地合唱団としては3回の中国公演に参加してきました。公演で訪問した地域は、南京、瀋陽、撫順、北京、泰州でした。そこでは、中国の多くの市民の皆さんに南京事件の加害を扱った合唱朗読構成「紫金草物語-不忘歴史・面向未来」(作詞・構成;大門高子、作曲;大西進)、平頂山事件の加害を扱った「再生の大地-撫順戦犯管理所-」(作詞・構成;大門高子、作曲;安藤由布樹)の合唱を通して、歴史の事実を見つめ平和と中国の人々への友好の思いを届け、行った先々で中国の市民合唱団や学生の合唱団の方々との交流をしてきました。帰国してからは、その都度、まだまだ知られていない歴史の事実と私達の取り組みや体験をより多くの方に知っていただこうと現地で撮った写真など入れて文章化し、私の所属する山の会や地域で9条の会などの平和憲法を守る市民運動をしている方に配布してきました。 /// 続きは本誌ご参照
台北からの引揚87
秋吉任子     転載元:あれから七十三年 十五人の戦後引揚体験記 旧滿洲七話、朝鮮半島七話、台湾一話(図書出版のぶ工房/堀田広治監修)からの転載】
終戦当時、私たち一家八人は、台湾台北州台北市に住んでいた。父が、台北一中の英語教師として赴任したのは、昭和十三(1938)年三月のことである。その一ヵ月ほど前に、父母は三人の幼い息子(六歳、四歳、二歳)と昭和十二年十二月に生まれたばかりの長女の私をつれ、福岡県糸島郡前原町(当時)から台北市に移り住んだ。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州に残され74歳の帰国―残留孤児の認定 得られぬまま91
平井良和(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2018年12月8日付夕刊)
旧満州で生まれ、終戦後の混乱期に日本人から現地の養父母に預けられて中国残留日本人孤児の認定を求め続けてきた74歳の女性が、「故郷」と思い定める日本へ移り住むことを決めた。日本にもう肉親はおらず、中国には家族や友人に囲まれた穏やかな暮らしがある。それでも、最後は故郷で過ごしたいと、9日に「祖国」へ渡る。 /// 続きは本誌ご参照
日本人と認めてほしい―中国残留孤児の女性 74年ぶりの帰国92
    転載元:日本友好新聞(2019年3月15日付)
日本人でありながら、日本人と認められていない中国残留孤児の女性がいます。彼女の名前は郜鳳琴さん。縁あって、昨年8月に熊本県に住む日中友好協会会員の残留日本人孤児・庄山絋宇さん(80歳)と結婚し、年末に日本へ帰国。郜鳳琴さんに激動の半生を伺いました。 /// 続きは本誌ご参照
歩いて越えた38度線―朝鮮・鎮南浦から引き揚げ、家族の記録を出版93
遠藤みえ子     転載元:日本経済新聞(2019年3月15日付朝刊)
北朝鮮の首都平壌の南西。大同江が黄海に注ぐ河口付近に広がる南浦市は、日本統治時代に鎮南浦と呼ばれ、釜山、仁川に次いで大きな港町だった。私たち一家は(応召の父を除いて)1945年8月の終戦を鎮南浦で迎え、翌年10月に母の郷里である岡山県倉敷市に引き揚げてきた。 /// 続きは本誌ご参照
ソ満国境 少年が見た死線―終戦後の逃避行と捕虜生活、手記もとに映画化進行中94
田原和夫
敗戦から70年近い今も決して忘れない。異国での約300キロにわたる敵からの逃避行。そして捕虜となり、餓死寸前の体で明日をも知れぬ命におびえた日々のことを。15歳、中学3年生だった。 /// 続きは本誌ご参照
魯迅 日本人青年との友情―地下生活や上海事変を共にした文豪と画家の卵95
横地剛     転載元:日本経済新聞(2018年12月28日付朝刊)
玄界灘に突き出した糸島半島(福岡県糸島市)にはかつて、近代中国文学の父である作家・魯迅が自ら碑銘を記した墓が立っていた。「鎌田誠一墓」と彫られた墓石は西海のかなた、中国・上海を向いていた。 /// 続きは本誌ご参照
友好訪問:科学技術文化の全分野で日中交流をさらに展開させたい―使命感を胸に創立40年の社団のかじを取る96
巨東英(一般社団法人日中科学技術文化センター理事長、埼玉工業大学副学長)     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2018年10月1日)
大学の副学長を務める傍ら、昨年6月に凌星光氏(福井県立大学名誉教授)の後任として、まもなく創立40周年を迎える(一社)日中科学技術文化センターの理事長に推挙された。 /// 続きは本誌ご参照
この人に聞きたい:第2回長年語れなかった体験―すがる人を蹴落として生き延びた東京大空襲97
半藤一利(作家)     転載元:しんぶん赤旗日曜版(2019年2月3日付)
〈半藤さんの歴史探究の根っこにあるのは戦争体験です〉正直に言いますと、私はある時期まで東京大空襲で死ぬ思いをしたということを黙っていました。文芸春秋に入ってからも、40歳を過ぎるころまで黙っていたので、ほとんどの人は私の空襲体験を知りませんでした。 /// 続きは本誌ご参照
憲法の心、再発見―映画『誰がために憲法はある』 松元ヒロの一人芝居が基に “憲法くん”役 俳優・渡辺美佐子さん98
板倉三枝(しんぶん赤旗)     転載元:しんぶん赤旗日曜版(2019年4月21日付)
日本国憲法を人間にみたてた一人芝居「憲法くん」。これを基に映画「誰がために憲法はある」(監督・井上淳一)が誕生しました。「憲法くん」を演じるのは、86歳の名優・渡辺美佐子さん。作品に込めた思いを聞きました。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い99
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍案内を兼ねた編集後記100
大類善啓
元号を巡ってのこの間のメディアの報道ぶりを見ていると、もういい加減にせんかい、と言いたくなるほどの狂騒ぶりである。友人知人の何人からは、このような風潮を憂えるメールなどを受け取り、同じように感じている仲間は確かにいるのだと改めて思った。 /// 続きは本誌ご参照

  第27号(2018年12月発行) 第27号(2018年12月発行)表紙

誰が漬洲引揚を実現させたのか?1
加藤聖文
2018年3月末にNHKで「どこにもない国」というドラマが2夜にわたって放映された。引揚体験者から見るといろいろと意見もあるだろうが、ドラマとしてはよく出来た内容で、放送文化基金賞奨励賞を受賞した。私も時代考証を担当したが、今回ほど史実とフィクションの境目の表現の大変さを実感したことはなかった。 /// 続きは本誌ご参照
満州移民や中国人強制連行について留学生にどう教えるか?―法政大学国際文化学部のSJ国内研修について9
高栁俊男
私が勤めている法政大学国際文化学部では2012年度以降、留学生を主対象に、夏休みに8日間程度の国内研修を実施している。SJ(StudyJapan)国内研修と呼ばれ、研修地は長野県南部の飯田・下伊那地方。ここは1930年代後半から1945年にかけて、満蒙開拓団や満蒙開拓青少年義勇軍として大陸に渡った人の比率が、全国的にみてきわめて高い地域である。 /// 続きは本誌ご参照
国家と宗教について―天理教と旧満州との関わりについて思う19
エィミ ツジモト
今春、「満州天理村—生琉里(ふるさと)の記憶」を出版した。半世紀近くも前に入院した先の病室で、「天理村」と言う言葉とその存在を、ふと耳にした。それは、かつて日本の傀儡国家「満州国」が実在した北満州に、開拓団として入植した天理教教団の教徒が開拓した独自の村のことであった。以来、宗教社会学の視点から「満州天理村」の研究に打ち込む中で出会った天理教信者たちが抱く、その理不尽さに対する心奥の声を長い時を経てようやく世に訴えることができ、安堵しているところである。 /// 続きは本誌ご参照
怒り憎しみと報復の連鎖を断ち切って―「日中平和友好条約」40周年にあたり、撫順と方正に平和と友好の歴史を再認識する22
姫田光義
《解説》本講演は今年、2018年6月10日(日)第14回方正友好交流の会総会後の記念講演の採録である。姫田光義さんについてのプロフィールは、本稿の最終頁に姫田さんの自己紹介が出ているので、お読みいただきたい。姫田さんに最初にお目にかかったのはいつだったか。ある会合後の二次会でお会いし、方正日本人公墓についてご意見をお聞きしたところ、「中国の仁愛思想の表われと言えるだろう」という言葉に、意を強くしたことを覚えている。中国の「文化大革命」については、当時の意識的な学生などの若者たちは大いに共感したものだった。私も1968年以降はその一人であり、今でも「精神労働と肉体労働の統一」とか知識偏重に対する批判や「造反有理」などの思想は、「パリ五月革命」に対する共感と共に、今でも熱い気持ちが心の底に横たわっているように感じる。そういう時代状況の中、姫田さんが中国近現代史研究家として実に冷静な眼で当時の中国の政治状況を観察していたということに驚くとともに畏敬の念を持っている。さて、講演は「この道」(北原白秋作詞、山田耕筰作曲の童謡)の替え歌を姫田さんが歌うところから始まった。(大類) /// 続きは本誌ご参照
対立・侵略・追放・和解―ドイツ・ポーランド関係史から考える東アジアの隣国関係(下)38
木村護郎クリストフ
ドイツとポーランドは、戦後どのように関係を築いていったのでしょうか。東ドイツ(ドイツ民主共和国)の場合は、政府レベルでは同じ社会主義国としてポーランドと少なくとも表面的には友好関係を結ぶのですが、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)では、西の隣国フランスをはじめ西側との関係修復を優先しており、ポーランドとの関係では、1945年から20年間は目立った動きはなかったといえるでしょう。 /// 続きは本誌ご参照
民間交流を通じて、友好的な末来を促進しよう!―ハルビン市日本人残留孤児養父母連絡会訪日交流記49
胡暁慧(ハルビン市日本人残留孤児養父母連絡会名誉会長)
2018年4月30日から5月9日、ハルビン市日本人残留孤児養父母連絡会名誉会長の胡暁慧は、中国に残っている日本人残留孤児と2世の代表5人とともに、日本側の招待に応じて七つの都市と九つの民間団体、15人の残留孤児のもとを訪ねた。今回の訪日では、多くの友好的な人々の熱心な助力と、日本の一般社団法人日中科学技術文化センター及び方正友好交流の会の保証によってスムーズにビザを取得することができた。また曹洞宗東岸寺の野田尚道法師から資金援助を受け、明治大学の鐘家新博士が通訳を引き受け、早稲田大学の中国人留学生劉聡が残留孤児をインタビューするなかで撮影を担当してくれ、我々の訪日を無事に終えることができた。 /// 続きは本誌ご参照
旧「満州」史跡・名所をたどる平和の旅に参加して53
野田尚道
2018年7月16日~23日、縁あって戦争を語り継ぐ特別企画の旅に参加した。成田から仁川経由で、大連・旅順・丹東、長春、ハルビン・方正、瀋陽と過去に日本が五族協和の王道楽土建設の美名の下に侵略した戦跡を辿る旅は、「戦争」というものが悲惨という言葉だけでは片付けられない、如何に人間を狂わせ、必然的に南京大虐殺に繋がっていく歴史を辿る旅でもあった。 /// 続きは本誌ご参照
去る5月に中国残留孤児足跡展開催57
中島幼八(『この生あるは』、『何有此生』著者)
白山丸で舞鶴に帰還して60年にあたり、2018年5月4~7日の連休期間において、思い切って自分の体験に基づく個展を開催した。あいだの5日に「1958年における強制連行の劉連仁と残留孤児の中島幼八」の題で記念講演会(今井雅巳岐阜大学講師)を開いた。世田谷区の後援を得て、区の施設に置きチラシと、街の掲示板へのポスター掲示で宣伝を行った。そのこともあって、区内からの来場者や若い方が目立った。主催者として展示内容の構成や展示物の準備に力をさいた結果、非常に充実していると評価が高かった。 /// 続きは本誌ご参照
「花がすき 歌がすき 平和がすき」日中友好を願って加害を歌う60
大門高子(紫金草合唱団・再生の大地合唱団)
私は、昭和20年生まれの終戦っ子記憶のない戦争体験者です。終戦の一月前、生まれて10日目に宇都宮空襲の火の中、母親に抱かれて二荒山神社防空壕に逃げて生き延びたと兄から何度か聞かされたものです。10数年ほど前、その防空壕に兄と姉、新聞記者の人や戦跡保存の会の人と一緒に中に入ることができました。庭の持ち主によると戦後始めて入るだろうとのことでした。にぎやかな街中にひっそりと残っていた防空壕の入り口は、小屋で隠れていて低かったものの、中は思ったより広く不思議な空間でした。40人ほど中に入ったそうでしたが、すぐ近くの防空壕や街中ではたくさんの人が焼け死んだとのことでした。 /// 続きは本誌ご参照
ありがとう飯白さん、ご苦労さまでした飯白さん―悲報、飯白栄助さんを偲ぶ68
大島満吉
関東地方は観測史上初めてという6月29日梅雨明け宣言があった。ところが、7月4日頃から降り続く大雨が九州、四国、中国地方に大洪水をもたらし、120人を超す死者を出す大惨事が起きた。常々、異常気象が心配されていたが、世界中に今まで例のないと言われる酷暑、寒冷、洪水、地震、山火事、噴火、津波、ハリケーン等のニュースが飛び交う昨今である。 /// 続きは本誌ご参照
中国等残留孤児・婦人の帰国と生活支援・教育支援―公の記録のない1967~1974年の帰国者支援70
宮武正明
私が方正友好交流の会を知ったのは、2015年石金楷さんが日本人孤児の奥さん(2歳の時残留孤児になる)と帰国したことからである。私の友人は、2014年に富士旅行社の「中国東北部を訪ねるツアー」に参加して、方正において残留日本人孤児・婦人の組織化に取り組んできた石さんと交流した。友人は、福祉事務所の所長として2008年からの新支援策に関わっていた。石さん夫妻は2015年に日本に帰国し、6か月間の所沢定住センターを経て、江戸川区の都営住宅に入居し、友人に帰国を伝えてきた。2016年私は友人に便乗して石さん夫妻の都営住宅を訪ね、石さんの話の中で、交流の会があることと会報『星火方正』を初めて知った。石さん夫妻の都営住宅は、この報告にでてくる小松川第二中学校夜間中学にも近く、私が福祉事務所ケースワーカーとして担当した懐かしい都営住宅であった。 /// 続きは本誌ご参照
大陸科学院国立奉天獣疫研究所の想い出81
掛谷敏男
星火方正、大類善啓様、貴会に入会させて頂きました。掛谷敏男で掛谷敏男ございます。私は現在、広島県福山市内在住です。小学校卒業後、昭和17年2月満蒙開拓青年義勇隊内原訓練所に入所、四月に満洲国青年義勇隊勃利訓練所に入所、18年6月、満洲国大陸科学院、国立奉天獣疫研究所、義勇隊特殊訓練所入所、2ヶ年の訓練を卒業、昭和20年6月、満洲国黒河省璦琿県義勇隊、団山開拓団現隊に復帰、副獣医師として勤務中、八月に敗戦となった。余儀なく開拓団を離れて戦闘に参加。シベリアに連行され、捕虜となってシベリアギヴダー収容所に抑留されました。約2ヶ年の在ソ後、舞鶴港に引き揚げ相成りました。奉天獣疫研究所がすばらしい成果を収めたので、想い出の一端を2ヶ年ではありましたが、貴重な訓練と実績などに就いて愚筆申し上げたいと存じます。 /// 続きは本誌ご参照
「奉天獣疫研究所」 掛谷敏男(補足)90
末広一郎
「奉天獣疫研究所(奉獣研)」に関する掛谷敏男さんの執筆を拝見して、より「奉獣研」の内容を深めて頂きたいのと、掛谷さん本人のことについて、補足説明を加えます。お互い満蒙開拓青年義勇隊員であります。広島県でもそうであるように、義勇隊員の慰霊祭を恒例の護国神社で毎年3月第2日曜日と定め催行されております。広島県選出の義勇隊員各中隊の生存者、遺族の方が顔を合わせ、護国神社に集合しておりました。その関係で、掛谷さんを始め、多くの拓友とも挨拶程度の交流はありました。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓、その存在の意味とは93
大類善啓     転載元:中帰連(2018年10月・63号)
季刊「中帰連」は、「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」が発行している。この会の前身が「中国帰還者連絡会」である。中国での戦争犯罪容疑で、日本軍人をはじめ、1000人ほどの人たちがシベリア抑留を経て1950年、主に撫順戦犯管理所に抑留された。戦犯の中には愛新覚羅溥儀もいた。 /// 続きは本誌ご参照
「ニューヨーク・タイムズ」に方正日本人公墓の記事掲載99
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
あるいはご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、今年5月18日付けの「ニューヨーク・タイムズ(THENEWYORKTIMES)」紙の4面において、旧満州での唯一の日本人公墓である「方正日本人公墓」のことなどについてのかなり大きな記事掲載がありました。私がこのことを知ったのは、満蒙開拓平和記念館にも来館されたことのある九州在住の建築関係のお仕事の方が中国出張の際に乗った飛行機の機内紙として手にした「ニューヨーク・タイムズ」の中にこの記事掲載があるのを見つけ、すぐに私に送ってきてくれたからでした。その記事を手にして大変驚きました。しかし私は全く英語はダメなので、厚かましいながら、アメリカ在住のポール邦昭丸山さん(言うまでもなくドラマ『どこにもない国』の原作者の方です)にお願いして邦訳して頂きました。大変有り難いことです。また当記念館職員の島崎友美さん(東京外語大大学院英文科卒)にも見て頂き、これをまとめると概ね以下の通りの内容でした。一部は当方の意訳、補足等も含みますのでご了承下さい。 /// 続きは本誌ご参照
Japanese ties bring wealth and hatred104
Karoline KAN     転載元:THE NEW YORK TIMES(2018年5月18日付)
At the end of a narrow road inFangzheng, a remote town in northeasternChina, next to a hushed forest ofbirch and pine trees, stands the Jockediron gate of the Sino-Japanese FriendshipGarden. /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館「セミナー棟」増築について(ご支援のお願い)105
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
まずは当満蒙開拓平和記念館に対して「方正友好交流の会」ご関係の皆様方等始め多くの皆様方よりの多大なるご支援、ご理解を賜っておりますことに厚く御礼を申し上げます。当記念館は多くの皆様方等のご支援を受けて平成25年4月に開館、お陰様を持ちまして今年4月で開館満5年となりました。この間、全国各地から年間3万人前後の皆さんが来館され、開館以来の現在までの来館者数は155,249人となっています(11月26日現在)。これまでのご支援等、本当にありがとうございます。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓苦難の歴史―夢見た農民の戦中戦後 長野県の資料館から伝える107
寺沢秀文     転載元:日本経済新聞(2018年8月6日付)
1945年8月9日未明、ソ連軍は突如国境を越えて満州(中国東北部)に進軍、日本軍が「後退」して無防備な開拓団の村を次々と襲った。女性や子供、老人は逃げ惑い、集団自決に追い込まれた開拓団もあった。 /// 続きは本誌ご参照
『大八浪開拓団写真集』発刊さる!108
方正友好交流の会
長野県泰阜村が分村として旧満州に「大八浪開拓団」を送り出したが、その記録写真が(B5判)がこの10月発刊された。写真集の構成は、第1章が入植~戦後、第2章が訪中、第3章が引揚者大会、第4章が一時帰国、第5章が永住~帰国となっている。 /// 続きは本誌ご参照
日中の未来へ 憎しみ絶つ―81年前の通州事件 肉親殺された姉妹「平和でなければ」109
大久保真紀(朝日新聞編集委員)     転載元:朝日新聞(2018年7月23日付)
81年前の7月29日、中国・北京近くの小都市・通州で、日本人と朝鮮人の居留民200人以上が中国人部隊の保安隊に殺害された。「通州事件」は当時、日本国内の反中感情をあおり、軍部への支持を決定づけたと言われる。いまも「中国人による残虐行為」として右派に言及されるが、肉親を亡くした姉妹は「憎しみをあおり立てるのは意味がない」と語る。 /// 続きは本誌ご参照
戦後73年・20台記者が受け継ぐ戦争:満州敗走 母子救えず―「罪ない市民犠牲 おかしい」 元関東軍歩兵 稲川寅男さん(94)110
大島宏一郎(東京新聞整理部)     転載元:東京新聞(2018年8月11日付)
「円匙でタコツボを掘ってね。ここが自分の死に場所になると思ったよ」。東京都江戸川区の稲川寅男さん(94)の自宅を訪れた私は、聞き慣れない言葉に少し戸惑った。入社四年目で初めてとなる戦争体験の取材。スコップ(円匙)で縦穴(タコツボ)を掘り、ソ連軍との戦闘を迎えた七十三年前の夏の体験に、じっと耳を傾けた。 /// 続きは本誌ご参照
平成の天皇 戦争と平和[4]:硫黄島慰霊 悲劇に光―満蒙開拓民にも思い111
読売新聞     転載元:読売新聞(2018年8月12日付)
「水がなくて大変苦労されたようですね」。天皇、皇后両陛下は1994年2月、硫黄島の戦記「何も語らなかった青春」の著者、多田実さん(2006年死去)を御所に招き、島での体験談に耳を傾けられた。硫黄島は45年2月、米軍の上陸が始まり、約2万人が玉砕した。負傷して本土に戻っていて命を救われた多田さんは、元学徒兵や遺族ら約450人の協力を得て、壮絶な戦いの真実を伝える本を93年に出版した。 /// 続きは本誌ご参照
記者の目:満蒙開拓団の実態調査公文書―保存と公開 国の責任112
佐藤良一(毎日新聞米沢通信部)     転載元:毎日新聞(2018年9月28日付)
日本が1932~45年、旧満州(現中国東北部)に農業移民として送り込んだ推計約27万人の「満蒙開拓団」について、戦後に都道府県が実施した全国実態調査の資料が、14道府県で廃棄されるか所在不明となっている実情が、毎日新聞の全国アンケートで明らかになった。資料は団長らの証言や記録を基にしたもので、逃避行中に集団自決などを迫られた開拓団の悲劇を知る上で、唯一とも言っていい貴重な1次資料だ。国策の過ちを二度と繰り返さないために後世へ残し、活用していくべきだ。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州育ちの原罪意識113
山田洋次(映画監督)     転載元:東京新聞(2018年11月8日付)
一九三〇年代の終わり、現在の中国東北部、旧満州育ちの八歳のぼくが初めて見た日本の印象は今も鮮明である。大連から三日間の船旅を終えて関門海峡で夜が明けると、一望千里の広漠たる平野の満州の風景とは全く違って、海岸からすぐに山が始まる。その山々が鬱蒼たる緑に覆われていて、山腹のレールの上を汽車が煙を吐きながら家々の軒をかすめるようにして器用に走っているのにあきれ、そして港や町の通りに人がいっぱいいる光景に驚いた。「あの人たちみんな日本人?」当たり前でしょう、ここは日本なのよと母親が答えたが、波止場をよく見ると大きな麻袋を背負ったり、半裸の姿で重い大八車を引いたりする人たちがいる。 /// 続きは本誌ご参照
家族のこと話そう:おふくろの尊い決断114
森田拳次(漫画家)     転載元:東京新聞(2018年8月26日付)
生まれてすぐに旧満州(中国東北部)の奉天(現・瀋陽)に渡り、両親と四つ下の弟の四人家族でした。おやじは関東軍に納めるかばんなどを作る仕事をしていましたが、終戦近くになると召集され、残ったおふくろが家を守ることになりました。 /// 続きは本誌ご参照
この人に聞きたい:満州引き揚げ、一家救った中国人―やっと捜しあてた恩人の娘さん 思いでの毛布抱き涙 ちばてつや(漫画家)115
大塚武治(しんぶん赤旗)     転載元:しんぶん赤旗・日曜版(2018年11月11日付)
「あしたのジョー」など数多くのヒット作を持つ漫画家ちばてつやさん(79)。その原点には、命がけで一家を救ってくれた、ある中国人の友情がありました。62年の漫画家人生を聞きました。 /// 続きは本誌ご参照
記者の目:北朝鮮 消え行く日本人の歴史―「棄民の悲劇」知ってほしい116
井上卓弥(毎日新聞東京学芸部)     転載元:毎日新聞(2018年10月10日付)
戦前の国策で旧満州(現中国東北部)に送られた満蒙開拓団の実態を伝える資料の保存と公開を国に求めた9月28日の「記者の目」に深い共感を覚えた。敗戦直前、侵攻したソ連軍の標的となり、開拓団員約27万人中3割の8万人が命を落とした。集団自決を伴う悲劇は残留孤児の帰還などを通じて知られているが、十分な資料は公開されず、一部は廃棄されたという。 /// 続きは本誌ご参照
学徒兵の声 後世に:3395人動員の法政大 冊子を作成―戦友ごと僚船撃沈・特攻、出撃できず生き残る117
永井靖二(朝日新聞編集委員)     転載元:朝日新聞(2018年5月28日付)
太平洋戦争末期に、学業を中断させられて軍隊へ召集を受けた元学徒兵ら45人の証言集を、このほど法政大学(東京)が6年がかりでまとめた。戦友の最期、特攻の生死の分かれ目、軍隊内の理不尽な暴力など、70年以上を経た今こそ後世へ残したい逸話を収録した。 /// 続きは本誌ご参照
ひと:旧満州からの日本人引き揚げを描いた中国人画家・王希奇さん(58)118
平賀拓哉(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2018年10月4日付)
「絵の中の彼らを、ふるさとに送り返すことができてうれしい」。旧満州の葫蘆島(現・中国遼寧省葫蘆島)から戦後の混乱の中で帰国する人々を描いた「一九四六」が、舞鶴引揚記念館(京都府舞鶴市)で12月2日まで展示される。 /// 続きは本誌ご参照
ひと:戦時の性暴力を描く映画「太陽がほしい」で受賞を重ねる・班忠義さん(60)118
大久保真紀(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2018年10月26日付)
「太陽がほしい」。日中戦争中、真っ暗な部屋に監禁されて旧日本軍兵士に強姦された中国人女性が発した言葉だ。監督として、そんなタイトルのドキュメンタリーを撮り、戦時の性暴力被害を受けた彼女たちの人生を描いた。 /// 続きは本誌ご参照
中国語の絵物語『鑑真和尚』に想う119
陳寛
先月、上海人民美術出版社1981年4月第3版の絵物語『鑑真和尚』を手にした。『李白』・『白居易』・『王安石』等歴史的人物を主人公にした絵物語中の一冊だ。縦9㎝横12㎝厚み0.4㎝の小型サイズもので、簡単に見終えられるのだが、目を患っていた私は、小文字を嫌って見ようともしなかった。8月中旬の施術後に、視力が落ち着いてきた9月半ばのある日、何気なく『鑑真和尚』を手に取ってみた。読み始めるや一気に読み進み、日本留学僧栄叡が亡くなった件を読むに至っては知らず識らず熱い想いが込み上げてきた。 /// 続きは本誌ご参照
古代における渡来人の活躍―拙著『ディアスポラ、高麗への道』刊行に寄せて121
岩下壽之
先月(9月)、『ディアスポラ、高麗への道』(鳥影社)を刊行した。「遣唐使三部作」の最終巻『定恵、百済人に毒殺さる』を上梓してから三年ぶりである。この間、古代朝鮮への思いは増幅し続け、ついに今回は「渡来人」と呼ばれる古代の朝鮮半島からの移住民、亡命者を「ディアスポラ」の視点から明らかにすることにした。論じるのではなく描き出すことにしたのは、史料の少ない古代の生活を再現するには「小説」という形が最もふさわしいと思ったからである。この点ではこれまでの創作活動の継承でもある。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い126
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍案内を兼ねた編集後記127
大類善啓
周知のように滿洲への移民は国策として進められた。とりわけ、ある時期からは村などの地域単位で満洲へ渡る「分村・分郷」という形で進行していった。国や県などが市町村などに対して移民させる人数を割り当て、半ば強制的に渡満させた。 /// 続きは本誌ご参照

  第26号(2018年5月発行) 第26号(2018年5月発行)表紙

満洲泰阜村分村史についての教科書を!―「なぜ祖先が生き地獄に堕ちたのか」を子どもたちに探求してほしい1
安冨歩
泰阜村からは、277戸1174人が満蒙開拓団として入植し、1945年8月9日時点で984人が大八浪の分村に在籍した。そのうち、死者612人、未帰還者57人、不明者50人という被害を出し、無事に引き揚げた人は265人に過ぎなかった。特に10歳以下の子どもたちの大半は、帰還し得なかった。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓団の女性たち―ドイツ追放女性同盟での経験を通して5
フックス真理子
2017年9月30日、「満蒙開拓団の女性たち―戦中・戦後・現在」という演題で、ドイツ、ヘルムシュテット市で講演を行った。第二次世界大戦後、ドイツの占領地だった東欧地域から、敗戦によって追放され、引き揚げてきた女性たちの会のセミナーに招かれたのだ。これら引き揚げドイツ人全体の数は、1500万人以上と言われており、その中には、ナチス・ドイツの時代に移住した人々のほかに、200年以上前からそれぞれの事情で移民したドイツ人の子孫も数多く含まれる。また、避難する途上命を落とした人々は、50万人から200万人にものぼると推定されていて、「追放・引き揚げ」自体、歴史上の大きな出来事であったと言えるだろう。もっとも、私自身は、この分野の研究者でもなく、まったくの偶然から引き受けたことだったので、準備に際してはかなり大変な思いをしたけれど、貴重な経験となった。 /// 続きは本誌ご参照
義勇隊に唯一の現地隊があったご存知でしたか。8
末広一郎
満蒙開拓青年義勇隊は一次から八次(昭和13年から昭和20年)までに、347ヶ中隊が日本国内から満洲にある訓練所に入隊しています。その数は8万6千人に及んでいます。なのに唯一満洲国内から募集された義勇隊があります。昭和19年4月、七次高田中隊、勃利訓練所96名が内原訓練所で1年間の訓練を受けて、翌20年5月に勃利訓練所に入所しております。これを現地隊と呼んでいます。現地隊の悲劇というか熊難辛苦を背負った、二重、三重不合理と苦しみをあびせられた中隊は他にはありません。実態を知って頂くため拙文ながらお伝えするのが今回の目的であります。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓青少年義勇軍「満洲現地隊・高田中隊」13
高橋健男
2017(平成29)年10月初旬、この年の4月に終焉の会を迎えた撤訓八洲会(旧満洲国北安省撤江青年義勇隊訓練所修了生の会)の有志からの誘いを受け、長野県軽井沢の大日向地区を訪れた。国道18号線借宿から標高1,500~600メートルの浅間台をまっすぐ北に上る。ここを訪れるのは2007年、2012年につづいて3回目である。大日向村開拓団に関しては、母村竜興寺にある慰霊碑や軽井沢開拓地の記念碑、そして開拓記念館を調査・訪問済みであった。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓平和記念館」館長就任に当たって17
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
2013年(平成25年)4月、全国初の満蒙開拓に特化した記念館として長野県南端の阿智村に開館した「満蒙開拓平和記念館」、早いもので開館満5年を迎えます。これも偏に、開館前から、そして開館後もご支援を頂いた多くの皆様方のお陰と厚く御礼を申し上げます。この開館5周年を迎えるに際し、去る3月8日開催の当記念館の役員会において、これまで館長をお務め頂いた河原進館長に代わり、不肖私が記念館の館長を務めさせて頂くこととなりました。今後とも引き続きどうか宜しくお願い申し上げます。 /// 続きは本誌ご参照
ドラマ『どこにもない国』の放送実現と葫蘆島からの引き揚げ21
寺沢秀文
去る3月下旬、2週にわたりNHKドラマ『どこにもない国』が放送された。ご覧になった方も多いと思う。このドラマ、以前にこの「星火方正」でも触れた通り実話をドラマ化したものであり、原作はアメリカ在住のポール邦昭丸山氏。同氏はドラマの主人公である丸山邦雄氏(内野聖陽さんが演じた)の三男である。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館の感想26
水越景人
満蒙開拓団について私は、記念館を訪れるまでは、「国策で満州に送られた日本人の移民がいて、戦後日本に帰国できずに大変な思いをした」程度の知識しかありませんでした。記念館を訪れることでその前提が大きく覆った、という訳ではありませんでしたが、時代背景から当時の生活、戦後の開拓団、中国残留孤児を巡る日中関係まで、網羅的に知ることが出来、とても勉強になりました。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館を訪れて27
梯頼子
3月17日・18日にゼミ合宿で長野県阿智村を訪れました。私の地元(徳島県)と街並みが似ていて、ふだん人の多い東京で生活している自分にとってはとても居心地がよかったです。ウィンターナイトツアーでは満点の星空を見ることができ、朝市では地域の人々の生活を体感することができました。食べ物も美味しくてとても良い合宿でした。 /// 続きは本誌ご参照
昭和天皇の戦争責任と日本人の加害責任認識の欠如28
野崎朋子
6年前、即位60周年を迎えた英国・エリザベス女王。その祝賀行事をBBCが中継していた時、国会議事堂前で議員らが「君主制反対」の横断幕を掲げていた。日本との余りの違いを痛感した瞬間である。日本で同様のことをしたら、たちまち右翼やネット右翼が攻撃するだろう。命を狙われる可能性も少なくない。 /// 続きは本誌ご参照
方正県城西日本軍飛行場の顛末(※中文も添付)35
曹松先・石金楷
1931年の“満州事変”以降、日本は中国の東北を占領するために、ハルビン東部の特殊な地理的位置にある方正県を戦略的要地とみなし、多くの軍事施設を建てた。特に1939年から1945年にかけて、方正県内には軍用飛行場が三か所も造設された。それらは、天門村陳家屯飛行場と会発村西海屯飛行場、方正町城西飛行場である。 /// 続きは本誌ご参照
私も日本国家から棄民された!―中東のクウェートでイラクの人質になった私たち39
長谷川捷一
1990年8月2日イラク軍はクウェート国に侵攻し、私たち夫婦を含め日本人約250名がイラクの人質になった。私はそれまでアラビア石油(株)のサウジアラビアのカフジ鉱業所に2回の赴任で計14年勤務した後、1988年に3回目の赴任でクウェートへ派遣されていた。カフジ鉱業所の操業とクウェート石油省との技術調整をする任務だった。何故クウェート石油省と関係があるかと言えば、アラビア石油が原油を生産していた石油鉱区はサウジアラビアとクウェートとの中立地帯であったため両国が半分ずつ権益を持つためだ。 /// 続きは本誌ご参照
「文化大革命」をどうとらえたらいいのか?―文革時期、新聞記者として北京に滞在していた私45
秋岡家榮
中国で文化大革命という時期がありました。その文革初期には、何人かの北京駐在員、特派員が国外追放になりました。それは1967年11月、私が北京に着任する前のことでした。私が新聞記者として北京に滞在中、国外追放になった特派員はいません。当時、国交のない記者の滞在期間は1年、それも半年ごとに滞在許可を更新しました。滞在許可の1年期限が切れると、国外に出て、改めて入国許可を申請するのです。 /// 続きは本誌ご参照
自然エネルギーという言葉に騙されないで!―山田征著『、自然エネルギーのホントのこと』を読んで48
江藤昌美
チェリノブイリの事故、そして2011年3月11日の福島の大事故で、原発の恐ろしさは世界を震撼させました。しかしいつの間にか人々から、地震・津波・原発大事故の恐ろしさが忘れ去られたような気がします。もちろん反原発の声を挙げる人々の活動は続いていますが、国を動かすような運動には未だ至っていません。そして、「何とか原発を止めたい」と活動していた人たちは、「脱原発自然エネルギーへの転換」への運動に変わっていきました。ところで風車は風では動かない原発と同じで、外部の電源がないと始動したり風の向きに合わせて羽の向きを変えたり止めたりすることなどの操作ができないのです。 /// 続きは本誌ご参照
対立・侵略・追放・和解―ドイツ・ポーランド関係史から考える東アジアの隣国関係(上)49
木村護郎クリストフ
今日は、ヨーロッパの事例から東アジアを考えるという話をさせていただきます。あえて離れたところを参照することによって、日本および東アジアを考えるうえでも、得るところがあればと願っています。今日の話の目的は、三つあります。一つは日本の海外居留民、特に満蒙開拓団の経験と本当によく似ている東方ドイツ人の戦争体験(敗戦体験)に注目するということです。ここで東方ドイツ人というのは、ポーランドなど現在のドイツより東の地域に住んでいたドイツ系の住民を指します。 /// 続きは本誌ご参照
沖縄を侵略したのは大和(薩摩藩)とアメリカだ!―進貢使の足跡を辿る3泊4日の旅をして思う55
友寄貞丸
3月中旬、中国へ派遣された進貢使の足跡を辿る3泊4日の旅(総勢31人)に同行した。中国と琉球の交流は「冊封関係」が始まる14世紀にさかのぼる。中国の君主が冊封を媒介として近隣諸国、諸民族の長と取り交わす名目的な君臣関係を伴う外交関係(手段)で、琉球はその対象国にあった。 /// 続きは本誌ご参照
日本方正総商会設立さる―活躍が期待される方正出身の起業家たち57
大類善啓
ハルビン市郊外の方正県に建立されている日本人公墓の存在が示すように、方正と日本との結びつきは大きい。日本には、残留婦人や残留孤児だった人々の縁戚なども多く、日本に住む方正出身者は現在、6万人になるという。 /// 続きは本誌ご参照
一般社団法人日本方正総商会大阪分会正式掲牌成立(※中文)59
関西華文時報     転載元:関西華文時報(2018年4月15日付)
日本方正総商会大阪分会正式に成立 /// 続きは本誌ご参照
こちら特報部:「通州事件」遺族の思い―「事実だけ知ってほしい」「祖父の死を利用しないで」60
佐藤大(東京新聞)     転載元:東京新聞(2017年12月3日付)
日中戦争の発端となった1937年の慮溝橋事件から約3週間後、中国・北京郊外の通州で多数の日本人と朝鮮人が中国人部隊に殺害された「通州事件」。日本人の反中国感情をあおり、戦争支持を決定づけた事件とされる。だが、「こちら特報部」でこれまで2度にわたって紹介してきた遺族らは、親族を殺害された恨みよりも「戦争の悪」を強く訴えた。今回新たに事件当時、母親の胎内にいた女性が取材に応じた。事件が頭から離れなかった女性の思いとは一。 /// 続きは本誌ご参照
過ちを繰り返さない日本に―藤原敏子からの手紙62
大類善啓
今年1月に入って藤原敏子さんから手紙(1月10付消印)をもらった。藤原さんは、岩手県北上市に在住、藤原長作さんの長男の夫人である。本誌の読者ならご存じだと思うが、藤原長作さんは方正県に住み着き、米作りを指導し、黒竜江省を米作中国一に仕上げ、多大な貢献をされた方である。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い63
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍案内を兼ねた編集後記64
大類善啓
かつて中国東北地方のある町を歩いていた時、本願寺系の寺院の跡地だったという場所に出会った。そうか、日本の宗教教団は旧満洲の日本人たちへの布教目的に、この大陸まで来たのだ、とその時改めて思った。その事実に驚いたわけではない。しかし、本書が明らかにしたように、悪名高い関東軍の731部隊に天理教団が協力していたという事実には驚いた。 /// 続きは本誌ご参照

  第25号(2017年12月発行) 第25号(2017年12月発行)表紙

自国中心主義を超えるために―「満洲国」の歴史から何をどのように学ぶのか1
木村護郎クリストフ
学生時代、私は縁あって、もともと、満洲に在住する日本人の子弟が東京で勉学する際の学生寮として開設された東京・世田谷の「春風学寮」(1929年設立)に住んでいました。2017年夏、建寮90周年を前にした、寮のルーツを探る研修旅行に参加して、初めて中国東北部を訪れました。この研修旅行は、日露戦争の「輝かしい」(ように当時は見えたかもしれないけれど実はもう相当無理があった)日本の勝利の戦跡から、「満洲国」の成立と消滅までをたどるものでした。 /// 続きは本誌ご参照
沖縄・石垣島から見た「満州」とは―清明節中国旧「満州」謝恩と巡礼の旅で学んだこと4
大浜敏夫
私は去る3月31日から4月5日にかけて表題の旅行企画に参加することができた。この企画に応募しようと思い立ったのは、私の住む石垣島(市)でも「日本復帰」後40年近くも続いてきた革新市政から2010年4月保守市政に替わり、2011年中学校社会科教科書採択において、最も保守色が強いといわれる育鵬社版公民教科書が採択された。それに反発した隣の竹富町が東京書籍版公民教科書を国の教科書無償措置法の恩恵を受けずに採択・使用するという、同一採択地区に2社の教科書が使用されるという全国的にも珍しい状況を招来した。 /// 続きは本誌ご参照
インパール戦争と父・中野信夫―NHKテレビ『戦慄の記録インパール』を見て、改めて思う8
中野圭子
私の父は1910年生まれ、1941年12月31才の時、赤紙がきて軍医として応召しました。その翌年2月に生まれた私が4才の夏に父は復員してきました。初めて父と対面してから半年ほどは、父と2人でいるのが怖かったのを断片的なシーンとして覚えています。父に赤紙が来たときは自宅で眼科を開業して6年が経過していました。応召後しばらくは京都伏見にある陸軍病院へ通い、戦場で必須の外科の再研修を受けていたようです。そのあと、奈良の138連隊と上海で合流、海路で台湾、シンガポールをまわって北上、クアラルンプールの北、クワラクブで上陸、ここから陸路でビルマ(ミャンマー)へ入ったと聞いています。 /// 続きは本誌ご参照
さようなら、奥村正雄さん―「方正友好交流の会」発足以前からの同志の逝去を悼む12
大類善啓
今年(2017年)6月18日、本会参与として方正友好交流の会発足時点から主導的に活動されていた奥村正雄さんが亡くなられた。1931(昭和6)年生まれ、享年86歳だった。4月に急性白血病の診断を受けたという。そういうことは全く知らなかった。本人の希望で家族葬として営まれたと先日、信子夫人から聞いた。 /// 続きは本誌ご参照
日本人の魂の巡礼の聖地に方正―この言葉かみしめ14
奥村正雄(フリージャーナリスト)
奥村さんがこの会を手伝うようになったのは1992年でしたか? /// 続きは本誌ご参照
にいがた時評:三波春夫と旧満州―命懸けの逃避行 歌忘れず15
奥村正雄(方正友好交流の会顧問)
終戟前後、満州開拓団を襲った悲劇の数々を取材していた私は、四年前の夏、新潟市東堀で染物屋を営業しておられた野口幸次郎さん(84)を新潟市国際課の近藤淳一さんから紹介され、お話を聞く機会があったが、その中に三波春夫のことがでてきた。 /// 続きは本誌ご参照
今、思うこと――1960年代から日中国交正常化への道16
西園寺一晃
《解説》本講演は今年、2017年6月11日(日)第13回方正友好交流の会総会後の記念講演の採録である、西園寺一晃(さいおんじ・かずてる)さんは1942年生まれ。日中が国交正常化する以前の1958年、民間公使として一家で北京に移住された西園寺公一氏の長男である。10年間を中国で過ごされた後、帰国され欧州に遊学後、朝日新聞社に入社。現在、東日本国際大学客員教授、北京大学客員教授。著書に『青春の北京北京留学の十年』『中国辺境をゆく』『鄧穎超―妻として同志として』『「周恩来と池田大作」の一期一会』などがある。今回の総会及び講演会は、東京新聞が開催の告知を掲載してくれたこともあり会員や本誌の読者でない方も聴衆として参加された。その中の一人から「採録されるに当たっては、ぜひ二、三行でいいから、文革時代のことを追加してほしい」と、西園寺さんと大類両名宛に葉書が来た。西園寺さんにこの葉書のコピーを送ったところ、西園寺さんから「文革の時代のことを紹介するには二、三行では無理であのので、今回は触れないでおく」という連絡をもらった。私も、文革時代の体験を書くには、たぶんこの講演以上の枚数を費やさないと紹介することは難しいと思う。文革当時、北京大学に在学中であった西園寺さん故、当時の話そして今、文革をどう振り返るかなど、とても興味ある話が聞けそうであるが、別の機会にお話していただければと思っている。(大類) /// 続きは本誌ご参照
日中の歴史は何のために学び、何に活かすのか―西園寺一晃先生の講演を聴いて34
田村美佳
2017年6月11日、方正友好交流の会が主催する西園寺一晃先生の講演を聴きに中央大学駿河台記念館に足を運んだ。会場に入り周りを見渡すと、年配の方々が楽しそうに歓談されている。満蒙に関心を持つ方々の集まりだろう。ある種、会場は同窓会化していて、満蒙とは一切のルーツを介さない自分がこの場に居合わすのはいささか場違いであるような気がした。さらに最悪なのは、時おり飛び交う北京語を聴いては「上手だな」などと彼らのルーツも考えずに自分の北京語が上達しないのを嘆き、不謹慎な発想すら抱いていたことだ。 /// 続きは本誌ご参照
日中関係の近現代史を知っておこう―西園寺一晃講演に触発されて41
永野俊
いま日本と中国では共に相手国に対する反感は強く、その割合は両国とも70~90%に達するといわれる。日本の中国への反感は若年層、中年層が両国関係の近現代史を十分に理解していないことが大きな要因であるといわれる。年配の方々はこの歴史をよくご存知と思うが若い世代の方々はご存知でない方も多いと思うので概略を説明しておこう。 /// 続きは本誌ご参照
「泰阜村」と「方正県」友好提携から20周年―長野県「泰阜村」と黒竜江省ハルビン市「方正県」友好提携20年の歩み42
小林勝人(飯田日中友好協会理事長)
方正県といえば「方正日本人公墓」のある日本人として忘れる事の出来ない、いや忘れてはならない加害と、被害の重い歴史を認識する大事な場所である。一方、泰阜村といえば、NHKの「忘れられた女たち」の放送を思い出す人が多いと思われるが、長野県の山村で、かつて多くの満蒙開拓団を送り出した村として思い出される山村である。 /// 続きは本誌ご参照
大日向開拓地 両陛下が訪問―旧満州引き揚げ者入植46
日本経済新聞     転載元:日本経済新聞(2017年8月14日付)
長野県軽井沢町で静養中の天皇、皇后両陛下は23日、同町の大日向開拓地を訪問された。同開拓地は旧満州(中国東北部)に渡った人たちが戦後に入植した地区。両陛下は昭和天皇が1947年の戦後全国巡幸で同地区を訪れたことを詠んだ歌碑に立ち寄った後、レタス畑を散策された。 /// 続きは本誌ご参照
泰阜で式典草の根交流今後も―満蒙開拓の縁中国・方正県と友好20周年46
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2017年11月17日付)
下伊那郡泰阜村は16日、旧満州(中国東北部)に分村移民で開拓団員を送り出した緒緯がある中国墨黒江省方正県との友好提携20周年を祝う式典を村内で開いた。帰国者を含む関係者約80人が出席。松島貞治村長はあいさつで「平和の尊さは草の根の交流から学んでいく必要がある」と述べ、民間交流の重要性を訴えた。 /// 続きは本誌ご参照
吉林省水曲柳・大日向両村旧開拓地を訪問して47
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館)
去る5月27日より31日の5日間、旧満州の吉林省「水曲柳」並びに「大日向村」の旧開拓地等を「水曲柳等友好訪中団」(団長は澤柳忠司水曲柳会会長。団員27名)が訪問した。今回訪ねた「水曲柳開拓団」は私事ながら当方の両親がかつて住んだ開拓の村でもあり、当方自身も今回で7回目の訪問となった。この水曲柳開拓団からの引揚者やその関係者等で組織する戦後親睦組織「水曲柳会」では日中国交回復後、今回で11回目となる現地訪問団を送っている。今回の訪中は、これまでの水曲柳会会員のみを中心とした水曲柳訪問とは異なり、現地で隣村の開拓団であった「大日向村開拓団」の元開拓団員の皆さん等3人や一般市民の皆さん等をも含めての、久々の27名という大所帯での訪中となった。当方が初めて水曲柳の地を訪れたのは1996年(平成8年)のことであり、前回の2010年訪問からは7年ぶりの訪問となったが、20年前、そして前回と比べても水曲柳等の農村もかなり変化してきていることを実感したところである。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州に2つの開拓団 現地を訪ねて48
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館副館長)     転載元:日刊「南信州」における2017年6月25日より連載8回
去る5月27日より31日の5日間、水曲柳会(後述)を中心とした「水曲柳等友訪中団」(団長・澤柳忠司水曲柳会会長、団員27名)は水曲柳など旧満州の旧開拓地等を訪中し、多くの成果を上げて帰国した。今回の訪中は、最近では極めて少なくなった旧満州の開拓地を訪ねる旅であると共に、この飯田・下伊那地域を代表する満蒙開拓団の―つである「水友曲柳開拓団」と、旧満州への最初の分村開拓団となった「大日向村開拓団」の元開拓団員等が共に旧開拓地等を訪ねたという極めて意義ある訪中でもあった。私事ながら、亡き両親が水曲柳開拓団員であったこと等から、水曲柳開拓団の戦後組織である「水曲柳会」の事務局長を務める当方が今回の訪中団の事務局長も務めさせて頂いたので、この意義ある訪中について改めてその概要を報告させて頂きたいと思う。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓平和通信」を発刊して56
末広一郎
「星火方正」に原稿を書くに当たり、御礼のご挨拶を申し上げます。私、末広一郎は元満洲開拓青年義勇隊、嫩のん江こう大訓練所第三次渡辺中隊にかつて所属しており、「嫩訓八のんくんや洲しま会かいだより」を40数年間に亘り、編集発刊と発送を、12号から54号まで継続して行ってきました。今年4月8日をもちまして嫩訓八洲会は終焉、解散となりました。そこで、新たに「満蒙開拓平和通信」を発刊しようと思い立ち、つい最近、第一号を発刊いたしました。(58頁に表紙を紹介) /// 続きは本誌ご参照
『満州・奇跡の脱出』がついにテレビドラマ化!59
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館)
冒頭から私事にて恐縮ながら、1944年(昭和19年)、「大陸の花嫁」として満蒙開拓団員となり旧満州へと渡満した私の亡き母は、敗戦の翌年の1946年(昭和21年)7月、ようやく日本へと引き揚げてこられた。終戦の年、新京(現長春)の避難民収容所での越冬生活の中でまだ生後10ヶ月の長男を失い、夫も終戦直前の「根こそぎ動員」による召集、出征でその生死すらも判らず、実はシベリアに捕虜抑留されていることも知らない中での失意での帰国であった。その引き揚げ時の旧満州からの出港地は「葫蘆島(ころとう)」という港であった。 /// 続きは本誌ご参照
語り部思いやる 陛下の歌碑序幕65
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2017年11月24日付)
下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館は23日、天皇陛下の和歌を刻んだ歌碑の除幕式を開いた。天皇、皇后両陛下は昨年11月に同館を訪問し、開拓団員や青少年義勇軍だった「語り部」3人と懇談された。旧満州(中国東北部)での逃避行の体験などを聞き、その際の思いを和歌に詠んでいた。同館は「何らか形で記憶に残したい」と敷地に歌碑を建立した。 /// 続きは本誌ご参照
天皇陛下の歌碑を建立―満蒙開拓平和記念館 昨秋の来館を記念し66
南信州新聞     転載元:南信州新聞(2017年11月25日付)
阿智村駒場の満蒙開拓平和記念館で23日、天皇皇后両陛下の来訪を記念した碑の除幕式が開かれた。碑には天皇陛下が来訪時の思いを詠まれた「戦の終りし後の難き日々を面おだやかに開拓者語る」との歌が刻まれた。 /// 続きは本誌ご参照
象徴天皇と平成:負の歴史にも向き合い―満蒙開拓平和記念館副館長・寺沢秀文さん67
小松田健一(東京新聞)     転載元:東京新聞(2017年12月4日付)
「自決するため仲間と石で殴り合ったが、自分だけ生き残った」。厳しい表情で壮絶な体験を話す満蒙開拓団の元団員たちに、天皇陛下は言葉をかけられた。「こういう歴史があったことを経験のない人にしっかり語り継いでいくことは、とても大切だと思います」 /// 続きは本誌ご参照
回想―チチハルから日本へ引き揚げてきた私68
土橋貞夫
玉音放送はチチハルの官舎の庭で聞いたように思う。国民学校3年生だった私は夏休み中だったが、この日を境に「満州」での学校生活は終わった。8月15日から程なく内地送還の通達があった。「手荷物を持って駅に集合せよ」「集合は延期」「しばらく駅で待機せよ」・・・。結局、引き揚げは一年後となった。 /// 続きは本誌ご参照
中高生たちに歴史を伝えなければいけない―「満蒙開拓平和記念館」見学で思う70
田井光枝
私は昭和10年4月に生まれた。戦前生まれということだ。東京は深川生まれだが太平洋戦争の戦況が厳しくなり、学童が地方に疎開させられるようになると茨城県水戸市近在の、電気も通じてない小さな村の母の実家に妹と弟と共に預けられた。国民学校3年生の2学期から5年生修了までの2年半をそこで過ごした。 /// 続きは本誌ご参照
イスラエル建国を連想させた“満洲国”建国―「満蒙開拓平和記念館」見学で考えたこと74
有為楠君代
「満蒙開拓平和記念館」のことは、随分前に耳にしたことがあります。多分、開館を伝えるニュースだったかと思います。それ以来、ずっと一度見学したいと願ってはおりましたが、機会がなく何年も過ぎてしまいました。ところが、今回偶然に友人たちと一緒に見学できることになり、しかも希望者が、現地集合の形で十数人になったので、副館長の寺沢秀文氏に、展示品の説明をして頂けることになりました。自分達だけで見学したのでは見過ごしてしまうような点も、丁寧にご説明頂いて、とても勉強になりました。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓の前で思う―公墓訪問の経緯について77
野村正彦
我々は、東京のある大学で中国を中心に日本・アジアの歴史を勉強したゼミナールの有志が集まって10年前から、勉強会や手作りの中国歴史探訪旅行をしているグループであります。今年で勉強会32回、旅行は毎年10名前後で9回目となりました。中国旅行は、西域を除くほぼ主要地域を巡りました。今回の旅行は8年前に訪れた中国東北地方を再度訪問しようとのことで、企画したわけであります。前回は大連・旅順・瀋陽・長春・ハルビン各市内だけでしたので、ハルビン市を基点としてさらに遠方まで足を延ばして訪問することにし、7月23日から31日までの8泊9日の旅行でした。 /// 続きは本誌ご参照
方正で過ごした3日間79
伊藤洋平
私は、2012年9月から2013年7月まで公益社団法人日中友好協会の公費留学生として北京に留学していました。中国語を学ぶために中国に行ったことから、旅行に行くときには必ず中国人の友人がいるところにすることに決めていました。そんな折、日本にいるときに知り合った友人が中国に帰っていると知り、その友人を訪ねたところ、その友人はなんと方正県の人だったのです。今回は、少し前の話になりますが、2013年5月にハルビン経由で方正県に行った時のことをお伝えしたいと思います。 /// 続きは本誌ご参照
「平和の時代のベチューイン」藤原長作と「旅日僑郷」方正県を訪ねて83
岡田実(拓殖大学国際学部教授)
今年の夏頃、北京大学に留学されている山口直樹さんが2008年に立ち上げられた「北京日本人学術交流会」が、2017年10月でいよいよ300回を迎えられるという朗報をいただいた。年間約30回、月2~3回のペースで毎回講師を招き、10年近く続けられてこられた快挙である。筆者は、国際協力機構(JICA)中国事務所に勤務していた2011年6月、山口さんから誘われ、同会の発足三周年記念の集まりで「日中関係とODA~なぜ日本は対中政府開発援助を開始したのか?」と題した報告を行う機会があった。 /// 続きは本誌ご参照
記録映画『葛根廟事件の証言』が完成した99
大島満吉
旧満州で起きた様々な事件の中で、ソ連軍による民間人の虐殺はこの葛根廟事件が最大と云えます。この事件は、終戦前日の8月14日に事件は起きました。場所は満州国の西側にある興安南省興安街です。住民約1300人が、ソ連の開戦を知って避難行動を開始したのですが大惨事となりました。 /// 続きは本誌ご参照
映画「葛根廟事件の証言」を制作して―戦後70年を経てなお、多くの人が知らない事実がある105
田上龍一
太平洋戦争が終結する前日の昭和20(1945)年8月14日、旧満州(現中国東北部)から引揚げ避難中の日本人の一団が、ラマ教寺院葛根廟(内モンゴル自治区)付近で旧ソ連軍の戦車隊の襲撃にあい、1,000人以上が死亡した。生存者は百数十人にすぎないとされ、犠牲者の多くは女性と子供だった。この「葛根廟事件」は、日本敗戦の混乱時に満州で日本人が遭遇した惨劇の中でも、最も犠牲者の多いものだったといわれている。「星火方正」の読者には事件をご存じの方は多いと思われるが、一般的にはそれほど認知されていないのではなかろうか。 /// 続きは本誌ご参照
私を動かす大きな力―中国残留孤児問題への取り組み、その一年をふりかえる107
中島幼八
私だけでなく、中国残留孤児の体験を持つどの人も中国に足を向けて寝られない気持ちを強く持っていると思う。とりわけ近年、日中の国民感情が極めて悪化するなかで、中国を曲解する言論には黙って見過ごすわけにはいかない。意地でも、加害者側の私たちに命を与えてくれた中国人養父母の心情をかばいたくなる。あの戦争で祖国に見捨てられた私たちにとって、中国こそ自分たちを育んでくれた故郷である。従って、この歳になると、ひと一倍ふるさとや育ての親を思い、感謝しているのだ。この一年をふりかえる時、それが私を動かす大きな力であった。 /// 続きは本誌ご参照
忘れられない“満洲”の思い出―残留孤児フォーラムに参加して111
大津弘子
私は中国残留孤児ではないのですが、この会に出てみたいなア・・・妙に懐かしさを感じました。満鉄社員であった父から、シヘイガイ(四平街?私の生まれたところらしい?)、ハルピン、奉天、大連等、幼い耳にしみ込んでいたのかもしれません。 /// 続きは本誌ご参照
「赦された戦犯たち」の歴史113
芹沢昇雄
「中帰連」の正式名称は「中国帰還者連絡会」と言います。敗戦後シベリアに抑留された約60万人(1割が犠牲)の中から、中華人民共和国(以下、中国)独立翌年の1950年に、旧ソ連から中国に「戦犯」として引き渡された969人が「撫順戦犯管理所」に収容されました。また敗戦後も八路軍と戦った一部の元兵士など140人は山西省の「太原戦犯管理所」にも収容されていました。この1000人余りが帰国翌年の1957年に反戦平和と日中友好を願って「中帰連」を組織し、高齢のため解散した2002年まで自ら体験した加害や虐殺などを証言して来た団体です。 /// 続きは本誌ご参照
白西紳一郎さんを偲んで118
横井幸夫(元東レ株式会社)
日中協会理事長の白西紳一郎さん(以下、白西さん)が10月8日に亡くなった。招かれて行った旅先・大阪での急逝だった。私は亡くなる6日前の10月2日に東京の中国文化センターで開かれた「中日国交正常化45周年記念情と形~四人のまなざし~」という展覧会の開会式で白西さんと会って、話を交わしたばかりだった。知りあって10年以上になる。初めて会ったのは何時で、何処だかは忘れてしまった。 /// 続きは本誌ご参照
白西紳一郎さんの思い出118
大類善啓
どういうきっかけでこういう話になったのか詳細は忘れた。電話で、右翼の巨魁と言われた田中清玄の話になった。白西さんは、戦前の武装共産党時代の闘士だった田中清玄がコミンテルン時代、鄧小平と付き合いがあったという話をされた。その関係で、鄧小平が来日した時、田中清玄と因縁浅からぬ山口組の大親分、田岡一雄との関係で、鄧小平のボデイガードを山口組がやったという話である。その話を聞いて驚いた私に白西さんは、「日中関係にはいろいろとあるんだよ」と言われたので、ぜひメモワールとして残してほしいと言ったが、「それはなかなか書けないよ」との返事だった。 /// 続きは本誌ご参照
丹羽宇一郎著『戦争の大問題』を読んで119
大類善啓(方正友好交流の会事務局長・元本紙編集長)     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2017年10月1日)
北朝鮮の核実験が強行され、日本でも一部の世論から「制裁を強化せよ」といった強硬論が台頭している。そのような危機的な状況を煽る中、本書刊行の意味は大きい。 /// 続きは本誌ご参照
編集手帳119
読売新聞     転載元:読売新聞(2017年9月25日付朝刊)
『ひとりの日本兵』という詩がある。日中戦争の最中、銃弾に斃れた日本兵が、中国の農民によって手厚く埋葬される情景が描かれている。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特報部:満蒙開拓団 ソ連兵への「性接待」―戦争の惨めさを知った120
佐藤大(東京新聞)     転載元:東京新聞(2017年7月2日付朝刊)
戦前、旧満州国(現中国東北部)に国策として送り出され、敗戦後の逃避行で大勢の犠牲者を出した「満蒙開拓団」。そこには敗戦直後、開拓団を守るためとして、ソ連兵に対する「性接待」を強いられた若い女性たちがいた。この事実は開拓団員の引き揚げ後も長く封印され続けてきた。しかし、少なからずの被害者が亡くなリ、残る女性たちも高齢となった。そうした女性たちが最近、重い口を開き始めた。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特報部:中国人女性に再び光―李徳全氏 国交正常化前 邦人戦犯帰国に尽力122
佐藤大(東京新聞)     転載元:東京新聞(2017年11月19日付朝刊)
日本人戦犯の帰国に尽力した中国人女性がいたことを今、記憶する人は多くないだろう。中国赤十字会会長だった李徳全氏(1896~1972)。日中国交正常化から45年の今年、その功績に再び光を当てる取り組みが日中双方で広がっている。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特報部:残留孤児に寄り添う介護を―中国語で対応 民間施設乗り出す123
佐藤大(東京新聞)     転載元:東京新聞(2017年10月15日付)
中国残留孤児は、長年の苦労の末に帰国を果たした後も、言葉の壁や生活習慣の違いから地域で孤立する人も少なくない。こうした帰国者は「老い」を迎え、介護が必要になると、ますます孤立を深めがちであることから、この状況を少しでも改善しようと、帰国者たちを対象にした民間の有志の介護施設が登場し始めている。 /// 続きは本誌ご参照
満州開拓民の悲劇 追う―集団自決の地 撮る124
読売新聞     転載元:読売新聞(2017年9月27日付夕刊)
終戦前後の混乱期に満州(現中国東北部)で集団自決に追い込まれた開拓民の悲劇を伝えようと、兵庫県尼崎市の写真家・宗景正さん(70)が、犠牲者の眠る地をカメラに収め続けている。帰郷を果たせなかった人々の無念をしのび、10年前から撮りためた写真は3万枚以上。30日には報告集会を開き、撮影した写真とともに現地の経験を語り継ぐ。 /// 続きは本誌ご参照
極東ロシアでアイヌ人に出会う―ウラジオストク、ハバロフスクへの旅125
大類善啓
畏友、石井昭男さんの誘いに乗って、この9月17日から24日までの1週間、シベリアのウラジオストクとハバロフスクへ行ってきた。石井さんは、人権やマイノリティーをテーマに関する長年の出版活動の功績で、アジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞を2008年に受賞された方である。 /// 続きは本誌ご参照
日中交流 つないだ桜満開130
浅井正智(東京新聞)     転載元:東京新聞(2017年4月10日付)
中国江蘇省の無錫市で、日中の民間団体が桜の植樹を始めて、今年で三十周年を迎えた。当初は千五百本だった桜の木は、今では三万本にも達し、無錫は中国随一の桜の名所と言われるまでになった。日中関係がぎくしゃくした時も途切れることなく続いてきた交流は、次の世代へと引き継がれていく。 /// 続きは本誌ご参照
方正県外事僑務弁公室・黄力新主任来訪131
大類善啓
去る9月28日(木)、方正県外事僑務弁公室黄力新主任らの表敬訪問があった。私と参与の牧野八郎さんが対応した。黄主任のお名前はもちろん承知していたが、氏が主任に就任してからは残念ながら方正を訪問しておらず、お会いするのは私も牧野さんも初めてである。 /// 続きは本誌ご参照
日本へ引き揚げ 中国人画家描く―幅20メートルの大作、きょうから初公開132
平賀拓哉(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2017年9月28日付)
日中戦争後の混乱の中、中国遼寧省の葫蘆島から日本に引き揚げる人々を描いた幅20メートルの絵画を、同省瀋陽市の画家王希奇さん(57)が完成させた。中国で当時の日本人の苦難をテーマに描いた作品は異例。東京都港区の東京美術倶楽部で28日から10月5日まで、初公開される。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い133
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍案内を兼ねた編集後記134
大類善啓
「京大俳句」は、1933年に京都大学関係の若手俳人を中心に創刊され、自由主義を重んじ、実作・理論の両面から無季俳句や戦争俳句などの新しい俳句に取り組んだ俳句誌である。しかし1940年、厳しい言論弾圧(京大俳句事件)により主要同人が検挙され、第86号をもって廃刊に追い込まれた。弾圧されるまでは、文学界を席巻する大きな力になっていたという。 /// 続きは本誌ご参照

  第24号(2017年5月発行) 第24号(2017年5月発行)表紙

天皇・皇后両陛下ご来館後のそれから1
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館副館長・専務理事)
昨年11月17日、天皇・皇后両陛下の「強いご希望」により、長野県阿智村にある我が満蒙開拓平和記念館にご来館頂いたのは、我々記念館関係者にとっても大変な驚きであった。それから約半年が過ぎ、今回、方正友好交流の会の大類事務局長から「両陛下ご来館後の記念館の様子等の後日談について一文を寄せて欲しい」とのご要請を頂き、敢えて筆を執った次第である。両陛下のご来館の経過、その時のご様子等については当誌の前号にても報告等させて頂いた通りであるも、両陛下のご来館は我々自身としても全く意外なことであった。両陛下が満蒙開拓についてご関心をお持ちであることは以前からお聞きしていたことではあるも、と言って我が記念館にまでお越し頂けるようなことはまずしばらくの間は無いだろうと勝手に思っていた節がある。 /// 続きは本誌ご参照
多摩『拓魂公苑』を知っていますか?9
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館副館長・専務理事)
去る4月9日、多摩市連光寺3丁目にある「拓魂公苑」にて今年も恒例の合同慰霊祭が行われた。この「拓魂公苑」については以前に当誌上でも触れたことがあったかも知れないも、改めて、全国規模では唯一の満蒙開拓の慰霊公園であるこの「拓魂公苑」について触れさせて頂きたいと思う。この「拓魂公苑」での合同慰霊祭は主催者がいなくなった今も有志の皆さんの手により毎年4月の第2日曜日に開催されており、今年も約150名程度の皆さんが全国各地から集まってこられた。当方も7~8年前から毎年参加させて頂いているが、その頃には300人ぐらいはいたと思われるも、高齢化等もあって年々参加者が減少してきているのは大変残念なところである。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙「記憶はつたえていく」―元義勇軍の人たちの交流組織解散へ16
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2017年4月9日付)
かつて満蒙開拓青少年義勇軍として旧満州(中国東北部)に渡った人たちでつくり、全国に会員がいる交流組織「嫩訓八洲会」が、会員の高齢化や会員数の減少で解散することになった。県内出身者を含む会員14人が8日、下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館を訪れ、夜は安曇野市で最後の大会を開催。1972(昭和47)年からの活動に区切りを付けた。記念館の寺沢秀文副館長(63)によると、戦後70年余を経て、義勇軍や元開拓団員らの組織が解散するケースが目立つという。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓犠牲者悼む―東京・多摩県内関係者ら「拓魂祭」17
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2017年4月11日付)
全国各地から満州(現中国東北部)に渡った満蒙開拓団や青少年義勇軍の犠牲者を祭る東京都多摩市の「拓魂公苑」で9日、年1回の「拓魂祭」があった。敗戦後の混乱で命を落とした人らを慰霊する数々の碑が立ち、長野県を含む全国から約150人の関係者が集まり、雨にぬれた満開の桜の下で黙とうした。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓の歴史 阿智高生が学ぶ―地元の記念館見学18
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2017年4月11日付)
阿智高校(阿智村)の2年生約100人が10日、阿智村の満蒙開拓平和記念館を訪ねた。10月に修学旅行で広島市の原爆ドームなどを見学する予定で、まずは地元に刻まれた戦争の歴史を勉強する狙い。初めて足を運んだ成都が多く、ボランティアガイドたちの話に静かに耳を傾けた。 /// 続きは本誌ご参照
謝恩と慰霊―清明節のハルビンで19
中島幼八
春寒がまだ残る中国の東北部、大連からハルビンまでの旅だったが、かつての「南満鉄道」に平行する斬新な高速鉄道の車窓から眺められる東北大平原の雄大さ、長春あたりの地平線にさしかかったときの夕日、心躍る感動はこの大陸でしか味わえないようだ。北上するにつれて、気温が上昇するなか、20度近くのハルビンでは、目の前の松花江がまだ厚い氷に閉ざされていた。大陸の北国の春も早足で収束されていくが、この季節の端境期に、日本から二つの訪中団、計41人が訪れた。 /// 続きは本誌ご参照
清明節の誓い23
北中一永(訪問団団長)
侵華日軍第731部隊罪証陳列館金成民館長、ならびにご臨席の皆様。始めに、本日、新しく立派になった罪証陳列館を訪問し、このように追悼式典を開催することができましたことを訪問団として感謝申し上げるしだいです。 /// 続きは本誌ご参照
南京虐殺紀念館を見学して24
望月信隆
昨年末に南京大虐殺紀念館を訪れました。大虐殺の歴史的事実を否定的にとらえようとする政治家やその追随者に疑問を感じていたからです。中国名、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館と、その別館として2015年に建設された利済巷慰安所旧址陳列館を訪ね、その感想を書かせていただきます。 /// 続きは本誌ご参照
銘柄米産地慶安県の真剣さー中国の「米どころ」を訪ねて思う26
佐藤喜作
東京の中央区日中友好協会の2回目の中国視察旅行を計画した。私は2014年に2回、中国東北農業大学、東北大学と黒龍江省農業科学院などの訪問でハルピンに行っている。今回は仕事を離れて観光を主体に計画されたと思っていた。一行9名は日本に居住する東方暁氏の計画により、2016年9月11日~14日の3泊4日の日程である。 /// 続きは本誌ご参照
ひとり、ぶらりと方正へ30
橋賀秀紀
成田からハルビンまで片道500円。中国の新興旅行会社を母体とする春秋航空日本の就航セールは鮮烈だった。往復総額でも5200円。これまで往復1万円以下で香港やソウル、マニラ、台北などに行ってきたがさすがにこの価格はない。しかし,時期は3月の初旬。ハルビン名物の氷祭りもメインのものは終了している。ではどこに行こうか…。そのなかで浮上してきたのが方正であった。 /// 続きは本誌ご参照
優れた師、有難き友―歩平先生の死を悼む(第1回)34
石金楷
2016年8月16日、私は東京からハルピンの実家へ帰った。空港へ一歩、降りたとたん、駆け寄ってきた友人の口から出た言葉が、2日前、歩平先生が病死された、という訃報だった。この信じられないニュースを耳にして、私は、辛く悲しい思いの中で、歩平先生との、さまざまな交流の思い出が胸にこみ上げてきた。歩平先生の原籍は北京である。1948年、北京でお生まれになった。生前、中国社会科学院近代史研究所所長、中日共同歴史研究委員会・中国側首席、中日関係史学会副会長をつとめられ、著名な歴史学者であり、中日問題の専門家であった。私が先生に初めてお目にかかったのは2001年である。この時、私はハルピン市日本残留孤児養父母連絡会(以下、連絡会と略称)の秘書長になったばかりだった。仕事の関係から連絡会は黒竜江省社会科学院歴史研究所と密接な交流関係にあった。 /// 続きは本誌ご参照
アフリカには1890年代からエスペランティストがいた!―第6回アフリカエスペラント大会に参加して36
田平正子
「今や国際主義は国家を前提とするからダメだ。今こそ、「我々は人類の一員だ」という思想、民族や国家への帰属を超えて、個としての人間の連帯と友愛が大事だと考えるエスペラントの創始者・ザメンホフの人類人主義Homaranismoが地球を救う」と、近年、力説する本誌編集長の大類善啓氏より、アフリカにもエスペランティストがいることを紹介してほしいと言われ、アフリカエスペラント大会に参加した模様をお伝えしよう。 /// 続きは本誌ご参照
子どもたちにこそ見せたい知らせたい国「コスタリカ」―未来の主権者を創る“平和ノーベル賞”ムーブメントを起こそう!39
千田優子
60代のうちに、外国行こう!そう思い立って、たまたま見つけたツアーでした。コスタリカは中米にある。面積は大体、北海道。人口は約500万人。うち100万近くは隣国ニカラグアの難民なのだそうだ。何?治安はどうなの?エコツーリズムの発祥の地。ちょっとパソコンで調べてみると、何?ワニが昼寝してる???アメリカ経由で、往きが2日、帰り2日の移動時間がかかり、中4日という旅行日程であった。つまり、遠い!はき慣れた靴を、が条件。ヤレヤレ。 /// 続きは本誌ご参照
大平外交哲学と対中国友好精神の復活42
凌星光     転載元:日中科学技術文化センター『きずな』(2017年4月発行)
岸田文雄外相が昨年5月に訪中した際、李克強首相が大平正芳元首相を称賛する場面があったと報道された。(宏池会武井俊輔、小林史明両議員同行、5月7日付日経)それは1980年代の日中関係黄金時代への回帰を期待したものであり、大平政治哲学とその対中国外交を想い起し、当面の日中関係の改善に資したい。 /// 続きは本誌ご参照
日中関係「大事なのは一人ひとり」―小澤征爾さん 語る45
今村優莉(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2013年9月19日付朝刊)
世界的指揮者の小澤征爾さん(78)が、朝日新聞の取材に応じた。満州事変が姶まって、18日で82年になるのを前に、緊張が続く日中関係や、戦争体験に根ざす平和への思いを語った。小澤さんは旧満州(中国東北部)で生まれた。2010年に食道がんを手術。長期休養もあったが、今月7日まで長野県松本市で開かれたサイトウ・キネン・フェステイバル松本で、完全復活を印象づけた。「冷え込んでいるのは、日中政府間の関係。大事なのは一人ひとりの関係で、ぼくは、中国にいる友人たちを信じている」 /// 続きは本誌ご参照
中国残留の91歳 決意の帰郷―現地に家族 悩んだ末47
大久保真紀(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2017年2月5日付朝刊)
昨年11月、岐阜県下呂町(現下呂市)出身の中国残留婦人、桂川きみさん(91)が三男夫妻を連れ、中国安徽省から祖国・日本に永住帰国した。90歳を超えての永住帰国は珍しい。桂川さんは「やっぱり日本はいいですね」と満面の笑みを見せた。 /// 続きは本誌ご参照
家族のこと話そう:父母のおかげで命拾い48
河合博之(弁護士)     転載元:東京新聞(2017年3月5日付朝刊)
父は京都大経済学部を出て、「一旗揚げてやる」と当時の満州(現中国東北部)に渡りました。旧満州国がつくった電力会社に入り、日本軍の軍医の娘と結婚。私は三人目でやっと生まれた待望の男の子だったので、とてもかわいがられました。戦中は恵まれた生活で、社宅には当時は相当に珍しかった冷蔵庫もあったそうです。 /// 続きは本誌ご参照
『毛沢東の対日戦犯裁判』の書評と「わんりぃ」について49
大類善啓
「わんりぃ」という冊子を知ったのは2012年の1年間、『日本と中国』紙の編集長をしていた頃である。その折り「甘粕正彦と大杉栄」というタイトルで原稿を書いた。その後、代表の田井光枝さんは『星火方正』16号の拙文「国際主義を超えてHOMARANISMOを!―K・マルクスからL・ザメンホフの人類人主義へ―」を読まれ、小生にエスペラントについて書いてほしいと言われた。そして昨2016年3月から毎号、混迷の時代を拓くザメンホフの人類人主義「私は人類の一員だ!」を連載している。「友好訪問」はそのような縁から編集部から依頼された。また次頁の澤岡泰子さんも本当に縁のある方だと思っているが、ご縁の経緯は長くなるので別の機会にしよう。 /// 続きは本誌ご参照
友好訪問:自分たちが楽しんできたからここまでやってこられたんです―日中文化交流市民サークル「わんりぃ」代表・田井光枝さん 交流活動誌で「日中学院倉石賞」を受賞50
大類善啓     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2017年3月1日)
「わんりぃ」といっても知る人ぞ知る、という感じではないか。受賞の件でインタビューを申し入れたところ、「賞をくれるなら、10年前にほしかったわ。こんな年寄りになってからなんて」と、ユーモアたっぷりの答え。会えば、なんだ童女のような若々しい感じなのである。 /// 続きは本誌ご参照
友好訪問:日本で考案された"木リト"が中国の大地で根付いています―版画家・澤岡泰子さん 中国人学生に木のリトグラフの魅力を伝える51
大類善啓     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2016年8月1日)
小学4年から中学2年まで、開放性の肺結核にかかり学校へ行けなかった。部屋にあった枕草子などをひたすら読む一方、たくさんの紙に、ただただいたずら書きをして過ごす。高校の美術部から女子美術大学へ。卒業後は大手企業に就職し商品デザインを担当した。その後、フリーに転向。絵を書く一方、6畳の部屋でできる金属レリーフを始め、木のリトグラフ(版画の一種)に出会う。「これは面白かと思い、始めました」。「木リト」の始まりだ。その作品の成果は、ポーランドやイタリア、そしてメキシコなどでの展覧会に繋がった。 /// 続きは本誌ご参照
戦争の狂気語り続ける 僕の使命それしかない―人生の集大成 最後の小説『夜の歌』 作家・作詞家・なかにし礼さん52
金子徹(しんぶん赤旗)     転載元:しんぶん赤旗(2017年2月26日付)
作家・作詩家の、なかにし礼さんが、新作『夜の歌』を出しました。幼少期を過こした満州(中国東北部)からの過酷な逃避行や、戦後の芸能界などを描きます。波乱の人生の集大成となる長編を書き上げ思うのは…。 /// 続きは本誌ご参照
「父母の墓参りしたい」―北朝鮮残留日本人女性訴え53
東京新聞(時事)     転載元:東京新聞(2017年4月20日付夕刊)
第二次大戦後の混乱期に日本に帰国できず、北朝鮮に残留したという女性(84)が十九日、北朝鮮東部の咸興で日本記者団の取材に応じた。女性は「父母のに墓参りをしたい」と語り、日朝関係の改善と早期帰国の実現を訴えた。健康状態は良く、両親の出身地である熊本県で暮らす親戚と手紙のやりとりをしていると話した。 /// 続きは本誌ご参照
タンゴ歌手・籐沢嵐子と大連―《大連体験》を決して口にしなかった嵐子に思う54
大類善啓
この原稿は、2014年春に発行された日本タンゴアカデミーの機関誌「Tangolandia」に、≪嵐子よ、安らかに眠れ―「大連体験」を昇華した藤沢嵐子のタンゴに思う―≫というタイトルで掲載したものである。つい最近、タンゴダンスを始めたという人にこの拙文のコピーを送る際読み返したところ、本誌の読者にも興味がある内容ではないかと思った。大連からは多くの引揚げ者がいて、いろいろ体験談なども書かれているが、藤沢嵐子は、「大連のことを決して口にしなかった」ということも、一つの大連体験の貴重な表現ではないかと思い、本誌の読者に提供してみたかったのである。当初、少しは本誌のために修正しようかと思ったがその余裕もない。本誌の読者は、本稿がタンゴ研究家や愛好家を対象にする機関誌に、今から3年ほど前に書かれたものであることをくれぐれも頭に入れてご笑覧いただければ幸甚である。 /// 続きは本誌ご参照
(日中国交正常化45企画)方正日本人公墓建立を許可した周恩来の足跡を訪ねて60
方正友好交流の会
今年は日中戦争の発端となった盧溝橋事件から80周年という年でもあります。日本の敗戦後、やっと日中間の国交が回復してから45年目という年、国交正常化を果たす上で重要な役割を果たし、また方正日本人公墓建立を許可した国際的ヒューマニスト・周恩来総理の足跡を訪ねる旅を企画しました。ぜひご参加をお待ちしています。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い61
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記62
大類善啓
前号は、両陛下が満蒙記念館を訪問されたことを大きく取り上げた故か反響はすこぶる多かった。安倍政権やそれを取り巻く日本会議などが戦前の戦争史観を肯定的に捉え、日本の過ちを正面から直視しない状況の中、「過去をしっかりと見据えなければいけない」という両陛下の思いと行動は、それ故にこそ、今後も大いにアピールしたいと思っている。 /// 続きは本誌ご参照

  第23号(2016年12月発行) 第23号(2016年12月発行)表紙

天皇・皇后両陛下が「満蒙開拓平和記念館」にご来館1
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館副館長・専務理事)
去る11月17日、天皇・皇后両陛下が長野県阿智村にある満蒙開拓に特化した全国唯一の「満蒙開拓平和記念館」にご来館されました。伺ったところでは、両陛下はかなり以前から満蒙開拓について高いご関心をお持ちであり、その後にこの記念館の存在を知り、長い間ここへの訪問を強く要望され続け、それが今回実現したとのことでした。そのことを知った時には当方も正直驚きました。当記念館の開館(平成25年4月)により、少しずつながら「満蒙開拓」に対する社会からの関心等も高まりつつあるものの、やはり国策として押し進められた「不都合な史実」として余り省みられることの無かったこの史実は、当時、その送出に関わった立場、特に行政関係者等においては余り行きたい場所ではなく、これまでも一部の国会議員やこの建設に大きな支援をしてくれた阿部守一長野県知事等の一部の方は除いては閣僚、高官等が来館することは全くありませんでした。それだけに、皇族の方、ましてや天皇・皇后両陛下がこの記念館を訪問されたいと思っておられるなどということは思いもよらないことでした。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓伝承「多くの人に」―両陛下、阿智の記念館訪問7
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2016年11月17日付夕刊)
天皇、皇后両陛下は17日午前、満蒙開拓の歴史を伝える下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館を訪問された。館内を巡り、元開拓団員ら4人と懇談。天皇陛下は80~90代になった元団員らにいたわりの声を掛けた。満蒙開拓の歴史を語り続ける体験者らを「皆さんがつくった平和な日本です」「なお一層元気で頑張って多くの人に伝えてください」と励ました。 /// 続きは本誌ご参照
両陛下に思い伝えた―満蒙開拓語り続ける3人 記念館で懇談9
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2016年11月18日付朝刊)
忘れられず抱えてきた戦時の記憶を、両陛下は受け止めてくれた―。下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館で17日に、天皇、皇后両陛下と懇談した飯田下伊那地方の満蒙開拓団員や青少年義勇軍だった3人。満蒙開拓の歴史と平和を発信する記念館の活動に協力しており、戦争を語ることができる人が減る中、語り続ける思いを強くした。 /// 続きは本誌ご参照
天皇皇后両陛下の満蒙開拓平和記念館への訪問について10
大類善啓
訪問のひと月前ほどだったか、寺沢秀文さんから両陛下のご訪問を聞いていた。地元の新聞には報道されていたようだが、全国紙の東京圏にいる読者は当日まで知らなかったのではないか。TBSテレビが昼のニュースで放送して初めて知った方正関係の友人が電話をかけてきた。 /// 続きは本誌ご参照
両陛下 旧満州引き揚げ者とご懇談―「歴史伝えることは大事」10
産経新聞     転載元:産経新聞(2016年11月18日付朝刊)
天皇、皇后両陛下が17日、私的旅行中の長野県阿智村で、旧満州(中国東北部)の開拓団に参加し、戦後に故郷に引き揚げた人たちをねぎらわれた。苦難の道を歩んだ開拓団に長年心を寄せている天皇陛下は「こういう歴史があったことを経験のない人にしっかり伝えることはとても大事」と訴えかけられた。 /// 続きは本誌ご参照
両陛下、満蒙開拓記念館に11
朝日新聞     転載元:朝日新聞(2016年11月18日付朝刊)
私的な旅行で長野県に滞在中の天皇、皇后両陛下は17日、同県阿智村にある「満蒙開拓平和記念館」を訪れ、現地での体験を語り継いでいる80~90代の引き揚げ者らと懇談した。 /// 続きは本誌ご参照
両陛下、満蒙開拓記念館を訪問11
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2016年12月1日)
天皇皇后両陛下は11月17日午前、長野県下伊那郡阿智村にある「満蒙開拓平和記念館」を訪問された。両陛下は、館内を約20分間にわたり見学したほか、元開拓団員ら4人と懇談もされた。 /// 続きは本誌ご参照
方正県政府の公墓参拝者への対応について考えるー写真撮影止などの対処を憂う(※中文も添付)12
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)
天皇皇后両陛下が満蒙開拓平和記念館を訪問されるという一が、寺沢秀文さんからもたらされた時、両陛下は満蒙開拓団を襲った悲劇について、決してお忘れではなかったのだ、と改めて想起した。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留孤児としての思い18
中島幼八
長く歩いてきた日中畑では、この中島は見るからに中国帰国者だとわかりますが、しかし残留孤児の身であるということは旧い仲間の中でも意外と知られていません。昨年体験記の日本語版「この生あるは」と中国語版「何有此生」を刊行して以来、不思議がられるムキすらありました。ましてや、去る10月2日江戸東京博物館において、中国残留孤児問題フォーラムを主催し、基調報告まで行い、「敵国のこどもを育てる中国人養父母」をテーマにして、感謝の気持ちを訴えました。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児問題フォーラムの発展を考える19
石尾喜代子
10月2日、江戸東京博物館1階大ホールを満席にして「中国残留孤児問題フォーラム」が開催された。午前の部は山田火砂子監督の映画「望郷の鐘満蒙開拓団の落日」を上映し、満蒙開拓団についての認識を深めたうえで、午後は「敵国のこどもを育てた中国人簑父母」をテーマとするシンポジウムがあった。 /// 続きは本誌ご参照
ひと:中国残留日本人孤児と養父母の絆を伝える―胡暁慧さん(72)23
平賀拓哉(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2016年7月27日付朝刊)
「中国残留日本人孤児と、その孤児を育てた養父母の物語は日中友好の懸け橋となる」。そんな思いで養父母と孤児約40人から聞き取った内容を今春、歴史研究者らと「中国養父母の歴史記録」の題で本にまとめ、現地で刊行した。 /// 続きは本誌ご参照
悲惨と向き合うとは、歴史を鑑とするとは―会場の片隅で考え続けたこと24
木村知義
国家の罪と歴史に向き合うわたしたちの責任とはどのようなことなのか、会場の片隅に席を得て、この重い問いを自身の胸に問い続け、考え続けた1日であった。今回の「フォーラム」については、何人かの人から重ねて案内をもらっていた。さて、たしか会場はかなり大きいはずだがそんなに人が集まるのだろうかと、思案をめぐらせながら両国に向かった。開場の時にかなりの余裕を持って江戸東京博物館に着いたつもりだったが、入場者の長い列ができていた。さらにホールに足を踏み入れて驚いた。いまどき、というのは残念極まることなのだが、まさにこのご時世、中国と冠がついた集会、会合にこれほどの人が集まるとはと、半ば信じられない思いで席に着いたのだった。開会の時には文字通りの満席になった。当日でも入れるだろうと思って来た人たちは入場を断念して帰らざるをえなかったという。「中国残留孤児問題」という、重いテーマのフォーラムにこれほどの人々が参集することに、まず、開会前から、さまざまに思いがめぐることになった。 /// 続きは本誌ご参照
“日本鬼子”の歴史とこれからについて思うこと―歴史認識との関わり方を模索して27
田村美佳
2016年9月16日午後8時、アメリカ・ニューヨーク。市内最大のジョン・F・ケネディ空港から地下鉄で宿泊先の安宿へ。ふと耳に北京語が入る。「你们去哪儿?(どこへ行くの?)」見上げれば、対面に腰掛ける軍服風の服装に身を包む浅黒い男性。歳は50代半ばだろうか。思わずこう答える。「我们去南方的,去便宜酒店。下一站应该要换车吧?(南のほうの安宿へ行くの。次の駅で乗り換えよね?)」福建省出身だというその男性はニコリと頷き、言葉を続ける。「从哪里来的?(どこから来たの?)」反射的にこう答えていた。「我们都是从大陆来的(中国から来たの。)」この冗談に、男性はなぜか日中の戦争の歴史について語り始めた。第二次世界大戦だ。彼の口をついて出てくるのは「日本鬼子」。14年前に盧溝橋前で聞いたあの言葉だ。ズキンと胸にいいようのない痛みを感じながら、当時、北京旅行中に現地の小さな女の子に浴びせられた一幕を思い起こしていた。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留孤児問題フォーラムに参加して―2016年10月2日(日)江戸東京博物館一階にて30
今村春江
私は、牧野さんに誘われて、このフォーラムに足を運びました。そこで「望郷の鐘満蒙開拓団の落日」という映画をみました。実は、私は今まで全く戦争にかかわるドラマ、映画を見たことがありません。あの有名な大地の子も一回も見ていません。皆が見ていても、当然その話には加わったこともありません。この映画が私の初めて見た戦争映画となりました。映画の中での、道端に子供の遺体が映し出されたシーンに涙が止まりません。 /// 続きは本誌ご参照
中国人養父母について思うことーパネリストとして中国残留孤児フォーラムに参加して31
安原幸彦
10月2日に江戸東京博物館で開催された中国残留孤児フォーラムのシンポジウムにパネリストとして参加させていただきました。私は、担当した中国「残留」孤児国家賠償訴訟の経験から、シンポジウムのテーマ「敵国のこどもを育てた中国人養父母」について思うところをお話しました。その内容をご紹介しつつ、シンポジウムに参加した感想とそこで感じた今後の課題について述べさせていただきます。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留孤児―配偶者支援いまだ「法の隙間」 「60歳未満死去」給付受けられず32
佐藤大(東京新聞)     転載元:東京新聞(2016年11月24日付)
中国残留孤児の肉親を捜す国の訪日調査が始まってから、三十五年が経過した。遅々たる歩みながら法律が整備され、帰国した孤児らに対する経済的な支援は広がった。しかし「法の隙間」が残されたままになっている。孤児とともに祖国を離れて来日し、苦労を共にした中国人配偶者の一部に支援が行き届いていないのだ。 /// 続きは本誌ご参照
忘れない“敵国の子ども育てた養父母の恩”―東京「中国残留孤児フォーラム」に650人33
大田宣也     転載元:日中友好新聞(2016年10月25日付)
日本の中国侵略戦争によって、中国東北地方(旧「満州」)に送り込まれた「満蒙開拓団」。敗戦時のソ連の侵攻のさい、置き去りにされた「中国残留孤児」は4000人(中国側発表・厚生労働省発表は2818人)といわれています。戦後71年を経て、帰国した残留孤児の有志が呼ぴかけ、10月2日東京都江戸東京博物館で「中国残留孤児問題フォーラム=敵国の子どもを育てた中国人養父母」が開かれ第2会場を含め午前午後で延ベ650人が参加し熱気に包まれました。 /// 続きは本誌ご参照
東京 中国残留孤児問題シンポ “二度と戦争しない”―「敵国のこどもを育てた中国人養父母」に感謝34
しんぶん赤旗     転載元:しんぶん赤旗(2016年10月3日付)
「敵国のこどもを育てた中国人養父母」をテーマに、中国残留児問題を考えるシンポジウムが2日、東京都内で開かれ、約450人が参加しました。催は一般社団法人日中協会、NPO法人中国帰国者・日中友好の会などが後援する中国残留孤児問題フォーラム実行委貴会。 /// 続きは本誌ご参照
面影なき面影探して―「私は残留孤児」中国から訴え続け35
筋野健太(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2015年12月25日付夕刊)
終戦から70年たった今も、自らが中国残留日本人孤児だと訴え続けている人たちがいる。しかし、申請しても養父母や近親者などは亡くなっており、今となっては証明する手がかりすらない。日本への強い思いを胸にしたまま、申請者自身の高齢化も進んでいる。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留孤児と告げられて―祖国知るすべもなく36
筋野健太(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2015年12月26日付夕刊)
自分は、日本人なのか中国人なのかー。年老いて、周囲から「あなたは中国残留日本人孤児だ」と告げられた人たちがいる。しかし今となっては、証言してくれる人も証拠もなく、厚生労働省の孤児認定への扉は開かない。中国人として70年以上生きてきたアイデンティティーが揺らぎ、苦しむ人たちを追った。 /// 続きは本誌ご参照
国際善隣協会主催「引揚70周年記念の集い」に参加して37
高橋健男
教職退職直前からライフワークとして始めた私の満州移民研究は、まもなく15年に達する。文書・手記類の発掘・調査、関係者への体験聴取、旧満州入植地等への慰霊・調査旅行、国内の関係地や施設の訪問と重ねてくる間に、各種集会に参加する機会も多かった。今から10年前の2006(平成18)年11月27日、九段会館において「引揚60周年記念の集い~いま後世に語り継ぐこと」が開催された。会場は各階の通路まですべてを埋め尽くす1,500名が集ったと聞く。場内に入れなかった方々はロビーを埋め、テレビ中継で中の様子を見入っていた。ちょうど通路脇の席を得た私は、通路に座った年配者が「引揚船はこんなものじゃなかった…」と語り合っているのを聞いたことを思い出す。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州の実像 次世代に 関東の大学院生ら―見附で調査 資料収集、デジタル化39
新潟日報     転載元:新潟日報(2016年9月11日付)
旧満州の記録を収集・保存している関東の大学院生らが10日、見附市の満州移民研究家・高橋健男さん(70)を訪れ、県内の満州開拓団の会報などを収集した。デジタル史料化し後世に伝えるのが目的で、院生らは「失われつつある記憶をたどり、満州の実像を後世に残したい」としている。 /// 続きは本誌ご参照
「引揚70周年記念の集い」に参加して40
天野博之
今年は、敗戦の時に日本人がもっとも多く居住していた満洲からの引揚げが始まって70年に当たります。これを機会に、満洲ばかりでなく、朝鮮・台湾・樺太などからの引揚げを記念する集いが、10月20日、東京の銀座ブロッサム中央会館で開かれました。約750名の参加者の多くは70代、80代と思われ、敗戦前後の外地で苦難に耐え、帰国後の生活不安を抱えながら家族を守って引揚げてきた現役世代の方の参加が少なかったように見えました。10歳で満洲吉林で敗戦を迎えた私が今では81歳、歳月の経過の重さを考えると止むを得ないこととは思いながらも、寂しい思いをじることはできませんでした。 /// 続きは本誌ご参照
二つの集いに参加して―『残留孤児問題フォーラム』と『引揚70年記念の集い』に思う43
大類善啓
数年前だったか、今や「満洲ブーム」だといわれたことがあった。とにかく“満洲”に関連する書籍が相次いで刊行されたことがあった故なのだが、この傾向はなお衰退してはいないようだ。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館を訪ねて―ドイツ人の祖母の体験を重ねて思う44
木村護郎クリストフ
本誌「星火方正」で満蒙開拓平和記念館のことを知り、ぜひ見に行きたいと思っていました。9月10日、飯田在住の義姉夫妻に連れていってもらい、念願かなって、妻と子ども二人とともに訪ねることができました。 /// 続きは本誌ご参照
中国に想いを残して―中国残留婦人4人の生と死46
千島寛
本誌前号(22号)で『祖国に帰らぬ残留婦人たち』ーその孤独な心を撮るーを紹介させていただいた。この表題を『中国残留婦人それぞれの選択』ー中国残留、日本帰国、日本帰国後中国再渡航ーに訂正する。そこに登場した4人の残留婦人たちは、いずれも、すでにこの世にないが、ある女性は、あの強烈な表情で、ある女性は、平静を装った表情の裏で、どんな悲しみを秘めていたのか…私が彼女たちを撮りながら、あるいは話を聞きながら感じた、彼女たちの、ぎりぎりの生と死の一端を伝えなければ…という思いに駆られた。そのすべてを伝えることはできないが、彼女たちが、あの表情の裏で、どんな晩年を生きて死んで行ったのかを伝えたいと思う。 /// 続きは本誌ご参照
映画『望郷の鐘』の舞台・宝清県を訪ねて48
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館副館長・専務理事)
8月末から9月初めにかけて、あの映画『望郷の鐘』の舞台となった旧ソ満国境近くの(現)黒竜江省の宝清県を訪ねてきた。今回は飯田日中友好協会の訪中団(清水可晴飯田日中友好協会会長以下25名)派遣事業に合わせて、その旅行後半にて当方らB団16名(当方分団長)は足を伸ばして宝清県を訪ねることが出来た。 /// 続きは本誌ご参照
大連から方正へ―旧満小ゆかりの地を巡る52
田中佐二郎
この6月、「日本と中国」(公社・日中友好協会)に掲載の「星火方正」22号の紹介記事で松田ちゑさんの訃報を知り、26年前の記憶が卒然とよみがえってきた。1990年8月、単独で方正の日本人公墓を訪ね、松田さんとお会いした思い出だった。 /// 続きは本誌ご参照
特派員メモ:イルクーツク(ロシア)―戦没者への敬意56
中川仁樹(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2016年12月6日付朝刊)
ロシア東シベリアのバイカル瑚近くにある日本人抑留者墓地が10月、ロシアの木材加工会社により修復された。ここに埋葬されたとみられる60人の名を彫った白い石の墓言れいに並んでいる。同社広報のインナ・チュピコバさんは「日本兵に追悼を捧げ、日ロ友好の象徴にしたい」と話した。 /// 続きは本誌ご参照
いま問い直される重慶大爆撃―『重慶大爆撃を知っていますか』写真展を終えて57
鈴木賢士
方正友好交流の会に関係されている皆さんなら、日本軍による重慶大爆撃のことはご存知だと思います。実はこの夏、8月29日~9月2日、重慶大爆撃の被害者と連帯する会・東京の主催で、『重慶大爆撃を知ってますかー国際法違反の無差別爆撃を問う』という写真展が、東京の九段生涯学習館・九段ギャラリーで開かれました。会場には、爆撃当時の写真・地図や中国档案館の史料、日本軍の戦闘詳報など約190点を展示しました。期間中毎日会場でミニ講演会が開かれ、フェリス女学院大学名誉教授の石島紀之さん、軍事ジャーナリストの前田哲男さん、ジャーナリストの沢田猛さん、東京女子大学教授の聶莉莉さん、そして私もお話ししました。5日間で500人を超える来場者を迎えることができました。 /// 続きは本誌ご参照
母が死刑から無罪へ―3年半ぶりの再会62
崔鳳義(故松田ちゑさんの息子)
1971年11月22日、私は公安局の友人から、お母さんが間もなく釈放されるよ、という連絡をもらった。この知らせを聞いて、私は義父と、飛び上がって喜んだ。まるで暗闇の中で曙の光を見たようだった。私たち母と子が団欒できる時が、家族が団欒できる日がこようとしているのだ。私と義父は、この幸福な時刻が早く来るように待った。 /// 続きは本誌ご参照
徐士蘭の虚と実―新たにわかった15年前の厚労省調査65
奥村正雄
また一つ、徐士蘭をめぐるナゾが明るみに出てきた。厚労省が中国・ハルピンに何回か赴いて、自分が残留孤児だと認定してほしい、という申請者と直接、面談して、その申請の内容が妥当かどうかを「裁定」した。私たちは2007年に方正の宿で初めて徐士蘭に会い、その熱っぽい訴えを聞いた。この時、徐士蘭は「厚労省は私を残留孤児とは認めてくれない」と熱っぽく訴えたが、厚労省に孤児と認定してもらうにはどういう手順を踏むのか、について私たちはまだ知らなかった。そのため徐士蘭が「自分は中国残留孤児である。その根拠はこれこれである。どうか孤児と認定してほしい」とでもいう書類を日本の厚労省へ送った。しかし厚労省は私の訴えを聞いてくれない。なんとか助力してほしい…こうした訴えだと理解した。 /// 続きは本誌ご参照
中国の留学生 趙曼婷さんが葛根廟事件を研究67
大島満吉
2016年4月28日付けで趙曼婷さんから手紙が届いた。神奈川大学歴史民俗資料学研究科博士後期課程の3年で森武磨教授のもと、満州移民を中心とした勉強をされているという。中国の学生さんが葛根廟事件を研究するという内容なので、嬉しい半面、何が目的なのか、どうして葛根廟事件なのかと一瞬、不思議に思いながら手紙を読んだ。しかし本気で取り上げてくれるのなら当方としても有り難い。ひと通り読んだ後、早速、こちらからの質問も交えて返事を書いた。 /// 続きは本誌ご参照
戦争に思うこと71
有為楠君代
私も戦争を体験した世代の端くれなのですが、私には、戦争の辛い思い出がありません。終戦の年の4月に、小学校に入学する予定だったのですが、3月10日の東京大空襲で、家も学校も焼かれてしまい、4月の入学は出来ませんでした。そんな年齢ですから、空襲で逃げまどい、焼野が原のバラックで生活したはずなのですが、3月30日生まれで、空襲の時は5歳の終わり、4月になってやっと満6歳になったと言う年齢ばかりでなく、生来晩生の性質のようで、あまり覚えていないのです。大空襲の時は、防空頭巾をかぶって避難したのは微かに記憶の隅にあるのですが、大変だったとか、恐ろしかったと言う記憶は無く、ただ、空から火が降って来て、道路に等間隔で並んだのをきれいだと感じた気がします。 /// 続きは本誌ご参照
紹興と南京への旅73
下山田誠子
今年の6月に4泊5日の久々の中国を旅行しました。魯迅とその文学に敬意と愛着をもって少し学んできましたので紹興という地名に懐かしく心躍るものでした。上海から高速鉄道で南京に。市内の夫子廟の入口に赤いランタンが灯り、当時を模した町並みに観光客が溢れておりました。売店の入口に孔乙巳の等身大の像があり、そのうらぶれた姿に魯迅の作品『孔乙己』の世界に連れ戻されたようで、レプリカといえない賑やかな繁華街を書生になった気分で歩きました。しかししばらくして夢からさめてしまいました。 /// 続きは本誌ご参照
周恩来と国際主義的精神(第4回)75
大類善啓
国際主義的精神はすでに、現在の中国共産党指導部からも消えてしまった、と思われる。よく知られているように周恩来は日本人民と日本の軍国主義者とを区別し、その時々の日本政府の方針に批判的であっても、日本人民との友好は大切であると語り続けた。このような政府と人民を区別する態度は当然だが、アメリカに対しても同様だった。1955年、バンドンでの国際会議で恩来は各国の外交官から、アメリカとはどうなのかと聞かれると、「中国の人民とアメリカの人民は友好的で、中国はアメリカと戦争はしたくない、そんなつもりはない」と語った。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い80
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍案内を兼ねた編集後記81
大類善啓
今年2月、96歳の波乱に満ちた生涯を閉じた松田ちゑさんの生涯を描いたドキュメント。知のように松田さんは、残留婦人として日本人公墓を方正県政府に願い出た人である。 /// 続きは本誌ご参照

  第22号(2016年5月発行) 第22号(2016年5月発行)表紙

松田ちゑさん逝く 享年96歳一獄中3年、死刑から無罪へ1
奥村正雄
2月29日、外出から帰宅した私は、ルスロク(留守録)を聞いて、わが耳を疑った。「松田ちゑの孫です。おばあちゃんが亡くなりましたのでお知らせします」松田ちゑさんの孫娘・幸子さん(40歳)が知らせてくれた電話だった。そんな?!…昨年暮れも押し詰まった12月29日、息子・雀鳳義さん(68歳)に電話して松田さんの様子を聞いた時も、「いつものようにデイサービスに行ってるよ」という答えだった /// 続きは本誌ご参照
中国側の証言を求めて―「満蒙開拓平和記念館」調査訪中報告4
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館副館長・専務理事/本会理事)
昨年10月10~14日の5日間と短期間ながら、満蒙開拓平和記念館による旧満州への調査訪中を実施した。当記念館としては一昨年6月実施の第1回調査に続く2回目の訪中調査である。今回の調査訪中の主たる目的は3つ、1つ目は前回にも実施したものの不十分なままに終わってしまった現地農民等中国側の生の証言の収録に再度取り組んでみること、2つ目は当館との交流を深めている中国側の民間ボランティア団体「ハルピン市養父母連絡会」との交流、特に同会がハルピン市内の「731部隊陳列館」にて常設展示している「中国養父母展」の日本国内展示に向けての実務的な打ち合わせ等を行うこと、そして3つ目は現地の開拓団跡地等を訪問し、比較的若い皆さんの多い記念館スタッフ等に、かつて満蒙開拓団の人たちが暮らした場所を実際に見てもらう中で、今後の活動の参考として欲しいということであった。 /// 続きは本誌ご参照
方正地区と伊漢通の開拓民避難状況記縁9
高橋健男
元北海道新聞記者でノンフィクション作家の合田一道氏によって報告された「北満農民救済記」録は、満州移民研究者にはよく知られた貴重な記録、歴史資料である。「ソ連軍の侵攻や中国人の蜂起にさらされて逃避行を続けた開拓団が、やっと哈爾浜に到着し、日本人居留民会に届けた記録」(合田氏)である。 /// 続きは本誌ご参照
「虫の目」ではなく「鳥の目」で考察を!15
矢吹晋
昨年は敗戦70年であり、さまざまの回顧行事が行われた。音質のよりクリアーな玉音放送が発見され、いくどか放送されたが、そこでは音質にばかり注意が向けられ、その内容にはほとんど関心が向かなかった。この「終戦勅語」では、対米英敗戦の事実は語られているが、対中華民国との敗戦は、実にアイマイだ。敗れたのかどうか、人々の脳裏に疑問が残ったのは当然であった。実は、日本が開戦勅語によって対米英の宣戦を行ったが、その論理がおかしいのだ。これを大東亜戦争と名付けて、ついでに慮溝橋事変以来の「事変」を大東亜戦争と新たに名付けた戦争の一部として追認した。ところがこれは日本国内に対する定義にとどまった。 /// 続きは本誌ご参照
満鉄会の解散について21
天野博之
平成28年(2016)3月をもって、70年の歴史を持つ満鉄会は解散しました。満鉄会解散が複数の新聞に最初に報じられたのは、27年12月半ばのことです。この日から連日事務局には、おびただしい電話、メール、訪問客がくるようになりました。父祖のルーツを知るため、あるいは自分史を書くため、という理由です。 /// 続きは本誌ご参照
「満州」に渡った私たち一繰り返してはならない怨念の連鎖23
名取敬和
私は昭和3(1928)年、長野県諏訪郡富士見村(富士見町)に農家の2男として生まれた。当時、富士見村も経済更生村に指定され、村の優秀な青年が「開拓の父」と言われた加藤完治の教育を受け、3人組が連日役所に押しかけ、村の更生は満州分村以外にない、と口角泡を飛ばし村長に迫る。村長、樋口隆次氏は犬養総理や小川平二代議士とも交流があり、満州開拓移民には反対であったようだが、村長という立場上、村の更生の責任を感じ、押し切られ、村議を重ね、立派な宣言文をつくり、村の三分の一を移住させ、自ら団長となって指揮をとる、と村民の協力を求めた。 /// 続きは本誌ご参照
祖国に帰らぬ残留婦人たちーその孤独な心を撮る:千島寛写真展27
千島寛
「中国残留婦人一さよなら日本、再見中国」を昨年12月11日から17日まで、東京・銀座5丁目の『フレームマン・ギンザ・サロンギヤラリーII』と、そのミニギヤラリーで開催しました。1945年の敗戦後、それそれの理由で祖国に帰国できなかった林薫(黒竜江省チチハル市)、本間武子(遼寧省瀋陽市)、浦崎蓮(内蒙古自治区札蘭屯市)、小田今朝江(内蒙古自治区阿榮旗)の中国残留婦人の、4人の異国での日常生活を1995年から2015年まで、20年間、中国と日本で撮影したものです。 /// 続きは本誌ご参照
再び戦争をしないために戦争法(安保法制)廃止を!―「満蒙開拓団」の経験を踏まえて改めて今思う29
石橋辰已
『星火方正』には多くの方々の満蒙開拓団悲惨な逃避行が述べられ、私も2014年5月発行の18号に「満蒙開拓団・私が歩んだ道」を掲載させてもらいました。2014年3月「方正友好交流の会」の企画による「満蒙開拓平和品念館」を訪ねる長野県下伊那の旅に参加して、品念館の資料を見学し、寺沢秀文専務理事のお話、語り部の故・中島多鶴さんのお話を聞いて、方正で開拓団の人々から聞いた話を思い出しました。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児の体験記を日中両国語で本に―池田澄江さん(71)32
五味洋治(東京新聞)     転載元:東京新聞(2016年4月15日付朝刊)
「残留孤児の悲劇を繰り返してはいけない」。体験記にそんな願いを込めた。 /// 続きは本誌ご参照
戦後70周年平和祈念:満州開拓団の悲劇『声なき氷像』公演を終えて33
飯牟礼一臣(市民劇団「あびこ舞台」代表)
アマチュア劇団ながら創立24年目を迎える「あびこ舞台」では、敗戦直後の満州開拓団の悲劇をテーマにした舞台劇『戸なき氷像』を、東京、横浜、松戸、柏、我孫子など関東一円で、これまで21回にわたって上演してきました。昨年は戦後70周年の節目。我孫子市最大・定員550名のホールで、第1部(満州編)・第2部(日本編)と新しく2時間30分の書き直した『戸なき氷像』を、8月と12月、それぞれ1日2回公演。いずれも多くのお客様にご覧頂きました。この劇は敗戦直後の満州で10歳のとき、私が直接目にした満蒙開拓団の姿を描いたものです。 /// 続きは本誌ご参照
自ら刺したトゲに…―徐士蘭の背負った悲劇36
奥村正雄
あの日――からもう4年になる。新潟空港で再会し、徐士蘭が胸に飛び込んできて泣いたシーンが、今も鮮やかに蘇る。10日間だけの祖国訪問の、翌日からの日程のトップに厚労省訪問を決めたのも、「あの緊張シーン」が頭にあったからだった。2007年の6月、中国・黒竜江省ハルピン市方正県のホテルのロビーで羽田澄子監督のロケチームがロケを終えて、いったんホテルに帰った時だった。それを待ち構えていた徐士蘭が、激しい口調で、自分が残留孤児であることを訴え、私の部屋に場所を変えてからも、一緒に来た長女をそばに座らせて、休むことなく、日本の厚労省が自分を孤児とは認めてくれない不当を、激しい口調で訴え続けたのだった。あのイメージが頭から消えなかった私は、厚労省訪問という気の重い日程をまず最初にクリアーしたい、という気持ちがあったから、まずは第一日目に厚労省訪問を決めたのだった。 /// 続きは本誌ご参照
奉天(審陽)、大連での子供時代を振り返ってーつれづれ思い出すままく満州覚書>38
篠原浩一郎
昭和20年4月から奉天の高千穂小学校に入学した。幼稚園があった弥生小学校ではないので少し不安だった。父親は満州鹿島組の取締役土木部長で、満州鹿島組奉天営業所所長を兼ねていた。事務所と社宅が一体になった2階建てで、L字型の一辺の1、2階は事務所、他の一辺は社宅になって上下6軒ほどだった。敷地の中に平屋の家があり、保守の満人(編集部注当時、“満州”にいた日本人は、現地にいた中国の人々をそう呼んでいた)の劉さん一家が住んでいた。どういう漢字なのか知らないがユースンという同い年の男の子がいた。彼の家は土間にかまどがあり、お母さんがいつも中華鍋でジャージャーと揚げ物をしていた。ねじり棒のお菓子とか、餃子とかもらうのが楽しみだったが、母親からは不衛生だから行ってはいけないといつも叱られていた。会社の中も子供たちの遊び場で職員たちもかわいがってくれた。 /// 続きは本誌ご参照
三橋文子さんの手紙43
川合継美
2004年、秋の訪れを感じ始めた頃のある日、私は見知らぬ女性からー通の手紙を受け取った。差し出し人は、三橋文子さんとある。手紙を読み終えて、私は何と不思議なことだろうと驚きと当惑を覚えずにはいられなかった。手紙の書き出しから、謙虚で慎ましい人柄を感じることが出来る。三橋さんは近くの図書館で、私の著書『風の嗚る北京』を読んだこと、そして、読み進むうちに手が震え、胸が高嗚った、とその衝撃の強さを述べていられる。それほどの衝撃を受けた内容とは、私が父、梨本祐平の著書『中国のなかの日本人』のー文を引用していた部分についてであった。 /// 続きは本誌ご参照
フィリヒン・ミンダナオ島から引き揚げた私45
丹野雅子
私は、昭和11(1936)年12月27日、フィリヒン・ミンダナオ島タバオ市ミンタルに生まれた。大正9年頃というから1920年頃だろうか、祖父(母の父)は、フィリヒン・ミンダナオ島のタバオに移民として渡った。そこで、バナナの葉に似た葉、マニラ麻(現地ではアバカという)やラミ麻、果樹園、家畜などの事業を展開し、後には日本人小学校、―校を設立した。私は小学校の1年半までミンタル小学校に入学し、楽しい幼少時代を送った。 /// 続きは本誌ご参照
周恩来と国際主義的精神(第3回)48
大類善啓
本稿は本誌20号の第1回に記したように、本来は若い研究者を中心に発行する予定だった『日中の未来を見つめる日本人公墓ー中国黒竜江省方正県』(仮)の最終章に入れるべく書いたものである。しかしこの止画は残念ながら実現できず、拙文を独立して本誌に掲載するものである。本稿は、日本人公墓建立を許可した周恩来の国際主義的精神がどのように形成されていったのかをまとめたものであり、周恩来の伝記として書いたものではないことを改めて記しておきたい。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い56
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍案内を兼ねた編集後記57
大類善啓
3月に入って南誠さんから上記の大著が送られてきた。南さんのお名前については、本誌の創刊号あたりから読んでいる方には記憶もあるだろう。当会の発足時点から理事として活動しており、2006年3月に発行した『星火方正』2号に「方正訪間記一『方正日本人公墓』と私一」という文章を書いてくれている。 /// 続きは本誌ご参照

  第21号(2015年12月発行) 第21号(2015年12月発行)表紙

徐士蘭さんのウソと真実ー孤児には重すぎた二つの十字架1
奥村正雄
私が徐士蘭さんと劇的な対面をしたのは、今から8年前、2007年の6月だった。この頃、私は毎年、この時期に中国黒竜江省方正県にある日本人公墓参拝のツアーを組んで方正を訪ねつづけていた。この時期を選んでいた理由は2つある。一つはこの頃、日本はうっとうしい梅雨の時期だが、中国の東北部は毎日、湿度の低い、カラッとした晴天続き、年によっては道路の両側に植えられたアカシヤの花が舞い落ち、方正へ向かう私たちを笑顔で迎えるように、バスの窓から入ってきたりした。もうひとつ、この時期を選んだ理由がある。7月に入ると、夏休みをまぢかに控えて航空運賃が高くなるから、だった。 /// 続きは本誌ご参照
難民を呑みこんだ河―方正への逃避行調査報告5
郭相声・石金楷
1945年8月15日、日本の敗戦投降後、北満(現在の黒竜江省)に滞在していた日本の開拓団は、何の助けも得られないまま、本土への大逃避行が始まった。筆者は1983年、地方誌を編纂していた時、当時三江地区すなわち佳木斯(ジャムス)の広大な地区から方正県に至る開拓団難民の逃亡状況について広範な調査を行なった。現在既に90歳になる老人孫慶方に詳しく話を聞き、当時大羅勒密西河を渡った時の開拓団難民の死亡状況について検証した。 /// 続きは本誌ご参照
家族の「満蒙開拓」体験に思う8
村上二保子
私の祖父母、父と3人の叔母は珠山上高井開拓団として旧満州宝清県珠山にいました。そのため私は小さい頃から「満州」という言葉をよく耳にしていました。私は「おばあちゃんが満州にいた頃はね…」という祖母の言葉を日常的に聞いて育ちました。 /// 続きは本誌ご参照
私にとって「満州」とは何だったのか―つれづれ思い出すままく満州覚書>10
篠原浩一郎
本誌編集人の大類善啓氏と思わぬ出会いがあり、旧満州生まれということもあり、このような原稿を書く羽目になった。本稿はいわば私の満州覚書といったものである。1938年5月4日、満鉄撫順病院で生まれた私の家族を簡単に紹介しておこう。 /// 続きは本誌ご参照
「日本人孤児と中国養父母展」を開催12
大類善啓
ハルビン市養父母連絡会の名誉会長・胡暁慧女史が朝日新聞国際報道部の石田耕一郎さん(前溜陽支局長)を伴って8月中旬、事務局に来られた。胡さんとは方正でもお会いした仲である。主な要件は、ハルビン市にある「侵華日軍731部隊罪証陳列館」に常設されている日本人孤児を育てた中国養父母の写真展を日本で開催したいということである。開催時期はなんとしても11月初旬を希望するという。少々慌てたが、日本教育会館1階のギャラリーがちょうど空いており、11月11日から16日まで開催することに決めた。 /// 続きは本誌ご参照
「日本人孤児と中国養父母展」をどう見るか―戦後70年、いま2つの「もしも・・・ならば」を巡る若干の考察15
田村美佳
先般、神田の一ツ橋画廊にて「日本人孤児と中国養父母」と題する写真展が行われた。この展示会は、中国・ハルビン市養父母連絡会が主催する「中国養父母常設展」の内容を、日本国内展示用に編集し、パネル20数点に内容を凝縮したものである。本展示会の特徴は、過去の歴史に思いを馳せ、中国(旧満州)で「日本人孤児」となった現役世代、もしくは、同じときを生きた世代、さらには、我々後世の世代に向けて、メッセージ性の強い企画構成となっており、注目すべきは、現役世代の来場者間の交流・情報交換の場、というシンボリックな場として機能していたことである。 /// 続きは本誌ご参照
母の愛は永遠―中国養父母写真展 東京で開催17
石金楷
2015年11月11日から16日まで、中国ハルビン市日本残留孤児養父母連絡会、黒竜江省社会科学院、日本日中科学技術文化交流センターが主催し、中国帰国者日中友好の会、長野県満蒙開拓平和記念館、方正友好交流の会が協賛する『中国残留孤児養父母写真展』が東京都千代田区の日本教育会館で開催された。中国紅十字報、朝日新聞、信濃毎日新聞などがこれを伝えた、多くの参観者から「残留孤児のことはよく知っていたけど孤児を育てた中国の養父母の具体的な映像を見るのは初めて。とても感銘を受けた」という声が聞かれた。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留孤児の生活伝える―養父母との歴史 千代田でパネル展19
朝日新聞     転載元:朝日新聞(2015年11月12日付朝刊)
戦後、中国に残された日本人孤児と中国人の養父母との歴史を紹介するパネル展が、千代田区一ツ橋2丁目の日本教育会館で11日から始まった。 /// 続きは本誌ご参照
阿智の満蒙開拓記念館など協賛―「残留孤児と養父母」都内で展示20
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2015年11月12日付)
中国残留孤児と中国人養母の歴史を紹介する「日本人孤児と中国養父母歴史展」が11日、東京都千代田区の日本教育会館1階にある一ツ橋画廊で始まった。養父母の生活支援をしている「中国黒竜江省ハルビン市日本孤児中国養父母連絡会」などの主催で、下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館などが協賛した。養父母と孤児の歴史に光を当てて不戦を誓い、日中友好の土台としたい考えだ。 /// 続きは本誌ご参照
日本人孤児を育てた中国人養父母の歴史20
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2015年12月1日)
70年前の日本の敗戦により、中国大陸に残された日本人孤児と、孤児たちを育てた中国人養父母の歩みを紹介する「日本人孤児と中国養父母歴史展」が11月11日から16日まで、東京・千代田区の日本教育会館で開催された。(一社)日中科学技術文化センターとハルビン市養父母連絡会などが主催し、方正友好交流の会、満蒙開拓平和記念館、NPO中国帰国者・日中友好の会が共催した。 /// 続きは本誌ご参照
知ってほしい中国残留孤児の歴史21
別府薫(朝日新聞編集委員)     転載元:朝日小学生新聞(2015年11月12日付)
今から70年前に戟争が終わった前後の混乱で、中国大陸では多くの日本人の子どもたちが親とはぐれて孤児になりました。「中国残留孤児」といいます。こうした子どもたちや養父母の歴史を、語り継いでいこうとしている人たちがいます。 /// 続きは本誌ご参照
《日本人孤児和中国養父母》展 在千代田区的日本教育会館隆重挙弁22
小峰(網博週報記者)     転載元:網博週報(2015年11月27日付)
11月11日-11月16日,由日中科学技術文化中心和旧満洲的中国黒龍江省残留孤児養父母連絡会共同挙弁的《日本人孤児和中国養父母》展在千代田区的日本教育会館隆重挙弁。 /// 続きは本誌ご参照
残胄孤児育てた人々の思い―旧開拓地で聞き取り調査23
南信州新聞     転載元:南信州新聞(2015年10月21日付)
阿智村駒場の満蒙開拓平和記念館はこのほど、4泊5日の日程で中国東北部の旧開拓地を訪問し、残留孤児を育てた中国人養父母や当時を知る古老、未認定残留孤児などの聞き取り調査を行った。証言は今後映像などにまとめられ、同館で上映する。また11月中旬以降に、中国養父母を紹介するバネル展示を企画している。 /// 続きは本誌ご参照
新中国で体験したこととは…―1946年~1969年、文革初期まで中国に住んでいた私24
岡崎温(公益社団法人日中友好協会理事長)
《解説》この岡崎温さんの講演は、今年(2015年)6月7日、方正友好交流の会.第11回総会後に行われたものである。岡崎さんは1946年、日本敗戦後の中国・長春で生まれた。旧満州にいた日本人が日本に帰国し始めの頃だが、岡崎さんはお父上の関係で、中国に残り、そのまま中国で学校生活をされたという非常に珍しい体験の持ち主である。機会があれば、一度ゆっくりと中国での生活などをお聞きしたいものだと思っていたが、このような形でお話を聞けたのは良かったと思う。岡崎さんはこの講演で、1969年に帰国されるまでのことを縷々語っていただいたが、帰国後のことは語られていないので、ここに簡単に記しておこう。岡崎さんは、帰国後すぐに日中友好運動に携わろうと、1969年秋には日中友好協会に入り活動を開始。71年には愛知県日中友好協会の専従職員になり、名古屋で開催された「第31回世界卓球選手権大会」に携わった。いわゆる「ピンポン外交」と呼ばれた歴史の転換点に立ち会われたのである。その後、事務局長になり、2014年には公益社団法人日中友好協会の理事長に就任され、今なお日中友好運動の第一線に立たれている。(大類善啓記) /// 続きは本誌ご参照
天を恨み、地を呪いました―松田ちゑさんの半生・94春秋 その2(3)37
奥村正雄
1945年8月、松田ちゑさんたち三江省依蘭県北靠山屯村山開拓団の一行は命からがら方正の近くにたどり着いたが、収容されたのは方正郊外の伊漢通開拓団跡だった。ここはもちろん定住地ではなく、ハルピンを経て祖国日本へ帰るための通過点のはずだった。だがここで新たな悲劇が避難民を待っていた。松田さんの『天を恨み地を呪いました』は次のようにレポートしている。 /// 続きは本誌ご参照
澤地久枝さんの阿智村での講演42
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館)
去る11月3日、ノンフィクション作家の澤地久枝さんが、満蒙開拓平和記念館並びに飯田日中友好協会の招きにより記念館のある長野県阿智村に来られ、『私の満蒙開拓団体験』という演題で講演して頂きました。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館を訪れて46
風間成孔
戦後70年、わがふるさと信州阿智村に常設されている「満蒙開拓平和記念館」を訪れた。7月25日(土)に新宿から伊那行き高速バスにて中央道を4時間半乗車、上飯田バス停までお出迎え頂いた寺沢秀文専務理事の車で、我々3名は午後2時記念館に到着した。折りしも記念館のセミナールームでは、満蒙開拓団の語り部(私と同年代の男性)が終戦時満州から逃れてきた生々しい体験談を語っている最中であった。 /// 続きは本誌ご参照
「中国帰国者戦後七十周年記念公演会」を鑑賞48
吉川雄作(会員)
去る8月26日、所沢市民文化センターで開催された「中国帰国者戦後七十周年記念公演会」に、ちば帰国者支援・交流の会の一員として、座席を与えられる幸いを得た。私的に撮った写真を主に、概要を紹介する。 /// 続きは本誌ご参照
ある中国残留孤児が綴る『この生あるは』を読む50
石尾喜代子
中島幼八さんは、かつて私の勤務した日中友好協会の同僚である。1966年3月末に、私は学校を卒業してすぐに大阪から上京し、飯田橋の善隣学生会館(いまは取り壊されて財団法人日中友好会館が建っている)の1階にあった日中友好協会に勤務した。ちょうど同じ時期に、中島さんも事務局に入ってこられた。この年は、中国では毛沢東主導の下、プロレタリア文化大革命が勃発したこともあって、日中友好協会はこれを批判する「共産党系」と、大衆運動ではこれに対する賛否両派があるのは当然であるという「非共産党系」の二つに分裂、その後「日中友好運動」はしばし混迷の状況下にあった。そういう状況下であったために事務局に勤務した人々は、その後の人生は様々な道を歩むことになった。私は、「非共産党系」の組織を選んで、1969年3月まで勤務していた。中島さんも同じ組織に所属していたので、約3年間は同僚であったが、その後の中島さんがどのように生きておられるかは全く知らなかった。 /// 続きは本誌ご参照
忌まわしい負の事実を問う:小林節子著『私は中国人民解放軍の兵士だった―山邊悠喜子の終わりなき旅』を読む53
石飛仁
日本と中国の戦前戦後の関係史には、今も尚多くの戦争の傷痕が残っている。一部では化膿して永遠に治療が出来ないのではと思いたくなるほど悪化しており、その爛れぶりは年々深刻にさえなっている。戦後は70年にもなるのに一向にその傷が癒えないのはなぜか、ということをもっともっと真剣に事実を掘り起こして確認し、事実をして特効薬を見つけ出し完治するまで徹底するしか方法はないと私は思っている。 /// 続きは本誌ご参照
戦後70年、『「北支」占領 その実相の断片』を刊行して56
田宮昌子
本書(社会評論社刊)は副題を「日中戦争従軍将兵の遺品と人生から」とするように、日中戦争に従軍した日本軍将兵の遺品を、主に中国山西省従軍期の写真を中心に、裏付け調査と現在の視点からの考察を加えて公開しようとするものです。第一章では、山西省孟県を中心に、占領の拠点となった県城、占領と抵抗の攻防が繰り返された城外の農村地帯、遺品写真に映し出される占領の具体相、占領軍と現地住民の間に立たされた「対日協力者」の人生と遺族たちの現在、の4節に分けて、ほぼ八年に及んだ「北支」占領の実相に迫ります。特に第1節において内陸部の小さな街の「占領期」を詳細に再現することで「事実としての」占領を読者に伝えようとしています。 /// 続きは本誌ご参照
「大東亜聖戦大碑」について(続)58
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館専務理事)
前号の「星火方正」20号にて金沢市の石川県護国神社にある「大東亜聖戦大碑」について触れさせて頂いたが、その時に写真を掲載出来ませんでした。今年5月に訪れた時の写真です。このような大碑が建てられていることに改めて驚きを隠せません。 /// 続きは本誌ご参照
周恩来と国際主義的精神(第2回)59
大頼善啓
《前回までの粗筋》周恩来は、1898年3月、現在は淮安と呼ばれている江蘇省淮安府山陽県で長男として生まれた。本籍は浙江省の紹興である。周一族は300年前から紹興に住んでいた。紹興は12世紀からイスラム教徒が住んでいた国際的な町だった。周は「私の一族にもきっと少数民族の血が混じっているに違いない」と、周の詳細な評伝を著したハン・スーイン(韓素音)に語っている。生母は周が4歳の時に亡くなった。父は後妻を迎えた。周の極めて濃やかな心配りは、このような環境に生まれたこと、また長男という意識も大きかったのではないか。父の仕事の関係で、周は瀋陽で働いていた伯父のところに呼び寄せられ、遼寧省鉄嶺の銀崗書院で学び、その後、瀋陽で開設された奉天東関模範学校に入学した。家を離れ、東北に行ったことは周恩来にとって、生活や思想を大きく変える鍵になったようである。 /// 続きは本誌ご参照
旧満洲の日本人公墓を訪ねて66
しんぶん赤旗     転載元:しんぶん赤旗(2015年8月28日付)
8月中旬、中国黒竜江省ハルビンから200キロほど東にある方正県を訪ねました。トウモロコシ畑などが地平線まで広がり、この地域の大地の豊かさを実感しました。ここには、70年前に旧満州(中国東北部)で亡くなった日本人の公墓あります。 /// 続きは本誌ご参照
「平和」って?安保法案審議:若者は近現代史学んで66
鈴木敏夫(元都立高日本史教員)     転載元:東京新聞(2015年6月7日付朝刊)
東京都立高校で四十年以上日本史教員を務め、退職後の現在は、大学の非常勤講師をしている。サザンオールスターズのヒット曲でも歌われていますが、日本史の授業は終戦ごろまでが精いっぱい。例えば戦前の韓国併合は知っていても、植民地化が戦後の朝鮮半島にどのような悪影響を与えたかは分からない。そこを学ばないと、現在の日韓関係について正しく理解することは難しい。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州・撫順:収容日本兵に寛大処遇―「赦しの花」咲かせたい大阪の女性朝顔の種配る67
高知新聞     転載元:高知新聞(2015年7月28日付夕刊)
撫順の朝顔を知っていますか―。中国東北部(旧満洲)遼寧省にあった撫順戦犯管理所が収容する元日本兵を寛大に処遇し、釈放時に看守が朝顔の種を渡したエピソードから「赦しの花」と呼ばれる。大阪市福島区の野崎朋子さん(60)は現地で得た種を増やし、いわれを説明した上で知人や学校に配布。沖縄県・尖閣諸島をめぐる対立などで日中関係は悪化しているが、野崎さんは「平和と友好を考えるいい機会になる。人の手から手へ、取り組みが広がってほしい」と話している。 /// 続きは本誌ご参照
戦後70年京都・明日につなぐ:芸術への弾圧 忘れない―戦争直前に廃刊「京大俳句」を読む会68
田中京子(京都新聞)     転載元:京都新聞(2015年8月21日付)
「新興俳句の金字塔」と呼ばれながら、太平洋戦争直前に廃刊に追い込まれた俳誌がある。旧京都帝大(現京都大)0Bらが1933年に創刊した「京大俳句」だ。社会や恋愛など、幅広いテーマの作品を発表したが、治安維持法違反で15人が検挙され、発行できなくなった。創刊から80年余たった現在。JR芦屋駅から歩いて約10分の場所にある市民センターの会議室に、ひとり、またひとりと人が集まる。月に1度開かれている「京大俳句を読む会」だ。関西の俳人や俳句愛好家たちによって、7年間続けられている。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い69
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記70
大類善啓
12月は、毎年忙しい時期だが、今年はとりわけ忙しく、年内の発行を断念せざるを得ないかと、一瞬頭をかすめた。しかし、なんとか年内に発行できる運びとなった。原稿も当初の予想を超えて集まった。最近知り合ったご婦人は10歳のときに、フィリヒンのミンダナオ、ダバオで日本の敗戦を迎え、ジャンクルでの逃避行を余儀なくされた方だった。改めて、敗戦に伴う日本への引揚げ体験はさまざまで、本誌もできれば、旧満州以外での体験記事などを掲載し、戦争を知らない人たちに伝えていかなければいけないと思った。 /// 続きは本誌ご参照

  第20号(2015年5月発行) 第20号(2015年5月発行)表紙

麻山よ再び一岩崎スミ手記「野ざらしの骨」1
高橋健男
岩崎スミさんは1924(大正13)年12月生まれの90歳である。本誌『星火方正』への筆者寄稿文(11・12号の拙文、12・13号の小出公司さん寄稿)が縁で、2013年・2014年と2回、北海道は夕張郡由仁町の自宅を訪問、哈達河開拓団や麻山事件に関する話を聞かせてもらったり資料を拝見させてもらったりした。ご一緒した時間は延べ12時間くらいになろうか。 /// 続きは本誌ご参照
野ざらしの骨2
岩崎スミ
「先生、助けてぇー」――広い大陸の丘を逃げまどう悲鳴に驚き、ガバッと布団をはねのけて坐る。汗びっしより。あ、今のは研ちゃんとはじめ君だった。涙が止まらない。胸は苦しく、夢であったかと、動悸をおさえる。 /// 続きは本誌ご参照
ソ連兵に奪い去られた姉の親友7
酒井旭
星火方正第9号(2009年12月発行)に“満州開拓団と居留日本人の悲劇の跡を巡る旅”と言う紀行文を書いたことがありました。その中で、下記のような呼びかけをしました。 /// 続きは本誌ご参照
「大東亜聖戦大碑」と護国神社9
寺沢秀文
今年3月24日に延伸開業した北陸新幹線。その中で一大ブームを呼んでいるのが終点駅の加賀百万国の城下町「金沢」。その金沢にある日本三大名園の一つ「兼六園」のすぐ隣に「石川護国神社」というのがあります。皆さんはこの金沢市の石川護国神社に「大東亜聖戦大碑」と言う大きな碑が建てられているのをご存じでしようか?写真を見て頂く通り、高さ12mという大きなものです。かく言う当方自身もまだ機会が無く実物は見ていないのですが、建立当時からその存在は知っていましたし、写真等では何回も見ています。 /// 続きは本誌ご参照
天を恨み、地を呪いました―松田ちゑさんの半生・94春秋13
奥村正雄
晴れたが風が冷たい。4月9日午後、地下鉄の駅を降りて7、8分。橋を渡りかけると水面の花筏に、また桜の花びらが舞い落ちる。目の前に10階建ての都営住宅。エレベーターを降りる。鉄の扉をノックする。息子の崔鳳義さん(68歳)が顔を出す。目に特徴がある顔が、私と知って和む。 /// 続きは本誌ご参照
周恩来と国際主義的精神(第1回)23
大類善啓
2012年7月、第8回方正友好交流の会の記念講演会後、事務局参与の牧野史敬氏が、翌2013年は方正日本人公墓が建立されて50年日になるが、かつて我々が刊行した『風雪に耐えた「日本人公墓」ハルビン市方正県物語』が絶版になっているので、新たな本を発行してはどうかというアイディアを東洋書店の斉藤春夫氏に出したところ氏も賛意され、『日中の未来を見つめる 日本人公墓一中国黒竜江省方正県』(仮)を出版しようということになった。満洲移民の背景なども含めて若手研究者の論文を中心に編集していこうということになり、小生も最終章に、日本人公草建立を許可した周恩来の国際主義的精神がどのように形成されていったのかをまとめた「周恩来と国際主義的精神」という本稿を書き上げた。しかしこの出版企画は諸般の事情で流れてしまった。そこで拙文だけを独立してここに掲載することにした。すでに書き上げて2年余は経っている。読者諸氏のご叱正をいただければ幸甚である。 /// 続きは本誌ご参照
本会事務局参与・木村直美さんのご逝去を悼む31
牧野史敬
本会の前身である「方正地区支援交流の会」は、1993年6月、会長石井貫ー氏(自由民主党政務調査会総括調査役)の呼び掛けにより、(財)日中友好会館で発足した。木村直美さんは、自民党政調会専門委員として石井氏の下でお仕事をされてきた関係もあって、退職後は理事として石井会長の下でこの会の活動を支え推進して下さった方でした。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓つれづれ草」N0.157(平成27年4月3日)―川田龍平さんが国会で方正公墓について質問35
寺沢秀文
《解説》国会で参議院議員の川田龍平さんが方正公墓について質問するという旨、川田事務所から電話が入ったのはその前夜だった。すぐに会の仲間たちに連絡した。当日、テレビ中継はなかったが、インターネットでの中継があるというので見た。さっそく、精力的に「満蒙開拓つれづれ草」を発信している寺沢さんが、これを取り上げてくれたので転載する。なお議事録は方正関係と関連する部分だけを紹介した。(大類) /// 続きは本誌ご参照
再び山口淑子について―クウェート人質事件で見せた、知られざる活躍など40
大類善啓
山口淑子が亡くなって1年半、相変わらず彼女というより「李香蘭」の人気が高い。李香蘭が戦前に録音した2曲の未発表音源が見つかったという記事が朝日新聞夕刊(2015年4月11日付)一面に大きく掲載されていた。李香蘭は今でも人々を引きつける何かを持っているようだ。かくいう私も、やや複雑な気持ちがありながらも、新聞記事を見つけると切り抜いてスクラップブックに張り付けている。いずれ何か書く時の参考にしようと思っているからだが、深層心理的にはやはり引きつけられているのだろう。さて、前号(『星火方正』19号、2014年12月刊)に、そんな山口淑子とのささやかなエピソードを記した。方正友好交流の会発足当初には、こんな逸話というか歴史もあったのだ、と書いておきたかったからである。 /// 続きは本誌ご参照
燎原の火は方正からー現在と未来を切り開く方正日本人公墓47
大類善啓
この原稿は、代表・加藤宣幸さんが責任編集するメールマガジン「オルタ」133号(2015年1月20日)に配信されたものである。「オルタ」は2004年3月20日に創刊され、この4月20日で136号を迎え、く一人ひとりが声をあげて平和を創る>をモットーに毎月一度、約17000人に配信され、HPの訪間者数は2万人前後だという(2015年1月末現在)。今回の拙文は加藤さんより依頼され書いたもの。加藤さん了解の下に転載する。(大類) /// 続きは本誌ご参照
試写会のご案内―記録映画『10日間だけの祖国』55
奥村正雄
4年がかりの映像(ドキュメント)がようやく出来上がった。映像の8割がたはすでに撮り終え、昨年の方正友好交流の会の総会では、未整理の状態で中間報告をさせていただいた。その時点で、どうしてもこの映画に欠かせない映像が一部、撮り残されていた。それはこの映画の主人公・徐士蘭さん(推定69、70歳)が生まれて間もない1945年8月、方正県の郊外である開発鎮(村)にある小学校の校庭で、実母の手から一人の青年(張文学さん、故人)の手に托された、その現場の映像である。この映像がこれまで撮れなかったのには理由があった。古い校舎を全面的に建て替える工事が続いていて、撮影のために中に入れてもらえなかったためだ。この最後に残った映画のシーンを撮るために私たちがハルピン、方正へ行ったのは昨年1月だった。「たとえ鉄棒でぶん殴られても動くな(外へは出るな)」という古い諺があるほど厳寒の時期だった。私と吉川カメラマンは、厚着の中に、さらにホッカイロを何個か腰回りや足元などにしのばせた。 /// 続きは本誌ご参照
秦野市で『鳴呼 満蒙開拓団』上映さる59
編集部
2009年から翌年にかけて映画作家、羽田澄子さん演出の映画『鳴呼 満蒙開拓団』が日本各地で上映され、多くの人たちが満蒙開拓団の実態などを改めて知ることになった。映画の冒頭、ナレーターでもある羽田さんが『星火方正』の創刊号と2号を紹介し、「この不思議な冊子で、日本人公墓の存在を知りました」という言葉を聞いて、実にうれしい気持ちをしたものである。 /// 続きは本誌ご参照
旅のご案内―じっくり上海歴史散歩6日間61
方正友好交流の会
上海はかつて魔都と言われるだけあり、なかなか魅力的な町です。横光利一が『上海』という小説に書いたように「さまよえる日本人」がいた街であり、戦後も堀田善衛が国民党に留用された街であり、またリヒアルト・ゾルゲやアグネス・スメドレー、尾崎秀美が生きた街であります。また一方、国民党政権下で上海映画人たちが素晴らしい映画を創り、また中国共産党が産声を挙げた街でもあります。そんな旧英国租界やフランス租界跡をゆっくりと歩きます。内山書店を中心に広がった魯迅と内山完造ら日本人との交流、また腐敗と旧世界の泥沼から新たな世界を切り開こうとした息吹きを、この旅で実感していただければと思います。ぜひご参加をお待ちしています。上海歴史散歩の会代表片山泰郎先生が租界時代の上海を案内します。 /// 続きは本誌ご参照
「国策」に翻弄された人々を救う―映画『山本慈昭 望郷の鐘一満蒙開拓団の落日』を見て62
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2015年4月1日)
悲惨な「文化大革命」が終りを告げ、中国が新たな開放経済体制に入った1980年代の初め、苦難の人生を中国の東北部で生きた婦人たちが、テレビの画面に現れ出た。彼女たちは、平和な空気にどっぷりとつかった日本人たちに、「あなたたちの日本は私たちを忘れていたのですか」、と鋭い刃を突きつけているかのように見えた。彼女たちの存在こそ、中国残留日本婦人であり、かつての残留孤児の現在の姿だった。日本にいる肉親を捜す「集団訪日調査」のために日本を訪れたのである。 /// 続きは本誌ご参照
映画「白夜のタンゴ」に思う―起源はさまよう望郷の魂63
大類善啓
文化のジャンルでも過度に自国の文化の優越性を言うと危険な兆候になりかねない。そういう意味でも映画『白夜のタンゴ』は面白かった。映画に触発されて書いた原稿が東京新聞文化部でそれなりに評価してくれたようで掲載してくれた。文化の起源はタンゴに限らず、国単位ではかれるものでないと思う。それぞれ国境を越えて影響し合っているものだ。そんなこと思ってご笑覧いただければ嬉しい。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い64
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記65
大類善啓
当会の事務局がある日中科学技術文化センターの会報「きずな」の編集作業と雑事も重なり忙しかったが、なんとか20号を発刊できた。今号も森一彦氏の他に、奥村正雄氏から編集業務で助力を受けた。 /// 続きは本誌ご参照

  第19号(2014年12月発行) 第19号(2014年12月発行)表紙

互いに感謝の気持ちをもってこそ―方正県「中日友好園林」を訪れて1
朱建榮(東洋学園大学教授)
2010年9月、私は『中国で尊敬される日本人たち』と題する本を中経出版で出した。第2次大戦後から21世紀初頭までの各時代に中国の大地で活躍し、現地の発展に貢献した日本人を紹介したものだが、本の第5章では「現代中国で唯一の日本人記念碑が建てられた藤原長作」という一節を書いた。 /// 続きは本誌ご参照
葛根廟事件の証言 草原の惨劇・平和への祈り―念願の証言集を刊行して6
大島満吉(興安街命日会代表)
葛根廟事件と聞いても知らない人が大半です。旧満州国の中で、ソ連との開戦時に一番大きな被害を出した事件にもかかわらず、メディアの中でも余り知られていないのが葛根廟事件でした。開拓団の被害状況の方は、かなり知られるようになったのですが、どの事件も300人から500人の犠牲者を出したものでした。葛根廟事件の方は、1,000人を超える死者、行方不明者を出しているのです。民間人の集団で犠牲者が1,000人を超えた事件は、この事件だけです。場所は、現在の内モンゴル自治区の中にありました。当時の満州の行政地区でいうと、興安南省・王爺廟、1943(昭和18)年に興安街と改称され興安総省の首都が設置された場所で、そこを脱出する避難民の出来事です。 /// 続きは本誌ご参照
「方正」と村山談話を未来に10
星野郁夫(村山談話を継承し発展させる会副代表)
私は埼玉の田舎で、地域の一市民として地方自治・市民主権の活動をしている。群馬で生れ、東京に出てからの約50年余を経たが、東京の三宅坂周辺で活動をしてきた。ある時、1960年代に活動した仲間の会合で大類善啓氏と出会い、はじめて方正を知った。その時の衝撃は忘れられない。その後送られてきた『星火方正』を読みながら、正直言って自らを恥じた。社会主義・民主主義の活動に身を投じてきた私が、中国黒龍江省にある日本人墓地を、日本と世界の人々に知らしめるべくすすめられている地道な活動とその意義を、改めて思い知らされたからである。 /// 続きは本誌ご参照
地域に平和学習の輪をどう広げるか12
先﨑千尋(会員)
茨城県で活動している内原・友部平和の会の島田修一会長から誘われて、10月26日に笠間市友部中央公民館で開かれた表題をテーマにした学習会に参加した。島田さんは、私どもが編集発行した『いしくれ-谷貝忍が耕してきたもの』(同時代社刊)に序文を寄せていただき、その出版記念会で一緒になった。 /// 続きは本誌ご参照
「歴史実践」の場としての旧満州15
今野日出晴(岩手大学)
2014年9月13日から20日まで、私たちは、旧満州(中国東北部)を訪問調査した。私たちとは、研究課題「地域をつなぐ自省的な『歴史認識』形成のための基礎的研究―東北地方を基軸に」(研究代表者:今野日出晴)を共に探求している、日本と中国の研究者である。この共同研究によって、日本と中国との間で感情的な対立が激しさを増すなか、隘路に陥りがちな「歴史認識」問題に対して、自省的な「歴史認識」を育成するために、歴史教育プログラムを提案したいと考えている。小さなグループによるもので、スタートしたばかりの共同研究であるが、副題にもあるように、東北地方を基軸にしていることが特色の一つになっている。 /// 続きは本誌ご参照
日中関係の現状と未来を考える25
藤野文晤
《解説》藤野文晤さんのこの講演は、今年(2014年)6月8日、方正友好交流の会、第10回総会後に行われたものである。藤野さんは1937年、広島市生れ。大阪外国語大学中国語学科卒業し伊藤忠商事に入社後ずっと中国畑を歩まれ、91年中国総代表の後、常務取締役など歴任。現在、藤野中国研究所を主宰。富山県環日本海経済交流センター長、伊藤忠商事理事、日本国際貿易促進協会顧問、日中経済協会評議員などを務められている。私などがまだ仕事として中国に関わる前から、藤野さんの新聞紙上に表われたコメントは、現実の中国ビジネスに携わったものでしか掴めないリアリティーがあった。世の中国通の評論家や研究家と一線を画するもので、実に中国の実情がわかったものである。講演は森一彦がまとめた。(大類善啓記) /// 続きは本誌ご参照
国境を越えて共に考える旧満州と満蒙開拓―「満蒙開拓国際シンポジウム」を開催40
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館副館長・専務理事)
去る10月12日、「満蒙開拓平和記念館」のある長野県阿智村の「阿智村コミュニティーセンター」において、「国境を越えて共に考える旧満州と満蒙開拓」というテーマで国際シンポジウムが開催されました。当シンポは、米国・中国・日本で旧満州または満蒙開拓の調査研究に携わる民間研究者並びに満蒙開拓二・三世出身研究者を招いてのパネル・ディスカッション形式にて開催されたもので、同時に、この10月1日に満蒙開拓平和記念館の中に新たに併設した「満蒙開拓研究所」(当方が所長に就任)の開設記念イベントを兼ねてのものでもありました。 /// 続きは本誌ご参照
中島多鶴さんを偲ぶ43
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館副館長・専務理事)
去る11月7日、長野県泰阜村の中島多鶴さんがお亡くなりになりました。享年89歳。同村から旧満州に送り出された「泰阜分村開拓団」の元団員であり、戦後は中国残留邦人の帰国支援に尽くし、「残留婦人の母」とも呼ばれ、またつい先頃まで満蒙開拓平和記念館などで「語り部」としても活躍されてきた方であり、多くの方に「多鶴さん」と慕われた方でした。 /// 続きは本誌ご参照
戦争体験を語り継いでいこう45
山下美子
この10月25日から26日にかけて、長野県の満蒙開拓平和記念館、無言館(編集部注:正式名称は一般財団法人戦没画学生慰霊美術無言館)、松代象山地下壕(注:太平洋戦争期、本土爆撃から日本の中枢を守るため、皇居、大本営を長野県松代に移転する工事を行った。その施設跡)を見てきました。無言館では、私の親と同年代の方々が戦争(学徒動員)でなくなっており、何度訪れても哀しくなる無言の場所です。松代象山地下壕は以前、少なからず脇坑(注:施設の中心となった地下坑道の側面)をのぞくことができましたが、今回は網が張ってあり、本坑のみしか見ることができませんでした。 /// 続きは本誌ご参照
敗戦まぢかの満州移民―満蒙開拓平和記念館を訪ねて47
唐沢修(もと岩波書店)     転載元:出版OB九条の会ニュース(2014年11月18日発行 No.44)
9月末、「民主長野県人会」(東京周辺の長野県出身者等でつくる会の―つで、会長畑田重夫氏)のツアーで長野県南部の阿智村の満蒙開拓平和記念館を見学した。昨年春の開館以来、全国からの参加が予想外に多くその数すでに4万名に達するという。 /// 続きは本誌ご参照
公文書 中国語で翻訳出版―浮かぶ満州の姿48
新貝憲弘(東京新聞中国総局)     転載元:東京新聞(2014年5月28日付)
中国吉林省公文書館が、保管している旧満州国時代の公文書の一部をまとめ、旧日本軍による「侵略の証拠」として出版した。歴史問題を題材とした対日批判の一環だが、満州国の社会や経済を知る新たな手掛かりも記されており、当時の歴史を研究する資料集として価値がありそうだ。 /// 続きは本誌ご参照
開拓団員の悲劇 旧満洲訪ね調査―阿智の記念館スタッフら 初の訪中49
前野聡美(信濃毎日新聞東京本社)     転載元:信濃毎日新聞(2014年6月17付)
第2次大戦中を中心に旧満洲(現中国東北部)に渡った満蒙開拓の歴史を伝える全国初の施設、下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館のスタッフらが、現地調査のため中国・黒竜江省を訪問し、16日は木蘭県勝利村にある旧川路村(現飯田市川路)の開拓団跡を訪れた。訪中は記念館開館前を含めて初めてで、開拓団があった場所を訪ねたり、当時を知る中国人の話を聞いたりして調査。中国側から満蒙開拓の歴史を知ることで展示の充実に生かしていく。 /// 続きは本誌ご参照
戦後70年の記憶:阿智の平和記念館訪中団―満蒙開拓の地たどって50
前野聡美(信濃毎日新聞)     転載元:信濃毎日新聞(2014年7月4日~10日付の連載6回)
下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館の職員らが6月13~17日に、聞き取り調査などのため旧満洲(中国東北部)を訪問した。第2次大戦中を中心に、全国の都道府県で最も多い3万3千人余りを県内から送り出した満蒙開拓の歴史を中国の側から捉え、展示を充実させようと計画した。訪れたのは長野県からの開拓団が多かった黒竜江省の省都ハルビン市、方正県、木蘭県。来年に戦後70年を控え、戦争の教訓をどう伝えていくべきか。記念館職員らは、戦争の記憶が刻まれた大地を踏みしめながら考えた。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓の歴史リアルに―長野・阿智村56
伊佐九三四郎(茨城新聞)     転載元:茨城新聞(2014年7月22日付)
長野県の山あいにある小さな歴史館が、盛況という。戦前、中国東北部などに送り出された人々の足跡をたどる「満蒙開拓平和記念館」。静かな混泉郷や山の幸にも恵まれた阿智村を訪ねた。 /// 続きは本誌ご参照
地方と国策・波立つ海を越えて:乳飲み子抱き自決覚悟―幻の「楽土」57
新潟日報     転載元:新潟日報(2014年8月12日、13日付)
この国は敗戦から立ち上がってきた。国家総動員体制で徴兵された男性、銃後の守りを強いられた女性や子どもたち。戦後とは、戦争という最大の国策に翻弄された国民一人一人の平和への祈りが築き上げてきた道のりといえる。安倍政権は武力行使に道を開く集団的自衛権の行使容認を決めた。日本海は緊張の海へと逆戻りしていくのか。対岸と向き合い、地方外交を進めてきた本県から「平和とは」を考える。 /// 続きは本誌ご参照
記憶―戦後69年―20代記者が受け継ぐ戦争:姉と妹の死「孝行」―狂気が支配 一度も涙流れず60
大野暢子(東京新聞宇都宮支局)     転載元:東京新聞(2014年8月13日朝刊)
那須岳の麓に青々とした牧草地が広がる。終戦後に中国大陸の入植地から引き揚げ、栃木県那須町北部の地を開拓して六十八年になる中込敏郎さん(八七)が、旧満州で家族四人を失った経験を話し始めた。「終戦直後のころは子どもが毎日死んだ。うちの妹もね。それが当たり前だったんだ」。国が宣伝した移民の末、肉親を亡くした悲しみを聞こうと身構えた私にとって、淡々とした語り口は予想外だった。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓 記憶つなぐ―終戦前後 数百キロの逃避行61
石田耕一郎(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2014年8月19日付)
旧満州への移民の歴史を伝える「満蒙開拓平和記念館」(長野県阿智村)が今夏満蒙開拓団の生活などを中国の目撃者から聞き取る活動を始めた。関係者の高齢化が進むなか、証言の収集を通し、若い世代に戦争を身近な問題と感じてもらう狙いがある。集めた証言や資料は今秋にも、日本で公開していく予定だ /// 続きは本誌ご参照
黙した元軍人の父たどる夏―76歳娘、母からの恋文ひもとく62
今村優莉(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2014年8月19日付夕刊)
この夏、神奈川県鎌倉市に住む渡辺喜久代さんは、ありし日の父の姿をしきりに思い出す。小学4年の夏だった。庭で竹刀を素振りしていた父がつぶやいた。「こうやっていると、人を切った時の感覚が返ってくる」。それ以降、父は竹刀に触れなくなった。17年前に逝った山田藤栄さん(享年89)。父は母が戦地に書き送ったラブレターを大切に持ち帰ったのよと、数年前に知人に話したのがきっかけだった。「お父さん、どんな思いだったんでしょうね」。知人にそう問われ、何も答えられない自分が情けなかった。父と一緒に戦った元兵士の男性(97)が名古屋市にいることをその知人が調べてくれ、今春、訪ねた。「立派な方でした」。父をそう評してくれた。だが戦場でのことを問うと、男性は嗚咽で言葉が続かなくなった。 /// 続きは本誌ご参照
中島多鶴さん死去―泰阜出身 中国残留者の帰国支援63
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2014年11月9日付)
戦時中に旧満州(中国東北部)に渡った元満蒙開拓団員で、中国残留者の帰国支援などに尽力してきた中島多鶴さん(飯田日中友好協会副会長)が7日午後8時34分、脳梗塞のため飯田市内の病院で死去した。89歳。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓体験の語り部―中島多鶴さん死去64
石川由佳理(中日新聞)     転載元:中日新聞(2014年11月11日付)
満蒙開拓体験の語り部として活動してきた中島多鶴さん(泰阜村)が七日、八十九歳で亡くなった。中島さんは、昨年四月に阿智村に開館した満蒙開拓和記念館の設立にも尽力。二度と戦争を起こさないでと願い、自身の悲惨な体験を死の直前まで語り続けていた。突然の訃報に、関係者には悲しみがっている。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留者支援の人生 中島多鶴さんをしのぶ―阿南で告別式64
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2014年11月9日付)
中国残留邦人の帰国支援などに尽力し、7日に89歳で死去した下伊那郡泰阜村の中島多鶴さんの告別式と葬儀が11日、同郡阿南町内で営まれた。大勢が参列し、旧満州(中国東北部)で満蒙開拓という国策に翻弄されながら、帰国支援や悲惨な史実を語り継ぐ活動に取り組んだ中島さんの人生に思いを寄せた。 /// 続きは本誌ご参照
新・20世紀遺跡:長野県阿智村 満蒙開拓団―入植27万人の悲劇伝える65
栗原俊雄(毎日新聞)     転載元:毎日新聞(2014年10月30日、11月20日付朝刊)
69年前、大日本帝国のかいらい国家、植民地の「満州国」(現中国東北部)が消滅した。多くの日本人の血がしみこんだ、かの地の歴史を振り返る満蒙開拓平和記念館が長野県南部の阿智村に開館した。 /// 続きは本誌ご参照
「声なき声 伝えねば」―平和の原点 亡き妻との思いでつづる67
奥野斐(東京新聞)     転載元:東京新聞(2014年10月22日付朝刊)
「戦争犠牲者の、声なき声を伝えきれていただろうか」。太平洋戦争末期の東京大空襲を経験し、戦後は戦争や東京の街の歴史を著書に記してきた作家の早乙女勝元さん(82)は六年前、妻直枝さんを突然亡くし、そう考えたという。来年は戦後七十年。平和を願う原点と最愛の妻、直枝さんとの思い出を最新刊「もしも君に会わなかったら」につづった。 /// 続きは本誌ご参照
風雪三十年 見事な果実が枝もたわわ―日本残留孤児養父母連絡会・創立30年記念活動の報告68
石金楷
2014年7月17日、ハルピン市日本残留孤児養父母連絡会結成30周年を記念する催しがハルピン市の黒竜江省社会科学院会議室で行われた。中国紅十字会、黒竜江省及びハルピン市紅十字会の責任者、黒竜江省社会科学院、ハルピン市社会科学院、黒竜江省人民政府外事弁公室日本処、731陳列館の幹部、日本残留孤児養父母、日本の孤児、関係の専門家、学者および養父母会のボランティアの代表100人近くが出席した。また日本国駐中国瀋陽総領事大沢勉氏も招かれて出席した。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児を描いた中国映画―『厚土深痕』(深い傷跡)69
石金楷
この映像は本誌にも毎号、原稿を寄せていただいている石金楷さん(元ハルピン市中国残留孤児養父母連絡会事務局長、現在、孤児である夫人とともに東京都に在住)から提供されたものである。テーマは敗戦後の混乱の中で、孤児を育て上げた中国人夫婦の愛憎、養父母の情愛に中国人としての意識が強くなってゆく子供の物語である。できれば毎年、秋に東京で開催されている東京映画祭(今年は10月23日から31日まで)に参加したかったそうだが、時間が間に合わず、まずは本誌で誌上初公開となった。 /// 続きは本誌ご参照
いざコンテストへ:記録映画『10日間だけの祖国』―わたしの方正之路70
奥村正雄
私たちが撮り続けてきた、厚労省から認定されない残留孤児・徐士蘭さんの訪日ドキュメント『10日間だけの祖国』は、いま編集作業の大詰めを迎えている。この作業を年末までに終え、年が明けてから最終補正作業にかかり、3月20日に終了、これを4月初めに締め切りを迎える『湯布院映画祭』コンテスト部門に応募する予定である。 /// 続きは本誌ご参照
「徐士蘭ドキュメンタリー」制作ウラ話71
吉川雄作(会員)
未認定中国残留孤児・徐士蘭のことをご記憶であろうか。そしてドキュメンタリー映画のことは…?ものが完成していないのに「ウラ話」でもないと思うが、最近は、「映画はどうなったの?」と聞かれることもめっきり少なくなってきたので、忘れられないように敢えてウラ事情の一端を書いておきたい。本年6月の総会で「10日間だけの祖国」の“試写”をさせて頂いた。奥村弁士の語りで何とか恰好をつけても2010年6月方正の自宅でらったが、思い出すのも冷や汗三斗の“汗顔もの”であった。 /// 続きは本誌ご参照
『ある華僑の戦後日中関係史―日中交流のはざまに生きた韓慶愈』(明石書店)を上梓して72
大類善啓
「日中交流のはざまに生きた韓慶愈」というサブタイトルをつけたように、本書の主人公は、在日華僑の韓慶愈である。裏話をすると当初私は、『ある華僑の秘められた「もうひとつの昭和史」』というタイトルを考えていた。しかし明石書店との話し合いで上記のような書名に落ち着いた。 /// 続きは本誌ご参照
日中問題の深淵に誘う韓慶愈半生記の魅力―大類善啓著『ある華僑の戦後日中関係史』を読んで73
石飛仁
本書は、歴史に翻弄されて来た在日華僑の苦悩する姿を真摯な筆致で描いた好著である。尖閣列島問題が発生して、日中両国関係は、一気に悪化し、1972年以来積み上げられてきた、国是としての日中友好政策は、暗い谷底に突き落とされたかのように、冷え込んでしまった。友好の冠をかぶせることによって維持されてきた領土の問題を、ほとんど一方的にその冠をはずして、実効支配の現実を盾に、所有権を言いだしたのでは、外交音痴で日中戦争の複雑なる沼に落ち込んだ過去から、なにひとつ学んではいないことになってしまった。外交音痴が常である現政権のポカを笑って済まされない深刻な溝が両国間にはあるのだ、表現力の極めてへたくそな日本人民の島国ならではの性質もまた問われなければならない。 /// 続きは本誌ご参照
激動の時代を生きた青春譚―「ある華僑の戦後日中関係史」を読む77
森一彦
本書「ある華僑の戦後日中関係史」は、1943年、17歳で「満州国」公費留学生として来日し、日本の敗戦後も日本に留まり日中関係の交流に尽力された、韓慶愈氏(以下敬称略)の半生を描いたものだ。著者は、韓のもとで働いた経験のある、社団法人日中科学技術文化センター理事・方正友好交流の会事務局長を務める大類善啓氏。 /// 続きは本誌ご参照
「ある華僑の戦後日中関係史」(大類善啓著)を読んで80
秋岡榮子
上海にいると、文化大革命も遠い昔のことだと感じる。昨年末、上海の「富二代」のチャリティーパーティーに招かれた。「富二代」とは、金持ちの息子や娘のことである。参加者はほとんどが20代~30代前半、いわゆる「パーリン(八零)後」(1980年以降に生まれた人々)であり、貧しい中国を知らない青年たちだ。 /// 続きは本誌ご参照
新刊:大類善啓著「ある華僑の戦後日中関係史」―日中交流のはざまに生きた韓慶愈81
一般社団法人東京華僑総会     転載元:華僑報(2014年9月15日付)
大類善啓氏の著書「ある華僑の戦後日中関係史ー日中交流のはざまに生きた韓慶愈」が先頃明石書店から出版された。 /// 続きは本誌ご参照
国交正常化、文化 日中つなぎ続け―旧満洲留学生・韓慶愈さん 波乱の人生が本に82
五味洋治(東京新聞編集委員)     転載元:東京新聞(2014年9月30日付朝刊)
戦前、中国東北部にあった日本の傀儡国家「満州国」から公費留学生として日本に送られ、敗戦後も日本にとどまった華僑、韓慶愈さん(88)の波乱に満ちた人生をつづった本「ある華僑の戦後日中関係史」(大類善啓著、明石書店)が出版された。通訳などとして国交正常化や、文化交流など日中関係構築に努力した経緯を聞き書きして、つづっている。著者の大類さんは「日中関係が難しい時期だからこそ、知られざる華僑たちの活動を知ってほしい」と話している。 /// 続きは本誌ご参照
“日本と中国”を読む:ある華僑の戦後日中関係史―日中交流のはざまに生きた韓慶愈・大類善啓著83
日中友好協会『日本と中国』編集部     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2014年11月1日)
戦前、17歳で「満州国留学生」として来日し、それから70年が過ぎた今も日本に住み続ける一人の華僑がいる。東京・江東区在住の韓慶愈さん、88歳。その韓さんの波乱に満ちた人生をたどることで見える日中交流史をつづった本『ある華僑の戦後日中関係史』(明石書店)が出版された。著者は、元本紙編集長で方正友好交流の会事務局長の大類善啓さん。大類さんは「戦後の日中交流を考える時、韓さんのような在日華僑がどう生きてきたのかを知ることは、日本の民衆史の側面を補う点からも大いに意味があると思った」と話している。 /// 続きは本誌ご参照
読んでみました:大類善啓著『ある華僑の戦後日中関係史』84
石飛仁     転載元:国際善隣協会『善隣』(2014年11月号)
本書は、歴史に翻弄された残留華僑の苦悩する姿を真摯な筆致で描いた好著である。 /// 続きは本誌ご参照
山口淑子のこと―「あの時、関東軍は逃げてしまったんですよね」85
大類善啓
山口淑子がこの9月7日に亡くなった。享年94歳、「李香蘭」として生きた、文字通り波乱の一生を終えた。各紙の文化欄では、映画評論家や映画記者たちの追悼記事がたくさん出た。映画の記事をずっと書いてきた朝日新聞編集委員の石飛徳樹氏は、「文化記者の最も重要な仕事は、その道の偉人が亡くなった時に過不足なく業績を評価し、歴史の中に位置づけることだと考えている」と書き、「その意味で山口淑子は、文化記者にとって最大の難物だった」と記している。(朝日新聞、2014年10月26日付朝刊) /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い88
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記89
大類善啓
今号は原稿が集まらないかと心配だったが、思った以上に多くの人たちに寄稿していただいた。たいへんお忙しいところ、皆さんありがとうございました。 /// 続きは本誌ご参照

  第18号(2014年5月発行) 第18号(2014年5月発行)表紙

満洲移民の加害と被害1
渡辺一枝
私は1945年1月に、ハルビンで生まれた。翌年秋に母に背負われて、引き揚げてきた。だから私に生地の記憶は無い。子どもの頃の私に母は、ハルビンのことや父のことをたびたび語った。物心ついてからの私は、いつどこで死んだか判らない父を語る母を、ハルビンでの暮しを懐かしげに語る母を、疎ましく思うようになっていた。母の言葉に耳塞いでいたその頃の私は、たぶん、聞き分けの無い子どもだった。根こそぎ動員で父が現地招集された時、私は6ヶ月の赤ん坊だった。なぜ父を止めなかったかと母を恨み、侵略地を懐かしむ母を許し難くも思っていたのだ。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓平和記念館」を訪ねて5
新谷陽子
2014年3月7日~8日の二日間、「方正友好交流の会」企画による「満蒙開拓平和記念館」を訪ねる長野県下伊那の旅に参加した。連日、抜けるような晴天。春光に輝く雪嶺がまばゆかった。澄みきった早春の山の空気とピリッとした寒さも心地よく、快適な旅だった。 /// 続きは本誌ご参照
下伊那への旅―増野と福島小高への思い11
長谷部郁子
今回の「満蒙開拓平和記念館」への旅は、全体の内容も順序もよく考えられ、準備されていて満足したが、全行程を終えて気がついたのは、増野への再入植者の皆さんが目指したものが、ただ安穏だけの暮しではなく、人間らしく、なっかしく、永く住み続けたいと思える故郷創りだった事です。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館を見学して13
酒井旭
関東軍が企んだ満蒙入植政策が如何に無謀で残酷なものであったか―記念館の展示は必死に訴えていました。開拓団員は3回見捨てられました。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館訪問の旅に参加して15
石田和久(福岡)
方正の会報で上記のツアーを知り、一度は訪間したいと思っていた記念館なので参加を考えた。新宿からだと前泊しなければならないので、飯田あたりでの合流をと打ち合せたが、昼神温泉のホテルでの交流会のみの合流となった。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館を訪ねて16
塚田恵子
満蒙開拓平和記念館(長野県下伊那郡阿智村に2013年4月開館)は、すぐ側を阿智川(天竜川の支流)が流れる鄙びた村の一角にありました。記念館の裏手から歩いて直ぐのところに長岳寺というお寺があります。ここの前住職の山本慈昭さんは中国残留孤児の身元捜しに生涯を捧げられ、日中友好に尽力された方で、このお寺も訪ね、今の住職の方から山本慈昭さんのこともお聞きしました。今、山本さんを描いた‘望郷の鐘’という映画が製作されているとのことでした。 /// 続きは本誌ご参照
「被害」と「加害」の交差する満蒙開拓団18
鈴木敏夫
このたびは、「満蒙開拓平和記念館」を訪ねる旅にご一緒させていただきありがとうございました。授業では満蒙開拓団をとりあげ、民放の放送大賞をとった「少年たちは戦場に送られた」(2010年)というテレビ番組を見せます。また2.26事件後、広田弘毅内閣が「満州開拓移民推進計画」を決議し、1936年から20年間に(1956年まで!)100万戸(500万人)の日本人移住を計画したことが背景にあることを明らかにします。 /// 続きは本誌ご参照
「下伊那の旅」参加者の発言を聞いて―満蒙開拓平和記念館を訪ねて19
凌星光
「方正友好交流の会」企画の今回の旅には多種多彩の方が参加しており、また今晩(3月7日夜の交流会)の皆さんの話を聞いて大変勉強になりました。記念館を見学して、満蒙開拓団の悲劇がよく分かりました。とりわけ印象が深かったのは、対ソ連防衛と余剰人口のはけ口として満蒙開拓団が国策として推進されましたが、敗戦後は完全に見放されたという事実です。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓団・私が歩んできた道21
石橋辰巳
1940年10月、私が小学校3年生の時、父母に連れられて満洲国三江省方正県大羅勒密開拓団に武装移民として入植した。大豆、トウモロコシ、野菜などは収穫できたが、稲作は日本と気候が違い、9月には霜が降りできず、3年が過ぎてようやく収穫できるようになって終戦を迎えた。 /// 続きは本誌ご参照
私が体験した死の逃避行25
中島多鶴
(満蒙開拓平和記念館・寺沢秀文専務理事からのご紹介挨拶)それでは、私から中島多鶴さんをご紹介します。ご存知の方も多いとは思いますが、中島多鶴さんは、『沈まぬ夕陽』(中繁彦著、信濃毎日新聞社)や『忘れられた女たち』(NHK取材班・中島多鶴編、日本放送出版協会)といった本でも紹介されている方です。 /// 続きは本誌ご参照
母の愛は永遠―「中国の母親の大きな情愛」と題した展示会の報告35
石金楷(ハルピン市日本残留孤児養父母連絡会事務局長)
2012年8月16日、ハルピン市紅十字会と侵略日本軍731部隊罪証陳列館が主催し、黒竜江省社会科学院、ハルピン市日本残留孤児養父母連絡会が協賛した『中国の母親の大きな情愛』というタイトルの展覧会が731陳列館で開幕式を行なった。張顕友ハルピン市副市長、中国並びに黒竜江省、ハルピン市紅十字会責任者、残留孤児義父母、中国在留孤児の代表、ほか各界から80人あまりが参加した。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路:ドキュメント『10日間だけの祖国』―総会前の特別試写会へどうぞ!36
奥村正雄
厚労省が「孤児である物的証拠がない」ことを理由に中国残留孤児と認めない徐士蘭さん(推定年齢72歳)が、羽田澄子監督のドキュメント『嗚呼 満蒙開拓団』の公開と、これに先立って北京の日本大使館で行われた試写会で、映画を見た当時の中国大使宮本雄二さんが、「この女性は気の毒だ、私のポケットマネーででも、ひと目祖国を見せてあげたい」と漏らしたひと言が多くの人の共感を呼び、署名とカンパの運動が広がって行った。 /// 続きは本誌ご参照
4人で作ったドキュメントー『10日間だけの祖国』を総会に先立って試写38
飯白栄助
3年前の6月8日、快晴の日本海上空にハルピンからのCZ615便が機影をあらわした。そしてやがて入国手続きを終えた徐士蘭さんと3女の从会霞さんが急ぎ足で待合室ロビーに現れ、私たちは彼女と祖国日本で初めて対面した。このロビーの高い天井近くの壁面に飾られた、新潟の有名な郷土の凧合戦の大きな武者絵が5人を温かく見下ろしていた。 /// 続きは本誌ご参照
“厳冬の”ハルピン・方正40
吉川雄作(会員)
当会参与奥村正雄氏のもとの四人組で、2011年、多くの方々のご協力により招日が実現した(未認定中国残留孤児)徐士蘭さんを主人公に、ドキュメンタリー映画の制作を進めていることは、すでに奥村氏が会報15・16号で予告されており、私も前号に中間報告めいたことを書かせてもらった。目下鋭意制作中…と言いたいが、“心余りて力足りず”(?)、諸般の事情により遅れに遅れ、招日4年目を目前にして、なお未完成状態にある。しかし、まだ完成をあきらめたわけではない。 /// 続きは本誌ご参照
高社郷集団自決の悲劇を繰り返さないために―終戦の事実を告げられなかったための悲劇42
篠原孝
私は、予算委員会で特定秘密保護法に関連し、国が国民に重大な秘密を知らせない罪の例として、1945年8月24日の高社郷の集団自決事件を取り上げた。関係者の皆さんの涙声での電話等もあり、多くの反苦が寄せられたので、非力でありうまく伝えられるかどうかわからないが、ここに悲劇の一端を時系列で簡単に紹介しておきたい。 /// 続きは本誌ご参照
歴史記憶の共生と研究実践に関する国際的対話の試み―国際シンポジウム「東アジアにおける歴史記憶の共生と研究実践」の開催50
南誠〔梁雪江〕(長崎大学)
2014年3月8日・9日、長崎大学東アジア共生プロジェクト国際シンポジウム「東アジアにおける歴史記憶の共生と研究実践:日本、中国大陸と台湾の台湾を手がかりとして」が長野県下伊那郡阿智村コミュニティ館2Fホールで開催した。本国際シンポジウムは筆者が企画・主催したものであり、長崎大学東アジア共生プロジェクトとしたのは筆者がテニュアトラック教員として、2011年10月より、本プロジェクトに所属しているからである。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓」五題57
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館専務理事、当会理事)
かつて日中双方含め多くの犠牲を出した「旧満州」(中国東北部)、その地に国策により「開拓」という半ば偽りの美名の下に全国各地から送り込まれ、多くの悲しい犠牲を出した「満蒙開拓団」の史実。この「満蒙開拓」に特化した全国唯一となる記念館を、全国で最も多くの開拓団を送出した長野県南部のこの地に建てようと、飯田日中友好協会等が中核となって、足かけ8年の紆余曲折を経てようやく開館まで漕ぎ着けたのは昨年4月のことでした。そして早くも開館1周年を迎えます。 /// 続きは本誌ご参照
“満州疎開”の開拓団―東京都満州開拓団の送出特質66
高橋健男
満州開拓団、満蒙開拓青少年義勇軍、あるいは満州建設勤労奉仕隊等の送出に関しては、全国津々浦々例外なくその募集が行われた。大都会の東京都においてもしかりである。しかし東京都からの開拓民等の送出は、全国各県の状況と比較検討すると、ある特徴があることに気づく。本稿では2013年12月出版の拙著『渡満とは何だったのかー東京都満州開拓民の記録』からその特徴をいくつかの観点にまとめて簡潔に解説してみたい。 /// 続きは本誌ご参照
時流底流:市民が発掘 満蒙開拓史―誤った国策 悲劇と向き合い70
青島顕(毎日新聞)     転載元:毎日新聞(2014年2月10日付)
戦前、戦中に約27万人が旧満州(現中国東北部)に農業移民として送り出された満蒙開拓団は信越、東北地方の農山村の人々の悲劇として知られてきた。だが近年、市民たちが独自の調査で、ほとんど知られていなかった沖縄や東京発の開拓団の実態を掘り起こしている。「誤った国策による庶民の受難を記録し、ニ度と繰り返さないように」という思いが労作を生み出している。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い71
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
書籍案内72
方正友好交流の会
『ハルビン往来(宮原咸太郎・宮原恵子写真集)』、『証言それぞれの記憶(満蒙開拓平和記念館発行)』、『大陸の花嫁(岩波現代文庫/井筒紀久枝著)』、『ウクライナに抑留された日本人(0.ポトィリチャク・V.カルポフ/竹内高明著・長勢了治編訳)』 /// 続きは本誌ご参照
市民団体 満蒙開拓学ぶ73
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2014年3月12日付)
中国黒竜江省方正県と交流している市民団体に「方正友好交流の会」(事務・東京)の会員ら31人がこのほど、阿智村駒場の満蒙開拓平和記念館を訪れた。元開拓団員の中島多鶴さん(88)=泰阜村温田=の旧満州(中国東北部)での体験談を聞いたり、展示を見たりして、国策に翻弄された開拓団の歩みへの理解を深めた。 /// 続きは本誌ご参照
こちら編集委員室:首相官邸にアサガオを73
五味洋治(東京新聞)     転載元:東京新聞(2014年3月18日付朝刊)
中国東北部、遼寧省撫順の「戦犯管理所」には、終戦後、シベリアで捕虜として働かされていた約千人の元日本兵が移送され、戦犯として収容された。軍事裁判を受けるためだった。 /// 続きは本誌ご参照
歴史展示のあり方語る―日中の関係者が阿智村で74
南信州新聞     転載元:南信州新聞(2014年3月16日付)
長崎大学の重点研究課題プロジェクトが主催した「東アジア共生プロジェクト国際シンポジウム」がこのほど、阿智村コミュニティ館で開かれ、歴史に関連した展示について日本と中国の研究者、関係者が「歴史記憶の共生と研究実践」をテーマに今後のあり方を語った。 /// 続きは本誌ご参照
来館者3万人を達成―満蒙開拓平和記念館 開館1周年を目前に75
南信州新聞     転載元:南信州新聞(2014年4月19日付)
阿智村駒場の満蒙開拓平和記念館(河原進館長)は17日、開館1周年(25日)を前に来館者3万人を達成した。3万人目となったのは、岐阜県中津川市から訪れた新婦人会中津川支部のひまわり班(安藤由紀子班長)の一行。証言や記録から開拓団の歴史を振り返り、平和の尊さを感じていた。 /// 続きは本誌ご参照
記憶を次代へ:満蒙開拓平和記念館開館1年76
前野聡美・菅沼勇(信濃毎日新聞)     転載元:信濃毎日新聞(2014年4月24~26日付の連載3回)
第2次大戦中を中心に、国策として旧満洲(中国東北部)に渡った満蒙開拓の歴史を伝える全国唯一の資料館「満蒙開拓平和記念館」が、下伊那郡阿智村に開館してから25日で1年になる。当初見込みの年間5千人を大きく上回る3万人余りが入館した。語り部として体験を語る元開拓団員、新たに持ち込まれる開拓の資料…。つらい記憶が、未来に生きる歴史として受け継がれようとしている。 /// 続きは本誌ご参照
方正友好交流の会が6月に総会―藤野文晤氏が講演79
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2014年5月1日)
ハルビン郊外にある日本人公墓の存在を通して、国際的な友愛精神を広めようと活動する方正友好交流の会は、6月8日(日)14時からJR御茶ノ水駅そばの中央大学駿河台記念館510号室で総会と講演会を開く。 /// 続きは本誌ご参照
FOCUS:どこへ行くのか日本79
藤野文晤(公益社団法人日中友好協会参与・藤野中国研究所代表)
最近の日中関係を見て亀井勝一郎、陳毅副首相の会談のことを思い出している。半世紀前の北京でのことだ。陳毅氏は「亀井先生は、日本軍国主義が中国を侵略したことを永久に忘れないとおっしゃる。私達は忘れたいと考えている。 /// 続きは本誌ご参照
第18号会報の編集を終えて80
森一彦
第18号会報の原稿に目を通しながら、満蒙開拓平和記念館を訪ねた下伊那の旅を思い出していた。今回の旅での一番の収穫は、寺沢秀文さんのバックグラウンドが理解できたことであるかもしれない。満蒙開拓平和記念館の開館に向けて、なぜあれほどまでに情熱を捧げ、奔走されて来られたのか。ご自宅がある、入植地 増野の急斜面に広がる果樹園、雄大なアルプス連峰の山々、その現場に立ってみて、私は初めて寺沢さんのお気持ちの一端が理解できたような気がした。そして山本慈昭さんや中島多鶴さんの存在。満蒙開拓平和記念館には、魂が宿っている。土地の歴史と記憶とに包まれて、貴重な証言をつづけていしていた。くだろう。 /// 続きは本誌ご参照
ミラー:中国の日本人公墓知って80
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)     転載元:東京新聞(2013年12月27日付朝刊)
私たちは二〇〇五年に方正友好交流の会を設立せ、年二回『星火方正』という会報を発行している。方正とは中国黒竜江省ハルビン市郊外にある方正県のことである。ここには、旧満州に「開拓民」として入った五千人に近い人々が葬られた中国で唯一の日本人公墓がある。 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記81
大類善啓
満蒙開拓平和記念館を訪問する旅は、全国各地から定員いっばいの35名もの人々が参加。それぞれの体験を踏まえての自己紹介など、実に豊かな交流になった。ご参加された方、また寄稿いただいた方、いろいろとお手数をおかけした寺沢秀文さんに感謝!である。 /// 続きは本誌ご参照

  第17号(2013年12月発行) 第17号(2013年12月発行)表紙

安倍さんも方正に行きなさい!―日本人公墓を参拝した丹羽宇一郎さんに、9月18日会う1
大類善啓
初の民間出身の中国大使として北京に2年半駐在した丹羽宇一郎さんは、離任する前の昨年11月17日、かねてから思いのあった方正日本人公墓を参拝された。中国に赴任された大使にはその都度、必ず『星火方正』を送っている。丹羽さんにも2010年6月に赴任されてから送った。驚いたことに北京から返事があった。便箋にペン書きである。中国大使という大変忙しい業務の間をぬって書かれたと思うと、とても嬉しく、同時にとても律儀な方だと思った。 /// 続きは本誌ご参照
唐家璇・中日友好協会会長への手紙10
方正友好交流の会
唐先生におかれましては日々、良好な日中関係継続に努力されております。ここに改めて敬意を表する次第です。現在、日中の政府レベルでは厳しい状況が続いていますが、民間レベルでは、幅広く且つ、深い友好交流が衰えることなく盛んであります。 /// 続きは本誌ご参照
「開拓」、心の底に11
澤地久枝
1981年といえば、遠いむかしのことになった。わたしが五十一歳のときだ。その年の夏、わたしは反満抗日ゲリラの最期のリーダー楊靖宇(1905~1935)の事跡をたどって中国を旅した。1ヶ月あまりの旅で濠江県靖宇鎮をたずね、ゆくさきざきで、新中国成立後、はじめて訪ねた外国人といわれた。 /// 続きは本誌ご参照
草の根交流が一番大事だ―日本人公墓と日中交流を考える14
宮本雄二
《解説》宮本雄二さんのこの講演は、今年の2013年6月1日(土)午後行われた方正友好交流の会・第9回総会のものである。宮本さんは2008年1月10日、日本の大使として初めて方正にある日本人公墓を参拝され、また日本人孤児を育てた養父、当時94歳の魯万富さんに会い感謝の意を表された。この原稿の後に掲載したのは、宮本さんが日中関係学会で発表されたものである。当日の総会で配布した。(大類) /// 続きは本誌ご参照
日中戦略的互恵関係を支え留学生交流34
宮本雄二
私は、われわれが必要としている「新しい時代の新しい日中閲係」なるものが、実は「日中戦略的互恵関係」なのであると主張してきた。それは、物事を長期的な観点から、より広い視野に立って眺めることで(戦略的)、そこから導き出される共通の利益を基礎にした関係(互恵関係)をつくりあげていこう、というものである。この新しい関係を支えるものの中身は多くある。これから順不同で、思いつくまま触れていきたい。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓平和記念館」開館から半年を経て37
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館専務理事)
「方正友好交流の会」の会員の皆様を始め多くの皆様方よりの温かい御支援等を得て、足かけ8年を経て長野県阿智村にてようやく完成、開館まで漕ぎ着けた「満蒙開拓平和記念館」。4月25日の開館より早いものでもう半年以上が経過いたしました(11月23日現在)。記念館建設までの経過等についてはこれまでにも何回もこの『星火方正』でも取り上げて頂いていますので、今回は主として開館後の状況等について報告させて頂きたいと思います。 /// 続きは本誌ご参照
鎮魂と平和の里―阿智村の満蒙開拓平和記念館を訪ねて42
山田敬三
所在地をホームページで調べたけれども経路はいま一つはっきりしない。地図を見たり時刻表をめくったり、挙げ句の果てに記念館へ何度も電話して高速バスの乗り場を尋ねるような始末であった。だが、そんな煩わしい問い合わせをいやがりもせず、事務局の方がいちいち調査して懇切丁寧に答えて下さった。お陰で満蒙開拓平和記念館へはスムースに到着することができた。 /// 続きは本誌ご参照
日本国長野県「満蒙開拓平和記念館」の訪問レポート45
石金楷(ハルピン市日本残留孤児養父母連絡会秘書長)
2013年6月25日、私たち「平和友好訪日観光チーム」一行5人は名古屋から長野県に行き「満蒙開拓平和記念館」を見学、記念館側の歓迎を受けた。メンバーは:ハルピン市日本残留孤児養父母連絡会の名誉会長・胡暁慧、秘書長・石金楷、黒竜江省社会科学院歴史研究所研究員・車震紅、黒竜江省テレビ特約評論家尚禎、日本残留孤児・都鳳琴、通訳・房若林。 /// 続きは本誌ご参照
叔母家族の終焉の地を訪ねて50
中嶋定和
私の実家は長野県中野市赤岩(戦前は長野県下高井郡科野村)です。私が幼かったころ、祖母に連れられて墓参りに行った時、お墓の端に石が3個置いてある場所がありました。祖母がその所にも線香や花を手向けて祈っているのを不思議な思いで見ていて、その後もずっと気になっていました。 /// 続きは本誌ご参照
あの頃のこと53
福井以津子
「皇紀ある紀元二千六百年」と日本中が旗行列・提灯行列と国民が躍らされていた昭和十五年、私は女学生の一年生になったばかり。校長先生のお話はいつも長く、今は「非常時」「銃後の護りは女子の役目」というお言葉を聞かされていた。 /// 続きは本誌ご参照
この冬、最後の方正ロケヘ:映画「祖国をひと目みて死にたい」(仮題)―政府が孤児と認めない徐士蘭さんの夢をかなえた人たち(わたしの方正之路1)56
奥村正雄
最近、夜中に目が覚めると鋭い声が聞こえてハッと身構えることがある。「あの映画はどうなったんだ!徐士蘭さんは元気なのか?」徐士蘭さんとは、日本政府から残留孤児としての物的証拠がないという理由で孤児と認定されない女性(推定72歳)である。その彼女が2年前の6月、さまざまな障害を乗り越え、多くの人のカンパと声援を得て彼女の悲願「祖国をひと目見て死にたい」が実現した。その一部始終を支援スタッフの中心となった4人(吉川雄作、飯白栄助、是洞三栄子、奥村正雄)の一人、吉川雄作さんが記録してきた。 /// 続きは本誌ご参照
ハルピン氷祭り、詳細ともう一つの意味(わたしの方正之路2)59
奥村正雄
ハルピンの氷祭りは1906年に始まっていますから、一世紀の歴史を持つ世界的な氷祭りです。しかし、世界の観光客が集まるようになったのは1946年、抗日英雄・李兆麟を埋葬した兆麟公園で開かれるようになってからです。世界の氷彫刻家たちが集まって氷の芸術を展示するようになりました。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓平和記念館」を訪ねる―一泊二日の下伊那の旅61
方正友好交流の会
ご承知のように、全国で最も多くの「開拓団」を送り出した長野県南部に「満蒙開拓」に特化した記念館が開館しました。どんなに言葉を尽くしても表現できない敗戦後の逃避行の悲惨さ故に、ほとんどの体験者は沈黙してこの世から去って行きます。その意味で、当時の「満蒙」に関する記念品が陳列されている「満蒙開拓平和記念館」の存在の意味は本当に大きいと思います。日帰りでなかなか時間的な余裕がありませんが、1泊2日で旅する企画を立てました。参加者同士が交流しながら、満蒙開拓の実情を認識しましょう。ぜひ、ご参加を! /// 続きは本誌ご参照
提言:久保孝雄氏の新著「変わる世界、変われるか日本」を推奨!―右傾化を厳しく批判し、旗織鮮明に掲げる「日中友好」62
凌星光(日中科学技術文化センター理事長)     転載元:日中科学技術文化センター『きずな』(2013 年秋季号)
神奈川県元副知事、神奈川県日本中国友好協会名誉会長の久保孝雄氏は、今年7月、新書「変わる世界、変われるか日本」を上梓された。日中関係が悪化し、その修復が問われている昨今において、できるだけ多くの人に読んでもらいたい一冊である。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓とは何か64
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)     転載元:日中文化交流市民サークル「わんりぃ」2013 年9 月・10 月・11 月
私たち「方正友好交流の会」の活動によって、ハルピン市郊外の方正県にある日本人公墓の存在が少なからず人々に知れ渡ってきた。しかしこの会が、前身の「ハルビン市方正地区支援交流の会」の後を受けて発足した2005年当特は、まるで知る人は少なかった。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い67
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
書籍案内68
方正友好交流の会
『東京満蒙開拓団(東京の満蒙開拓団を知る会著)』、『渡満とは何だったのか一東京都満州開拓民の記録(高橋健男編著)』、『戦場へ征く、戦場から還る一火野葦平、石川達三、榊山潤の描いた兵士(神子島健著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記69
大類善啓
作家の辻井喬さんが亡くなった。畏友、木村知義さんがNHK在職中の07年8月に企画し放送されたラジオ特別番組『21世紀日本の自画像一変わる世界!日中関係、新たなステージヘの構想』で、方正日本人公墓を取り上げられた。ゲスト出演が辻井さんだった。放送後辻井さんに『星火方正』をお送りしたところ、返事がきた。「民間交流が大切だ。頑張ってください」と記されていた。その数年後、ある会合でお会いしご挨拶したところ「なかなか立派な会報ですね」という言葉をいただき恐縮した。 /// 続きは本誌ご参照

  第16号(2013年5月発行) 第16号(2013年5月発行)表紙

国際主義を超えてHOMARANISMOを!―K・マルクスからL・ザメンホフの人類人主義ヘ1
大類善啓
領土問題を契機に政府レベルの日中関係が冷え込んでいる。一部、日本に存在する嫌中感情も広がっているように見える。しかしやっとここに来て、感情的な論調や雰囲気が減少しているようである。日中双方の心ある人たちが「理性的に行動しよう」と呼びかけた効果もあるだろうが、ある一定の時間が経てば、熱しやすく醒めやすい感情的な心模様が変わってきたのだろう。感情的な雰囲気は消え去るものなのである。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓平和記念館」の開館を迎えて5
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館専務理事、方正友好交流の会理事)
「方正友好交流の会」の御関係の皆様始め多くの温かいご支援等を頂きつつ建築準備を進めてまいりました「満蒙開拓平和記念館」が4月25日に開館いたしました。この原稿を書いているのが4月15日なので、現段階ではまだ開館前ですが、4月24日に開館式、翌25日より一般公開となります。24日の開館式は、これまでの間にお世話になった御関係者等を中心として阿部守ー長野県知事始め行政関係等や地元の皆さん等お招きしてささやかに挙行する予定です。 /// 続きは本誌ご参照
たったひとつの願い―「満洲」から故郷日本へ帰って11
纐纈代美子
わたしは、昭和10(1935)年に、纐纈家の二女として長野県に生まれました。本籍地は、長野県木曽郡南木曽田立2121番地の1です。わたしが4歳のとき、昭和14年10月5日に、わたしの父の兄弟二家族一緒に、わたしの家族6人、おじさんの家族は8人で、「読書開拓団」として、中国の旧満洲三江省樺川県公心集栄安屯部落へ入植しました。 /// 続きは本誌ご参照
“馴染の地”になった方正18
吉川雄作(会員)
私が初めて方正を訪れたのは2006年6月、当会参与の奥村氏が千葉市幕張で主宰する中国語教室の一生徒として、毎年この時期に行われてきた方正日本人公墓参拝ツアーに誘われてのことであった(会報3号で報告)。以来、2010年に再訪(会報11号で報告)、そして昨年、3度目の訪問で、私にとって方正は“馴染”の地となった。 /// 続きは本誌ご参照
史実を学び、伝えたい21
松島赫子
2010年「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」企画のツアーに方正訪問が含まれていることを知って私も参加した。その前年、ある偶然により方正を知り、“積ん読”状態にしていた来民開拓に関する2冊の本『たたかいの祭り』と『赤き黄土』を読んで、いつか方正へと思ったのが思いがけず早く実現することになった。(来民開拓団は1945年8月17日、宮本貞喜さんのみが、自決する開拓団の最後を祖国日本に報告する任務を負い、団から脱出。残る275名は集団自決した。その中には、宮本さんの妻子、孫も含まれていた。) /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路23
奥村正雄
昨年、4月8日に方正の帰国者たちと催した「歓賞桜花」の会は、雲一つない絶好の天気に恵まれて、中国では経験したことのなかった「お花見」という日本の伝統文化を、中国帰国者たちに堪能してもらうことができた。しかもこの催しを盛り上げたのが、帰国3世の纐纈夢翔ちゃん(小1)が躍る軽快な踊りと、彼女の祖父・田文学さんが披露した中国東北3省で古くから伝わる「二人転」の歌だったことは本誌14号で既報の通りである。この話が帰国者たちに伝わって、今年は70人の大パーティになるはずだった。 /// 続きは本誌ご参照
石さんの特約情報28
石金楷(ハルピン養父母懇親会事務局長)
昨年12月13日から16日まで、日本の著名な日中友好の活動家で[ABC企画委員会]のメンバーである山辺悠喜子さん一行4人が731部隊陳列館を訪問、熱烈な歓迎を受けた。彼女は1929年1月10日、東京で生まれ、1941年、本渓鋼鉄会社で勤務の父親と合流。1945年の敗戦後、16歳の彼女は中国東北民主連合軍に参加、中国人民解放軍のメンバーとして中国人民解放戦争に参加した。 /// 続きは本誌ご参照
満州事変の導火線「中村大尉殺害事件」30
高橋健男
2011~2012年は満州事変・満州国建国から80年ということで、ジャーナリズムや書籍等、関連特集がいくつも見られた。満州開拓団に関心を持つひとりとして、満州国建国から開拓団の送出につながる時代の一大変化を引き起こした満州事変に関しても知らないで過ごすわけにはいかない。 /// 続きは本誌ご参照
ちきゅう時の散歩:稲作で日中の架け橋―藤原長作・方正41
竹内誠一郎(読売新聞)     転載元:読売新聞(2013年2月1日付夕刊)
中国の「氷都」と呼ばれる黒竜江省ハルビンから東に約200キロの方正。一面に広がる雪原は秋になれば、黄金色の稲穂で埋め尽くされる。中国で「水稲王」と呼ばれた藤原長作が、1980年代に稲作技術を伝えたこの地は今、「中国で最もうまいコメの産地」と知られる。 /// 続きは本誌ご参照
第5回近現代の歴史検証と北東アジアの未来を展望する:周恩来の国際主義的精神を噛みしめて一ハルピン・方正、引揚の港・葫蘆島と周恩来鄧穎超記念館を訪ねる42
社団法人日中科学技術文化センター、方正友好交流の会
今回は、「周恩来の国際主義的精神を噛みしめて」というタイトルの下、方正日本人公墓、731部隊罪証陳列館(残留孤児、中国人養父母に関する常設展)、残留日本人引き揚港の葫蘆島、天津では周恩来鄧穎超記念館を視察する。 /// 続きは本誌ご参照
ハルピン氷祭りの旅(2014)43
方正友好交流の会
1月29日(水)新潟空港ロビーに集合 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い44
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
中国のお笑い―伝統話芸“相声”の魅力―戸張東夫著45
大類善啓
上記『中国のお笑い』書評拙文は、(公社)日本友好協会の旬刊新聞『日本と中国』に掲載したものである。この本のサプタイトルは「伝統話芸“相声”の魅力」、帯は「笑いに国境などない!」である。前号『星火方正』15号に「垂水健一さんを偲ぶ」という原稿を書いた。文中には、垂水さんの後を継いで『日本と中国』の編集長になった経緯などを書いた。ところがこの号が出た後、諸般の事情で編集長を辞めることになった。私事であるがご報告しておきたい。なお、『日本と中国』はこの6月から月刊になるとのことである。 /// 続きは本誌ご参照
書籍案内46
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」ーハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『東京満蒙開拓団(東京の満蒙開拓団を知る会著)』、『戦場へ征く、戦場から還る一火野葦平、石川達三、榊山潤の描いた兵士(神子島健著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記47
大類善啓
いつも5月発行の会報は、夏の訪中記がある12月発行の号ほどの厚さはない。しかし要は内容である。これからも、会報にふさわしいと思われる原稿をどしどしお寄せいただきたい。 /// 続きは本誌ご参照

  第15号(2012年12月発行) 第15号(2012年12月発行)表紙

方正県政府による公墓維持管理費辞退に思う1
大類善啓
方正県政府が日本政府の日本人公墓維持管理費を辞退する、という記事が出ていたと友人に教えられて驚いた。まさかそんなことがあるとは思えなかったのだ。記事は2012年7月28日付読売新聞朝刊の記事だった。書いた竹内誠一郎記者とは以前に何度か電話で話した間柄である。改めて電話で問い合わせると、竹内さんは県政府の外事僑務弁公室主任の王偉新さんに直接取材して書いたと言う。 /// 続きは本誌ご参照
方正県政府関係各位へ:公墓管理維持費辞退の報に接して(※中文も添付)2
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)
このたび中国黒竜江省方正県人民政府が、日本政府からの公墓維持管理費を辞退する旨の報に接し、非常に驚いています。1963年、周恩来総理によって建設を許された中国唯一の方正地区日本人公墓に対しては、日中国交回復以前も以後も、長年にわたって維持管理をしてきていただいた貴国及び方正県政府への感謝をこめて、日本のさまざまな民間友好団体による支援と友好交流が続けられてきました。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓「支援受けず」―中国・方正県、日本に方針伝達4
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2012年8月16日付朝刊)
中国黒竜江省方正県が、敗戦時の引き揚げ途中に死亡した旧満蒙開拓団員を慰霊するために建てた共同墓地「日本人公墓」の維持管理費の一部を2009年から支援してきた日本政府に対し、今後は支援を受けない方針を伝えたことが15日、外務省などへの取材で分かった。 /// 続きは本誌ご参照
方正友好交流の会記念講演会、大好評5
大類善啓
《「満州」、原発棄民の荒野》と題した第8回方正友好交流の会・記念講演会は多くの人たちに新鮮な印象を与えた。下記の記事は公益社団法人日中友好協会の旬刊紙『日本と中国』に大類善啓が執筆したものである。 /// 続きは本誌ご参照
「満洲国」から原発危機へ:欺瞞言語の脅威6
安冨歩(東京大学東洋文化研究所教授)
今日が原発の再稼働が決定されるという日になるとは思いませんでした。午前中に2時間ほど「再稼働反対」のデモに行って来ました。さて、私が研究を始めたのは、バブルが始まって崩壊した頃です。その直前に、住友銀行に2年半ほど働いていました。住友銀行に入った理由は、大学時代のしつかりした立派な先輩方が多く入っていたからです。それでそういう人が集まっている中に私も参加したいと思ったわけです。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児及び原発問題を通して日本を問う20
河合弘之(弁護士)
私は、1944(昭和19)年4月旧満州吉林省長春(新京)で生まれ、父は満鉄の関連会社、満州電業の社員で、四人姉弟の三番目です。8月15日敗戦の時、1歳で、葫蘆島から引き揚げました。その船内で、弟が栄養失調で死亡、水葬にされました。両親は満洲時代のこと、特に引き揚げの状況については話してくれませんでした。その後、安富先生日く「東大話法」(笑)の東大法学部を出て弁護士になりました。学生時代は卓球部のエースで、4年先輩に東京電力の勝俣恒久氏がいたので、5年前、勝俣氏への年賀状に「原発止めましょうよ」と書いたところ、彼から「原子カルネッサンス」とだけ書いた返事が来ました。 /// 続きは本誌ご参照
東日本大震災後の日中民間交流一方正日本人公墓開拓団石碑事件を中心に41
猪股祐介
東日本大震災後ほど、中国世論が日本に好意的であった時期はなかったでしょう。背景には2008年の四川大震災の際、日本救助隊の活躍が他の国際救助隊に抜きん出ていたことがあります。東日本大震災後、中国人の約83%が「日本を助けよう」と回答したという調査もありました。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児のアイデンテイティー45
藤原知秋
僕は今年の3月で、ちょうど来日22年目になり、中国で生まれ育った20年間よりも2年長くなりました。フリーの中国語講師、通訳と翻訳を生業にしていますが、すでに日本国籍を取ったのです。身の上のことを言いますと、母方の祖母が日本人です。第二次大戦が終結しようとする時に、家庭の事情に加えて、東京も米軍による空襲で危なくなることもあり、家族で朝鮮半島を経て、当時満洲国だった中国東北部に渡りました。その家族には、まだ幼い僕の母親も含まれます。渡満して間もなく日本が敗戦したので、波瀾万丈の逃避行を余儀なくされました。家族もばらばらになり、祖父が行方不明、祖母が幼い子どもを三人も抱えて、とても自力で日本本土へ帰ることはできないので、やむなく子どもをばらばらに中国人の家に預け、祖母も中国人の男性と再婚して、中国に留まりました。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路1:再会の歓びと辛さ47
奥村正雄
毎年恒例の「方正日本人公墓への旅」(6月27日~7月1日)は中国南方航空の新ダイヤによって、行きは成田から大連で国内航空に乗り換えハルピンへ、帰りは例年通りハルピンから新潟へ、という変則行程となった。日程を1日変更すれば予定通りの往復になったのだが、すでに仕事の予定を当初の日程に合わせていたメンバーがあり、この変則コースとなった。参加者9人のうち、一人、毎回参加してくださる樗沢仁さんが新潟県在住のため、前日に成田で一泊、という予定外の負担をかけることになったが、さらにこの「つぎはぎコース」の難点は、大連で5時間半もハルピン行きを待たなければならないことだった。この国内便がまた1時間余も延着、ハルピン郊外の空港に着いて、市内のホテルに着いたのは夜中だった。 /// 続きは本誌ご参照
孤児の原点を訪ねる―徐士蘭が実母と永別した場所ヘ49
飯白栄助
羽田澄子の記録映画「嗚呼 満蒙開拓団」で、厚労省は認めてくれないが私は日本人だ、母の記憶はないが、周囲もみんな私を日本人だと言っている、と強く訴えた徐士蘭さんに、「なんとか一目、祖国を見せてあげたい」という多くの人の思いが実を結び、昨年6月、彼女の訪日が実現した。 /// 続きは本誌ご参照
方正の旅初参加の印象51
近藤喜一郎
私は今年76歳、69歳の退職を契機に中国語を学び始めましたが、今では中国語電子辞書は私にとって“総是不離身”となり、以前からお付き合いのあった中国や台湾の友人はもとより、最近では中国大使館の方にも知り合いが出来、何かと中国の方々との交流が広がるにつけ、年甲斐もなくこれからも学習を続け将来は日中友好の為に少しでも貢献出来ればと願う一都民です。 /// 続きは本誌ご参照
8年ぶりの公墓再訪53
是洞三栄子
初めて「方正日本人公墓への旅」に参加したのはもう8年前になるが、二度目の今回は墓参のほかに、昨年6月、日本に10日間滞在した未認定「中国残留孤児」の徐士蘭さんとの再会と、彼女の周辺のあれこれを収録するという目的があった。あのペンキ事件が一応収束したかに見えるこの6月末に、今回は直接、成田空港から旅立った。それに大連空港でのトランジットの大幅な時間調整の関係で、大連のバス観光という、願ってもないおまけも付いた。 /// 続きは本誌ご参照
方正の旅行に参加して55
佐藤美子
とうとう念願が叶った!!方正友好交流の会が企画する2012年6月27日~7月1日の『方正日本人公墓への旅』に参加した。参加の動機は、2009年に公開されたドキュメンタリー映画『嗚呼 満蒙開拓団』(羽田澄子監督)を観たこと、その際にギャラリーで販売していた『星火方正』の会報を拝見し、方正県という場所に亡くなった日本開拓村の難民のために中国人が建立してくれた日本人墓地があることを知り、いつか訪れてみたいと抱いていた。以前から中国残留孤児問題については、報道やドラマ等から知っていたが、映画が公開される2年前の大学4年次に、帰国者である千葉県中国帰国家族互助会の安達大成さんのお話を伺ったことで、より関心を持つようになった。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路259
奥村正雄
6月28日、方正の日本人公墓参拝に方正を訪れた8人のうち、映画『祖国よ なぜ!? 徐士蘭さんの叫び』(仮題)の最後のシーン撮影のため方正に留まる3人を残して私たち5人はハルピンへ戻った。 /// 続きは本誌ご参照
養父母連絡会レポート62
石金楷(秘書長)
2012年7月30日、日本の京都大学大学院、文学研究科博士課程の留学生、郝洪芳さんがハルピンヘ調査に訪れ、当連絡会がいろいろ世話をしてあげた。今年30歳の郝洪芳さんは黒竜江七台河市の出身、2005年東北師範大学を卒業、その後北京外国語学院で勉強、2009年に京都大学に留学した。 /// 続きは本誌ご参照
残留日本人孤児の記録後世へ―中国の民間団体が常設展63
石田耕一郎(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2012年8月16日付夕刊)
中国の残留日本人孤児と、中国人養父母に関する常設展が16日、黒竜江省ハルピンで実現した。戦後67年を経て養父母も孤児も高齢化が進み、資料の散逸が懸念されていた。歴史を後世に語り継ぐ「中国初の取り組み」という。 /// 続きは本誌ご参照
「大陸の花嫁」3代で伝承―91歳 京都の井筒さん 苦難の引き揚げ ネットに俳句64
読売新聞     転載元:読売新聞(2012年8月15日付夕刊)
戦時中に旧満州(中国東北部)へ渡った京都府城陽市の井筒紀久枝さん(91)は、ソ連軍の侵攻などで目の当たりにした悲劇を、俳句や手記に残してきた。平和への願いは、娘の新谷陽子さん(55)と孫の大学4年生、有里さん(21)に引き継がれ、インターネットで発信されている。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓の悲劇 後世へ―黒竜江省方正県 ゆかりの地 保存運動65
石田耕一郎(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2012年8月4日付朝刊)
旧満洲に渡った旧満蒙開拓団員約5千人が、日本の敗戦前後に命を落とした中国・黒竜江省方正県で、ゆかりの地の保存運動を進める中国人郷土史家がいる。開拓団員らは、中国からみれば「加害」に連なる役目を担わされた日本人だが、敗戦の混乱の中で日本軍に見捨てられた。その被害者としての面にも目を向けるべきだ、と訴えている。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路3:68年前の松田ちゑさんが蘇る…片岡稔恵さんの小説『流氓に非ず』―中国残留婦人の物語66
奥村正雄
北靠山屯村山郷開拓団…かつて松田ちゑさん(方正地区日本人公墓の生みの親)が語る話の中で聞き慣れ、人に話し慣れた、山形県が中国黒竜江省に送り出した開拓団の名である。ここで戦争末期、1945年8月9日、ソ連軍が国境を越えて旧満州に侵入した前後の、あわただしい様子から、国策を絡ませながら松田さんたちの避難を克明に描いてゆく。 /// 続きは本誌ご参照
満洲逃避行の検証―第13次興安東京荏原郷開拓団68
宮下春男
1945(昭和20)年8月9日、「満洲国」の国境各地からソ連軍が一斉に侵攻した時、満洲の僻地に入植していた農業生産を主とする約1200もの開拓団等は戦争を避けるため的確な情報がないなかを日本人が多く住む都市や“南下”を目的に退避・避難したが、比較的順調に避難できたのはごく一部の開拓団で、特に国境沿いに配置されていた開拓団は避難途上で多くの犠牲を払った。その一つがこの開拓団であり避難時の証言である。 /// 続きは本誌ご参照
垂水健一さんを偲ぶ88
大類善啓
年を取れば友人知人の訃報に接することが多い。とりわけ今年はその感が強い。思い出してみても、(社)日中友好協会の機関紙『日本と中国』元編集長の金田直次郎さん。『女湯に浮かんでみれば』『神保町タンゴ喫茶劇場』と小さな詩集を遺し、38歳で逝った堀ミチヨさん。20代の半ばからの付き合いで、新生塾という名のサークル共同体や「台湾の政治犯を救う会」などの活動を共にした河戸道子さんは当会の活動も支援してくれた。まだ60代半ば、これから益々活躍してほしいと思った人だった。 /// 続きは本誌ご参照
悲劇を風化させるな―「方正友好交流の会」が再出発へ89
中日友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2005年4月15日)
中国・黒竜江省の方正県に約5千人の日本人入植者が眠る「方正地区日本人公墓(共同墓地)」がある。その方正県と日本との友好促進、公募の存在を広めようという「方正友好交流の会」は、柱になっていた人の死去で活動が停滞していた。「方正の入植者の悲劇を風化させるな」と、関係者が6月に会再出発に向けた総会を開く。 /// 続きは本誌ご参照
今こそ、「愛国」より国際主義的精神だ―生き続ける周恩来の思想と人間的な魅力90
大類善啓     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2012年11月15日)
2009年10月から始まった「周恩来と日本」展は、その後各地で巡回し開催されている。つい最近は青森市(青森県日中友好協会主催)で開催され、周恩来総理に対する人気の高さと広がりを改めて感じさせた。また現在、尖閣問題で悪化する日中関係だが、「日本軍国主義と日本人民を区別した周恩来総理の知恵に立ち返るべきだ」(西堀正司・長野県日中友好協会理事長)との声も挙がっている。危機にある日中関係の中、周総理の思想と行動に焦点を当て、関係改善へのヒントを考えてみたい。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓 立ち入り再開へ―中国・方正県 石碑問題で作夏から規制91
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2012年4月28日付朝刊)
日本と中国のぎくしゃくした関係を背景に昨夏以降、中国黒竜江省方正県にある旧満州(中国東北部)開拓団員らの共同の墓「日本人公墓」に近づけない状態が続いていたが、5月にも立ち入り可能になることが27日、友好団体関係者らの話で分かった。昨夏、方正県が亡くなった旧開拓団員の名を刻んだ石碑を公墓近くに建てようとしたところ、同国内で激しい反対が起きた影響で公墓に近づけなかった。 /// 続きは本誌ご参照
窓:大地は天からの借り物だ92
大類善啓     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2012年5月5日)
いにしえの昔から、人々が住む大地は天から、あるいは神から授かったものだ、お借りしているのだから大切に使うべきだという考えがある。 /// 続きは本誌ご参照
窓:無頼漢の最初の拠り所92
大類善啓     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2012年7月5日)
政治家という人種は本当に目立ちたがり屋が多い。こういう人間の大向こうを狙うような発言などは、メディアが取り上げないのに限る。と言っても、そうはいかないのが浮世というものだ。 /// 続きは本誌ご参照
建設進む「満蒙開拓平和記念館」93
寺沢秀文(本会理事、一般社団法人「満蒙開拓平和記念館」事業準備会専務理事)
「方正友好交流の会」会員の皆さま始め全国の皆さまより温かいご支援を頂いて建設準備を進めてきた「満蒙開拓平和記念館」。ようやく念願かない、先般9月11日に起工式を挙行し、現在、来年4月下旬開館予定に向けて建設が進んでいます。平成18年の構想着手以来、建設着工までに6年もの歳月を要してしまい、また厳しい経済環境等の中で、建物規模等も当初計画よりはかなり縮小してではありますが、それでも来春には全国で初めての満蒙開拓に特化した記念館が完成します。 /// 続きは本誌ご参照
私たち若い世代に引き継がれたもの96
藤原知秋(方正友好交流の会・青年グループ)
先ごろ、方正の日本人公墓わきで、急ごしらえの死亡者名を刻んだ石碑に赤ペンキがかけられ、これを建設した方正県政府があわててこれを撤去するという事件が起こりました。刻まれた名前が約250名、敗戦時に各地の開拓団から方正めざして苦難の避難をし、ようやくたどり着いて亡くなった老幼婦女子が約4500人と推定されています。ペンキ事件の対象になった石碑に刻まれた人数はそのごく一部、大多数の犠牲者氏名は不明のままです。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓への旅(2013)98
方正友好交流の会・公墓訪問班
6月19日(水)新潟空港ロビーに集合 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い99
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
書籍案内100
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」ーハルビン市方正県物語一(方正友好交流の会編著)』、『東京満蒙開拓団(東京の満蒙開拓団を知る会著)』、『戦場へ征く、戦場から還る一火野葦平、石川達三、榊山潤の描いた兵士(神子島健著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記101
大類善啓
12月の慌しい日々、今回も森一彦さんと詰めの編集作業を行い、なんとか発行にこぎつけることができました。原稿についている写真は全部カラーにしたいところですが、費用の点で難しく、ご容赦ください。 /// 続きは本誌ご参照

  第14号(2012年5月発行) 第14号(2012年5月発行)表紙

人類の善意と希望を信じて1
宮本雄二
私は2007年の秋、城戸久枝さんの『あの戦争から遠く離れて~私につながる歴史をたどる旅』を読んだ。残留孤児であった父親の、日本では黙して語らなかった中国時代のことを知る旅の記録であった。そこで「方正県」を生々しい、あの時代の多くの日本人の感情とともに知ることができた。そして私は、大使として黒龍江省を公式に訪問する場合には、必ず方正県を訪れ、養父母と地元の方々に感謝の気持ちを伝え、そこに眠る日中双方の方々に私の慰霊の気持ちを伝えたかった。 /// 続きは本誌ご参照
参考:宮本大使方正訪問関連記事2
編集部     転載元:『星火方正』6号(2008年5月)
星火方正6号表紙写真、黒竜江日報(2008年1月15日付)、日本と中国(2011年3月5日号)などの転載。 /// 続きは本誌ご参照
方正「石碑事件」のその後5
大類善啓
昨2011年の7月末から8月初旬に方正県で起きた、いわゆる「石碑撤去事件」から9ヶ月ほど経つ。事件直後に巻き起こった中国のインターネット上でのかまびすしい“議論”も一段落したようである。閉鎖されていた「中日友好園林」も開放され、公墓参拝もできるようになった。しかしこれで全て一件落着というほど、心安らかになったわけではない。「事件」から見えてきた思わぬ現実もある。次頁以降に掲載した中国での論文を掲載したのも、そういう現実を日本の人々に知ってほしかったからである。もちろん、掲載した二つの論文に賛意したわけではない。今回、劉論文に対する批判を含めて少しばかり感想を述べたい。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路1:ペンキ事件についての私見8
奥村正雄
1945年夏から翌年春にかけて、ここで亡くなった同胞は4500人前後、と言われてきた。しかしこれはあくまで概数であり、当時ここへ辿りついた後、祖国に帰りついた各地の開拓団から,方正で犠牲になった犠牲者の氏名を調べだし、犠牲者の全体像を把握する組織的な作業は、残念ながら行われてこなかった。開拓団を送りだした各県の関係者は、これまで毎年、夏から秋にかけて「拓魂祭」などの名称で慰霊の行事を行ってきたし、今も、すでに高齢になったが壮健な帰国者やその2世3世々代や、友好団体などによって、行事は行われているところが少なくない。 /// 続きは本誌ご参照
慰霊碑撤去騒ぎの方正を行く10
高橋茂男
昨年8月初め、アムール河を挟んでロシアと向かい合う国境の街・黒河などを見てハルビンに戻ると、方正県で満州開拓団の慰霊碑をめぐる事件が持ち上がっていた。一緒に旅行していた私と2人の友人はいずれも中国に駐在した経験のある元ジャーナリストで、習い性というか何か事が起きると現場に行きたくなってしまう。予定を変更し、私たちに付いている中国人ガイドも交えて方正行きを検討することにした。 /// 続きは本誌ご参照
方正「開拓団」石碑事件の真相を追う14
高振凌(ハルピン市経済研究所旅行・文化産業研究センター分析員)
もしも温家宝総理が2007年日本を訪間した時に、日本の国会で日本の残留孤児が方正の養父母のため友好園林に「養父母の碑」を建てたことに言及しなかったならば、方正という人口わずか数十万人の小さな地方都市は、永遠にマスメディアの視野に入らなかっただろう。そしてまた、時の日本駐中国全権大使・宮本雄二氏はすぐさま方正を訪ね、中日友好園林の日本人公墓を見学。その後日本政府は日本人公墓に修復費用を出した。方正をめぐる中日外交の不安定さは基本的に成り立たなくなるかもしれない。 /// 続きは本誌ご参照
日本開拓団の死亡者名を刻んだ石碑建立を批判する16
劉同塵
最近、中国インタネット・サイト‘鉄血社エリア’で、ハルピン市経済研究所、観光文化産業研究センター、研究分析員高振凌氏の論文《方正県石碑建立事件真相を見て、石碑建立行為を、再度、批判、罵倒する》を読み、彼の論文中に引用された《日本開拓団民死亡者名簿》の全文を拝読した。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓 立ち入り再開へ―中国・方正県 石碑問題で作夏から規制19
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2012年4月28日付朝刊)
日本と中国のぎくしゃくした関係を背景に昨夏以降、中国黒竜江省方正県にある旧満州(中国東北部)開拓団員らの共同の墓「日本人公墓」に近づけない状態が続いていたが、5月にも立ち入り可能になることが27日、友好団体関係者らの話で分かった。昨夏、方正県が亡くなった旧開拓団員の名を刻んだ石碑を公墓近くに建てようとしたところ、同国内で激しい反対が起きた影響で公墓に近づけなかった。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路2:庵谷さんとの別れ20
奥村正雄
庵谷磐(元中国残留孤児問題全国協議会会長)さんが亡くなられた。訃報に接して私は動揺した。じっとしていられず、1月13日、東京・西五反田の桐ケ谷斎場へ駆けつけた。祭壇に飾られた、おびただしい供花の中に「東大スケート部」の名があって、祭壇中央に飾られた柔和な遺影が「知らなかっただろう?」と微笑まれたような気がした。いっぽう、多くの会葬者の中に、一人も見知った顔がなかった。当然、会葬者としてお会いできるだろうと思っていた何人かの顔がなかった。どうして?自問するうち、気がついた。私の頭に浮かんだ、庵谷さんがお元気なころに、同じように活躍しておられた残留孤児支援の先輩たちは、もうここまで弔問に足を運ぶパワーが亡くなっておられるのだ、と。 /// 続きは本誌ご参照
求め続けた「血の通う行政」―元中国残留孤児問題全国協議会会長・庵谷磐さん22
大久保真紀(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2012年12月18日付夕刊)
敗戦前後の混乱で中国に残された日本人孤児、残留婦人らを長年支援した。彼らの存在が生まれた原因を見つめ、「国の責任」を問い続けた人だった。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路3:桜が語る去年とことし23
奥村正雄
中国帰国者とその支援者、中国語学習者らに呼びかけたら30人あまりが集まった。天気は絶好、微風。各自が昼食、飲み物持参と伝えたが、帰国者たちは「そんなの私たちの生活習慣にはない」とでも言わんばかりに、持ってきたご馳走を広げるわ広げるわ……、広いブルーシートの半分は、帰国者纐纈代美子さん家族が持ってきた料理で埋めつくされた。唯一、私たちが用意した材料とシチュウ鍋で、知らぬ間に豚汁を作ってくれたのは、代美子さんの嫁さん優理恵さん。その小学校新1年生になったばかりの娘、夢翔ちゃんが、紙のどんぶりにお母さんが入れた豚汁を両手で捧げて配って歩く。 /// 続きは本誌ご参照
養父母の会が嬉しい悲鳴―日中国交回復40周年で連日、研究者、マスコミが来訪25
石金楷(事務局長)
4月3日から6日にかけて、山東大学歴史文化大学副教授・趙彦民さんがハルピン市を訪問。当連絡会は日本の残留孤児の養父母及び中国に残る残留孤児との話し合いをセッティングした。またハルピン市民主郷に残る「浜江省天理村開拓団」の跡地を案内した。 /// 続きは本誌ご参照
何故、悲劇が生じたか―満洲開拓団員の敗戦・逃避行時惨状要因の一考察27
宮下春男
昭和20(1945)年8月9日未明、日ソ中立条約を破ってソ連軍が「満洲」に侵攻した時、満ソ国境近くに配償・入植させられていた多くの満洲開拓団は、関東軍や満洲国政府からはソ連の動向に関する事前情報は一切なかった。突然の避難命令・指示に驚き、第二の故郷と決意して家族共々住みついた土地を離れる事への戸惑い、上地への執着、あくまで現地に残留するか、或いは生きるために都市部への避難を余儀なくされた開拓団員と家族の多くは、逃避の途次または残留地でソ連軍兵士や暴徒と化した近隣原住民、匪賊と称した反乱逃亡中の満洲国軍の元兵士・元警察官、労エとして使役、鉱山等に徴発されていた元農民等からの略奪・襲撃を受け、未曾有の凄惨な被害を受けた。特に自殺・自決を含めた死に至る人的被害の状況は想定されるあらゆる形態があり、その悲惨さは筆舌に尽くし難いものがある。 /// 続きは本誌ご参照
NHKの「開拓者たち」を視て36
宮下春男
平成23年12月中旬頃にHPを検索していてNHKが元日の夜、BSプレミアムで満洲開拓団の事跡をドラマとして放送することを知った。満洲開拓団は「満洲国」の消滅と共に歴史に埋没していると感じていたのでNHKが一つの開拓団とは言えその終始を纏めてくれたことに、大きな期待を持った。最近は劇物を見ないので主演の満島ひかりさんがどんな方かも知らず、しかし、この時期に取上げてくれた背景は開拓団の歴史的評価と、敗戦により悲惨な逃避行と多くの犠牲者を出しながら、無事帰国できた人達が不撓不屈の精神と共同の力で国内の原野を開拓する、それは東日本大震災に遭われた方々への激励、鼓舞のメッセージかとも思っていた。 /// 続きは本誌ご参照
歴史の悲劇を二度と繰り返さないで一方正出身の私にできること39
河俣美慧子
こんにちは、河俣美慧子(中国名:張威威)です。1976年9月に方正県の天門郷に生まれ、学校を卒業してから北京でアルバイトをしながら歌を勉強しました。特にテレサ・テンの歌がとても好きです。北京から帰郷し、小学校の代理教員として1年余り勤めました。現在は外国人実習生を紹介する組合で通訳として勤めています。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路4:米欧に亡命者を追う―翰光『亡命一遥かなり天安門』を読む40
奥村正雄
新聞で方励之の訃報を知った。天安門事件(1989年)の最重要人物として政府の追及を逃れ、北京の大使館経由でアメリカに亡命した著名な理論物理学者である。1936年生まれだから私より5歳も若い。この方励之のほか、映画『古井戸』の原作者で作家の鄭義、ノーベル賞受賞者の劇作家・高行健、詩人の黄翔、天安門事件の学生リーダーとして6年間入獄、その後アメリカに亡命した王丹…などフランス、スウエーデン、アメリカほか、著名な亡命者のいる国々を回ってインタビューし、映画のカメラを回し続けた翰光さんが、その克明な記録を出版した。『亡命一遥かなり天安門』(岩波書店、3300円+税)である。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓平和記念館」、今夏いよいよ着工へ42
寺沢秀文(「満蒙開拓平和記念館」事業準備会専務理事)
「星火方正」前号(13号)にても既報の通り、満蒙開拓に特化した唯一の「満蒙開拓平和記念館」が足かけ6年を経てようやく建設実現間近まで漕ぎつけることが出来、今年8月までには本体工事着工、来年春の開館予定となりました。来年のGWまでには何とか開館したいものと予定しています。 /// 続きは本誌ご参照
開拓の悲劇 語り継ぐ―「満蒙記念館」長野に建設へ46
吉田幸雄(東京新聞)     転載元:東京新聞(2012年4月5日付夕刊)
全国初の「満蒙開拓平和記念館」が長野県阿智村に建設されることになった。六年がかりで計画を進めてきた事業準備会は来年四月末の開館を目指しており、資料の提供を呼ぴ掛けている。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓への旅(2012)47
方正友好交流の会
6月27日(水)新潟空港ロビーに集合 /// 続きは本誌ご参照
日本に残留したある中国人―在日華僑・韓慶愈が生きた「もう一つの昭和史」~第8回48
大類善啓
《前回までの粗筋》新中国の誕生は、華僑たちの帰国熱を促し、韓も1953年第1回の帰国船に学生代表として中国に行き、天津で廖承志に面会した。その時、廖は韓に中国に帰国せず「日本に残り、華僑向けの新聞を出してほしい」と要望した。その言菓を重く受け止めた韓は日本に戻ると、『大地報』という新聞を創刊した。日中関係は徐々に発展、韓は通訳などでも大活躍。憧れの作家であった巴金や中国一の大スターである趙丹らと親しくなった。文革という厳しい時代を経て、新たな展開が始まろうとしていた。 /// 続きは本誌ご参照
木村拓哉、中国について語る―「目と目を見合わせて話せばきっとわかる」57
大類善啓     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2012年5月5日)
昨年の9月16日、日本を代表する人気男性グループSMAP(スマップ)の北京公演が行われ、内外ともに大変な話題を呼んだ。そのメンバーの一人である木村拓哉さんは、多くの人たちからキムタクと呼ばれて親しまれ、絶大なる人気者だ。1972年生まれ。「日中か国交正常化してからの40年はまったく僕の人生と同じ時間。10代や20代のころは中国で公演するなんて思ってもみなかったけど、今になってようやく中国に目を向ける場にいるということがなんだか不思議な感じがする」と言う木村さんだ。超多忙なスケジュールの中の4月7日、インタピューに応じてくれ、中国について思うところを語ってくれた。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い58
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
満洲 奇跡の脱出―170万同胞を救うべく立ち上がった3人の男たち(ポール・邦明・マルヤマ著、高作自子訳)59
加藤千洋     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2012年3月5日)
終戦時、関東軍ら軍関係者がいち早く脱出し、ソ連侵攻・満州国解体という流動的な情勢の中、満州に取り残された開拓団員ら百数十万人の民間人は塗炭の苦しみを味わい、現地で命を落とす人も多かった。それゆえに「満州棄民」の言葉もうまれた。 /// 続きは本誌ご参照
書籍案内60
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『幻の松花部隊若き義勇隊員たちの満州(高橋健男著)』、『風雪に耐えて咲く寒梅のように二つの祖国の狭間に生きて(可児カ一郎著)』、『記憶にであう一中国荒土高原紅棗がみのる村から(大野のり子著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記61
大類善啓
今号は期せずして昨年の夏、方正で起きた石碑事件に関する原稿が多い。「石碑事件」「ペンキ事件」「慰霊碑撤去騒ぎ」と、各氏さまざまに呼び名が違う。この事件についての思いや感想もまた微妙に違う。それでいいと思う。 /// 続きは本誌ご参照

  第13号(2011年12月発行) 第13号(2011年12月発行)表紙

いわゆる「石碑問題」について考える一石碑問題発生までの経緯1
大類善啓
降って湧いたような事件だった、というのが今、正直な感想だ。ここでは、「間題」に至った経緯を述べてみよう。7月28日の「第16回方正県蓮の花祭典」と翌29日に開催された中日文化交流会の催し(別項で詳しく述べる)に県政府から招かれ、両日は方正県にいた。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州開拓団の石碑撤去―国民からの疑問に苦慮3
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2011年9月5日)
日中友好を目的に中国黒竜江省の方正県政府が建設した旧満州開拓団員約250人の名前が刻まれた石碑が、8月5日夜から6日早朝の間に同県政府によって撤去された。 /// 続きは本誌ご参照
「開拓民」石碑撤去について4
大類善啓     転載元:日中友好新聞(2011年9月5日付)
黒龍江省方正県に「方正地区日本人公墓」(1963年建立)と「麻山地区日本人公墓」(1984年建立)という二つの日本人公墓が中国政府によって建立されている。その公墓のすぐ後方に、「日本開拓民亡者名録」なる石碑が7月25日に建立された。 /// 続きは本誌ご参照
黒竜江省で建立関係者献花―旧満州開拓団員の死 石碑に刻む5
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2011年7月29日付朝刊)
【方正県共同】中国黒竜江省ハルビン市郊外の方正県にある「中日友好園林」で、敗戦時の引き揚げ途中に死亡した日本の旧満州開拓団員の氏名を刻んだ慰霊の石碑が、団員の眠る共同の墓「日本人公墓」のそばに建てられ、松本盛雄駐藩陽総領事ら日中の関係者が28日、墓前に献花した。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州開拓団の石碑にペンキー反日団体関与認める6
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2011年8月4日付朝刊)
【北京共同】中国黒竜江省方正県が建てた日本の旧満州開拓団員の氏名を刻んだ慰霊の石碑に3日午後、中国人とみられる男5人がペンキをかけたことが分かった。地元関係者が明らかにした。関係者らによると、5人は開拓団員の氏名が刻まれた面に赤いペンキをかけ、地元警察に連行されたという。 /// 続きは本誌ご参照
日本人入植者の石碑ペンキかけられる―中国・黒竜江省7
比嘉清太(読売新聞)     転載元:読売新聞(2011年8月4日付朝刊)
尖閣諸島に対する中固の領有権を主張する中国の民間団体「中国民間保釣連合会」は3日、敗戦時に死亡した日人入植者の名前を刻んで、黒竜江省・方正眼に新設された石碑にペンキをかけたことを明らかにした。 /// 続きは本誌ご参照
旧満蒙開拓の慰霊碑撤去―中国・方正県 建立から10日余り7
西村大輔(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2011年8月7日付)
中国黒竜江省方正県にある日本の旧満蒙開拓団員の慰霊碑が、建立からわずか10日余りで県当局によって撤去された模様だ。地元関係者が明らかにした。国内で「侵略者の慰霊碑をなぜ建てるのか」といった厳しい批判にさらされ、ペンキをかけられるなどしていた。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州開拓団の石碑撤去―中国 方正県政府が「処分」か8
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2011年8月7日付)
【北京共同】6日付の中国夕刊紙、法制晩報は、黒竜江省方正県で、日本の旧満州開拓団員の氏名を刻んだ慰霊の石碑が、同日朝までに取り壊れ、撤去されたと報じた。石碑に対しては中国国内で強い反発が出ており、同紙によると、方正県当局はインターネット上で、石碑を処分する方針を示したという。 /// 続きは本誌ご参照
旧満蒙開拓団の慰霊碑撤去―当局と反日団体 圧力か9
矢板明夫(産経新聞)     転載元:産経新聞(2011年8月7日付)
中国黒竜江省方正県が7月末に同県の中日友好園林の中に建てた日本の旧満蒙開拓団員の慰霊碑が、5日夜から6日未明にかけて撤去されたことがわかった。中国当局と国内の反日団体などからの強い圧力が原因とみられる。6日付の中国夕刊紙、法制晩報など複数の中国メディアが明らかにした。 /// 続きは本誌ご参照
親日の街に矛先―中国・方正県 慰霊碑撤去10
西村大輔(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2011年8月8日付)
日本の満蒙開拓団の慰霊碑建立が中国で激しい批判を招いた黒竜江省方正県は、極めて親日的な土地柄だ。商店の看板に日本語訳を併記する県独自の取り組みも進めてきたが、「反日」の矛先はこうした取り組みにも向かう。「『親日』は割に合わない」。住民の気持ちは揺れている。 /// 続きは本誌ご参照
旧満蒙開拓団の碑 中国で波紋―設置と撤去めぐり論争11
小寺松雄(しんぶん赤旗)     転載元:しんぶん赤旗(2011年8月8日付)
中国東北部の黒竜江省方正県に7月末に建てられた旧日本満蒙開拓団の記念碑が設置から10日余で撤去されたことで、改めて開拓団やその記念碑をめぐる論議が高まっています。 /// 続きは本誌ご参照
残留邦人の街 大揺れ―開拓団の慰霊碑撤去 中国・方正県12
花田仁美(信濃毎日新聞)     転載元:信濃毎日新聞(2011年8月20日付朝刊)
中国黒竜江省方正県が建てた長野県出身者など日本の旧満州開拓団員の氏名を刻んだ慰霊の石碑が中国国内で激しい反発を招き、わずか10日余りで撤去された。多くの中国残留日本人孤児が育ち、日本との経済的な結び付きも強い同県だが、インターネット上で広がる予想以上の批判に、住民からは戸惑いの声も上がる。 /// 続きは本誌ご参照
辛亥革命100年・中国の実像:「愛国」ゆがむ中国社会―日本の石碑壊し「英雄」・米大使就任「裏切り」13
読売新聞     転載元:読売新聞(2011年10月5日付朝刊)
建国を祝う1日からの国慶節連休を迎え、内外の行楽客でごった返す北京の天安門広場。巨大な2人の肖像画が南北に向き合っている。清朝を倒して王朝の歴史にピリオドを打った辛亥革命の主導者・孫文と、その革命を引き継ぎ、共産主義思想によって中華人民共和国を樹立した毛沢東だ。両者の対置は、孫文が唱えた「中華振興」を誇示し、革命の正当性を世界に訴える舞台装置である。 /// 続きは本誌ご参照
開拓団の慰霊碑撤去は日本で様々な反響を引き起す14
三井えい子〔徐志玉〕(VOA(ヴォイスオブアメリカ)放送記者)
《解説》VOA、Voice of Americaの三井えい子(徐志玉)さんから取材の電話があった時は少しばかり驚いた。VOAはアメリカの国営放送である。かつて日本でもVOAの日本語放送はあったが、今は聞かれることはない。調べてみれば、戦後はプロパガンダの要素もあったが、すでに日本には十分に世界からの情報が行き渡っており、わざわざアメリカから情報発信する必要はないと判断され、日本語放送は1970年に廃止されたようである。VOAの中国語放送は英語放送に次ぐ大きな発信力を持ち、今も毎日ワシントンから中国全上及び世界の中国語を使用するエリアに放送を継続している。三井さんは東京在住のVOAの特約記者であり、原稿は三井さんが書かれ、放送は北京語で8月8日、アメリカのワシントンから中国全士に向けて発信された。以下、三井さんに日本語訳をしていただいたものを掲載する。(大類) /// 続きは本誌ご参照
方正県政府から瀋陽総領事館に寄付金と当会にお見舞い状(大類善啓事務局長による礼状も添付)16
方正友好交流の会
3月11日の東日本大震災と原発人災事故に対して、方正県政府からすぐに以下のようなお見舞い状が来た。また5月10日には、県政府は元県委書記の佟宝剛氏、県長の劉軍氏(現在は書記)、外事弁公室の王偉新主任らが瀋陽総領事館を訪ね、松本盛雄総領事と会談、見舞金として10万元を寄付した。 /// 続きは本誌ご参照
15年ぶりに方正を訪ねて一方正県日本語学校を訪問18
牧野史敬
9月12日、新潟からハルビン経由で夕刻、6時過ぎに方正に着く。昔と違ってネオンサインが輝く方正だった。懐かしい王鳳山先生、陳福堂先生(両氏とも1989年以来の交友)のお出迎えを受けた。 /// 続きは本誌ご参照
方正県日本語学校の創立について21
王鳳山(方正県日本語学校名誉校長)
方正県日本語学校は1993年4月1日にオープンしたが、設立が決まったのは1992年10月である。当時、県委員会書記・鄭鴻徳を団長とする代表団が日本訪問中、日本の方正地区支援交流の会会長・石井貫ー先生、専務・牧野史敬先生の提案でハルピン市教育委員会に申請して認可を得たのがこの学校である。 /// 続きは本誌ご参照
心に生きる藤原長作先生23
柳長青(方正県日本語学校校長)
1981年4月、藤原長作先生が方正に来られて水稲寒地早育稀植(水稲寒地の保温折衷苗代と粗植法)技術試験をされたとき、私は徳喜郷政府で仕事をしており、郷共産党委員会の書記をしていた。徳喜郷は県都市部と近いこともあって、県政府は藤原長作先生の試験田を徳喜郷富余村西部の27ムー(180アール)の稲田としたことから、私は藤原先生とお会いし、二年間の仕事をご一緒する機会にめぐまれた。 /// 続きは本誌ご参照
稲で地域を豊かにする黒龍江省方正県25
斎藤春夫
方正県や黒龍江省との農業交流の可能性を探るため、方正県を訪問した。ここはかつて1980年代に岩手県沢内村の農家、藤原長作さんが自分の持てる稲作り技術のすべてを伝えたところだ。「干育疎植栽培」(健苗作りと疎植植え)を特徴とする藤原式稲作の実験田がこれまで得たこともない高い収量を上げたことで、多くの農家に支持者が広がったところである。藤原さんのことは今回お会いした黒龍江省や方正県の方々の胸の内に強く刻まれていた。 /// 続きは本誌ご参照
初めて方正県を旅して27
松木千明
今回方正県を旅することになったのは、祖父が行くので中国に対する興味もあり、一緒について行くことにしました。方正県は、ハルピン市からバスで2時間程の所にあります。バスからは見渡す限りトウモロコシ畑が広がり、道路の脇には道が続く限りコスモスがきれいに咲き並んでいました。中国の広さを実感することができました。 /// 続きは本誌ご参照
高野山真言宗による慰霊法要が営まれる28
大類善啓
高野山真言宗の僧侶、竹井成範さんとご縁ができたのは、木村直美さんとの関係である。木村さんは、「方正友好交流の会」の前身である「ハルビン市方正地区支援交流の会」会長だった石井貫ーさんをずっと支えてこられ、その延長上で現在の会でも参与として活動していただいている。岡山の実家の菩提寺は真言宗である。 /// 続きは本誌ご参照
ハルピン市方正県の日本人公墓を参拝して30
藤本善光
私は今年の6月7日、竹井成範・宗会議員の誘いを受け、本山の山林部長・岡部兼海僧正をはじめ、岡山県備中南真会の有志の方々に同行させていただき、中国東北地方(旧満洲)黒竜江省ハルピン市郊外の方正県に建立されている日本人公墓を参拝するご縁に恵まれました。 /// 続きは本誌ご参照
ハルビンで生まれた私にとって中国は故郷です。(直筆書簡)32
加藤登紀子
ハルビンで生まれた私にとって中国は故郷です。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓の維持管理感謝申し上げます!33
姫井由美子(日中交流協議機構長城計画訪中団、日本国参議院議員)
日中国交正常化以前の1963年、ハルビン市方正県に、約4500人を祀る日本人公墓を中国政府は建立してくださいました。この建立にを英断されました故・周恩来総理の広い寛容なる国際主義的友愛精神に深く感動するともに篤く御礼申し上げます。 /// 続きは本誌ご参照
方正県人民政府御中34
玉置公良(衆議院議員)
方正県人民政府の皆様の日々のご活躍に心よりの敬意を表します。来年で日中両国が国交を正常化して40年になります。記念すべき節目ということで、両国で様々な交流行事が行われるでしょう。 /// 続きは本誌ご参照
知られざる丸山邦雄氏らの在満日本人救済活動―在満邦人救済代表団の活動記録について35
寺沢秀文
終戦後、旧満州に取り残された開拓団員らを含む多数の在満邦人。関東軍関係者や開拓団員以外の邦人らの大半が我先にと逃げ出してしまった後、戦場と化した開拓地等に置き去りにされ、ソ連軍の襲撃や集団自決等で多くの犠牲を出しながらようやく生き延びた開拓団員らは、「在外邦人は現地で生き延びよ」という国の方針のために、終戦の冬にば帰国できることなく、旧満州各地の収容所や旧開拓地等で厳しい越冬生活を強いられることになります。そこでまた多くの邦人が飢えや流行病のために犠牲になりました。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓平和記念館」事業の進捗状況等について40
寺沢秀文(「満蒙開拓平和記念館」事業準備会・事務局長)
「方正友好交流の会」の関係者始め全国各地の皆さんからの温かいご支援を頂きつつ、長野県南端の下伊那郡阿智村内にて建設準備を進めている「満蒙開拓平和記念館」の現在の進捗状況等について、これまでの経過並びに今後の予定等も含め、以下の通りご報告申し上げます。 /// 続きは本誌ご参照
731跡地に謝罪と不戦の碑45
石金楷(ハルピン市日本残留孤児義父母連絡会事務局長)
2011年7月9日、ハルピンの731部隊跡地で、日本の民間団体[A(核兵器)B(細菌兵器)C(化学兵器)企画委員会]が発起人となり、資金を集めて建立した「謝罪と不戦平和の碑」の開幕式が行われた。ハルピン市残留孤児養父母連絡会の胡暁慧名誉会長と石金楷事務局長が招かれて出席した。この席で侵略日本軍731部隊罪証陳列館の金成民館長が挨拶の中でこう述べた。 /// 続きは本誌ご参照
日本の被災地への募金セレモニーを実施―ハルピン市中国残留日本人孤児養父母連絡会47
石金楷
2011年3月19日午後2時、ハルピン市中国残留日本人孤児養父母連絡会は、ハルピン市赤十字会募金センターにおいて、日本の被災地への募金セレモニーを行ない、20数名がこの活動に参加した。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路1:山西省の洞穴暮らし6年半―侵略の聞き書きを続ける女性65歳48
奥村正雄
たかだか年に1回、希望者を伴って1泊2日の方正地区日本人公募訪問を続けている80歳翁・小生の感傷など、吹けば飛ぶような軽さに思えてくる。これは、それほど心に重くのしかかる本だ。大野のり子編『黄士地上来了日本人ー中国山西省三光政策村の記憶』である。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路2:徐士蘭さんの来日49
奥村正雄
別れてからそろそろ半年になろうというのに、いまもまだ彼女のまなざしが目の前から消えない。同じ体験が前に一度だけあった。49年前、方正地区日本人公墓の建設を主導した松田ちゑさんと、彼女が日本へ帰国して間もなく、初めて会った時である。 /// 続きは本誌ご参照
ようこそ、徐士蘭さん!54
山川禎一
一人の「残留孤児」の来日が、多くの時間と関係者の努力によって実現した。その歓迎会が6月11日、千葉市幕張で開かれ、私も参加した(翌12日には東京でも開催)。来日したのは「徐士蘭」さんと三女の「叢会霞」さんの二人である。 /// 続きは本誌ご参照
「自分は何者 証明を」―未認定一時帰国 祖国の土踏み楽に56
竹内良和(毎日新聞)     転載元:毎日新聞(2011年6月15日付朝刊)
中国残留孤児の認定が受けられていない中国・黒竜江省方正県に住む徐士蘭さん(推定69歳)が、初の「一時帰国」を果たした。昨年度、日中両政府が確認した残留孤児は調査開始の81年以来、初めてゼロになったが、徐さんと同様、物的証拠や証言者が乏しく、認定されない人は相当数に上るとみられる。支援団体によると、末認定の「残留孤児」が自主的に帰国するのは珍しいという。 /// 続きは本誌ご参照
蓮の花祭典と中日文化交流会に招かれて57
大類善啓
高野山真言宗の慰霊法要のため、6月方正県を訪れた。真言宗のご住職、竹井成範さんのお誘いだ。その折り外事弁公室の王偉新主任から、7月に中日文化交流会を開催するから来てくれないかと言われた。詳細な内容はこれからだという。7月といえば1カ月余だ。正直言って開催できるのか危惧したが杞憂だった。 /// 続きは本誌ご参照
一視同仁の思想を体現した日本人公墓―一番拍手が少なかった中日文化交流会での大類スピーチ(※中文も添付)60
大類善啓
方正友好交流の会を代表して、ご挨拶申し上げます。まず、「蓮の花祭典」をお祝い申し上げますとともに、この素睛らしい日にお招きいただきありがとうございます。さて日本は、3月11日に未曽有の体験をいたしました。一つは日本の東北を襲った大震災です。その次に、大津波が生じ、多くの死者と行方不明者を生み出しました。日本国内で起きた自然災害で死者・行方不明者の合計が、2万人を超えたのは戦後初めてです。そして次に福島原子力発電所の事故が起こりました。 /// 続きは本誌ご参照
千の風になっていた弟たち64
小出公司
「満州開拓史」研究家、高橋健男先生(新潟県見附市)寄稿の星火方正会報11号で、昨秋哈達河開拓団の麻山事件自決名簿の記録に残る東伯母夫婦の養子になった弟二人を、新潟の兄が個人で慰霊に出かけ、65年にして念願を叶えてきたとの紹介をいただきました。この拙文は、先生が言う「人を弔う」「問い訪ねる」の言葉そのものの私の体験談です。 /// 続きは本誌ご参照
近現代の歴史検証旅行に3回参加して71
小関光二
私は平成14年度を最後に退職して以来、現役時代の経験と知識を生かし環境問題のボランティアをしております。その活動範囲は、地元が中心ですが日中科学技術交流協会などのプロジェクトを通じ中国との環境交流も行ってまいりました。交流は学者、政府職員、工場の方々が主ですが活動を支える若い方々との交流もしてまいりました。そのとき感じたことは環境交流については何ら問題ないのですが、若い中国のスタッフの中には、日本に対してわだかまりを持っているのではと感じることもありました。 /// 続きは本誌ご参照
加害と被害一中国の旅から76
宮崎敦子
1981年8月。私は民間の教育団体が企画した「東西ヨーロッパの旅」で、冷戦下の西ベルリンから、壁の向こうの東ベルリンに入ったバスの中にいた。東ベルリンに入ったバスに、ビシッとした制服を着た女性係官が入ってきた。彼女は、息の詰まるような緊張感を振りまきながら、私たちツアー客の一人一人のパスポートをチェックしていった。やがて、彼女が立ち去ると、車内のあちこちから安堵の声が聞こえてきた。 /// 続きは本誌ご参照
「満洲開拓団」の入植地は人間トーチカだった78
宮下春男
「国防の要点は人にある、特にその配分布置にある。」この文を読んでなんと考えられたでしょうか。軍隊!!その通り!軍隊・軍人以外に何が考えられましょうか。しかし続きを読んでいただきたい。「某国においては開拓団の設定や義勇隊訓練所の設置を以って『日本は満洲において人間トーチカを造りつつある』といって怖れているとのことである」。これが満洲開拓団の配分布置として「満洲開拓年鑑」に書かれた文章であります。某国とはソ連(当時)を指すものと思われるが、昭和19年4月に印刷された民間の雑誌とはいえ根拠なくしてこのような文章は書けまい。 /// 続きは本誌ご参照
歴史を歩く:長春の「卡子」、今は昔―大変貌しつつある中国東北部の主要都市85
大類善啓     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2011年10月25日)
「方正友好交流の会」の大類善啓さん(66)はことし9月中旬、長春をはじめ瀋陽、撫順、大連・旅順などの中国東北部を、ジャーナリスト、研究者らとともに訪れた。日本の敗戦後、激しい国共内戦の下、長春市に何が存在し、何が起こったのか。64年後の今、その痕跡を訪ね、検証することで「新中国誕生」にまつわる歴史の深層に触れた。大類さんにルポを寄せてもらった。 /// 続きは本誌ご参照
歴史の深層を「見る」ということは…―長春・瀋陽・撫順・大連・旅順を訪ねて86
大類善啓     転載元:日中科学技術文化センター『きずな』(2011年11月号)
当初この旅は、「卡子」(チャーズと発音し、封鎖線、哨戒所あるいは関所という意味がある)を幼少時に体験された遠藤誉さんと共に、長春での卡子を検証しようという企画だった。しかし急遠、遠藤さんは参加を取り止めたいと言われた。やむを得ない。私が遠藤さんの代わりを務めるとは思えないが、改めて卡子を勉強し直した。 /// 続きは本誌ご参照
「方正の会」の顔藤原知秋さんー語学力を日中友好に生かして88
方正友好交流の会
藤原知秋さんは、方正友好交流の会が発足してからのメンバーで理事を務めている。しかし多忙な通訳の仕事もあって、なかなか当会の仕事にも力を投入できない事情がある。が、とても頼もしい、会のメンバーである。下は、『日中友好新聞』2011年7月5日号のコラムに紹介された彼のプロフィールだ。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓への旅(2012)89
方正友好交流の会
6月27日(水)新潟空港ロビーに集合 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い90
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
「中国残留婦人」を知っていますか(東志津著)91
大類善啓     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2011年10月5日)
日本人にとって「満洲」そして「満洲国」とは何だったのか。当時の体験者が年々少なくなりつつある今、本書はその解答を与えてくれる貴重な記録といえるだろう。 /// 続きは本誌ご参照

  第12号(2011年5月発行) 第12号(2011年5月発行)表紙

“縁”は奇なもの一麻山事件と東京開拓団をめぐって1
高橋健男
“縁”は奇妙なもの、『星火方正〗第11号で三つの“縁”を得た。ひとつは『星火方正』第11号の拙稿(p.100)で触れた、麻山事件で「自決Jした弟さん二人の消息を尋ねる新潟市在住の小出公司さんに関すること。小出さんの弟さん二人、昭和8年生まれの正平さんと昭和10年生まれの元也さんは、哈達河開拓団新潟部落に入植していた伯母夫婦の養子になっていた。昭和20年8月10日、ソ連軍の満州侵攻を受けた哈達河開拓団は鶏西に向けて避難を開始した。北海道に住む鈴木(旧姓高橋)幸子さん(終戦時8歳、麻山事件で母と兄弟姉妹を亡くす)はそのとき、「新潟部落の東さん一家の馬車に乗せてもらった」のだという。「東」の姓は小出さんの伯母夫婦の姓である。 /// 続きは本誌ご参照
生と死の世界を繋いだ霊魂5
小出公司
昨年、戦後65年を迎えた。広島、長崎、沖縄など戦争犠牲者の縁故の方々は別として、他の方々には8月15日も特別の日となっていないのかもしれない。特に二代目三代目に至っては、終わりも終わらぬもない、大体米国と戦ったことすら知らない世代だ。しかしここにひとり、「未だ戦後が終わっていない」男がいる。 /// 続きは本誌ご参照
岸壁の婚約者10
清水勝彦
歌謡曲「岸壁の母Jには、みなさんもご存知の通り、実在のモデルがいた。端野いせさんだ。戦地から戻らぬ一人息子、新二さんの消息を求めて昭和25(1950)年1月から6年間、シベリア抑留者を乗せた引揚船が京都府北部の舞鶴港に着くたびに、「もしや、もしや」の思いにかられて東京から駆けつけた。だが、願いは果たされることなく、56(1981)年に81歳で亡くなられた。 /// 続きは本誌ご参照
初めて訪ねた『方正地区日本人公墓』18
芹沢昇雄
昨年(2010年)6月、私たち『撫順の奇蹟を受け継ぐ会』は日中友好協会、紫金草合唱団、中国山地教育を支援する会を含め100名程の団を組み『撫順戦犯管理所60周年式典』に参加してきました。ご存じの方も多いかと思いますが、戦後シベリアに捕虜として収容された元兵士60万人の中から、969名が1950年に旧ソ連から独立後の中国に「戦犯」として引き渡され、「撫順戦犯管理所」に収容されました。もともと此処は中国人を収容するために日本が建てた監獄で溥儀も此処に収容されていました。 /// 続きは本誌ご参照
「写真集・小さな引揚者」、映画「嗚呼 満蒙開拓団」等20
宮下春男
写真集「小さな引揚者 飯山達雄=絵と文」(1985年8月、草土文化刊)を見た。飯山達雄氏は敗戦後に葫蘆島から引揚者を乗せる船で逆に「満洲」へ渡航され、瀋陽市に入り敗戦後の「満洲地区」での避難民を写した、多分唯一の方であろう。資料によれば氏は「在外邦人引揚げの記録一この祖国への切なる慕情」昭和45年、毎日新聞、「敗戦・引揚げの慟哭{写真集ーはるかなる大陸<第三集>}」飯山達雄、昭和54年、国書刊行会及びこの小さな引揚げ者という三部作を発表されているという。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓団にいた、叔父叔母が抱えて逝った思い…27
澤田伶子
私が「方正友好交流の会」と出会いましたのは、昨2010年7月19日猛暑のさなか、満蒙研究プロジェクト編集委員会編『満蒙の新しい地平線・衛藤瀋吉先生追悼号』の出版記念会的な集まりが、八重洲ブックセンター会議室で開催された場でした。 /// 続きは本誌ご参照
運命の八月十七日28
澤田京子(岩手県北上市在住、平成年16年84歳で死去)
満州事変後、満蒙開拓団は食糧基地の建設という国策に応じ、入植して行きました。私も、夫が一足先に入植していた下欧根開拓団へ昭和15年に入りました。最初の苦労は何処も同じこと、やがて作物も立派に育つようになって行っていた昭和19年頃から、戦況の悪化のゆえでしょうか、開拓団の中から働き手がどんどん応召して行き、一層、昭和20年5月、6月、7月と応召者は引き続き、労働力不足に悩みながらも、増産、供出の強化へ向けて、老人、婦人、子どもで総力を挙げて懸命に働いていました。中でも最大の間題は、健康な男子は全員出征のため、警備力が落ち、私たち女も片手に鍬を、片手に銃をという毎日でしたが、よもやまさか、関東軍が我々奥地の開拓団を見捨て、先に列車で脱出しているなど、思いも及ばないことでした。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓団について39
澤田文衛(北安省慶安県下欧根開拓団)
満蒙開拓団の前身は、武装移民団として、全国より募集した軍隊経験者のみの開拓団であった。初年度、第1次・弥栄(昭和7年)、第2次・千振(昭和8年)東満地帯・牡丹江と佳木斯周辺=シベリアの裏、第3次・瑞穂(昭和9年)北満地帯に入植。これらは、国境第一線の守りを兼ねた試験移民団であった。第4次(昭和10年)より開拓団として新たに発足。一団が、県、あるいは村単位での入植となり、1団3百戸単位の入植となった。 /// 続きは本誌ご参照
映画『嗚呼 満蒙開拓団』に触発されて―残留日本人と私、そして私たちの人生について43
芳村晶好
昨年末(22年11月、12月)宝塚、伊丹、両市で幾度か、映画「嗚呼 満蒙開拓団」を観る機会を得る事が出来ました。(ちなみに、宝塚では上映会は市の主催でもありましたが、実務実行部隊は日本語教育に関わるボランティア団体の<日本語の会ともだち>で私はそのメンバーの1員です) /// 続きは本誌ご参照
残留孤児の父山本慈照翁ゆかりの地長野県阿智村を訪ねる52
吉川雄作(ちば中国帰国者支援交流の会)
昨年5月の本会総会の終わりに、長野県阿智村の「満蒙開拓団平和記念館」準備会事務局の寺沢秀文さんから、建設事業への協力呼びかけがあった。中国残留孤児帰国事業に後半生を捧げた阿智村長岳寺の山本慈照翁については、生前、精力的に活動されていた頃のニュースやNHKの特集番組の断片的な記憶がある程度で、不確かな認識しかない。かねてからぜひ訪ねてみたいと思っていた。2月下旬、「ちば中国帰国者支援交流の会」で、弁護士の宮腰さんから、「ふなばし憲法九条の会」主催の「阿智村を訪ねる旅」への誘いがあり、奥村氏らと共に参加した。 /// 続きは本誌ご参照
私の方正之路1:ハラハラ・ドキドキから一転ホッ!一徐士蘭・来日ビザが下りるまで54
奥村正雄
「ニイハオ!まだ黒竜江省から何の連絡もありません。おばあちゃんは焦っています。でも仕方がありません。待つだけです。でも間に合うのでしょうか」このメールは私が3月11日(金)の朝6時5分に送ったメールに対する徐士蘭さんの孫娘・孫洪波さんから届いた返事だ。東北大震災が起きたのはこの8時間後である。徐士蘭さん一家は、訪日ビザがいつまでも下りない事態にイライラしながら、この日本の大災害のニュースに接した。彼らは私の家が大震災の現場からどのくらい離れているかも実感できないまま、「中国の私たちのもとへ避難して来ませんか」とまで言ってきて私を感動させた。 /// 続きは本誌ご参照
私の方正之路2:天理村の日本人墓地が消える!―石金楷さんから緊急アピール56
奥村正雄
敗戦後65年たった旧満州各地には、当時厳しい条件の中で、無念の死を遂げた同胞の埋葬地が数多くある。そのほとんどは時とともに訪れる人も稀で、永劫の時間の中にひっそりと埋没しかかっている。だがハルピンのような市街地では、今年度始まる都市現代化の波に洗われようとしている墓地がある。これを知った、ハルピン日本残留孤児養父母連絡会の事務局長・石金楷さんからSOSが届いた。すぐこれを日本語に訳し、原文とともに天理市川原城町の関係部門に送った。 /// 続きは本誌ご参照
高良眞木さんを偲ぶ58
大類善啓
高良眞木さんが2月1日、肺がんのため逝去された。享年80歳だった。お手紙をいただき電話でお話することはあったが、残念ながらついぞお会いする機会を逸した。本誌にも二度寄稿いただき、本会の発足当初から支援していただいた方である。 /// 続きは本誌ご参照
方正一魂の交流の場60
高良眞木
2004年の夏、小泉首相の度重なる靖国神社参拝で、日中関係は国交正常化以来最悪と言われていた。重慶や北京のサッカー試合では、中国の若者が日本チームに激しいプーイングを浴せていた。ちょうどその頃、元満蒙開拓団関係者から幕参団の一部始終を綴った手紙を頂いた。(以下要約) /// 続きは本誌ご参照
畜産技術専門家掛川庸夫先生の逝去を悼む62
牧野史敬
(株)オービケン代表取締役・畜産技術専門家である掛川庸夫先生は、2010年10月22日、心疾患のため、77歳をもって逝去されました。ここに謹んで哀悼の意を捧げ、中国黒龍江省ほか各地で称賛される成果を上げられましたことをお伝えします。 /// 続きは本誌ご参照
帝国の終焉―自分史に即して63
山田敬三
柳条湖事件に始まり、アジア・太平洋戦争を経て日本の敗戦に終わる13年11ヶ月の戦いを、かつて鶴見俊輔氏は「十五年戦争」と名付け、「この十五年間(一九三一~四五年)が悪いことだったと思うものにとっては、自分がこの事業に演じた役割に応じて、責任をとることが必要になる」と記した。 /// 続きは本誌ご参照
映画『遥かなるふるさと旅順・大連』に触れて78
大類善啓
2009年2月、羽田さんにインタビューした(09年5月発行の本誌8号掲載)。その折り羽田さんの「本当は、旅順が撮れるようになったら、撮りたいんですよねぇ。どういうふうに撮るかはまだ考えていませんがね」という言葉でインタビューを終えた。当時はまだ旅順が全面開放される前だった。ところが、その8号の編集を終える段階の4月、旅順口区の区長が、その年の秋には旅順を全面開放すると語った、という記事が目に入った。すぐに羽田さんに電話を入れた。 /// 続きは本誌ご参照
なぜ今「遥かなるふるさと一旅順・大連」なのか…79
羽田澄子
私は1926年1月3日、大連で生まれました。大正15年・昭和元年でもあります。父は大連の弥生高等女学校の教師でした。大連は中国東北部の最南端、関東州の都市で、日清戦争に勝利した日本が清(中国)から租借したのですが、そのことに反対する、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉によって清に戻され、ロシアが租借してしまいました。帝政ロシアによって大連の街は建設されました。 /// 続きは本誌ご参照
慰問電(※日訳、返信も添付)84
中国共産党方正県委員会、方正県人民政府
方正友好交流の会御中:貴国の東北地方宮城県北部にて発生したマグニチュード8.8クラスの大地震によって、大変な数の人々の死傷と財産の損失とをもたらしましたことに、驚きを禁じ得ません。ここに、方正県26万人の県民を代表して、心からのお見舞いを申し上げ、被災されお亡くなりになられた方々に沈痛なる哀悼の意を表します。 /// 続きは本誌ご参照
ハルピン市残留孤児養父母会が東北大地震にカンパ86
石金楷
日本の東北地方を襲った強烈な地震と大津波、そして原発の放射能漏れの事故は中国人民にも深刻な衝撃を与えた。このところ私たちの会でも多くの中国の人民と同じように毎日のニュースを注意深く聞き、日本の友人の救出、放射能漏れの早期コントロール、震災被害者が早く正常な生活に戻られるよう、お祈りしています。 /// 続きは本誌ご参照
ハルビン・方正・大連5日間の旅87
南真会
6月6日(月)関西空港発(NH945) /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓への旅(2011)88
方正友好交流の会
6月22日(水)新潟空港ロビーに集合 /// 続きは本誌ご参照
第4回近現代の歴史検証と北東アジアの未来を展望する旅―ハルピン・方正、引揚の港・葫蘆島と山海関、天津を訪ねる89
社団法人日中科学技術文化センター
1946年当時の葫蘆島は、国民党が支配しており、日本人の引揚げ業務は、国民党の指導によるものでした。近年、中国共産党と台湾の国民党との関係が改善され、その結果06年には葫蘆島で、日本人の引揚げ60周年の記念式典が中国政府の肝いりで開催されました。この因縁ある地と山海関、天津の周恩来記念館などを訪ねます。 /// 続きは本誌ご参照
長春、撫順、旅順を訪ね歴史の深層を見る―長春で生まれ育った遠藤誉先生と長春を旅する90
社団法人日中科学技術文化センター
満洲体験者が減少しつつあり、「満洲」が当時の日本人にどういう意味があったのか、今一度考える時期かと思います。「満洲国」の首都、長春で激しく争った国共内戦を体験した『チャーズ』(封鎖線の意、文春文庫・絶版)や『中国動漫新人類日本のアニメと漫画が中国を動かす』、また近著『ネット大国中国言論をめぐる攻防』(岩波新書)<あとがき>でチャーズの思いなどを記している)などの著者、遠藤誉先生(筑波大学名誉教授、理学博士、ドキュメンタリー作家)の案内で「満洲国」の長春の昔と今を観察します。また、全面開放になった旅順、新装なった撫順戦犯管理所を視察。日本人戦犯を全員釈放した当時の周恩来などの考え方や対応を考察します。 /// 続きは本誌ご参照
日本に残留し定住したある中国人―在日華僑・韓慶愈が生きた「もう一つの昭和史」(第7回)91
大類善啓
《前回までの粗筋》新中国の誕生は、華僑たちの帰国熱を促し、韓も1953年第1回の帰国船に学生代表として中国に行き、天津で廖承志に面会した。その時、廖は韓に中国に帰国せず「日本に残り、華僑向けの新聞を出してほしい」と要請した。日本に戻った韓は、『大地報』という新聞を創刊した。日中関係は徐々に発展、韓は通訳などでも大活躍。1970年には訪中し、新しい中国を見る。文化大革命の時期は、日本にいる華僑とはいえ様々な間題にぶつかった。その混乱のなか、中国にとって必要なのは日本の先進的な科学技術や工業技術ではないかと思い、『日本工業技術』という雑誌の刊行を思いつく。横やりも入ったがなんとか発行にこぎつけた。イデオロギーや思想ではなく、現実を見ていこうという動きがやっと芽生えてきた。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い100
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
書籍案内101
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」ーハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『風雪に耐えて咲く寒梅のように二つの祖国の狭間に生きて(可児力一郎著)』、『中国残留日本人という経験「満洲」と日本を問い続けて(蘭信三編)』、『記憶にであう一中国荒土高原紅棗がみのる村から(大野のり子著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告101
方正友好交流の会
前号の会報11号発行後(2010年12月20日以降)カンパをお寄せいただいた方、また新たに会員になられた方々のお名前を以下に記して感謝の意をお伝えします。 /// 続きは本誌ご参照

  第11号(2010年12月発行) 第11号(2010年12月発行)表紙

天皇皇后両陛下の満洲開拓民への思いについて考える1
大類善啓
長野県は周知のように開拓民として満洲に渡った人たちが日本で一番多く、その数はおよそ3万3千人といわれる。大日向村(現佐久穂町大日向地区)からは、分村移民第1号として満洲に入った。1945年のソ連参戦時には800人近くが入植地にいた。しかし帰国できたのは半数だった。土地や家を処分して満洲に渡った人たちに、親戚も諸手を挙げて歓迎するわけではなく、故郷にいる場所もなかった。そんな経緯もあり、満州から引揚げた人たちは、軽井沢町の浅間山麓に入り開墾し、新たに大日向地区を作ることになった。満洲では中国人や朝鮮人たちが開拓した土地に入植したが、今度は本当に自ら開拓したのだ。その大日向地区を、天皇皇后両陛下は今年(2010年)8月24日ご訪問された。 /// 続きは本誌ご参照
陳毅副総理の永続的な日中友好への願い4
大類善啓
ノモンハン、方正などを旅して8月下旬に帰国後、藤野文晤さんが『日本と中国』(社団法人日中友好協会機関紙9月5日号)に書かれた「忘れ得ぬ人々」を読んで本当に眼を見張った。藤野さんは有数の中国通経済人であり、中国の要人とも深い交流をされている方である。その藤野さんが、「どうしても忘れられない心の恩師ともいうべき人が亀井勝一郎先生だ」という文章の後に、こう書かれている。 /// 続きは本誌ご参照
飯白栄助さんのお話―「私と方正」9
聞き手:奥村正雄(方正友好交流の会参与)、文責:吉川雄作
私は昭和8年生まれですから、当時の東京開拓団の結成されたときは11歳なんですね。小学校5年を終わって行ったわけですけれども、なぜ開拓団に行ったかという詳しいことは残念ながらほとんど知らないんですね。ただ、私の記憶では、当時の教育ですから、満州に行くのは名誉なことと、それこそ勇躍勇んで行ったという気持ちなんですね。 /// 続きは本誌ご参照
農業移民の苦難継ぐ―集団自決・襲撃…荏原郷開拓団25
池田孝昭(朝日新聞)     転載元:朝日新聞東京都内版(2010年10月11日付)
終戦前年の1944年春、商売が行き詰まり、農業移民として旧満州(中国東北部)に渡った山の手の商人がいた。1039人の東京荏原郷開拓団。翌年の夏、ソ連軍や中国人の襲撃や、集団自決で、多くが非業の最期を遂げた。10日、品川区の武蔵小山商店街の一ろうせい角にある朗惺寺で慰霊祭があった。 /// 続きは本誌ご参照
帝都からの満蒙開拓団―転業承認の悲劇25
池田孝昭(朝日新聞)     転載元:朝日新聞東京都内版(2010年10月11~17日付の連載5回)
飯白タツ子さん(84)の父は、品川・戸越銀座で海産物を中心にした乾物商をしていた。結構、繁盛してたんですよ。「ターちゃんは、銘仙(絹)の服ばかり着て、ぜいた<ね」ってご近所から言われたのを覚えてますから。学校が終わった後、よく店を手伝いました。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路1:近くて遠かりし…岩手と方正30
奥村正雄
誘われて映画を親た。『いのちの山河』(大沢豊監督、「日本の青空II」制作委員会)なる近作。岩手県の山あいの寒村・沢内村はかつて豪雪、多病、貧困にあえぎ続けた。新しい村づくりのため帰郷した深沢晟雄は多くの困難を乗り越え、1986年の老人と乳児の医療費無料化で、それまで全国で最悪だった乳児死亡率を、全国初の「死亡率ゼロ」へ導いた。その軌跡を追った映画である。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路2:祖国の土を踏ませたい『嗚呼 満蒙開拓団』にも登場―徐士蘭が3月来日支援の集会にあなたもぜひ!32
奥村正雄
『徐士蘭に祖国の上を踏ませる会』という集まり(千葉市)がある。徐士蘭とは、現在、中国・方正県に暮らす残留孤児で、長年、厚労省に孤児の認定を申請しながら、孤児である物証がないために認められず、帰国できないでいる女性(70歳)だ。目元に愁いを帯びた、品のある顔立ちをご記憶のある方も少なくないはずである。羽田澄子監督の記録映画『嗚呼 満蒙開拓団』で娘たちとともに自分の生い立ちを涙ながらに訴えているシーンが印象的だったからである。彼女が初めて私たちの前に姿を現したのは4年前(2006年)の6月である。その機縁となったのは次のような、ある偶然の出会いからだ。 /// 続きは本誌ご参照
「二つの国の物語」を読む:地は貧しい―希望がひらかれるとき37
森一彦
つい先日2010年10月6日、株式会社理論社が民事再生法の適用を申請とのニュースが流れた。理論社は、児童文学の草分け的な出版社である。創業者の小宮山量平氏は、同社の経営から退かれて久しく、94歳となる現在は上田市にあるエディターズミュージアム(小宮山量平の編集室)を主宰されている。同氏が軍隊生活を終えて理論社を創業したのは、敗戦から2年後の1947年6月であった。その思いは、詩人ノヴァーリスの詩をかかげたことに表れている。 /// 続きは本誌ご参照
良心と責任40
陳野守正     転載元:聖霊(2010年6月1日付)
小谷純一先生は、良心について繰り返し「聖霊」誌に述べてこられた。「神様は、神を信じる者にも信じない者にも、良心を与えておられる」「人間は神から自由意志と良心が与えられている。しかし、神に反逆し神から離反している人間は、自己を神として、自己中心に生きるしかない」 /// 続きは本誌ご参照
草原の涼やかな風が眠る霊を慰めてくれるように―歴史検証の旅に参加して41
下山田誠子
「満州開拓団」のことは長らく心にかかっていたが、今回よい機会を頂いて参加できましたこと感謝いたします。私と妹は当時の新京(現長春)に生まれ、敗戦後、平壌の難民収容所に暮らし、米国の船で佐世保に上陸したとのこと。3歳に満たない私にはほとんど記憶がなく、両親の元気な時に何も聞かなかったことが悔やまれてなりません。 /// 続きは本誌ご参照
母ちゃん、タカシが死んだノモンハンだよ42
千田優子
大正4年生まれの母は82歳で、亡くなった。穏やかな死に顔だった。一番大変な時に育て、一番愛した長男を病院のベッドで待っていた気がして。「母ちゃん、兄貴は忙しくて来れないって。待ってても無駄だよ…。ごめんね」(兄夫婦は山形の鶴岡に住んでいる。母が70の時、松戸で私たち家族と同居を始めた)そう耳元でささやくと、ツーと一滴の涙を流し、1時間後に息をひきとった。騒がせすぎた割りには…何と穏やかで、清しく仏になったことか! /// 続きは本誌ご参照
兄と弟に会う旅44
山田弘子
6月23日から4泊5日の『中国・日本人公墓への旅』に参加した。私の出生地でもあり、兄と弟が埋葬されている場所でもあるハルピン訪間は、かねてからの念願であった。初日は方正県政府を表敬訪問した後、日本人公墓へ向かった。しつかり施錠され、管理人もいるという友好園林の入り口に立った時は、中国政府の手でしっかり守られているという印象を受けた。 /// 続きは本誌ご参照
中国人の寛い心46
堺澤一生
ハイラル伊敏河断橋のほとりにある「望郷」と名付けられた像に胸を打たれました。難民と化した日本婦人がトランクを片手に、幼子の手を引いて日本を目指す姿です。婦人はきれいに髪をなでつけ、衣服もきちんとしており、やつれた様子はなく端正な印象で、制作者の暖かい心が感じられます。 /// 続きは本誌ご参照
方正の中国人夫婦に会う48
上条八郎
今回、私がこのツアーに申込した理由は三つある。一つは、内モンゴル出身で飯田市に嫁いでいる女性から『ノモンハン事件によって、日本が負けたから、モンゴルは中国領、ロシア領、モンゴルの三つに分けられてしまった』と常々聞いていたので、その場所に行ってみたかったこと。そして彼女の郷里は内モンゴルでもフフホトより西のオルドスなので、どこまでも砂漠化してしまったが、ノモンハンの辺りはホロンバイル草原と云って一面草原地帯だと聞いていたこと。 /// 続きは本誌ご参照
意義のある思い出を残したい一亡き夫を偲ぶ鎮魂の旅を迎えて50
杉田春恵
《解説》杉田春恵さんは、1927年生れ。読売新聞に掲載された―「日本人も同じ犠牲者」中国側が建立―という方正日本人公墓記事(「検証の旅」にも参加した徳毛貴文さんが執筆)を読み、大類の方に電話をいただいた。その後何度も会にカンパして下さっている方である。以前、会報に寄稿してくれとお電話をしたことがあったが、「いえいえ、そんなことは…どうぞ少しでもお役に立てれば」という言葉があり、ついぞお会いする機会もなかった。今回旅に参加したいが、からだのことも心配なので、介添え役として孫を連れて行きたいという。孫の啓輔さんは24歳の大学生。終始、杉田春恵さんを支え、その結果、全行程をなんなく支障もなく旅を終えられた。啓輔さんはロシア語を第二外国語として専攻されているが、初めての中国の旅を終えるなか、「中国語も学ぼう」という気持ちになったという。この手紙は、出発する1ヵ月ほど前に行った旅の説明会のあと、大類宛に送ってくださったものである。文章を書くのは苦手だという杉田さんだが、手紙は当時の貴重な体験が綴られている。杉田さんのご了解の下、ここに掲載する。パソコン入力には森一彦さんの手を煩わした。(大類善啓) /// 続きは本誌ご参照
ノモンハン戦争は何の為の戦争だったのでしょうか?―歴史検証と北東アジアの未来を展望する旅に参加して55
杉田春恵
十年振りにパスポートを取得、孫同伴で初めての中国旅行です。八月十九日北京空港へ降り立ち、想像以上の立派さに、まずびっくり。すったもんだの末に、ようやく出来た成田空港とは比べ様も無い広大な規模でした。この旅は観光ではなく、ノモンハン事変の戦蹟、方正への墓参と、現在の旧満州の戦後の復輿を見届けたい思いからでした。 /// 続きは本誌ご参照
棄民57
山岡紀代子
政府より引揚げ証明届きたり今し六十五歳の我に 長崎に被爆せし夫と満州を彷徨ひし我の八月九日 満州に我と紙一重の運命分け父母探す残留の子ら 牡丹江のいづこの果てにか眠る母恋ひて弟は海を渡れり /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓を参拝する旅59
島田成夫
10月10日からl7日までハルピンと長春に行ってきました。この旅は伊藤州一さんご夫妻に同行し、お墓詣りと伊藤さんが資金を寄贈して改築したハルピンと長春の小学校を訪間する旅です。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓と731細菌部隊記念館を訪ね、改めて戦争を考える63
高橋修司
1月に、「中国『帰国者』家族とともに歩む練馬の会」(同歩会)主催の映画「嗚呼 満蒙開拓団」(羽田澄子監督)を観た。その時、今回、訪問ツアーの世話役をされた「方正友好交流の会」の奥村正雄さんがら背景説明を受けた。中国ハルピン市郊外の方正県に5000人近い死者たちを葬る『日本人公墓』が存在していることを知りツアーに参加した。 /// 続きは本誌ご参照
方正再訪65
吉川雄作(ちば中国帰国者支援交流の会)
6月下旬、2006年以来2度目となる方正訪間の旅に参加した。今回は、担当の奥村氏を含めて6名の小グループで、お互いの距離が近い海外旅行となった。しかし、同行の飯白氏(9頁参照)と私には、長く日本人認定を求めていながら未だ果たせない方正在住の一婦人、徐士蘭への聞き取りとビデオ撮りという“重い目的”があった。 /// 続きは本誌ご参照
Viewpoint:旧満州の日ソ戦跡を巡って―生々しく残る惨劇の跡68
茅原郁生(拓殖大学名誉教授・同海外事情研究所客員教授)     転載元:世界日報(2010年9月15日付)
終戦65周年を迎えた本夏、筆者は日中科学技術文化センターが主宰する「現代史の歴史検証の旅」に参加し、中国のノモンハン、ハイラル、チチハルなど中蒙国境の辺境を回ってきた。そこで見聞した情況にはなお敗戦の疼き惑じさせるものが多く、戦後はまだ終わっていないとの思いを強くした。 /// 続きは本誌ご参照
ノモンハン戦争の跡地を訪ねて―“異郷での虚しい戦争”を痛感69
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2010年9月25日)
71年前の夏、日本軍とソ連軍は、満州とモンゴルの国境付近で4カ月にわたる死闘を繰り広げた。この戦争は、日本では「ノモンハン事件」として知られている。戦場となったのは、ハルハ河に沿った南北60キ口余りの砂がちの草原で、関東軍の独断専行もあって戦闘を拡大させた日本側は、多数の瀕死の負傷者と屍体を残したまま撤退を余儀なくされた。ことし8月、戦争跡地を訪れた「方正友好交流の会」事務局長の大類善啓さん(65)に、現地で感じたことを寄せてもらった。 /// 続きは本誌ご参照
ノモンハンと方正で国際主義的精神を思う―第3回「近現代史の歴史検証と北東アジアの未来を展望する旅」報告記70
大類善啓     転載元:日中科学技術文化センター『きずな』(2010年11月号)
一昨年、「友好の原点を訪ねる旅」を企画したところ大好評だった。昨年に続き今年で3回目の「近現代史の歴史検証と北東アジアの未来を展望する旅」では、8月19日から26日まで、北京からハイラル、ノモンハン、チチハル、大慶、方正を訪ねた。普通のツアーではなかなか行けない地域でもあり、また近年、ノモンハンが脚光を浴びていることもあってか、応募者は「方正友好交流の会」の会員や前回の参加者などを含めて、瞬く間に当初の定員をオーバー、参加をお断りした人も出た。最終的には事務局を含めて総勢35名の訪中団である。 /// 続きは本誌ご参照
先﨑千尋のオピニオン:嗚呼 満蒙開拓団72
先﨑千尋(茨城大学地域総合研究所客員研究員)     転載元:常陽新聞(2010年7月2日付)
「中国では日本人といじめられ、日本へ帰ったら中国人といじめられ、私の国はどこなの?」。5月29日に土浦市民会館で「嗚呼 満蒙開拓団」が上映されたが、終わってから映画の冒頭に登場する池田澄江さんら2人の元残留孤児が舞台から切々と訴えた。 /// 続きは本誌ご参照
560名のお客様を迎えて―黒部市での「嗚呼 満蒙開拓団」上映報告73
鮫沢祐二
黒部市国際文化センターコラーレは1995年(平成7年)11月3日文化の日に富山県黒部市にオープンしました。今年が開館15年目となります。コラーレでは開館当初より黒部市出身で岩波ホール総支配人の高野悦子氏に企画・構成をお願いしている「世界の名画を見る会」という自主事業を継続的に開催し、岩波ホールで上映された世界の名画を北陸のコラーレでも上映し、富山県を中心に隣県の皆様にもお越しいただいている企画です。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓団の証言上映―22日 益田の元入植者団体主催75
読売新聞     転載元:読売新聞大阪 島根県版(2010年10月17日付朝刊)
戦前の国策により中国東北部に入植し、終戦前後の混乱で多数の犠牲者を出した「満蒙閉拓団」を取材した映画が22日、益田市の県芸術文化センター「グラントワ」小ホールで上映される。同市美都町から入植、現地で多くの仲間を亡くした「大頂子東仙道開拓団の証を守る会」が主催。「悲惨な過去を知り、平和の尊さを考えて」と呼びかけている。 /// 続きは本誌ご参照
成功裡に終わった『鳴呼 満蒙開拓団』自主上映会―「大頂子東仙道開拓団の証を守る会」が益田市内外に呼びかけて開催76
加藤重幸
前略ごめんください。暫らくは電話による応答で失礼しましたが、このほど計画しました映画会が盛会裏に終了することが出来ましたので、ご報告いたします。当日は気温も20度をこし快睛でした。そのため会場のある市街地外からの出足がよく2時半の上映予定時間より2時間も前から続々来場され、午後の部に300人強が夜の部にも150人を超す観客を迎えることができました。 /// 続きは本誌ご参照
慰霊の夏 語り継ぐ思い:益田市から旧満洲へ82
野中一郎     転載元:朝日新聞島根県版(2010年8月14~16日付の連載3回)
晴れ渡った空、さわやかな大陸の風を受けながら益田市訪中墓参団(加藤重幸団長ら10人)を乗せたバスは1日、中国・黒竜江省の省都ハルビンの市街地を出て走り続けた。東へ約185キロ。目的地の「方正」に近づくと高速道路両側に延々と広がるトウモロコシの畑に交じって、青々とした水田が目立ち始めた。 /// 続きは本誌ご参照
みんなの家主催『嗚呼 満蒙開拓団』上映後の感想85
NPO法人みんなの家
真実です/歴史の一断面が正しく記録された映画だと思いました。/ドキュメンタリー映画、事実ですね。戦後65年、まだ終わっていないと思いました。 /// 続きは本誌ご参照
日中船舶衝突事件から何を学ぶか90
服部健治
9月7日に尖閣諸島(中国では釣魚島)周辺での海上保安庁の巡視船に対する中国漁船の追突事件に端を発した一連の事態は、中国との付き合いを再考させる深刻な衝撃を与えた。短期間で端的にあぶりだされたことは、脆弱な日中関係の本質だ。特に対抗処置として中国政府が打ち出したレアアースの対日輸出差し止めは、対中ビジネスの練り直しを迫るものであった。 /// 続きは本誌ご参照
無神経な「拓魂」碑文と満洲開拓団93
宮下春男
毎年4月第2日曜日には、元満洲開拓団、元満洲義勇隊開拓団、元満蒙開拓義勇軍(隊)訓練中隊、元満洲の農業開拓に何らかの係わりを持った人々、団員や隊員だった人々、その家族や関係者が、全国から東京都多摩市連光寺の“拓魂公苑”に集まってくる。 /// 続きは本誌ご参照
『新潟県満州開拓史』を自費出版して99
高橋健男
人はその人生を全うしたとき、名を刻して弔われる。手厚く葬られて墓所に入り、法要が重ねられる中で、愛する人・親族・関係者の心の中に生き続ける。これが世の常である。しかし、戦争の時代には、おびただしい数の弔うことがかなわない「異常」や「非常」があった。死地さえ分からない。「西太平洋にて」の兵士の死亡公報は、愛する人に死者がどこに眠っているかを伝えることはない。長かるべき生身の“生”を無残に断ち切られ、人間一代の歴史を未完のまま抹殺されたその人の“生”を、詳しく知る術はない。 /// 続きは本誌ご参照
“瀋陽からニイハオ”―日本で『中国人就学生と中国帰国子女』を出版して104
山田陽子
2010年6月に日本で出版しました『中国人就学生と中国帰国子女一中国から渡日した子どもたちの生活実態と言語』という本についてご紹介させていただきます。本書は、ヒトとモノの国際移動によるグローバル化が進展した日本で、どのように生活やことばの支援を行っていけばよいのかを言語教育の具体的な実践例から考えようとしたものです。 /// 続きは本誌ご参照
養父母会ニュース106
石金楷(ハルピン市日本残留孤児養父母の会事務局長)
7月8日、上海テレビ・ニュースチャンネルの要請をうけ、養父母会のスタッフが「昔」番組のインタビューに答えました。当時の人の回想を通して、当時の養父母が曾ての恨みを忘れ、広い心で日本の残留孤児を育てた感動的な話を再現し、崇高な母性愛を讃え罪深い戦争を断罪しました。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓への旅(2011)108
方正友好交流の会
6月22日(水)新潟空港ロビーに集合 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い109
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
小説に初登場した方正日本人公墓一佐江衆ー著『昭和質店の客』を読む110
大類善啓
日本経済新聞朝刊最終面の文化欄は、日経の中でも一番読まれていて人気が高い。経済に疎い私などは、読む先から忘却の彼方に行ってしまうので、日経ではここしか眼を通さないロだ。2年前の11月2日の朝、その欄に「満州・中国東北部の子供たち」という見出しで、作家の佐江衆一さんが、<「アカシアの大連」が見たくて初めて出かけた>と、大連、瀋陽、長春、ハルピン、牡丹江を旅したエッセイが出ていた。 /// 続きは本誌ご参照
書籍案内111
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『約束満州の孤児たちの生命の輝き(増田昭ー著)』、『オリオンの墓一あの冬満洲に消えた難民孤児たちへ(永井瑞江著)』、『満蒙の新しい地平線衛藤瀋吉先生追悼号(満蒙研究プロジェクト編集委員会編)』、『中国残留日本人という経験―「満洲」と日本を問い続けて(蘭信三編)』、『風雪に耐えて咲く寒梅のように二つの祖国の狭間に生きて(可児カ一郎著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記113
大類善啓
前号の9号で、北京の佐渡京子さんの原稿の中の写真が間違っていた。佐渡さんは趙喜晨さんを中に挟んで向かって左の方である。佐渡さん、ご容赦のほどを。 /// 続きは本誌ご参照

  第10号(2010年5月発行) 第10号(2010年5月発行)表紙

あの歴史に立ち会う一「方正地区日本人公墓」建立前後の回想1
趙喜晨(北京)
1961年、26歳の時、私は黒竜江省人民政府外事弁公室に異動を命じられ、1985年、仕事の必要から他の部門に異動するまで、ずっとそこで仕事をした。この25年間、私はほとんど居留民関係の仕事に従事した。 /// 続きは本誌ご参照
琿春と岐阜県満州開拓団6
小島正憲
2005年4月、私は工場の立地調査のため琿春市を訪れた。まず琿春市長と面談し、市の概況を尋ねた。そのとき琿春市長がわが社のパンフレットを見て、本社が岐阜県だということに気づき、私に琿春市と岐阜県とは縁が深いと話してくれた。戦前、琿春市に岐阜県の朝日・和良・高鷲の3村が開拓団として入植していたというのだ。それを聞いて私は、その奇縁にびっくりした。なぜなら小島衣料本社には、30年ほど前、その和良や高鷲村から従業員さんが働きに来てくれていたからである。ひょっとすると、この琿春から引き上げた人の関係者がいたかもしれない。私は琿春市に運命的なものを感じ、どうしてもこの工場を成功させねばと心に誓いながら、同年11月、輝春市経済合作区で独資工場の稼動を開始した。 /// 続きは本誌ご参照
東京の商店街からも開拓団に参加したのだ!―「こや定ふれあいスクール」に参加して9
吉川雄作
去る3月17日、「こや定ふれあいスクール」なる催しに、当会参与の奥村氏らとともに参加した。「こや定」が「都立小山台高校定時制」の略称と知るまで少し時間がかかった。その「こや定」では、「生徒の生きる力を高め、人権の尊重、多文化の理解、市民の育成、国際平和をテーマに特色ある教育活動を実施」(案内文より)を謳っている。今回のテーマは「東京の満蒙開拓団を知ろう―武蔵小山商店街と戦争」で、教育活動=授業の一環としながら一般市民にも見学を呼びかけて実施されたものだ。講師の一人に、奥村氏と私も加わる「ちば中国帰国者支援交流の会」の会長であり、日本中国友好協会理事でもある飯白栄助氏が、開拓団体験者として招かれている。 /// 続きは本誌ご参照
私の方正之路:二つの弔い11
奥村正雄
福地正博さん(享年72歳)の訃報を聞いたのは、昨年暮れも押しつまった12月30日である。電話で知らせてくれた劉玉琴夫人(71歳)の声は驚くほど冷静だった。逝去は28日。肺がんで入退院を繰り返していたので、夫の死はすでに彼女の胸の中で、数え切れないほど覚悟を迫られていたせいかとも思ったほどである。 /// 続きは本誌ご参照
2009年夏中国・旧満州の旅18
名井佳子
2009年の夏、たまたま4大学5人の先生方の企画「中国・旧満州調査の旅」に誘われました。日程表を見ると初日に731部隊遺跡となっていたので、ハルピンまで行くのなら是非方正地区日本人公墓へも行って欲しいと頼みました。4泊5日という短期の旅の中に、ハルピンから相当距離のある方正までの無理な願いでしたが幸い快く受け入れて頂きました。 /// 続きは本誌ご参照
前の経験を忘れず、後の教訓とする一日本映画「嗚呼 満蒙開拓団」を見て21
趙喜晨(北京)
最初に日本大使館がこのたび「嗚呼 満蒙開拓団」の観賞会に招いていただいたことにお礼を申し上げます。同時に羽田澄子さんほかこの映画を作られた関係者のご努力によって、このような血と涙の歴史的シーンを見せていただいたことに対して感謝しなければなりません。「嗚呼 満蒙開拓団」は、20世紀の1930,40年代にさかのぼって日本の開拓団の人達が中国東北地方でなめた悲惨な経歴を、間際で追求し記録したものであり、見た後、悲痛な思いをさせられます。 /// 続きは本誌ご参照
北京での「嗚呼 満蒙開拓団」鑑賞会を終えて25
佐渡京子
2010年1月23日、「嗚呼 満蒙開拓団」鑑賞会実行委員会主催、自由工房と北京日本人会協力のもと、北京の国際交流基金の多目的ホールで、映画「嗚呼 満蒙開拓団」の鑑賞会が行われた。中国での初の上映会である。この映画が開催されるきっかけになったのは、2009年9月、大類善啓さんが、北京の日本大使館を表敬訪問されたことである。その際に、大使館の梅田邦夫首席公使にこの映画について話され、それに興味を持った梅田公使に、自由工房から映画のDVDが贈られ、映画に感銘した公使の発案で、その後大使館内での上映会につながった。 /// 続きは本誌ご参照
中国での波紋―「嗚呼 満蒙開拓団」:日本国内だけではなく、その反響が中国でも広がり始めていることを示す1通の手紙28
石金楷(中国ハルピン市日本残留孤児養父母懇親会秘書長)
尊敬する羽田澄子さま。「爆竹鳴って古い年が去り、正月の飾りで新春を迎える」中国の伝統的な祝日の春節を迎えるにあたり、あなたとご家族が、寅年に楽しく健康で望むようにおめでたいことがありますよう、お祈りいたします。 /// 続きは本誌ご参照
日本に帰還しなかった兵士たち―映画「鳴呼 満蒙開拓団」を見て自作映画を考える29
松林要樹
日本に帰らず、タイ・ビルマ国境に残り続けた6名の元日本兵を追った「花と兵隊」という記録映画を、私は約3年かけて作った。異国での戦後をどう生きたのかということを描いた。2009年8月より全国公開され、現在いろいろな場所で自主上映会を開いていただいている。今回、映画「鳴呼 満蒙開拓団」を見せていただいた。戦後60年以上の時が流れ、私が制作した映画「花と兵隊」同様、証言者は高齢化し、次々と鬼籍に入っている、時間との勝負なのである。 /// 続きは本誌ご参照
方正とランプーン、二つの慰霊塔に思うこと―「嗚呼 満蒙開拓団」と「花と兵隊」31
森一彦
映画「嗚呼 満蒙開拓団」の冒頭シーンは、中国残留孤児裁判の判決の日から始まる。この映画を手がけた羽田澄子監督は、この物語が“過去の証言”ではなく、現在進行形の問題であることを告げている。満蒙開拓団の人々は、かつて1945年8月のソ連軍の侵攻とともに、関東軍に棄てられた。そして、息絶えた人々も、中国人によって育てられ生き抜いた人々も、戦後は日本から見棄てられつづけた。そして、ようやく祖国への帰国を果たした人々も、言菓も通じない日本の社会から棄てられつづけたのだ。 /// 続きは本誌ご参照
深谷シネマで『嗚呼 満蒙開拓団』を観る33
芹沢昇雄
中国・方正に中国政府が建ててくれた『日本人公墓』が在ることも、隣に『養父母の墓』が在ることも知っていたが、世間には殆どには知られてこなかったであろう。「方正友好交流の会」の大類善啓さんたちの長い間のご尽力や、この羽田澄子監督のこの映画はその認知に大きく貢献したに違いない。 /// 続きは本誌ご参照
次の世代に伝えたい―「鳴呼 満蒙開拓団」自主映画会に関わって34
渡部通恵
この映画に出会うまでば満蒙開拓団とか満蒙義勇軍とかという言葉も意味も知りませんでした。知らないことを知ることから、すべては始まるということで、上映にかかわることから始めました。 /// 続きは本誌ご参照
涙が止まらなかった―映画「鳴呼 満蒙開拓団」を見て36
畠山孝
私は今、1926年生れの85歳です。戸数17戸ある農漁村で育ち、畑を耕し、漁草や魚を食べて暮らし、夜は電灯もなく、ラジオも聞けずの田舎育ちをしてきました。その頃、中国と戦争をしており、村からも何人かの若者が軍人として出征し、戦死者も町全体で何人かが出たと聞いておりました。 /// 続きは本誌ご参照
追想―映画「鳴呼 満蒙開拓団」を見て38
松浦周之助
「この子は日本人の子供だ」と偶々出会った中国人から呼びかけられた。1946年、北満でも朝から暑い朝、私は中国人の農家に使われ、牛や馬7頭を引き連れて、約5キロ離れた放牧場まで片目の馬に乗りながら、主人の中国人と一緒に毎Hのように行く途中でした。 /// 続きは本誌ご参照
関東軍の無策に怒る―「嗚呼 満蒙開拓団」を観て39
吉川健
私は元満州電電社員(通信手)で新京におりましたが、昭和20年6月熱河省承徳電報局に転勤しました。当時17歳でした。8月9日ソ連の侵攻により承徳在の関東軍西南防衛軍司令部はさっさと錦県に後退、私たちは取り残されました。8月19日ソ連モンゴル連合軍が隣の駅まで来たという情勢によりトラックで錦県に脱出しようとしたのですが、途中建昌という山の中で捕らえられてしまいました。 /// 続きは本誌ご参照
真実かどうか冷静に見つめたい―「嗚呼 満蒙開拓団」を観て想うこと40
高嶋敏展
子供の頃、テレビで見た中国残留孤児の肉親探しのニュースは不思議だった。なぜ、もっと早く探しに来なかったのか。なぜ、子供を捨てて親だけ日本に帰って行ったのか。「嗚呼 満蒙開拓団」で描かれていた事が事実であれば、謎のいくつかが解けた事になる。城山三郎の小説で好きだった広田弘毅のイメージも少し変わった。敗戦が濃厚になった時点でも大陸に人植を続けさせ、既成事実の為にわざと引き揚げを遅らせる。今、イスラエルがヨルダン川西岸やガザ地区で行っている既成事実、占領地へ入植を続けているのはまったく同じ手法だと感じた。いつの世も「お上」のなさる事に庶民は翻弄されている。 /// 続きは本誌ご参照
映画『嗚呼 蒙開拓団』と講演で私が学んだこと42
加納佳子
朝鮮半島、中国大陸、そしてアジアの国々に侵略して植民地化するための国策により、甘い言葉で大陸に狩り出され、かけがえのない人生を踏みにじられ翻弄された人々、そして戦況の悪化で敗戦が時間の問題となった時にもなお、執拗に狩り出された人々の当時の様子を、大類様のお話と満蒙開拓団の記録映画によって知ることができました。 /// 続きは本誌ご参照
私の六方拝―「鳴呼 満蒙開拓団」自主上映会に参加して思う43
高尾源峰
老人になる程、修業しなければならないと教えられた。私の実践は写経を中心に行っている。まず朝、早く起き、2時半を起床時刻に定めている。寒中でも冷水摩擦はかかさない。清めた後、六方拝をし、座禅(20分)、読経(10分)ラジオ深夜便の心の時代をきく。そして写経―今日まで200巻(1巻約80OO字)大般若経を書いた。 /// 続きは本誌ご参照
松江は女性パワーで溢れていた―『鳴呼 満蒙開拓団』自主上映会に参加して45
大類善啓
『鳴呼 満蒙開拓団』は、東京の岩波ホールで好評裡に上映を終えた後も、個性的なプログラム編成で活動する各地の映画館で次々に上映され、また今でも自主上映会で盛んに取り上げられている。その自主上映会のひとつが2月14日(日)松江で行われ、主催団体から演出の羽田澄子さんに講演の要請があった。が今一つ、羽田さんのお身体が本調子ではない。まして地方へ遠出するとなると難しいということで、代わりに出掛けることになった。 /// 続きは本誌ご参照
アンケート集49
ベアテの贈りものを届ける会
映画「嗚呼 満蒙開拓団」羽田澄子監督演出作品、講演会演題「方正日本人公墓が意味するものとは」、講師大類善啓氏(方正友好交流の会事務局長) /// 続きは本誌ご参照
愛国主義はエゴイズムだ―トルストイや北澤博史さんのことなど、思いつくまま63
大類善啓
ろくな番組はないと思っているテレビだが、その中でNHKの教育テレビはなかなかいい番組をやる。つい最近も、ロシアの文豪トルストイの日露戦争当時の発言を特集した番組があり、実に見応えがあり最後まで見てしまった。 /// 続きは本誌ご参照
ニッポン 人・脈・記:神と国家の間[8]―愛国心の跋扈は許さじ65
早野透(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2010年2月8日付夕刊)
2008年、パリで、日本の本2冊の仏訳が出版された。幸徳秋水の「廿世紀之怪物帝国主義」と中江兆民「三酔人経綸問答」である。訳者は、日本研究者クリスティーヌ・レヴィ(55)。東京・恵比寿の日仏会館に、彼女を訪ねた。 /// 続きは本誌ご参照
語り続け、伝えつづけ―北澤博史さんを悼む66
高良真木
『二つの祖国一ある中国残留孤児の証言』の著者・北澤博史さんが2月24日、小田原の病院で亡くなった。昨年の春頃から調子が良くないと伺っていたが、入退院をくりかえし、とうとう逝かれてしまった。1940年、5歳の北澤博史少年は、両親と姉二人、弟三人といっしょに満洲信濃村開拓地に入植した。 /// 続きは本誌ご参照
身も心もまる裸68
北澤博史
自分の国を守ることであるのなら国民の犠牲はつきものである。戦前の大人達は、国の行いの良し悪しは別として、みんなそういって行動していたようだ。私が五歳で満州へ連れて行かれた昭和十五年ごろは、戦争のため日本の経済は貧しかったという。戦争に勝って国をよくしよう、そのために、日本は満州を侵略し経済の立て直しをしようと思いついたらしい。 /// 続きは本誌ご参照
ハルピン便り:アメリカ留学生と養母と70
石金楷
春節のあとに行われた2010年第1回例会で、残留孤児の養母・李叔蘭がまた日本へ旅行したいという希望をのべました。連絡会では、まだ未確定ですが、この養母の晩年の希望を叶えてあげるため、5月末もしくは6月初めに「養母訪日チーム」(自費)を編成して、日本へ訪問する予定です。メンバーは養父母、孤児、残留婦人の子供、連絡会の責任者という構成です。日程は1週間、東京で2日、千葉県で1日、友好交流を行いたい。その外、東京周辺の観光を考えています。再会の日を待っています。 /// 続きは本誌ご参照
収集されていない元満洲開拓団員の遺骨71
宮下春男
「満洲国」に国策として送り込まれた農業開拓団は、計画では昭和20(1945)年時点で総数約1200団、約32万人の規模であるが、実際に送り出されたのは約27万人程度と言われている。「満洲開拓史」(昭和41年刊、同史刊行会)によれば、昭和25(1950)年10月に外務省が各県と開拓民自興会県支部を通じて調査した、20年8月9日ソ連軍侵攻から21年12月25日までに葫蘆島経由遣送終了までの在籍者は241,160名であったが、約10%の調査未了の開拓団があったという。 /// 続きは本誌ご参照
残留日本女性ドラマ好調―中国 対日観変える視聴者も80
大木聖馬     転載元:読売新聞(2010年2月19日付朝刊)
第2次大戦後に中国に残留した日本人女性の半生を描いた連続テレビドラマ「小姨多鶴」(多鶴おばさん)が、中国国内で人気を呼んでいる。日本人は、侵略者として扱われることが多い中、戦争被害者として描かれた異色の作品で、ドラマを通じて対日観を変える視聴者も多い。 /// 続きは本誌ご参照
日本に残留し定住したある中国人―在日華僑・韓慶愈が生きた「もう一つの昭和史」(第6回)81
大類善啓
《前回までの粗筋》新中国の誕生は、華僑たちの帰国熱を促し、韓も1953年第1回の帰国船に学生代表として中国に行き、天津で廖承志に面会した。その時廖は、韓に中国に帰国せず「日本に残り、華僑向けの新聞を出せ」と指示。日本に戻った韓は、『大地報』という新聞を創刊した。日中関係は徐々に発展、韓は通訳などでも大活躍。1970年には訪中し、新しい中国を見る。文化大革命の時期は、日本にいる華僑とはいえ様々な間題にぶつかった。その混乱のなか、中国にとって必要なのは日本の先進的な科学技術や工業技術ではないかと思い、『日本工業技術』という雑誌の刊行を思いつく。横やりも入ったがなんとか発行にこぎつけた。イデオロギーや思想ではなく、現実を見ていこうという動きがやっと芽生えてきた。 /// 続きは本誌ご参照
中国・日本人公墓への旅(2010)―映画「嗚呼 満蒙開拓団」のロケ地88
方正友好交流の会
6月23日(水) 新潟空港ロビーに集合 /// 続きは本誌ご参照
第3回近現代の歴史検証と北東アジアの未来を展望する旅―ハイラル、ノモンハン、チチハル、方正を訪ねる旅89
社団法人日中科学技術文化センター
8月19日(木)成田発(CA926) /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い90
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
書籍案内91
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『中国残留日本人という経験「満洲」と日本を問い続けて(蘭信三編)』、『風雪に耐えて咲く寒梅のように二つの祖国の狭間に生きて(可児カ一郎著)』、『満州開拓民悲史一碑が、土塊が、語りかける(高橋健男著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記91
大類善啓
昨年、岩波ホールで上映が始まった『鳴呼 満蒙開拓団』は今でも全国で、主に自主上映会という形で上映され、多くの人たちの感動を呼んでいる。こういう映画を自主的に見ようとする動きがある限り、まだまだ日本も捨てたものではない、と思ってしまう。しかし、そんな考えは甘いのかもしれない。マスメディアがひとたびある論調を張り出すと、人々が一斉になびく風潮は、昔も今もそう変わりがないからだ。その証拠といえば、つい最近まで吹き荒れた検察の小沢潰しと、それに同調するかのような、マスメディアの激しい小沢批判を挙げることができるだろう。 /// 続きは本誌ご参照

  第9号(2009年12月発行) 第9号(2009年12月発行)表紙

日本政府の公墓支援決まる1
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)
1993年、私たちは「方正地区支援交流の会」を立ち上げ、10年余りに亘って、ささやかな経済援助活動を方正県に行ってきた。が、方正地区にいた「残留婦人」たちがほとんど日本に帰国した状況を受けて活動は収束していった。しかし、会を完全に解散するには忍び難い気持ちもあり、2005年6月、新たに「方正友好交流の会」を発足させた。 /// 続きは本誌ご参照
鳩山総理、ぜひ日本人公墓に参拝を!一方正日本人公墓は、国際的な友愛精神の象徴である4
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)
民主党の圧勝、自民党惨敗をもたらした衆議院選挙の時、中国訪問中の私は、連日、中国・中央テレビ局の好意的な民主党政権登場のニュースに接しておりました。日本の歴代総理が訪中する際、日中双方にとって縁のある場所を尋ねることが、いわば象徴的なこととして報道されてまいりました。鳩山総理が中国を訪問する際には、ぜひ、黒竜江省ハルピン市郊外の方正県に建立されている日本人公墓を参拝していただきたいと思います。この公墓には、戦前の誤れる国策によって翻弄され、無念の涙をのんで亡くなった「残留婦人」や孤児たちの遺骨、約4500体が眠っております。 /// 続きは本誌ご参照
「友愛」に応え 首相訪問を5
五味洋治(東京新聞外報部)     転載元:東京新聞(2009年10月4日付朝刊)
中国東北部・黒竜江省に、敗戦の混乱で命を落とした旧満州開拓団員を弔う墓地がある。日本人のために造られた中国唯一の公営墓地だ。傷みが激しいため、地元の自治体が補修工事を進め、日本でも募金活動が始まるなど関心が高まっている。ちょうどアジア重視を掲げる民主党政権が誕生。関係者は鳩山由紀夫首相の同墓地参拝実現に向けた運動も始めている。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州の邦人墓地支援ヘ一日本政府が管理費一部負担6
時事通信     転載元:北京時事(2009年10月13日付)
中国東北部(旧満州)に入植し、終戦の混乱で死亡した日本人を埋葬するため、中国側が黒竜江省方正県に建立した「日本人公簿墓」に対して、日本政府が維持管理費の一部を支援することが13日、分かった。 /// 続きは本誌ご参照
中国建設の日本人慰霊墓―日本が管理費支援6
牧野田亨(読売新聞)     転載元:読売新聞(2009年10月10日付夕刊)
中国東北部(旧満州)の黒竜江省・方正県で、敗戦時に死亡した日本人入植者の慰霊のために建てられた「日本人公墓」(共同墓地)に、日本政府が初めて維持管理費を支援することになった。中国側が日本人のために建てた唯一の墓として知られ、これまでは方正県政府が全額負担してきた。 /// 続きは本誌ご参照
日本人墓地に支援7
五味洋治(東京新聞外報部)     転載元:東京新聞(2009年10月11日付朝刊)
日本外務省は十日、中国東北部の黒竜江省方正県にある旧満州開拓団員を弔う墓地への支援を決め、同県政府に通知した。日本人のために造られた中国唯一の公営墓地とされるこの墓は、一九六三年に同県政府が建立、維持管理を続けてきたが傷みが激しいため、日本政府などに援助を申し出ていた。 /// 続きは本誌ご参照
方正県の日本人公墓維持に日本政府が支援―加藤会長が強く働きかける7
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2009年10月25日)
中国・黒竜江省ハルビン市の方正県にある日本人入植者約5000人が眠る日本人公墓に対し、日本政府は初めて維持管理費を支援することを決めた。加藤紘一協会会長は、外務省に政府の支援を強く働きかけたという背景がある。加藤会長のその思いを聞いた。 /// 続きは本誌ご参照
開拓団墓地 首相参拝を7
小松陽子(神奈川県三浦市)     転載元:東京新聞(2009年10月31日付朝刊)
中国が黒竜江省に造った旧満州開拓団員墓地の補修を地元自治体が進め、日本政府も支援すると、4日付と11日付国際面にあった。 /// 続きは本誌ご参照
中国にある日本人公墓、日本政府が資金援助8
蒋豊(環球時報日本特約記者)     転載元:環球時報(2009年10月12日付)※中文原文添付
中国黒龍江省方正県に「日本人公墓」がある。これは1963年、中国政府が許可し、日本の残留孤児と残留婦人のために建立されたものであり、世界で唯一の、戦争の被害を受けた国の政府が戦争を発動した国の被害者のために建立した公墓であり、中国人民の寛容さの証と見ることができるだろう。この公墓は、過去40年以上にわたり、日本政府によって忘れられ見落とされてきた。 /// 続きは本誌ご参照
維持管理費日本が支援―黒竜江省 満州開拓団の墓地10
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2009年11月30日付)
中国黒竜江省方正県が、敗戦時の引き揚げ途中に死亡した旧満州開拓団員の慰霊のために建てた共同墓地「日本人公墓」に、日本政府が維持管理費の支援を始めた。これまでは年間約20万元(約260万円)の管理費を全額負担しており、支援決定に地元からは歓迎の声が上がっている。 /// 続きは本誌ご参照
近現代史を知るきっかけに!(2009年5月30日・方正友好交流の会第5回総会での挨拶)11
羽田澄子(映画作家)
ご紹介いただきました羽田でございます。このようの所でこのようなふうに皆様にご挨拶するとは思っておりませんでした。今回私が創りました『嗚呼 満蒙開拓団』という映画が岩波ホールで一般上映できるようになり、皆様に観ていただけるようになりましたことは本当に良かったと思っております。 /// 続きは本誌ご参照
想創:映画「嗚呼 満蒙開拓団」への道14
羽田澄子(記録映画作家)     転載元:毎日新聞(2009年9月1日、8日付夕刊)
いま私は最新作「嗚呼 満蒙開拓団」の岩波ホールでの上映が無事に終わり、予想していなかった多くの方が見てくださる結果となって、ほっとしたところだが、改めて満州や満蒙開拓団について、関心を持っている人が非常に多いことを知って驚いたのである。私も満州には縁がある。 /// 続きは本誌ご参照
あの戦争、あの時代15
谷野作太郎
今年も、八月十五日をまたぐ形で、あの戦争、あの時代をめぐって、いろいろな企画が組まれた。そのひとつは、岩波ホールにおける「嗚呼 満蒙開拓団」の上映である。方正友好交流の会の活動、方正所在の日本人公墓のことは、交流の会・事務局長の大類さんから直接うかがったり、その後、資料をいただいたりして承知していたが、映像を通してとはいえ、その日本人公墓を目のあたりにするのはこれがはじめてであり、何とも感無量だった。 /// 続きは本誌ご参照
「国家が国民を捨てる」国家イメージを脱却したい―『鳴呼 満蒙開拓団』を観て17
江田五月
参議院議長に就任して、時々、東京国立博物館の特別企画とか各美術館の特別展とか、面白い企画のご案内をいただく。これまでそういう時間の使い方が出来なかったが、ご案内をいただいて顔を出すと、もっともっとということになり、「花の生涯一梅蘭芳」とかハンセン病の「新・あつい壁」とか、映画を観ることも若干増えた。そんなことで目に止まり、「嗚呼 満蒙開拓団」を観た。どうせ空いているだろうと高をくくっていたら、切符売り場は何と長蛇の列。満席で、あわや見逃すところだった。 /// 続きは本誌ご参照
映画『嗚呼 満蒙開拓団』そして、その先18
千本健一郎
かつて日本の国策で満州(現中国東北部)や内蒙古に入植した「満蒙開拓団」。二十七万にのぼる開拓民のうち七万人余が日本の敗戦前後、北満の地で命を落としたとされる。生きのびた人々は残留孤児、残留婦人としてそれぞれ中国人の養父母に引きとられ、あるいは現地中国人の妻となって歳月を重ねた。この記録映画のなかでそうした生存者が語る戦中戦後の体験は、一つひとつが身を切るように響く。 /// 続きは本誌ご参照
『嗚呼 満蒙開拓団』に寄せて22
滝永登
この映画を見たのは、まったくの偶然といってよい。たまっていた仕事が一段落し、少しずる休みをしたい気分になって、職場のパソコンで映画館情報を検索し、この映画の存在を初めて知ったのだ。題名から判断してこれならよしと決め、早速休暇届を出し、神保町へ向かった。平日の昼間だったので楽に座れると予想し、上映開始直前にたどりついたのだが、館内はほぼ満席。 /// 続きは本誌ご参照
日本にとっての「満州」とは24
寺本康俊
戦後世代の若い人たち、特に昭和後半期や平成生まれの人々にとっては、「満州」や日中戦争、太平洋戦争は、現実感がなく、歴史的な語句になっているのかもしれない。そうした言葉を実際に聞くこともある。しかし、よく考えてみれば、日本国内のみならず海外にも戦争の傷跡は至る所にあり、戦争の被害、影響を受けた人々の例を数えあげると枚挙にいとまがない。その意味では、いまだに「戦争は終わった」とは言えないのではないか。 /// 続きは本誌ご参照
遥かなる中国の大地で起きたことを、今、自ら眺望する創造力を求めて―『嗚呼 満蒙開拓団』を観て25
佐藤英之
長年、精神医療問題に関わっている。その日、7月8日(土曜日)は、午前中から神田一ツ橋の日本教育会館で、精神保健従事者懇談会(「精従懇」)が行われるため、私たちは精神保健・医療・福祉に関連する書籍販売の準備に忙殺されていた。 /// 続きは本誌ご参照
他人の人生を感じ取るということ一『嗚呼 満蒙開拓団』を観て28
吉家京子
中国残留日本人孤児の人達が、また肉親を探しにやってくる。どんなにか大変な人生を送ってきたことだろうと思いながらも、私は顔を背けたくなる。自分の頭と心の間に、なんとも嫌な距離感があるからだ。「ひとごと」として捕らえている自分が嫌になるのだ。 /// 続きは本誌ご参照
山形県の小さな町で映画「嗚呼 満蒙開拓団」を上映して30
大場武男
8月、私たちは、映画「嗚呼 満蒙開拓団」(羽田澄子監督作品)を最上町で自主上映した。県境の宮城県大崎市や栗原市、県内からは遠く米沢市、山形市、最上地方の市町村からも足を運んでいただき、300人の方々に観ていただいた。中には満州の地図を持参し、入植した地と苦難の歴史を語ってくれた人もいた。 /// 続きは本誌ご参照
“満蒙開拓団”我が心の想い一映画『鳴呼 満蒙開拓団』を観て32
吉川福太郎
悲しき事の多かりき…涙、涙、涙あるのみ 破れし国、その民無惨なり 戦争とはかかるものか原因は人にあり /// 続きは本誌ご参照
歴史を知って、忘れないでほしい―映画『満蒙開拓団』を見て33
畢楊
この映画を見て、深い感動を覚えた。しかし、開拓民の悲劇に同情したのか、それとも、戦争が世界の人々にもたらした災害に心を痛めたのか、自分でもはっきり分からなかった。開拓団のことをよく知らなかった私はショックを受けた。 /// 続きは本誌ご参照
代役が見た映画祭の熱気―第12回ゆふいん映画祭に酔う35
奥村正雄
5月のある朝、突然、羽田さんから電話がかかってきた。「由布院の映画祭に、私の代わりに行ってもらえない?」5月29日から31日まで、大分県湯布院で開催される「第12回ゆふいん文化・記録映画祭」に、羽田さんに代わって出てくれというのである。理由は羽田さんが突然、心筋梗塞で入院したためだ。私は監督の立場でものは言えない。 /// 続きは本誌ご参照
土橋に腰かけたトーク―新潟でも超満員だった「嗚呼 満蒙開拓団」37
奥村正雄
スクリーンの手前に狭くて低い小さなステージがある。映画が終わったあと10分の休憩を挟んで12時15分から、このステージに2脚の椅子を並べ、そこに羽田監督と地元の開拓団研究者・高橋健男さんが腰掛けてトークが始まる予定だった。ところが朝早くから映画館の前に並んだ観客が定員をはるかに越え、ステージの足元まで地べたに坐りこんでいた。そのため予定された椅子は運び込まれず、トークの2人はステージの前面に腰掛け、まるで足をぶらつかせながらのようなムードで話し始める、という形に変わった。この苦肉の演出がよかった。二人はまるで田舎の川にかかる一本橋に腰掛け、はだしの足首を川のせせらぎになぶらせているような錯覚を覚えた。 /// 続きは本誌ご参照
語り部としての責務39
藤原作弥     転載元:岩波ホール制作の映画プログラム「エキプ・ド・シネマ171」
私事で恐縮ながら、私も満洲からの引揚者である。昭和20年8月9日、ソ連戦車軍団がソ満国境を越えて侵攻してきた際、満蒙草原の僻地、興安総省興安街(現・中国内モンゴル自治区ウランホト)に在住していた私たち一家は、辛くも現地を脱出し、南満洲の国境の町・安東に逃れ着いた。 /// 続きは本誌ご参照
中国で唯一存在する日本人公墓は何を語るのか40
大類善啓     転載元:岩波ホール制作の映画プログラム「エキプ・ド・シネマ171」
1945年8月9日、ソ連軍の怒涛のような侵攻と、それに続く日本の敗戦は、旧満州に国策として入り込んだ開拓民たちを、一挙に奈落の底に突き落とした。すでにその時点、開拓団にいたほとんどの青年・壮年男子は、軍に召集されていた。残っていたのは老人と女、そして子供たちだった。人々は争うように安全な地を求めて逃げ惑い、難民、流浪の民と化していった。ソ連と国境を接する、現在の黒竜江省の奥地に人り込んでいた人々は、ひとまず方正を目指した。 /// 続きは本誌ご参照
満州開拓団の悲劇伝えたい―羽田澄子監督が記録映画41
大久保真紀(朝日新聞編集委員)     転載元:朝日新聞(2009年6月2日付夕刊)
1931年の満州事変以降、国策で中国・東北地方(旧満州)に送り込まれた開拓団の悲劇を真正面からとらえた記録映画「嗚呼 満蒙開拓団」が完成した。約27万人が送り込まれた開拓団は、ソ連軍の侵攻と敗戦の混乱で、約8万人が死亡、多くの中国残留日本人孤児らも生み出した。戦後60年余。ていねいに取材して歩いた映像だ。 /// 続きは本誌ご参照
中国細見:怨念超えた日本人追悼―「嗚呼 満蒙開拓団」42
藤野彰(読売新聞編集委員)     転載元:読売新聞(2009年6月12日付朝刊)
「『満蒙開拓団』って何だか知っている?」最近、ある大学で日中関係について講義した折、学生に質問してみた。300人の大教室はしいんとしたまま。ぼかんとした学生たちの顔を眺めつつ、いささか脱力感を覚えた。 /// 続きは本誌ご参照
嗚呼 満蒙開拓団―日本人の「その後」たどる43
毎日新聞     転載元:毎日新聞(2009年6月12日付夕刊)
羽田澄子監督のドキュメンタリーは、観客の世界を変える。世に知られない事実を掘り出し、あるいは社会的事象に新たな視点を提供することによって。この新作では、第二次世界大戦中に中国大陸に送り込まれた日本人開拓団のその後をたどる。歴史を振り返るだけでなく、彼らの悲劇は今に通じると訴える。 /// 続きは本誌ご参照
記録映画『嗚呼 満蒙開拓団』は問いかける―なぜ、この悲劇は起きたのか44
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2009年6月15日)
「行け満洲へ 拓け満洲を」「お国のため」という“美名”のもと、旧満洲、内蒙古に移民として送り込まれた「満蒙開拓団」は約27万人。そのうちの8万数千人が、ソ連参戦、日本の敗戦による逃避行のなかで、帰国できずに亡くなった。羽田澄子監督が「つくらなければならなかった運命をもった映画」と語る『嗚呼 満蒙開拓団』が全国上映に先駆けて6月13日から東京・神保町の岩波ホールでロードショー公開される。 /// 続きは本誌ご参照
「嗚呼 満蒙開拓団」―国家の無責任の極み45
秦早穂子(評論家)     転載元:朝日新聞(2009年6月19日付夕刊)
中国・ハルビンから170キロの街方正は、かつて関東軍の補給基地であった。この地に日本人公墓が建立されたのは63年。開拓民の生き残りで中国人と再婚した松田ちえさんが、多くの日本人遺骨を発見したのが始まりだ。 /// 続きは本誌ご参照
「嗚呼 満蒙開拓団」―27万人の悲劇 満州生まれ 羽田監督が証言つづる46
小田克也(東京新聞)     転載元:東京新聞(2009年6月23日付夕刊)
「嗚呼 満蒙開拓団」は、記録映画を手掛けてきた羽田澄子監督のドキュメンタリー。一九三一年の満州事変後、日本政府の国策で中国大睦の旧満州、内モンゴルに約二十七万人の開拓団員が入植させられたといわれるが、その悲劇を浮き彫りにする。 /// 続きは本誌ご参照
記録映画「嗚呼 満蒙開拓団」―国家による「大量棄民」 現代的視点から問う47
大日方悦夫(現代史研究者)     転載元:しんぶん赤旗(2009年6月24日付)
かつて日本が「満洲」と呼んだ中国東北地方。この地に刻まれた日本人開拓団の歴史。それは、戦後60年以上たった現在でも、いや現在だからこそ、もう一度問い直すべき問題である。映画「嗚呼 満蒙開拓団」は、「満洲移民とは何か」を現代的視点から問う意欲作である。 /// 続きは本誌ご参照
映画:羽田澄子監督―嗚呼 満蒙開拓団48
松田政男(映画評論家)     転載元:公明新聞(2009年6月19日付)
『薄墨の桜』や『痴呆性老人の世界』など代表作を想い浮かべると、記録映画監督の羽田澄子にはなにがしかスタティックなイメージが付きまとう。だがしかしいま、東京・神田神保町の岩波ホールで公開中の『嗚呼 満蒙開拓団』は、かつて「満州国」と呼ばれた中国東北部へ長駆撮影して、いわば知られざる昭和史の深部へ肉薄したダイナミックな記録だ。 /// 続きは本誌ご参照
ザ・コラム ポリティカにっぽん:変えちゃいけないものもある―政権選択の夏48
早野透(本社コラムニスト)     転載元:朝日新聞(2009年7月30日付朝刊)
また、戦争の記憶がよみがえる夏が来た。あわただしく1年をすごしていても、夏がくれば、戦争のことを思い出す。 /// 続きは本誌ご参照
映画時評:戦争の真実と善意の危うさ―「嗚呼 満蒙開拓団」「真夏のオリオン」49
山田和夫(映画評論家)     転載元:しんぶん赤旗(2009年7月1日付)
羽田澄子監督(1926~)は旧満州(中国東北部)に生まれ、48年に引き揚げてきた。戦後女性映画人の先駆者として、多くのすぐれた記録映画を制作したが、彼女は旧満州の内陸部で起きていたことをほとんど知らなかった。2002年、中国残留孤児の国家賠償請求訴訟がはじまり、「満蒙開拓団」の悲劇に大きな関心をもち、長編記録映画「嗚呼 満蒙開拓団」をつくった。 /// 続きは本誌ご参照
リレーエッセイ シネマにくびたけ:当事者が語る悲劇の史実―嗚呼 満蒙開拓団50
栗山洋四(シネフォーラムつちうら)     転載元:常陽新聞(2009年7月12日付)
昭和初頭、世界恐慌に加えて大飢饉が農民たちを襲った。山間の猫の額のような田畑で貧困にあえいでいた小作農の心をくすぐったのは「大陸に渡って広大な土地持ちになろう」との日本帝国政府の呼びかけだった。 /// 続きは本誌ご参照
嗚呼 満蒙開拓団51
川口恵子・向後友恵・田島正夫     転載元:岩波ホール制作「友Iwanami Hall 秋No.363」
私たちの生は、日々、歴史という大きな物語の渦に巻き込まれてゆく。渦中の只中にある人間は声を上げる術もなく、目の前の過酷な現実と闘うことに追われ、生を費やさざるを得ない。そうして無数の人々の生の現実が、歳月と共に忘れさられ、国家の歴史の背後に消える。しかし、ひとたび埋もれた民衆史を掘り起こそうとする時、文献以上に力強く「真実」を語るのは、歴史を生きた人々の「声」にほかならない。 /// 続きは本誌ご参照
中国は私を忘れていなかった―元残留孤児・池田さん 60年式典出席54
西村大輔(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2009年10月2日付)
中国・北京で1日に開かれた建国60 周年の式典に、中国残留孤児国家賠償請求訴訟の原告団を率いた池田澄江さん(65)が招かれた。希望を胸に帰国した祖国日本で冷遇された池田さんは、華やかなパレードを見て涙を落とした。「中国は私を忘れていなかった」 /// 続きは本誌ご参照
歴史証言の鮮度と賞味期限一『嗚呼 満蒙開拓団』の場合55
奥村正雄
昨年10月19日、東京・青山のウィメンズ・プラザで開かれた第21回東京国際女性映画祭でこの映画『嗚呼 満蒙開拓団』(羽田澄子監督)が初めて公開された。長蛇の列ができ、入場できない人も大勢出た。当日、その初公開の直前まで、会場では、まもなく観客を迎える暗い客席に陣取って、スタッフはスクリーンに映し出されるシーンを、固唾を呑んで見守っていた。最後のチェックだった。この時、私は最後に映し出された一行の、無言の白抜きの文字を見て驚いた。 /// 続きは本誌ご参照
中国東北地方について―旧「満州国」に暮らして63
金倉美佐恵
私が方正友好交流の会を知ったのは、当会報誌第7号に紹介されていた「草の根・人間の安全保障無償資金協力」の事前調査で方正県を訪れたことがきっかけであった。06年秋~09年春にかけて、私は在藩陽日本国総領事館において「草の根・人間の安全保障無償資金協力」外部委嘱員として案件監理等に従事しており、総領事館より方正県におけるプロジェクトの事前調査も委託され、方正県へ行く機会をいただいたのである。援助に対する考え方において、当会報誌を手に取られた方々とは異なる部分もあるかと思うが、最後までお読みいただければ幸甚である。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓平和記念館」の建設実現を目指して―満蒙開拓に係わるいくつかの想い66
寺沢秀文(「満蒙開拓平和記念館」事業準備会事務局長)
現在、長野県南部の下伊那郡阿智村にて建設計画が進められている「満蒙開拓平和記念館」構想について、まずもって方正友好交流の会会員の皆様並びに関係各位等始め全国各地からお寄せ頂いているご寄付及び様々なご支援等に対し、この誌上をお借りして厚く御礼を申し上げます。 /// 続きは本誌ご参照
特集「歴史検証の旅」に寄せて74
大類善啓
昨年、「友好の原点を歩く旅」を企画したところ好評だった。北京に3年ほど駐在経験ある経済団体にいた人も、「あまり東北には縁がない。ましてハルピン郊外の方正県には行ったことがない。ぜひ方正訪問の旅を」という要望があって企画した旅だった。 /// 続きは本誌ご参照
感傷旅行の記75
師岡武男
旧満州への旅は、私にとっては「感傷旅行」の色合いを帯びざるを得ないだろうと、はじめから意識していた。それは私の年齢(83歳)と、旧満州との関わりからだ。 /// 続きは本誌ご参照
物見遊山でない旅78
矢島敬二
中学3年で敗戦の日をソウルで迎えたわたしは小学校、中学校の修学旅行に無縁であった。そして中学で行われた団体の移動では「お前たちこれは物見遊山ではないぞ」という軍事教官の言莱をかならず耳にした。後期高齢者になってからの地域の友人とのバス旅行はすべて物見遊山で、日程はきついが確かに気楽である。こういう旅と比べると今回の「歴史検証の旅」はまさに「物見遊山でない」旅であった。日程も検証内容も厳しかった。 /// 続きは本誌ご参照
満州開拓団と居留日本人の悲劇の跡を巡る旅81
酒井旭
今回の旅行は、戦前、小学校入学前から中学2年生まで住んでいた佳木斯の街や、昭和20年に3か月ほど勤労奉仕に行っていた弥栄村開拓団の跡地を訪ねるというので参加しましたが、内容の濃い、考えさせられることの多い“学びの旅”でした。 /// 続きは本誌ご参照
私には亡き母とこの地で亡くなられた満洲開拓団員への鎮魂の旅でした85
宮下春男
旅行募集のテーマに躊躇しながらも、示されたルートと専用車で各地を巡るとの案内を見て、またどんな方が参加されるのか見当も付きませんでしたが、私自身はこれらの地で亡くなられた多くの満洲開拓団員などの方々への鎮魂の旅と決め応募、参加しました。 /// 続きは本誌ご参照
ハルビン郊外の深い爪痕92
高村壽一
シベリア鉄道は遠くはるかモスクワに通じている。その路線の中国最北の大都会が黒竜江省の省都である哈爾浜(ハルビン)である。人口九百七十五万人。夏の温度は三十度、冬は逆にマイナス三十度になる。しかし、人々の顔は経済成長のせいか明るい。帝政ロシア時代の欧州風建築を観て歩くのも一興だが、観光客が集まるのは、冬の一大イベント氷雪祭りだ。中央大街(キタイスカヤ)は一年中遅くまで人々でにぎわう。ビール消費量はミュンヘン、モスクワに次いでハルビンが世界第三位という。クルマのラッシュ緩和のために目下地下鉄を建設中で、活気に溢れている。 /// 続きは本誌ご参照
旅後雑感93
服部健治
正直言って、今回の旅行団に参加するにあたっては当初躊躇があった。なぜなら仰々しくも「北東アジアの未来を展望する」と銘打っており、そんな大それた気負いは微塵もなかったからだ。ただ、以前から関心があり、調査もしていた中国と周辺諸国との辺境貿易、その一例である北朝鮮国境と接する延吉朝鮮族自治区(18年前に訪間したことがある)と中露国境の綏芬河の現場に行けることにまず興味がそそられた。 /// 続きは本誌ご参照
ソ連軍の満州侵攻は8月7日!?96
高橋健男
「近現代の歴史検証と北東アジアの未来を展望する旅」の第4日目、旧東満の綏芬河中ロ国境と旧関東軍の東寧地下要塞を訪れた。国境警備の建物、陸路国境を越えるトラックやバスの諸検査、多くの兵士の巡回(監視)、国境ゲート、そしてはるか遠くの頂まで続く国境線を挟む樹木伐採の3、40メートル幅の緩衝地帯の帯は、そのいずれもが私の日常性を越えるものであった。はるか遠くの頂に小さく、中国側監視塔が見える。 /// 続きは本誌ご参照
今、生かされている者の使命は?―「近現代の歴史検証と北東アジアの末来を展望する旅」参加して100
打田茉莉
昨夏のヨルダン行きは、何年か前からの日本聖公会東京教区と中東聖公会エルサレム教区との交流の結果、アンマンにイスラエルはじめ周辺国からパレスチナ人クリスチャンが集ってイスラエル占領下の彼女たちの現状を知るというもので、以前から予定していたことだった。 /// 続きは本誌ご参照
はなしの歳時記:水稲王の碑102
高村壽一     転載元:全国信用金庫協会『信用金庫』(2009年10月号)
稲の原産地は東インド、東南アジアだ。日本には縄文時代末期に中国から伝播したことには異論がない。ただ、その経路については中国南部→琉球諸島→南九州、中国人陸→朝鮮半島→北九州などの説があり、近年の研究では、長江河口→対馬海流→北九州ルートも有力だという。1世紀初めには近畿地方に稲田があり、その後北上したが、北海道で稲作が本格化するのは明治時代に人ってからである。 /// 続きは本誌ご参照
はなしの歳時記:ハルビン郊外の深い爪痕103
高村壽一     転載元:全国信用金庫協会『信用金庫』(2009年11月号)
シベリア鉄道は遠くはるかモスクワに通じている。その路線の中国最北の大都会が、黒竜江省の省都である哈爾浜である。人口975万人。夏の温度は30度、冬は逆にマイナス30度になる。しかし、人々の顔は経済成長のせいか明るい。 /// 続きは本誌ご参照
中国と私(2009年5月30日・方正友好交流の会・第5回総会での記念講演)104
武吉次朗
《解説》武吉次朗さんは日本の敗戦後、中国に留用され1958年に帰国。その後は日中交流の最前線で活躍され、毛沢東や周恩来に謁見された体験を持つ方である。今まで断片的に周恩来に関する体験談をお聞きしたことはあるが、敗戦前後の貴重な体験は聞いていない。そこでそのあたりをじっくりとお聞きしたいと思い総会で講演をお願いした。本稿はその時の講演記録である。(大類) /// 続きは本誌ご参照
残留孤児 不信解く旅―日本での苦境に理解進む115
大久保真紀(朝日新聞編集委員)     転載元:朝日新聞(2009年11月25日付朝刊)
全国に暮らす中国残留日本人孤児45人が「中国人民に養育の恩を感謝する中国訪問団」を組織し、11月初めに訪中した。命を救い、育ててもらった感謝の気持ちを伝えるためのこうした旅を、孤児らが自ら企画するのは初めて。誤解に基づく中傷も受けてきた孤児たちは悲願を果たし、「これから本当の日中友好に役立ちたい」と誓い合った。 /// 続きは本誌ご参照
この人:裁判闘争の記録を出版した中国残留孤児の“厳父” 菅原幸助さん115
白井慎一     転載元:東京新聞(2009年8月20日付朝刊)
中国残紹孤児には「菅原」姓が少なくない。しかし、血縁関係はない。「本の戸籟を作ったとき『先生の名字を下さい』と言れ、いいよって言ったら、ドンドン増えちゃって」 /// 続きは本誌ご参照
大きな愛情で日本人孤児を育てた中国に残る養父母へ 感謝の義援金募集 趣意書116
霜下隆俊(財団法人兵庫県海外同友会理事長)
(財)兵庫県海外同友会では日本人孤児への日本語教室の開催や就職の世話、生活相談コーナーの開設など、長年に渡って支援活動を続けてきましたが、戦後64年がたち、ここ数年ば帰国する孤児たちはわずかとなっております。 /// 続きは本誌ご参照
もうひとつの“抱台山”117
高橋健男
方正であれ新京、奉天、ハルビン、チチハルなどの都市部であれ、そこに避難集結した開拓団避難民を主とした難民は、行き着いたそれぞれの地で自分たちの力で住むところを探し、食糧を確保し、収容所生活を始めることができたわけではない。彼らはおしなべて疲労困態の上に身一つ、無ー物に近かった。 /// 続きは本誌ご参照
大阪にもある「満蒙開拓団」碑121
中務武志
この夏公開された映画『鳴呼 満蒙開拓団』は、各地で大きな反響を呼びました。開拓団で辛酸をなめた人たちに取材した、羽田澄子監督による記録映画で、2008年キネマ旬報文化映画ベストテン第1位などを得ています。 /// 続きは本誌ご参照
方正県設立100周年記念祝賀行事に参加して122
大類善啓
巻頭の「政府の公募支援」でも触れたが、今年は方正県が設立されてから100周年という記念すべき年である。昨夏方正を訪れた時、外事僑務弁公室の李宝元さんや張紅麗さんから、来年は方正県が設立してからちょうど100年経つので記念フォーラムをやる。招聘状を送るからぜひ出席してほしいとのことだった。 /// 続きは本誌ご参照
忘れ難き歳月125
福地正博
《解説》福地正博(ふくち・まさひろ、中国名:王久徳)さんは、いわゆる「残留孤児」である。1939年、青森県生まれ、1942年4歳の時、両親と共に開拓団として旧満州へ渡った。1945年7月、父が現地召集され、母、2人の弟、妹と暮らすも、8月の日本の敗戦で逃げる途中に弟、妹が病死、母も伝染病で亡くした。1946年3月、福地さんは病気で倒れているところを中国人夫婦に引き取られ成長した。(大類) /// 続きは本誌ご参照
日本に残留し定住したある中国人―在日華僑・韓慶愈が生きた「もう一つの昭和史」(第5回)135
大類善啓
《前回までの粗筋》多忙と「遊び心」?が重なり、第4回(会報6号)で本稿が止まっていたところ、読者から、その後の続きを読みたいという声が入った。ということで、中国が改革開放路線を取って軌道に乗る段階まで書いていきたいと思う。新たな読者のために前回までの粗筋を紹介しておく。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い142
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
書籍案内143
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『中国残留日本人という経験「満洲」と日本を間い続けて(蘭信三編)』、『風雪に耐えて咲く寒梅のように二つの祖国の狭間に生きて(可児カ一郎著)』、『赤い夕陽の満州にて 「昭和」への旅(高橋健男著)』、『満州開拓民悲史一碑が、土塊が、語りかける(高橋健男著)』、『霜島フクさんの満州―満蒙開拓団、終戦、その後(大和清一著)【日本中国友好新聞(2009年10月25日付)より転載】』、『黒龍江への旅(高野悦子著)【日本と中国(2009年9月5日付)より転載】』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記145
大類善啓
映画『鳴呼満蒙開拓団』は今も全国で上映活動が続いている。この映画によって方正日本人公墓の存在もかなり知れ渡ってきた。これもほんとうに羽田澄子さんのお陰である。羽田さん、そしてプロデューサーの工藤充さんには謹んで御礼を申し上げます。 /// 続きは本誌ご参照

  第8号(2009年5月発行) 第8号(2009年5月発行)表紙

「戦争をやめる」という選択肢があるとは思わなかった!―羽田澄子さん、大連での敗戦前後を語る1
大類善啓(聞き手・文)
記録映画作家である羽田澄子さんのお名前は、もちろん以前から知ってはいた。が、正直に告白すれば、作品を見ているのは今回の『鳴呼 満蒙開拓団』以外では、『終りよければすべてよし』だけである。それも、羽田さんが方正日本人公墓に関心を持っていただいているということがわかり、これは見なければという思いで上映中の岩波ホールに駆け込んだ。 /// 続きは本誌ご参照
映画「鳴呼 満蒙開拓団」を作って19
羽田澄子(記録映画作家)     転載元:日本中国文化交流協会『日中文化交流』(2009年3月1日)
これは昨年(2008)仕上げた映画ですが、この映画を作ることが出来て、私は大きな重い宿題をひとつ果たしたような気持ちです。私は旧満州、大連生まれ。父は女学校の教師でした。父の転勤で一時日本に帰りましたが、転勤で再び満州に戻り、旅順と大連で暮し、日本に引揚げて来たのは戦後3年経った1948年です。 /// 続きは本誌ご参照
映画「嗚呼 満蒙開拓団」上映について20
株式会社自由工房
私どもは、ドキュメンタリー映両「嗚呼 満蒙開拓団」(羽田澄子演出)を製作いたしました。戦後60年以上経った現在の日本では、遠い昔のこととして忘れ去られているかのような「満蒙」という言葉。しかし、満蒙開柘団の悲劇は、今に続く間題です。 /// 続きは本誌ご参照
私の知る羽田澄子さん23
佐渡京子
私が羽田さんの演出助手として働いていたのは1999年~2001年までの3年間、作品では、「続・住民の選択した町の福祉」、「平塚らいてうの生涯」の2本に関わった。子供の頃から映画が好きで、漠然と映画の仕事につきたいと思っていた私は、大学卒業の年にたまたま観た「住民の選択した町の福祉」がきっかけで、どうしても羽田さんと仕事がしたいと思い、羽田さんと同じ学校を卒業したというだけで、強引に演出助手にしていただいた。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓建立史の影に隠れた部分は…26
可児カ一郎
泰阜(長野県)中川(埼玉県)七虎力(岡山県)読書(長野県現在南木曽町)、四つの開拓団約3000人の集団が行軍開始して二日目、八虎力と言う河の中州を通過中に襲撃を受けて、暴徒と白兵戦をまじえ、次々と凶弾に倒れて行く同胞達の血で染まった中州では、怪我や病気で動けなくなり、荷車に乗ってここまで来たが車は移動出来なくなり、肉親を置き去りにするしかなかった人達や、父親が現地召集され母親に手を引かれて行動して来たが戦闘で往きはぐれた子供達が、かあちゃん母ちゃんと泣き叫びながら隊に着いて行動していた。 /// 続きは本誌ご参照
『鳴呼 満蒙開拓団』をぜひDVDに!31
可児力一郎     転載元:木曾ホームニュース(2008年10月18日付)
「今年の夏、南木曽町天白にある満州開拓移民殉難者の慰霊碑の清掃にはわずか7人が集まっただけ。あの悲惨な歴史が風化していくのは堪えられません」 /// 続きは本誌ご参照
孫たちへ言い残すこと―ユウちゃんとコウちゃんへ32
酒井武史
ここには、オジイチャンがこどものときに、自分と自分の家族に起こったことが書いてある。きみたちはいま5歳と3歳半だから、この文章を読んで理解できるようになるのは、あと数年は先になるだろう。その時になっても、オジイチャンはたぶん元気でいるかもしれない。でも、オジイチャンはもう70歳、いつなにが起きても不思議はない。だから、いまのうちに誓き残しておこうと思う。 /// 続きは本誌ご参照
「帰ってきたおばあさん」を演じて一私が辿った道36
神川さち子
石金楷さまお久しぶりです。お変わりございませんか?今年はハルピンの町も暖冬だったとか。そのため“氷祭り”の賑わいは今ひとつでしたかしら。昨年10月28日ハルピン市龍江劇場での私の一人芝居「帰ってきたおばあさん」の満場の中で嗚り止まなかった拍手が、今も鮮やかに耳に残っています。石さまの粉骨砕身のお働きで当日、集まられた養父栂さん残留孤児そのご家族のみなさんとの交流会&舞台観劇のひと時は、平和の旅に参加したメンバーにも終生忘れることが出来なかったようです。 /// 続きは本誌ご参照
中国で「残留婦人」一人芝居―祖国への思い 演じて知る39
吉良敦岐(読売新聞)     転載元:読売新聞(2008年11月7日付)
中国残留婦人をテーマに一人芝居を続けている調布市富士見町の女優神田さち子さん(64)が、10月下旬の中国での初公演を終えて帰国した。会場は残留孤児やその養父母、大学生らで満員となり、祖国の地を踏みたいという孤児の思いに、じかに触れる機会もあった。神田さんは「芝居を見てもらっただけでなく、孤児らと直接話ができたのは大きな収穫。もう一度、中国で演じてみたい」と気持ちを新たにしている。 /// 続きは本誌ご参照
女優・神田さん 中国公演を実現―残留婦人の半生を熱演「語り継ぐのが天命」40
西日本新聞     転載元:西日本新聞(2008年12月29日付)
中国残留婦人の半生を描いた一人芝居「帰ってきたおばあさん」を十三年間演じ続けている福岡県甘木市(現朝倉市)出身の女優神田さち子さん(六四)=東京都在住=が、長年の夢だった中国公演を黒竜江省ハルビン市で、今秋実現させた。舞台に自らの境遇を重ね嗚咽する残留孤児に思いを寄せ、初めて聞いた中国人養父母たちの言葉を胸に刻んだ旅。神田さんは「あの時代の愚かさ」を訴えていく決意を新たにした。 /// 続きは本誌ご参照
漫画家にはなぜか旧満州出身が多い―神田さち子さんを支援するちばてつやさんらが南京で展示会41
大類善啓
右の記事は、2009年4月5日の朝日新聞に掲載された記事である。ちばてつやさん、森田拳次さんのお二人とも、旧満州出身者だ。ちばさんは、神田さち子さんの「帰ってきたおばあさん」を支援されている。2007年9月、銀座の博品館劇場での上演では私も見に行ったがその日、ちばさんも観劇されていた。ロビーで私もちばさんと少しお話し、方正のことをお話した。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓と世代友好碑42
武吉次朗
中国の杭州市西湖湖畔の柳浪聞鶯公園に、「日中不再戦」と書かれた石碑が建っている。1962年に当時岐阜市長だった松尾吾策氏が揮毫したものだ。中国侵略戦争期間、岐阜にあった旧陸軍歩兵第68連隊は、慮溝橋事変の翌月から戦争に参加した。その深い反省に立ち日中友好の誓いとして建立された、という経緯がある。他方、岐阜市の岐阜公園には日中友好庭園があり、王子達杭州市長(1962年当時)が揮毫した「中日両国人民世世代代友好下去」(中日両国人民は世世代代友好的にしていこう)の石碑が建っている。二つの碑文は1962年10月に交換され、翌年、両地にそれぞれ建立された。 /// 続きは本誌ご参照
方正県政府より緊急支援の呼びかけ44
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)
方正県人民政府外事弁公室主任の王偉新さんより、上記のような手紙が4月27日にFAXで届いた。我々の会は、多くの日本人に方正の公墓の存在を伝えることが使命だと考えている。本来、日本人公墓の維持、修理などについては日本政府が関わるべきことであると思っている。公墓の現在の状況については、これから関係者たちと話していきたいと考えているが、会としては方正県人民政府からの要請もあり、10万円を送ることにした。 /// 続きは本誌ご参照
班忠義さんと方正45
奥村正雄
班忠義さんといえば、いま日本の中国侵略戦争と性暴力に対する最も先鋭的な追及者として注目を浴びている映像作家である。しかし私が班さんに初めて会った20年前、彼はその一作で鮮烈なデビューを飾って間もない、気鋭のノンフィクション作家だった。1958年中国遼寧省撫順市に生まれた彼は黒竜江省大学日本語科を卒業。中国残留婦人の人生を描いた『曹おばさんの海』で第7回朝日ジャーナル・ノンフィクション大賞を受賞したばかりだった。私とは一面識もないその彼から、ある日突然電話がかかってきた。「会いたい」という。 /// 続きは本誌ご参照
前史と方正交流の歳月47
林郁
「趙尚志将軍の頭がついに見つかりました。ついては『趙尚志伝』の映画を作り、テレビでも中央電視台から全国放送しますので、お会いして話したい」という手紙を2005年2月に中国の映画監督峻厳氏から受け取り、中国東北人のねばり強さに私は改めて感じ入った。そして、ほっとした。1987年新年、単身で中ソ国境を訪ねたとき、最初にハルビンでお会いした李敏女士から「将軍の首探し」を頼まれてから18年。その年月が一気に凝縮して感じられた。 /// 続きは本誌ご参照
日中友好よ、永遠に50
吉川春子
日本の侵略戦争の傷跡は中国にとってはもちろんの事、日本人民にとっても痛ましいものですが、満蒙開拓団の悲劇は私はとても他人事とは思えません。私は、いわゆる残留孤児といわれる方々と同世代なのです。そして私が3歳から小学校卒業まで過ごした長野県は、満蒙開拓団として全国一、大勢の県民を送り出し、その半数の人々は再び祖国の地を踏むことはできなかったのです。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓移民について想う:坂本弘子著『父の足跡―満州の回想』と可児力一郎著『風雪に耐えて咲く寒梅のように―二つの祖の狭間に生きて』を読んで53
藤井正義
最近読んだ旧満州に関する二冊の本を紹介する。一つは坂本弘子著、「父の足跡一満州の回想」であり、もう一つは、可児カ一郎著、「風雪に耐えて咲く寒梅のように―二つの祖国の狭間に生きて」である。 /// 続きは本誌ご参照
私と中国:中国の「日本人公墓」訪問を呼びかける56
今村春江(中国帰国者3世、方正友好交流の会理事)     転載元:日中友好新聞(2009年2月15日付)
中国ハルビン市郊外の方正県に、日本の「満蒙開拓政策」で犠牲となった5000人近い人びとが眠る「日本人公墓」が存在していることは広く知られていません。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓と映画「嗚呼 満蒙開拓団」56
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)     転載元:日中友好新聞(2009年5月5日付)
1945年夏、旧「満州」にいた多くの開拓民たちは、ソ連の参戦と日本の敗戦によって逃げ惑い、やっと辿り着いた先がハルビン市から約180キロ東にある方正だ。 /// 続きは本誌ご参照
「方正県」との出会いとその関わり―ある一つの方正支援活動報告57
大類善啓     転載元:風雪に耐えた「中国の日本人公墓」ハルビン市方正県物語(2004年4月発行)
中国東北地方において、日本とひときわ縁が深く、いわば日中友好の魂の地としての方正県に対し、多様な支援を行おうとして結成された「方正地区支援交流の会」はその後、いくつか名称を変えて継続した。この会も、誕生経緯を翻って見れば実にドラマティックな紆余曲折の歴史があった。本稿は、当初から末席の一人として会に関わった私のささやかな思い出であり、同時に―つの「歴史回顧」である。後に続く人々のための参考になれば幸いである。 /// 続きは本誌ご参照
方正地区日本人公墓の由来63
王鳳山(訳:森山誠之)     転載元:日中友好協会『日本と中国』 その底辺を翔けた70年(2003年4月発行)
歴史は一面の鏡である。歴史をもって興隆を知り、善悪を明かし、得失を論究する。本世紀の初めから40年代の半ばまで、日本軍国主義は侵略の魔手を中国に伸ばし、中国人民に重大な災難をもたらし、長い中日関係の歴史に点々と血痕の1ページを留めた。このほぼ半世紀来、平和の鐘声は世界の大地を震憾し、平和の慈雨は中日両国人民の心田をうるおした。今この1篇を草する唯一の目的は歴史の悲劇を繰り返させず、中日両国人民が世々代々友好を継続させることにある。 /// 続きは本誌ご参照
中国・交流と歴史検証の旅(第6回)67
方正友好交流の会
7月29日(水)新潟空港ロビーに集合 /// 続きは本誌ご参照
近現代の歴史検証と北東アジアの未来を展望する旅―普通の旅行ガイドでは出てこない旧満州の奥地ヘ68
社団法人日中科学技術文化センター
8月28日(金)成田発(CZ630) /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い69
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
書籍案内70
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『天を恨み 地を呪いました―中国方正の日本人公墓を守った人々(奥村正雄編著)』、『風雪に耐えて咲く寒梅のように―二つの祖国の狭間に生きて(可児カ一郎著)』、『父の足跡―満州の回想(坂本弘子著)』、『二つの祖国 ある中国残留孤児の証言(北澤博史著)』、『赤い夕陽の満州にて 「昭和」への旅(高橋健男著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記71
大類善啓
先日、大阪から会員の山本義輝さんが訪ねて来られた。山本さんは農業機械の指導で、黒竜江省に3度行かれた方だ。今でも阪南市日中友好協会でご活躍だ。中国の農業機械化の発展のためにと、55年余りの間、農業機械の試験や研究、製品聞発、普及に役立ててきた図書や発表論文などを整理して、中国農業大学の図書館に寄贈された。 /// 続きは本誌ご参照

  第7号(2008年12月発行) 第7号(2008年12月発行)表紙

私にとっての「方正」1
渡辺一枝
「方正」という地名を初めて聞いたのは、いつどこでだったろう。哈爾濱の外僑養老院を訪ねた時だったろうか、あるいは哈爾濱から佳木斯に足を延ばした時か、それとも訪日中の“中国残留孤児”の面会に代々木のオリンピックセンターに行った時だったろうか。1945年1月に哈爾濱で生れ、翌年9月に母に背負われて引き揚げてきた私だが、母の語った“満州”の思い出話に、方正の名は出なかった。幼い頃の私は母の思い出話の“ハルピン”に異国情緒溢れる情最を想い浮かべ、スンガリーが流れ、キタイスカヤ、モデルンなどと片仮名で表示される地名のある地で生まれたことを、誇らしく感じていた。 /// 続きは本誌ご参照
羽田澄子さんの映画『鳴呼 満蒙開拓団』と日本政府の方正支援について3
大類善啓
当会の会報で方正日本人公墓の存在を知った記録映画監督の羽田澄子さんは、「残留孤児」の取材、方正への2度のロケと、精力的に取材を行っていたが、このほど『鳴呼 満蒙開拓団』(2時間の記録映画)を完成させた。その初公開が、第21回東京国際女性映画祭の初日、10月19日(日)午後12時からあった。 /// 続きは本誌ご参照
記録映画『嗚呼 満蒙開拓団』(羽田澄子監督)の撮影現場から8
奥村正雄
ハルピンから方正へ高速道路で185キロ、3時間近いマイクロバスでの移動。この間、トイレ事情はどうなのか、羽田さんは方正ロケを決断する前、「私は生まれつき腸が弱くて…」と言って、この不安で方正行きを迷ったようだった。が、訪中を決断し、いま見渡す限りとうもろこし畑のつづく広野を疾走するバスが、途中、ガソリンスタンドでトイレ休憩しても、彼女はその不安がウソだったように、バスから降りて一息入れている同行者にインタビューし、カメラを向けさせ続けた。 /// 続きは本誌ご参照
大好評のハルピン公演―神田さち子さんのひとり芝居『帰ってきたおばあさん』12
石金楷
2008年10月26日、日本の「神田さち子中国の旅」一行15人がハルピンを訪れ、残留孤児の養父母および今も中国に残る残留孤児のために慰間公演を行い、また黒竜江省竜江劇場でも一般公演を行い、広く各界から好評を博した。 /// 続きは本誌ご参照
日の丸は踏まれて―慰安婦は私の家から出て行った16
飯牟礼一臣
先日、大類善啓さんから『星火方正』第6号が送られてきた。「方生」?「ほうせい」なのか「ほうまさ」なのか、正しい読み方すら知らなかった私に何か満州の想い出を書いてみないかとのお誘いであった。一体どんな本なのだろうかと、ページをめくって驚いた。ー読三嘆擱く能わず。想いのたけを込めた文章に圧倒された。日本人公墓の存在も初めて知った。私は開拓団員ではない。投稿する資格の無い人間だと思ったが、開拓団の悲惨な状況はこの目で見てきた。ったない文章だが、私が小学生の時に体験した一部をしたためてみることにした。お読み頂ければ幸いである。 /// 続きは本誌ご参照
あびこ舞台が「声なき氷像」―戦争の悲劇を劇化 10日アミュゼ柏20
柏市民新聞     転載元:柏市民新聞(2008年8月8日付)
「戦争により一番被害を受けるのは民なのです」―。市民劇団「あびこ舞台」(飯牟礼一臣代表)は10日、旧満州にいた日本人開拓団の悲劇を描いた「声なき氷像」をアミュゼ柏で公演する。終戦記念の特別公演で、飯牟礼代表は「公演を通し戦争の悲惨さを考えるきっかけになれば」と話している。 /// 続きは本誌ご参照
明日へ 63年目に聞く:「満州」と向き合い続ける―残留孤児支援する元開拓総局官吏・大迫勝弘さん21
永井啓子(朝日新聞)     転載元:朝日新聞東京本社版千莱地区(2008年8月14日付)
習志野市の大迫勝弘さん(88)は月2回ほど、千葉市の県中国帰国者自立研修センターに出向く。中国残留孤児の帰国後の生活を支援する同センターで20年近く、相蕨などに携わってきた。 /// 続きは本誌ご参照
方正に集結した開拓団―長野・小県郷開拓団と大羅勒蜜九州村開拓団の記縁22
高橋健男
2008年度「方正友好交流の会」総会にて年度の活動のひとつとして「敗戦時、各地のさまざまな開拓団から方正へ逃れた人たちの状況を、可能なところまで整理する」ことが示された。私は総会の1ヵ月後に『満州開拓民悲史』(批評社)を公刊したが、その中で「方正へハルビンヘ」「方正にたどりついた開拓団」「士塊の中の白骨と中国唯一の『日本人公墓』」の章立てをし、方正に集結・越冬したいくつかの開拓団のことと中日友好園林のことを詳述した。 /// 続きは本誌ご参照
知られざる日中関係28
岩噌弘三
(社)日中科学技術文化センターと方正友好交流の会による時宜を得た企画のお蔭で、中国黒龍江省のハルピン東方約18Okmにあり、道路標識まで日本ソックリの高速道路で結ばれた方正県にある「日本人公墓」を、7月に訪れた。「百万戸計画」の国策で満州に移住された開拓民は敗戦で悲惨な境遇に追いやられたことは、よく知られている。その内、約五千人が、零下40度、飢え、栄養失調、発疹チフスなどで、方正で亡くなられた。それから数年たち、累々たる白骨の山を見た残留婦人が埋葬したいとの願いを政府に出した。 /// 続きは本誌ご参照
友好の原点を歩く旅に参加して31
石橋実
平成17年7月7日の夕刊読売で方正の日本人公墓の記事を読み、中国政府のとった人道的な行為に心をうたれました。そして、少年の頃「満洲国に関東軍」「大睦浪人」「特急亜細亜号」「満蒙開拓団」「大陸の花嫁」など通りーペんの知識として頭に入れ、戦後は「舞鶴港の引揚船」「残留孤児調査」「残留婦人」などを、新聞記事やテレビニュースで頭に入れていたにすぎなかった私の頭を、旧満洲国でどんなことがあったのかに向けさせました。 /// 続きは本誌ご参照
確認できた侵略の事実32
鵜澤弘
戦後65年を迎えた今日、戦争を知らない世代が多くなり、また記憶も風化しつつあります。しかし、今回の「友好の原点を歩く旅」に参加させて頂き、日本帝国主義の生々しい侵略の事実を確認することができました。方正県を表敬訪問したあと、日本人公墓をお参りしました。残留婦人の皆さんの働きかけにより1963年未だ国交回復のない時期にもかかわらず、方正県人民政府により「日本人入植者も、中国人と同じ軍国主義の犠牲者だ」として、遺骨を集めて埋葬し墓石を建てて頂いたとのことです。 /// 続きは本誌ご参照
友好の原点を歩く旅一検証と謝罪と誓いと35
藤井正義
2008年7月9日から7月13日までの5日間、「社団法人日中科学技術文化センター」と「方正友好交流の会」の共催で「友好の原点を歩く旅」と銘打つ訪中団が結成され、中国東北地方(旧満州)の各地を訪間した。関連する文章は多くの参加者から本号に寄稿されているが、私もその一員として若干の言葉を添えさせていただく。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州を訪ねて38
小関光二
平成20年7月、方正友好交流の会からのお誘いを受け、4泊5日の日程で、旧満州の旅に女房と参加した。私の家族には、直接、旧満州と係わりはありませんでしたが、今日の日本と日本を取り巻く社会の状況を考えると、どうしても、明治維新から終戦までの出来事を歴史的に整理し、今後日本の進むべき方向やあるべき姿を自分なりに考えてみたいと思っておりました。旧満州で起こったことは、今日でもまだ生々しい過去のことだとして、歴史研究対象としてあまり扱われないように思う。早く、社会学や歴史学で学者先生方が堂々と研究し発表してもらいたいと思っている。このことが、国民に議論が広がり、世界平和に貢献できる日本の姿を見出す基礎になるのではないでしょうか。 /// 続きは本誌ご参照
平和を願って39
小関征子
初めて二人の海外旅行が今回の訪中でした。私は何時か北京へ行きたいと思っていたので、参加させてもらいました。大連飛行場での第一歩の感想は、夫が接している中国人の方達とは全く異質なものでした。しかし、旅行が始まって方々見学するうち、私の心に変化が起き、歴史的に正しく捉えての謝罪の気持ちが第一となりました。また街で会う男の子や大勢の人々に親しみと優しさを感じました。彼の地も今は秋、寒くなったでしょうとあの広い農地を思い出しています。 /// 続きは本誌ご参照
方正地区日本人公墓一友好の原点を歩く旅で考える40
西忠雄
7月の方正県は北国の夏空の下に、農閑期に入った田んぼが青々とした稲穂を伸ばし広がっている。松花江の南岸に広がるこの地域は、丘陵地帯に囲まれるように平地が広がり、彼方には低い山並みが連なっている。北国のさわやかな夏の空気に包まれた広がりは、かつて想像を絶する悲惨なドラマが繰り広げられ、人びとの数だけあったさまざまなエピソードの存在すら思わせないような静けさを保っている。 /// 続きは本誌ご参照
私と方正42
橋本消一
「橋本さん、方正へ行きたいやけんどおぉ、無理かなぁ」と、初めて「方正」という地名を聞いたのは、30年近く前の金沢でした。「方正へ行きたい人がたくさんおるんやけどおぉ」と訪ねて行った当時の石川県日中友好協会(正統)の事務所で、事務局長から是非とも行きたいと色々お話を伺いました。私の日中旅行社名古屋営業所勤務時代の頃でした。当時、北陸に事務所は無く名古屋営業所が北陸3県を担当していました。早速事務所へ帰り、「方正」のことを調べましたが、当時は末開放地区が多く「方正」も開放されていないため訪問することはできませんでした。「残念ですが今は末開放だから行けませんが、きっとそのうちいける様になりますよ」となぐさめの気持ちを込めながら、回答したことを昨日のように覚えています。 /// 続きは本誌ご参照
日中友好の旅に思う44
野田尚道
中国東北部を尋ねる旅を重ねることになったのは、日中国交三十周年の2002年7月、地元に住む元満蒙開拓団青少年義勇軍の一員であった長田末作氏の殉教者慰霊法要に同行したことが最初のきっかけである。 /// 続きは本誌ご参照
方正を訪ねて45
矢島由利
私にとって中国は遠かったが、かつて日本が“満洲”という国を造ったということに最近非常に興味を持った。5月に父と日中科学技術文化センター主催の、大連と瀋陽を訪れるツアーに参加した後、もう一つ方正へ行くツアーがあるという話を聞き、続けて旅をするのは贅沢だと思ったが滅多にない機会なので行くことにした。方正の地名はそのとき初めて知った。ツアー前にセンターの講浪会で井出孫六さんのお話を伺うことができた。40年前にハルピン駅で日本語を聞いたというエピソードや所謂“残留孤児”が帰国後、日本政府を相手に裁判を起こした話は非常に印象深かった。 /// 続きは本誌ご参照
前事不忘後事之師47
徳毛貴文
前事不忘後事之師(qianshibuwanghoushizhishi)。「過去のことを忘れなければ、将来の手本になる」「前の事を忘れず、後の戒めとする」といった意味だ。2008年7月9日から13日までの「友好の原点を歩く旅」に参加し、方正、撫順、瀋陽などを巡った。各地の戦跡に、この「前事不忘 後事之師」が大書されていた。「前事」を忘れるどころか、知る機会が乏しいのが今の時代だ。旅先で「見たこと」を正しく理解できているかどうかも疑問だが、思いつくまま、まとまりなく、すこしスケッチしてみたい。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓への思い52
木村直美(社団法人日中科学技術文化センター理事)     転載元:日中科学技術文化センター『きずな』(2008年10月)
私が初めてハルピン市方正県にある日本人公墓と中国養父母公墓の存在を知ったのは、「ハルピン市方正地区支援交流の会」の会長・故石井貫一氏のお手伝いを始めた平成6、7年のことである。 /// 続きは本誌ご参照
溥傑さんの瓢箪池52
大類善啓(社団法人日中科学技術文化センター理事・事務局長)
この6月に開いた第4回「方正友好交流の会」の総会で、珍しく若い女性がいたので気になっていたら、彼女が愛親覚羅溥傑とひろ夫人のお孫さんであることがわかった。 /// 続きは本誌ご参照
「友好の原点を歩く旅」<備忘録的旅行記>53
藤井正義
出張目的:ハルピン市方正県所在の「日本人公墓」と「中国人養父母の墓」他に墓参し、県要人との交流を行い、更には、撫順戦犯管理所など各種戦争記念館を訪ねて歴史認識を新たにすることにより日中友好交流に資する。出張期間:2008年7月9日から7月13日まで、5日間。訪中団体名称:「友好の原点を歩く旅」。主催:社団法人日中科学技術文化センター、方正友好交流の会。 /// 続きは本誌ご参照
日本の「友好の原点を歩く」訪中団、ハルビン市及び方正県と友好交流62
石金楷
2008年7月9日、日本の「方正友好交流の会」事務局長・大類善啓氏を団長とする「友好の原点を歩く」訪中団一行17名は、ハルビンに到着。ハルビン市日本残留孤児養父母連合会の熱烈な歓迎を受けて、空港の入り口前で記念写真を撮った。訪中団一行は午前中に日本を発って大連に到着し、その後乗り継いでハルビンに着いた。連合会秘薯長の私と残留婦人二世の牛世光は、連合会代表として空港に出向き日本の友人たちを迎えた。 /// 続きは本誌ご参照
周恩来に見る国際主義的精神64
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)     転載元:日中友好99人委員会依頼原稿
都心の大きい書店に行けば、嫌中感情や反中感情を煽るような書名の本が、溢れるように平積みされている。中国では江沢民指導による「愛国教育」の影響もあり、「9・18を忘れるな」、といった9・18歴史博物館の展示構成に見られるように、反日感情を醸成する雰囲気がまだ残っている。そういう状況を見て思い起こすのは、瑞瑞しい国際主義的な友愛精神が躍動していた1940年代から50年代にかけての、中国共産党指導部の思想と行動であり、とりわけ周恩来の役割である。 /// 続きは本誌ご参照
『満州開拓団・義勇隊関係史』編纂状況65
高橋健男
今、満州開拓団個々の詳細を知ろうとするときに第一に参照するのは、1966年に全国拓友協議会が編纂した『満洲開拓史』(1980年に復刊)であろう。満蒙同胞援護会編『満蒙終戦史』(河出書房新社、1962)が別の角度から開拓団や在満一般邦人の避難・引揚げを補完してくれる。基礎資料を参照したい向きには『満州移民関係資料集成』(不二出版、全40巻)、『海外引揚関係資料集成』(ゆまに書房、全33巻)、『満洲開拓叢書』(満洲移住協会、全10巻)、『満洲叢書』(図書刊行会、全7巻)などがある。 /// 続きは本誌ご参照
方正県等からの「中国帰国者」:子どもたちへの日本語支援―中国帰国子女教育のはじまり69
山田陽子
長野県下伊那郡に泰阜村という、人口わずか1960人ほど(2008年8月現在)の過疎村がある。この泰阜村は「満洲移民の村」(小林、1977)として知られている。1972年の日中国交正常化以降、泰阜村に帰ってきた中国残留孤児・残留婦人等の多数は、中国黒龍江省ハルビン市方正県からの帰国である。村は1930年代後半に旧満州へ開拓団として全村人口のおよそ3分の1近くの村民(約1,200人)を送出していた。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い76
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
読書・にいがたの一冊:満州―開拓民悲史(高橋健男著)77
奥村正雄(方正友好協会顧問)
前作の大著『赤い夕陽の満州にて―「昭和」への旅』(二〇〇六年)を総論とすれば、今度の新作はいわば各論である。国策によって旧満州に入植した開拓団二十七万人が敗戦時、ソ連軍の侵攻などで惨劇、餓死、凍死、避難逃亡に追い詰められた歴史については、これまでもおぴただしい数の証言や記録が公刊されてきた。しかし本書が読者をとらえて放さないのは、国内と中国で個々の関係者を訪ねて取材した、その生き生きとした臨場感だ。 /// 続きは本誌ご参照
書籍案内78
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『天を恨み地を呪いました一中国方正の日本人公墓を守った人々(奥村正雄編著)』、『二つの祖国 ある中国残留孤児の証言(北澤博史著)』、『赤い夕腸の満州にて「昭和」への旅(高橋健男著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記79
大類善啓
羽田澄子監督の記録映画『鳴呼 満蒙開拓団』が完成した。来年2009年の6月13日(士)から7月末まで、岩波ホール(千代田区神保町)で一般公開されることが決まった。ぜひ、多くの人たちに見てもらい、国策で入り込んだ開拓民たちが、いかに悲惨な状況に追いやられたか、日本という国家が、多くの遺棄された人たちにいかに無情であったか、を知ってほしい。自衛隊のトップに位置する男が、先の戦争を「アジアを解放する戦争だった」というような歴史認識しか持てないという実情、その発言者が戦後世代ということにも驚くが、同時にそれを支持するような状況があることに、いったい戦後教育とは何だったのかと思う。ともかく、そのような「空気」を醸成する状況をいかに打破していくか。戦争体験、旧満州での体験を伝えることの重要性を思う。 /// 続きは本誌ご参照

  第6号(2008年5月発行) 第6号(2008年5月発行)表紙

「方正友好交流の会」について考える1
大類善啓
前号5号は今までの中では一番厚い会報になった。南野知恵子・元法相の方正訪問記事や石原政子さんの手記、井上征男さんの小説など、長い文章を掲載したことも要因だった。この調子で充実した会報が毎号続けられるならいいが、そうもいかないだろう。改めて会員の方はもとより、支援していただいている方々からの原稿を今後も期待したい。さてその前号に関して、ある人から私の方に、方正公墓の存在はかなり知られている。中国の温情に感謝するだけでなく、もっと藤原長作さんの偉業などを紹介すべきだという意見をいただいた。そこでこの機会に、「方正友好交流の会」について、私の個人的な見解ではあるが、先の意見に答えたいと思う。皆さんのご意見もいただければ幸いである。 /// 続きは本誌ご参照
方正テレビ局取材に来日5
方正友好交流の会
去る3月4日(火)、方正県人民政府外事僑務弁公室・主任の王偉新さん一行が来日した。今回の訪日目的は、方正県と日本との交流を、ビデオ映像に撮っておこうという趣旨だったようである。一行のメンバーは、方正県常務委員で宣伝部長の王恩庫さん、方正県放送テレビ局長の李春峰さん、それに方正テレビ局女性ディレクターの張暁丹さん、それに通訳の趙会君さんである。 /// 続きは本誌ご参照
日本の大使が初めて方正日本人公墓を参拝7
方正友好交流の会
表紙の写真で紹介したが、中国駐在の宮本雄二大使が方正を訪問、日本人公墓に参拝した。このニュースを私たちが知ったのは、1月10日の訪問後、中国の仲間からだった。当初は本当だろうかとの疑念もあり、直接方正県政府の外事弁公室に確認したところ、事実だということがわかった。関係者からも、大使訪間を記事にした黒竜江日報が送られてきた。日本では、このニュースはどのマス媒体も報じなかったようだ。以下、黒竜江日報の記事を紹介する。 /// 続きは本誌ご参照
衛藤瀋吉先生を偲ぶ9
大類善啓
衛藤先生の名前が眼に人った!「方正友好交流の会」の第2回総会に、旧知の外交界の中国通に講演をお願いすべくお電話したら、すでに約束が入った後だった。たぶん大丈夫だろうと楽観していたので慌てた。仲間に相談する時間的な余裕もなく、慌てて手元の「文春手帳」を取り出し、巻末の寄稿家リストの頁を繰っていった。方正日本人公墓に理解ある方を探すには、当然中国に関心がある人、とりわけ旧満洲にいたことがある人ならいいという思いで名前を見ていくと、衛藤瀋吉先生にぶつかった。正直にいえば、衛藤先生について知っていることといえば、近現代中国の研究家であること、瀋陽生まれであること。それに亜細亜大学の学長になられてすぐ、一芸一能に秀でていれば入学できるという、偏差値ではなく個性重視の大胆な入学試験を打ち出した人ぐらいの知識しかなかったが、すぐに電話をした。電話口に出られた先生は、幸いにもその日、予定は何もなく、快く「いいですよ」という返事をいただいた。 /// 続きは本誌ご参照
曠野に果てたちちはは11
衛藤瀋吉(東京大学名誉教授)
『就友』と題する小さなパンフレットを庵谷磐さんから10年程前に頂いた。庵谷さんは私と同じ奉天ー中の先輩、引揚孤児のアフターケアや残留孤児の厚生に身を挺している義人である。『就友』は「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」という会の機関誌である。その表紙に短い詩が記してある。かつて別なところでも紹介したが、激しく胸を打ち、忘れられないので、ここでも紹介させて頂く。 /// 続きは本誌ご参照
方正行13
山村文子
中国を訪れる都度、私は感動と良い思い出を与えてもらう。中でも、1984年1月3日の方正行きは今も鮮明に心に残っている。方正に日本人公墓があると聞いたのは、その一、二年前。満洲と言っていた頃のことを考えると、信じられないような気持ちだった。この墓は、この辺りに残された日本婦人達が、山野に散らばる同胞の骨を集め供養しておられたのを、人民政府で墓地を整備し墓を造ってくださったと聞いた。お参りし、あわせて中国の方々に感謝したいと思っていた。が、当時はまだ方正に入るには許可が必要だった。 /// 続きは本誌ご参照
身も心もまる裸15
北澤博史
自分の国を守ることであるのなら国民の犠牲はつきものである。戦前の大人達は、国の行いの良し悪しは別として、みんなそういって行動していたようだ。私が五歳で満州へ連れて行かれた昭和十五年ごろは、戦争のため日本の経済は貧しかったという。戦争に勝って国をよくしよう、そのために、日本は満州を侵略し経済の立て直しをしようと思いついたらしい。 /// 続きは本誌ご参照
酷寒の風揺るがぬ友好17
石金楷
2008年1月9日、著名なカメラマン・孫国田さんがハルピン市方正県を訪れ、零下20度という厳寒の中、日本の残留孤児の養父母や日本人公墓などを取材した。今年53歳の孫国田さんは中国写真家協会の会員であり、大慶市写真家協会の副主席である。この6年来、彼は侵略日本軍の証拠となるものを苦労しながら探し出し、あの忘れることのできない歴史を掘り起こし、記録してきた。彼の足跡はいくつかの省や都市にわたり、記録した人物は東北抗日聯軍の戦士、労働者、虐殺事件の生存者、歴史の証人、慰安婦など200人あまりに及ぶ。 /// 続きは本誌ご参照
方正県日本人公墓の前に立って―前事不忘 後事之師18
小野寺武男
今年の正月、私たち「偽満州国平和を探る旅」と名づけた14名の岩手の旅行団は、方正県の「日本人公墓」を墓参してきました。そのことを「方正友好交流の会」の大類さんにメールで報告したところ、会の機関紙に投稿してほしいとの依頼を受けましたので、単なる経過報告程度にしかならないと思いますがご報告申し上げます。 /// 続きは本誌ご参照
新潟第7次清和開拓団勤労奉仕隊記録の発掘一殉難者への慰霊の心をこめて24
高橋健男
第7次清和開拓団は新潟県送出の開拓団で、旧東安省虎林県に入植した。「1938(昭和13)年2月、先遣隊入植。猛吹雪を冒して宿舎の建設、燃料収集に血の出るような苦心を続け、翌昭和14年、本隊の入植を見るに至る。団員はすべて新潟県人で戸数約200、人口約600、所有土地面積約4,300町歩」と、梅川勝衛団長(元中蒲原郡荻川村村長、新潟市、故人)が勤労奉仕隊に紹介していた。 /// 続きは本誌ご参照
満州建設勤奉仕隊に参加した記録について28
野田良雄
私は昭和16年、まだ17歳の時、文部省で募集した満州建設勤労奉仕隊に参加し、その年の5月下旬から8月末まで、東満・虎林の近くの第七次清和開拓団にお世話になっておりました。それからまもなく、12月に太平洋戦争が始まり、昭和20年8月には日本の敗戦で戦いは終わりました。その頃、大陸からの引き揚げ者で日本全土は大混乱でした。私宅でも、昭和21年8月頃から母方の叔父や、母の家族が帰りはじめ、住処も定まらず、食事も布団も着る物もなくて、母の苦労は大変なものでした。清和開拓団の人々も、てんでにお帰りになったようですが、その様子は私どもにはわかりませんでした。 /// 続きは本誌ご参照
方正の『日本人公墓』と『撫順戦犯管理所』30
芹沢昇雄
私が方正の「日本人公募」のことを初めて知ったのは遅く、『東京新聞』が連載した2005年の「記憶・戦後60年・新聞記者が受け継ぐ戦争」シリーズの記事で、今もその記事を大事に保存しています。私はそれまで「撫順戦犯管理所」で人道的扱いを受けた戦犯達が、自らの力で鬼から人間に戻った「中国帰還者連絡会(中帰連)」の賛助会員でした。「日本人公墓」の話を知り、これは「撫順戦犯管理所」での戦犯への扱いや考えと全く同じであり、これは偶然ではなく、中国の「人道的・寛大措置」が本物である事を改めて確認した思いでした。 /// 続きは本誌ご参照
「非戦」の花、絵本に―元日本兵宅で半世紀咲く31
佐々木亮(朝日新聞)     転載元:朝日新聞西部本社版(2007年1月18日付夕刊)
「もう二度と武器を持ってこの大陸に来ないでください」。そんな言葉とともに元日本兵が中国から種を託され、佐賀市で半世紀も夏ごとに花をつけているアサガオがある―。実話をもとにした絵本「赦しの花」が、戦争体験の聞き取りをしている福岡県の戦後世代の教師やイラストレーターたちの手でまとめられた。 /// 続きは本誌ご参照
時の肖像:海を越え、時を超えて咲く朝顔―8月の光と闇32
高橋郁男(朝日新聞論説顧問)     転載元:朝日新聞(2007年8月6日付朝刊)
庭先の、細い竹を組んだ小さな垣根に、いくつもの朝顔が咲いている。濃い藍色の花弁のそこここに滴が浮かび、九州の空を映している。佐賀市郊外の副島進さん宅を訪ねたのは、6月の下旬だった。91歳になる副島さんは脳梗塞で入院中だったが、この朝顔は、半世紀も前に中国から持ち帰った種の子孫だと聞いたからである。 /// 続きは本誌ご参照
原子爆弾に思う33
武吉次朗・訳     転載元:重慶『新華日報』時評(1945年8月9日付)
原子爆弾の発明と初めての使用は、全世界を震撼させた。科学の革命と戦争の革命が、同じ日に起きた。原爆のほんとうの性能について、われわれはまだ検討できるだけの十分な資料を持っていないが、今までに得たニュース報道によれば、その破壊力の猛烈さと殺傷性の巨大さは、疑いのない事実である。 /// 続きは本誌ご参照
「満洲移民の村」のけじめ―『満洲泰阜分村―七〇年の歴史と記憶』編纂にたずさわって35
猪股祐介
長野県下伊那郡泰阜村は2007年、満洲への分村移民を決めた1937年から70年目を迎えるにあたり、『満洲泰阜分村―七〇年の記憶と歴史』を刊行した。泰阜分村大八浪開拓団の記念誌は、1979年に『満州泰阜分村―後世に伝う血涙の記録』が刊行されたが、それから30年弱が経ち、長らく絶版の状態にあった。本書の刊行は、『血涙の記録』の復刻を願う声や、大八浪開拓団の体験者が少なくなった現況を憂える声に応えるものであった。私は『七〇年の記憶と歴史』編集委員の一人として、その企画・編集に深く関わった。そこで、刊行にまつわる喜びや苦労を交えながら、内容を紹介したい。 /// 続きは本誌ご参照
文化:中国に立つ「日本人公墓」に思う―時代を超え、両国友好の“象徴”に40
大類善啓     転載元:聖教新聞(2008年3月30日付)
日中両国の一部マスメディアの中には、事ある日ごとに嫌中感情や反日感情を煽ろうとする傾向がある。民族主義、ナショナリズムは、しばしば感情に訴えるため、非常に狭い視野に陥りがちだ。大事なことは、阿事も日中の関係者が理性的に話し合い、対処していくことであって、感情的に反応することではない。ましてや、政治問題化することではない。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓 墓参へ―平和条約30年 6月満州訪問 県日中友好協41
徳島新聞     転載元:徳島新聞(2008年3月8日付)
徳島県日中友好協会(加藤高明会長)が六月下旬、日中平和条約締結三十年の記念事業として旧満州(中国束北部)を訪問する。黒龍江省ハルビン(哈爾浜)市郊外の方正県にある「方正地区日本人公墓」への墓参が主な目的。公墓は日本への引き揚げがかなわず、飢えや病気で亡くなった開拓民約五千人の遺骨が納められている。加藤会長は「墓は国交回復前に建てられた。友好の真意をかみしめて手を合わせたい」と話している。訪問団には友好協会員のほか、県内在住の引き揚げ者も参加する予定。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留「不忘の碑」―体験談に感銘 調布に建立42
出田阿生(東京新聞)     転載元:東京新聞(2008年4月9日付夕刊)
戦時中、国策として満州(中国東北部)に渡り、戦後も国の無策で大陸に取り残された残留婦人の言葉に感銘を受けた主婦が、私財を投じて石碑を建立した。東京都調布市にある「延浄寺」境内にたたずむ石碑に刻まれた文字は「不忘の碑」。十二日に記念のつどいを開く。 /// 続きは本誌ご参照
2010年のオープン目指す―満蒙開拓平和記念館を設立へ 飯田日中などが準備会設立43
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2008年3月25日)
全国で最多の満蒙開拓団を送り出した長野県下伊那で、飯田日中友好協会を中心に「満蒙開拓平和記念館」の建設準傭が進んでいる。満蒙開拓に特化した記念誼は全国でも初めて。準傭会は「戦争という負の遺産を平和希求、友好交流という正の遺産に置き換えたい」と意気込んでいる。 /// 続きは本誌ご参照
異説 日本人公墓の由来44
奥村正雄
1月中旬、知人が1冊の書籍を送ってくれた。『満州移民一飯田市下伊那からのメッセージ』(編集・飯田市歴史研究所、発行・現代史料出版)である。第1章 満州移民の前史―1920年代、30年代の飯田下伊那;第2章 満州移民の送出と開拓地の生活;第3章 逃避行から引き揚げヘ;第4章 満州移民の戦後史という構成。すでに周知のように長野県は満蒙開拓団を最も多く送出した県であり、旧泰阜村の分村移民など、飯田下伊那と開拓団の歴史は、かねて知りたいと思っていたものの一つだった。それが繭値と飯田の男が遊郭で遊ぶ金額との関連づけなどを読み進むうち、その説得力に圧倒された。 /// 続きは本誌ご参照
日中友好の原点を歩く―日本人公墓と撫順戦犯所などを訪ねる旅47
方正友好交流の会
日中平和友好条約が締結されてから30年。日中間ではしばしば歴史認識のギャップから、絶えず摩擦が浮上しています。それが両国で、反日感情や嫌中感情を煽るという、不毛な事態が生まれています。このようなナショナリスティックな動きを見るにつけ、方正日本人公募や日本人戦犯が収容された撫順戦犯管理所の存在と、そのありようは、多くのことを教えてくれ、ある種の光明をもたらすものと思われます。 /// 続きは本誌ご参照
方正友好交流の会第4回総会のご案内49
方正友好交流の会
日時:6月7日(士) 午後2時~4時半、場所:中央大学駿河台記念館620号室 /// 続きは本誌ご参照
日本に残留し定住したある中国人―在日華僑・韓慶愈が生きた「もう一つの昭和史」(第4回)50
大類善啓
《前回までの粗筋》遼寧省で生まれた韓慶愈は、1943年「満州国」から茨城県の大田中学に留学したが、戦局は悪化、新潟から船で帰国しようとした。ところが、ソ連の参戦や日本の敗戦のため出港した船は中国へ行かず、日本に舞い戻ってきた。やっと日本から解放されたと思ったが、蒋介石の国民党代表団からは、「祖国を裏切った漢奸」とみなされ国民党に失望。新聞記者の見習いをしながら東工大に進学した。新中国の誕生は、華僑たちの帰国熱を促した。韓も1953年の第1回の帰国船に学生代表として中国に行き、天津で廖承志に面会した。その時、廖は韓に、中国に帰国せず「日本に残り、華僑向けの新聞を出せ」という。韓は一瞬躊躇したが、日本に戻り、『大地報』という新聞を創刊した。日中関係は徐々に発展、1952年には、高良とみ、帆足計、宮腰喜助ら3人の国会議員がモスクワから訪中、日中貿易の先駆けを作った。その後、李徳全を団長とする中国紅十字会代表団や、京劇の名優・梅蘭芳も来日、韓は通訳などで活躍した。私生活でも美津と結婚、公私とも充実した人生を送っていた。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い56
方正友好交流の会
中国ハルピン市郊外の方正県に、日本人公墓が建立されています。1945年の敗戦のさなか、祖国を目指して逃げ惑った旧満洲の開拓団の人々は、難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々がこの方正の地で息絶えました。それから数年、累々たる白骨の山を見た、ある残留日本婦人が骨を拾い集めました。力を貸した中国人たちが集めた遺骨はおよそ五千体近いともいわれています。 /// 続きは本誌ご参照
書籍案内57
方正友好交流の会
『中国残留邦人一置き去られた六十余年(井出孫六著)』、『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編)』、『「満州」経験の社会学一植民地の記憶のかたち(坂部晶子著)』、『大陸の花嫁(井節紀久枝著)』、『中学生の満州敗戦日記(今井和也著)』、『天を恨み 地を呪いました一中国方正の日本人公墓を守った人々(奥村正雄編著)』、『二つの祖国 ある中国残留孤児の証言(北澤博史著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告61
大類善啓
今年、会報5号発行後、カンパをお寄せいただいた方、また新たに会員になられた方々のお名前を記して感謝の意に代えます。ありがとうございました。 /// 続きは本誌ご参照

  第5号(2007年12月発行) 第5号(2007年12月発行)表紙

黒龍江省ハルピン・方正を訪ねて1
南野知恵子
日・中双方は、国交正常化35周年に合わせて、日本からの直行便を有する中国の19の都市に、総計2万人規模の訪問団を派遣するなどの計画を共に実施する事が話し合われ、双方合わせると3万人にも達するのではないかと予想される程、日中国交正常化35周年記念観光交流事業が活発に行われております。交流計画の一つとして黒龍江省のハルピンに、団長として訪問する機会をいただいたのは、自由民主党・ニ階俊博総務会長からで、当時私は総務会副会長で、日中友好等の話をしている時でした。私は、ハルピンより更に北方に位置するチチハルで生を受けており、またハルピンは、大戦時疎開した所でもあり、里帰りの様な気にもなり、二階先生の命を感謝の心でお受け致しました。今回ハルピンの記念訪中団は;300人にもなる大きな団体でありました。 /// 続きは本誌ご参照
初めて訪れた方正県3
伊藤忠彦
9月27日突然、二階俊博先生から、北京に行き、その後黒龍江省のハルピンに行って日中国交正常化35周年の会合に出てきてくれと言われた。35周年を記念したレセプションに日本国を代表して出席すると共に、温家宝総理との会見を人民大会堂でさせていただく事となったのである。事の重大さに驚いてしまった。思えば、10年前の25周年の時、石川好先生団長のもと任景国さんと一緒に新褐空港から錦鯉をたくさん飛行機に乗せて四川省成都と北京へ(釣魚台国賓館)へ行ったのが、私自身の初めての訪中であった。あれから10年、35周年では一人の国会議員として訪中し、温家宝総理にお目に機会を得るに至った。二階先生のお陰でこの35周年の一番大切な時にこうして訪中させていただいたこと、また今日まで私自身を支えて下さっている皆様には深く感謝を申し上げなければならない。 /// 続きは本誌ご参照
故郷チチハルより、まず方正へ―南野知恵子、伊藤忠彦両議員の方正日本人公墓参拝レポート5
大類善啓
南野知恵子参議院議員に初めてお目にかかったのは、2年前の7月、法務大臣に就いておられた時である。前任の法務大臣であった野沢太三さんが(社)日中科学技術文化センターの会長に就任され、その挨拶のため大臣室を訪れた際、私も同道したのだ。野沢会長と南野大臣が、一通りお話を終えたころを見計らって、会報の「星火方正」を取り出し、日本人公墓のことをお話したところ、チチハル生まれの南野さんは、たいへん驚き、親しくしておられる密教の僧侶による供養ができないかというお話をされた。それから二週間も経たないうちに、密教の老師とともに事務所にお見えになった。 /// 続きは本誌ご参照
注目され始めた日本人公墓の存在―マスメディアで相次いで紹介された方正公墓9
方正友好交流の会
方正友好交流の会が再発足してから2年半ほど経つ。ここに来て会の活動の成果が表れてきたようである。参議院議員南野知恵子・元法務大臣の方正公墓参拝もその大きな出来事だが、新聞と放送メディアが相次いで方正公墓に光を当てた。すでにご承知の方も多いだろうが報告したい。 /// 続きは本誌ご参照
水/地平線:福田さん、旧満州に来ませんか12
古谷浩一(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2007年11月5日付朝刊)
松の枝から漏れる晩秋の日差しが、石柱をまぶしく照らしている。中国黒竜江省ハルビン市郊外の方正県。ここに中国当局が1963年につくった「日本人公墓」がある。終戦の混乱の中、日本への引き揚げがかなわず死んでいった旧満州の日本人を弔ったものだ。日中国交正常化から35周年を迎えた9月29日。ハルビンで開かれた記念行事に参加するため訪中した元法相、南野知恵子さん(71)らの一行とともに、この公墓を訪れた。 /// 続きは本誌ご参照
歴史を語る:「方正地区日本人公墓」の建立に携わった女性 松田ちゑさんに聞く13
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2007年7月5日)
敗戦の混乱の中で旧満州の開拓団員らが集結した黒竜江省方正県。ここに国交正常化前の1963年、同省人民政府の手で「方正地区日本人公墓」が建立された。公墓の建設を県政府に嘆願したのが、元開拓団員の松田ちゑさん(88)。終戦記念日を前に、現在、東京に住むちゑさんに当時の話などを聞いた。 /// 続きは本誌ご参照
鎮魂の夏2007:友好の原点「記録に」―中国が戦後建設 日本人開拓民墓地14
宮尾幹成(東京新聞千葉支局)     転載元:東京新聞(2007年8月14日付)
記録映画監督の羽田澄子さん(81)=東京都世田谷区=が、新作の構想を練りに今月下旬、旧満州(中国東北部)を訪れる。足を運ぶ先は黒竜江省ハルビン市郊外の方正県にある「方正地区日本人公墓」。終戦直後の混乱期に亡くなった日本人開拓民の遺骨を納めた公墓で、中国人が戦後日本人への恨みを乗り越えて建設した。だが、一般には存在はほとんど知られておらず、旧満州で生まれ育った羽田さんも最近まで知らなかった。「一度現地を見て、作品かできるか確かめたい」。羽田さんは現地入りを心待ちにしている。 /// 続きは本誌ご参照
映画監督・羽田澄子さんが方正へ―“残留孤児の映画作りたい”15
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2007年10月5日)
昨年は最新作『終わりよければすべてよし』を発表するなど、50年以上にわたり精力的な活動を続けている記録映画監督の羽田澄子さん(81)が8月、中国で唯一の日本人公墓が建つ黒竜江省方正県を訪れた。中国残留孤児をテーマにした作品づくりのヒントをつかもうという思いに突き動かされての旅だった。 /// 続きは本誌ご参照
私の視点:日本人公墓を知ってますか16
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)     転載元:朝日新聞(2007年10月10日付朝刊)
今年は日中両国が国交を正常化して35年になる。記念すべき年ということで、両国ではさまさまな交流行事が行われている。お互いに胸襟を開いて語り、知り合い、今まで抱いていた悪い固定したイメージが、氷解する話を聞くのはうれしい。 /// 続きは本誌ご参照
日報文章“日本人公墓”体現中国人胸懷17
徐群(参考消息)     転載元:参考消息(2007年10月11日付)
《解説》「私の視点」の記事が、中国で最もインテリ読者の多い『参考消息』に掲載された。見出しは「中国人の懐の深さを表す日本人公墓」となっている。 /// 続きは本誌ご参照
China caring for remains of war-displace18
Yoshihiro Ohrui     転載元:International Herald Tribune/The Asahi Shimbun(2007年10月20日付)
《解説》10月20日、英字紙「ヘラルド・トリビューン/朝日」にも翻訳掲載(中国、戦争で置き去りにされた日本人たちの公墓を建立し保存) /// 続きは本誌ご参照
「方正日本人公墓」が語るもの19
凌星光
大類善啓氏から方正日本人公墓のことを聞き、大きく心を動かされた。その物語は次のようなものである。中国黒竜江省方正県にはいくつかの満州開拓団があったが、ソ連軍進入後、奥地の開拓団員が方正収容所に集まってきたため、人数が急速に膨張していった。零下40度の厳寒下で、1945年末から46年にかけて、方正に集結した多くの開拓民が飢えと凍えで亡くなった。1946年に方正県人民政府が誕生し、散らばっていた遺体4500体を一箇所に集めてガソリンをかけ、三日三晩焼いた。そしてその遺骨は野ざらしにされ、白骨の山となっていた。 /// 続きは本誌ご参照
中国人の寛大さと慈愛心23
金丸千尋
中国で唯一の日本人を祀る「方正地区日本人公墓」が1964年、中国によって建立された。この「公墓」は、『侵略戦争に責任がある一握りの軍国主義者と日本の国民大衆とは別であり、日本国民は戦争の犠牲者である』という中国政府の理念と政策が根底にあったことはいうまでもない。 /// 続きは本誌ご参照
遠く万里離るとも いよいよ深し中日の情25
石金楷
2007年6月11日から13日まで、日本の友好人士、山村文子さんと相坂百合子さんが訪中、黒龍江省と吉林省で日本の残留孤児と養父母を訪ね、行く先々で熱い歓迎を受けました。同時にお二人は日本人民を代表して養父母と孤児をやさしく見舞いました。 /// 続きは本誌ご参照
長野県開拓自興会結成60周年記念訪中記27
永原今朝男
今回の訪中は、旅行期日を急逮4カ月ほど早めた事情もあり、僅か28名の参加者(前回は98名、前々回は130名)であったが、募集窓口側としては、訪中コースの設定、旅行社との折衝、人員掌握、事務連絡等の作業も順調に進み、チームワークも取りやすく、私自身も緊張感から解放され、楽しい有意義な旅であった。 /// 続きは本誌ご参照
草の根の友好運動29
伊藤州一
「あの叔母さんは本当に可哀そうな人だから、皆で話をしたらいかんよ。満洲から帰ってくる時に背負っていた赤ん坊が死んだもんで道端にうっちゃってきた、可哀いそうな叔母さんだからね」母は私にそう言い聞かせました。静岡県と長野県の県境の山に囲まれた横山小学校3年生。戦争が終って2年過ぎた年でした。住む家がなかったのでしょう。幼子を2人つれて学校の用務員室に住み込みましに。開拓団として中国に渡り、命からがら帰国した叔母さんでした。これが私が始めて中国を意識した時でした。(その叔母さんは私が卒業するまで用務員室に住んでいましたが一度も笑顔を見せたことがありませんでした) /// 続きは本誌ご参照
残像32
樗沢仁
10歳で家族と敗戦直前の満州へ渡り、命がけの避難で母と妹を失った。あれから62年、この体験が新潟県で獣医を営む樗沢仁さん(72歳)を中国へ駆り立てる。毎年、私たちと方正を訪ねた後、独りとんぼ返りでハルピンに引き返し、その晩、夜行列車でソ連国境の綏芬河へ向かう。忙しくて3ヶ月も中国へ行けないとじっとしていられなくなる。今回の方正行きは今年6回目の訪中となった…。(方正友好交流の会) /// 続きは本誌ご参照
シャボン玉と般若心経34
伊原忠
ハルピンを訪れたのは二回目。一度目は2005年に「731部隊」の歴史を知るために。その時、日本のメディアは、「反日デモ」を盛んに報道していました。しかし、危惧する事がなく、親切なガイドのお陰で、充実した旅行ができました。 /// 続きは本誌ご参照
731部隊記念館で忘れたもの35
津久井洋
8月22日「中国・交流と歴史検証の旅」に参加した。方正にある日本人公墓は黄金の稲穂と、熟れたとうもろこしに囲まれ収穫の秋を迎えていた。路上で食べた炭火焼のとうもろこしは、甘過ぎずモチモチした食感で昔を思い出した。墓参後、731部隊記念館を訪ねた。この部隊はハルピン市平房区に1935年細菌兵器製造を目的に作られた。細菌兵器の効果を確かめるために生きた人間を生体実験したのであるが、1980年作家森村誠一著「悪魔の飽食」によりその全貌が明らかになるまで闇に包まれていた。 /// 続きは本誌ご参照
「中国・交流と歴史検証の旅」に参加して36
栗林稔
8月22日より4泊5日の日程で初めて方正県を訪間してきました。「中国語新潟」に参加したことがご縁で方正友好交流の会の奥村さんから参加のお誘いを受けました。「天を恨み地を呪いました一中国方正の日本人公墓を守った人々」や「星火方正―燎原の火は方正から」、今回同行した石原さんの手記など頂いた資料を事前に読み「方正日本人公墓」について学習しました。 /// 続きは本誌ご参照
今年も会いに来ましたヨ37
奥村正雄
毎回、墓参団として公墓の墓前に花束を供えるほかは、参加者それぞれ思い思いのやり方でお墓に向い合う。ある時は小雨の中、懐から取り出した鉦をたたいて般若心経を唱え続ける人がいたし、またある時は、日本から携えてきた故郷の味を墓前に供えて合掌する人もいた。今回、思いがけない光景を目の前にして深く感動したのは、ご夫婦で参加された小、中学校の教師夫妻が子供たちが遊ぶシャボン玉セットを取り出し、それぞれ口にくわえたストローから静かに吹き出された無数のシャボン玉が、お墓の周りを漂っては松林の中に消えていったシーンだ。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓 鎮魂歌39
福久かずえ
私は大正末期、中国大連に生を享け、七歳の時から父の仕事の関係(電気技師)で中国三省を転々と住所と学校を変えながら、幼少・青春時代を過ごしました。終戦時(日本運命の日)、旅順師範学校在学中で寮生活をしていた私は、身を寄せる親戚、友人もなく、一家離散の憂き目に遇い、遂に天涯孤独の身となり、置き去りにされたのです。同年九月十八日、旅順は中国とソ連に接収され、母校も立ち退き命令が下り旅順を脱出。大連に避難中に結核が再発し、翌年春大連港から引き揚げの機会を逸してしまいました。路頭に迷っているとき、優しい中国人に助けられ、病院で手当を受け、健康を取り戻したあと、その命の恩人と結婚。 /// 続きは本誌ご参照
「方正」はわが心の座標軸41
藤井正義
私が「方正」という語を知ったのは、平成十九年五月、社団法人日中科学技術文化センターにお世話になってからのことであるから、まだいくばくもない。これを機会に旧満州に対する私の想いは、今までと一変し、その深さと膨らみを増した。 /// 続きは本誌ご参照
中国思い出の旅43
石原政子
私達は八月二十二日 日中友好の旅十三人の団体に参加し新潟発十一時半の飛行機で中国ハルビンに向かい、二時間後に到着、ホテルのバスが迎えに来ました。翌二十三日九時、貸切バスで方正に向かい三時間で着きました。一九八一年帰国以来方正は初めてです。戦後六十二年ぶりの墓参です。墓地も大きく立派な碑が立ち、これも中国のご尽力に依るものと感謝いたしました。 /// 続きは本誌ご参照
我が半生記一凍土の地、旧満満州の空の下で43
石原政子
「中国残留孤児」と呼ばれる人々は戦後のドサクサで肉親と離ればなれになり、自分の身元がわからなくなって「孤児」となった、という言われ方を一般によく耳にする。また、いわゆる「残留婦人」についても、自分の身元はわかっていても日本に帰れなかった様々な事情を抱えていたと言われる。そう言われれば、聞く方も何となく納得してしまうが、そのドサクサや様々な事情が一体どんなものであったか、実際のところ当事者でなければわからないことである。 /// 続きは本誌ご参照
カメラマン・高部心成さん:中国残留孤児・婦人の2世、3世、写真・ルポで「自分探し」―ルーツ求め心の旅56
山根祐作(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2007年11月3日付朝刊)
敗戦の混乱の中で旧満州に取り残された中国残留孤児や残留婦人の2世、3世の中に、自分のルーツをたどり、写真やルボで表現しようとする人がいる。日本と中国のはざまでアイデンティティーが揺れ動く中で、日本社会への同化ではなくルーツにこだわることによる「自分探し」の試みだ。 /// 続きは本誌ご参照
記憶をつくるもの:中国から見た残留孤児57
古谷浩一(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2007年10月30日付朝刊)
旧満州の大地に取り残された「残留孤児」をめぐり、日本では国家の責任が問われる。中国の人々の目には異なった像を結んでいる。 /// 続きは本誌ご参照
記憶・20代記者が受け継ぐ戦争:祖国を愛しているから―4年の賠償訴訟 矛盾に悩む 中国残留日本人孤児 井上征男さん(63)58
宮尾幹成(東京新聞千葉支局)     転載元:東京新聞(2007年8月15日付朝刊)
飛行機の窓から見える美しい日本の国土に、涙がこみ上げた。一九八五年九月八日。肉親捜しの「訪日調査」で、四十年ぶりに祖国に戻った。成田空港では、祖国の発展ぶりを誇らしく眺めた。翌朝、宿泊施設に掲げられた日の丸を見上げて、また泣いた。 /// 続きは本誌ご参照
《短編小説》赤々と燃える楓の葉59
井上征男
私はずっと彼女を探し続けてきた一あの年、10人の小さな弟妹たちを連れて死地を脱し、1年をかけて広大な東北を歩き抜き、千里の道を逃げ切ったこのお姉さんを、である。錦秋の10月、私の願いはついに叶ったのだ。50年描いてきた夢が叶ったのだ、夕靄が立ち込めた楓林の中で..。 /// 続きは本誌ご参照
日本に残留し定住したある中国人―在日華僑・韓慶愈が生きた「もう一つの昭和史」(第3回)65
大類善啓
《前回までの粗筋》遼寧省の貧しい村で1926年(昭和元年)に生まれた韓慶愈は、1943年「満州国政府」から派遣され、茨城県の大田中学に留学した。しかし戦局は悪化、韓にも帰国命令が下った。新潟から帰国直前、広島への原爆投下、帰国船上ではソ連参戦と日本の敗戦を知らされた。出港した船は中国へ行かず、迂回して敦賀に入港。予想もしなかった日本に舞い戻ってきた。やっと日本から解放されたと思ったが、蒋介石の国民党代表団からは、韓たち留学生は「祖国を裏切った漢奸」とみなされ国民党に失望、帰国できずにいた韓は、新聞記者の見習いをしながら東工大に進学した。新中国の誕生は、華僑たちの帰国熱を促した。韓も1953年の第1回の帰国船に学生代表として中国に行き、3回目あたりの帰国船で帰るつもりだった。ところが天津で廖承志に面会したら、「日本に残り、華僑向けの新聞を出せ」という。新中国を背負う大幹部からの直々の要望である。帰国して祖国に貢献しようと思っていた韓は、ここで気持ちを切り換え、日本に戻り、さっそく新たな活動を始めるのだった。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い72
方正友好交流の会
中国ハルピン市郊外の方正県に、日本人公墓が建立されているのをご存知でしょうか。1945年の敗戦のさなか、祖国を目指して逃げ惑った旧満洲の開拓団の人々は、難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が、この方正の地で息絶えました。それから数年、累々たる白骨の山を見たある残留婦人が骨を拾い集めました。そして力を貸した中国人たちが集めた遺骨はおよそ五千体ともいわれています。 /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍のご案内73
方正友好交流の会
『中国残留邦人一置き去られた六十余年(井出孫六著)』、『天を恨み 地を呪いました一中国方正の日本人公墓を守った人々(奥村正雄編著)』、『二つの祖国 ある中国残留孤児の証言(北澤博史著)』、『赤い夕陽の満州にて 「昭和」への旅(高橋健男著)』 /// 続きは本誌ご参照
編集後記74
大類善啓
「三号雑誌」という言葉がある。同人雑誌などを創刊したはいいが長続きせず、3号くらいで廃刊するという意味である。それだけは避けたい。なんとしても3号で終わりにはしない、というのが編集子の意気込み!であった。当初の予定より発行は1ヶ月ほど遅れたが、今号は5号目であり、最長の頁数になった。 /// 続きは本誌ご参照

  第4号(2007年5月発行) 第4号(2007年5月発行)表紙

曠野に果てたちちはは1
衞藤瀋吉(東京大学名誉教授)
『就友』と題する小さなパンフレットを庵谷磐さんから10年程前に頂いた。庵谷さんは私と同じ奉天一中の先輩、引揚孤児のアフターケアや残留孤児の厚生に身を挺している義人である。『就友』は「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」という会の機関誌である。その表紙に短い詩が記してある。かつて別なところでも紹介したが、激しく胸を打ち、忘れられないので、ここでも紹介させて頂く。 /// 続きは本誌ご参照
方正―魂の交流の場3
高良真木(画家)
2004年の夏、小泉首相の度重なる靖国神社参拝で、日中関係は国交正常化以来最悪と言われていた。重慶や北京のサッカー試合では、中国の若者が日本チームに激しいブーイングを浴せていた。ちょうどその頃、元満蒙開拓団関係者から墓参団の一部始終を綴った手紙を頂いた。(以下要約) /// 続きは本誌ご参照
故・宮沢一三さんを悼む―方正日本人公墓の支援に尽力した生涯5
寺沢秀文(飯田日中友好協会副理事長、方正友好交流の会理事)
元満蒙開拓団員であり、方正日本人公墓の支援活動等にも尽力された長野県高森町の宮沢一三さんが昨年12月23日に肺炎と合併症のためにお亡くなりになった。享年76歳、長寿社会となった今日ではまだまだこれからというお年なのに残念でならない。 /// 続きは本誌ご参照
母の死刑を無罪に変えたのは周恩来―崔鳳義さん(松田ちゑさんの息子)が自伝で告白8
奥村正雄(方正友好交流の会参与)
松田ちゑさんの息子・崔鳳義さんが自伝を完成させた。中国語でA5版、310ページ。自分でパソコンを打ち、プリントし、製本まで自分の手ひとつで仕上げた、文字通り1冊1冊、手づくりの半生記である。「東京回想録 崔鳳義著 2006年12月 日本東京」なぜこの本を書いたか、本のタイトルをなぜ「東京回想録」としたか、序言で彼はこう記している。 /// 続きは本誌ご参照
私たちの方正日本人公墓11
長田末作(新潟県開拓民殉難者慰霊祭世話人代表)
新潟県開拓民自興会は昭和22年に結成されたが、会員の老齢化、資金面その他の諸般の事情により平成7年、新潟県開拓民自興会の名称を閉じ、以後は県出身元義勇隊会員を中心に新潟県開拓民殉難者慰霊祭世話人会の名称で、昭和35年に新潟県護国神社境内に建立した満洲開拓民殉難碑を守り、毎年8月9日慰霊祭を執り行うことを目的として今日に至っております。 /// 続きは本誌ご参照
負の遺産こそ大切に12
名取敬和(本会会員)
私は、昭和16年父母に連れられ(旧満洲)木蘭県富士見分村に開拓移民として入植しました。当時開拓団にはトラックターなどなく、内地から徴用されてきた軍用馬を使い、北海道農法で、大きなプラウ(犂)を馬に牽かせ荒地を開墾する。馬も馬具ずれで肩や背中の皮が剥げ肉が見える、人馬共に並大抵な作業では有ませんでした。3、4年して耕地も拡大し基盤も整い、食糧を増産し、軍部や行政関係に供出していました。しかし20年8月15日青天の霹靂、敗戦の苦難は何処も小差はあれ大差はなかったと思います。我が富士見分村は、ソ連軍の侵入についても団長が決死的行動で退去させ、又、幹部の英知と指導により団員が一致協力していたこと、それに天助が有ったからとも思います。北満の開拓地としては犠牲者も少なく、帰国者は3分の2、残留孤児は1人でだけで、後日帰国しています。 /// 続きは本誌ご参照
文化:こころの風景14
井出孫六     転載元:朝日新聞(2007年2月13日~21日付夕刊の連載5回)
ここに掲載した井出さんの文章は、「中国残留孤児が国家賠償訴訟を起こした事に対して、東京地裁が原告側の主張を全面的に否定したすぐ後朝日新聞夕刊文化欄に5回にわたって掲載された。井出さん及び朝日新聞の了解のもとに、改めて読者諸氏に提供する。転裁を快くご許可くださった井出さんに御礼申しあげます。 /// 続きは本誌ご参照
いま なぜ この旅を?―消えない昨日と 迫りくる明日と16
方正友好交流の会
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会員便り:悲惨な郷土の歴史をどう伝えるか18
加藤童幸(島根県益田市・大頂子東仙道開拓団の証を守る会)
永らくご無沙汰いたしました。昨年6月にお願いいたしました「貴会が所有される満州開拓に関する資料」のことにつきましてお手持ちがないということで、会員の中でお持ちでなかろうかという方のご紹介を頂きましたが、そのままで頓挫させてしまいましたこと申し訳なく思っています。そのさい申しあげました「石見郷土研究懇話会」の美都大会は8月26・27日に会員約150名で開催されました。 /// 続きは本誌ご参照
会員便り:昔を繰り返す事のないように19
野田良雄(新潟県上越市)
3月に83才になります。昭和16年夏17才の時、文部省の募集で「満洲建設勤労奉仕隊」に参加、6月~8月末迄、東満虎林近くの清和開拓団で生活して来ました。l9才~20才の友人が多く、大方の人は戦死されたと思いますが幸い私は、兵役は内地(仙台)でしたので無事復員しました。 /// 続きは本誌ご参照
会員便り:引揚げ後知った開拓団の人々のご苦労19
大崎やま子(福島市)
始めまして、先日御業書をいただきました大崎でございます。実は私、小学校五年生から終戦引揚げ迄十三年間、中国瀋陽市(奉天市)で生活して居った者でございます。当時は両親の庇護のもと、また国家の力も強かった事も有り、幸せそのものでございました。子供でも在りましたので、開拓民の方々の生活は全く知らずに居りました。 /// 続きは本誌ご参照
会員便り:私と方正県20
佐貫幸雄(山口県山陽小野田市)
私と方正県の関わりは方正県新興村(天門郷付近)出身の女性と2005年1月に結婚したのが契機です。いろいろ調べて日本人にとって大変ゆかりの深い地域で、公墓もその時に初めて知りました。 /// 続きは本誌ご参照
中国から送られてきた写真集『中国残留孤児』21
奥村正雄
春節の少し前、突然、中国・ハルビン市の石金楷(ハルピン市日本残留孤児養父母の会秘害長)から1冊の分厚い写真集が送られてきました。同封されてきた石さんの手紙にはこうあります。 /// 続きは本誌ご参照
書籍紹介:「満洲 記憶と歴史(山本有造編著・京都大学学術出版社)」22
大類善啓
昨年の11月、「引揚60周年記念の集い~いま後世に語り継ぐこと~」が国際善隣協会などの主催で開催された。ほとんど「満洲」体験者と思われる人々で、会楊は入りきれないほどだった。講演した加藤聖文氏(人間文化研究機構)が会楊を見回し、「引揚げ体険が現実でなく、歴史になってきた」と語った。また、会場を埋め尽くした参加者に閉群の挨拶をされた松岡満寿夫氏(本会会貝・東北地区連合会会長、財団法人・満鉄会理事長)の言葉もひときわ印象的だった。 /// 続きは本誌ご参照
日本に残留し定住したある中国人―在日華僑・韓慶愈が生きた「もう一つの昭和史」(第2回)25
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)
《前回の粗筋》遼寧省の貧しい村で1926年(昭和元年)、韓慶愈は生まれた。その2年後、張作霖が関東軍によって謀殺された。1932年、「満州国」が成立。韓はハルピン第一国民高等学校に進学した。3年になった時、学校から日本留学の推薦があった。母親は「負ける国に行けば殺される」と反対した。しかし父は「亡国する日本も見てきていい」と送り出してくれた。1943年(昭和18年)4月、留学先である茨城県の大田中学に入学。校長を始めみんなは親切に接してくれた。が、戦況は悪化。1945年、水戸も空襲された。日本の敗北は時間の問題だった。「満洲国政府」から、韓に帰国命令が下った。友との別れの挨拶もできないまま、45年8月8日、新潟から帰国船に乗った。船は出港したが、様子がおかしい。船上のマイクが「ソ連参戦」を伝えていた。その船上で日本の敗戦を知る。船は迂回して敦賀に入港。韓は、予想もしなかった日本に再び戻ってきた。敗戦の日本で食糧を求めて、東京、京都へ、そして盛岡へ。また北海道にも留学生仲間と出かけた。そこで、中国から強制連行されてやって来た中国人たちの存在を知った。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い37
方正友好交流の会
中国ハルピン市郊外の方正県に、日本人公墓が建立されているのをご存知でしょうか。1945年の敗戦のさなか、祖国を目指して逃げ惑った旧満洲の開拓団の人々は、難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が、この方正の地で息絶えました。それから数年、累々たる白骨の山を見た残留婦人が骨を拾い集めました。そして力を貸した中国人たちが集めた遺骨はおよそ五千体ともいわれています。 /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍のご案内38
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『天を恨み 地を呪いました一中国方正の日本人公墓を守った人々(奥村正雄編著)』、『二つの祖国 ある中国残留孤児の証言(北澤博史著)』、『赤い夕陽の満州にて 「昭和」への旅(高橋健男著)』 /// 続きは本誌ご参照
編集後記39
大類善啓
4月の初めから1週間ほど、日中科学技術文化センターの仕事で、センターの常任理事でもある凌星光氏(日中関係研究所所長、福井県立大学名誉教授)と共に、北京、成都に出張した。その折りのことである。会談や宴席で、凌氏が私のことを当会のことに触れて紹介した。すると、中国側の関係者がたいへん驚き、有意義な仕事だ、感激したと語ってくれたのである。凌氏も私も、思わぬ中国側の反応に、改めてこの仕事の重要性に思いを新たにした。 /// 続きは本誌ご参照

  第3号(2006年12月発行) 第3号(2006年12月発行)表紙

松花江のほとりで―発見、交流、涙 第2回方正公墓の旅1
奥村正雄(方正友好交流の会参与)
方正へ出かける1ヶ月ほど前、ハルビンの石金楷という方から手紙をいただいた。「6月に方正に来られるそうですが…」という書き出し。肩書きはハルビン市中国残留孤児養父母の会秘書長とある。それまでに私が方正行きを知らせてあった中国の関係者は3人で、私たちの方正行きを彼がどこで知ったのか不明だった。6月21日、私たちがハルビン空港につくと彼が養父母の会の理事長とともに私たちを迎えてくれた。私たちの方正行きを彼に知らせたのは方正政府の外事弁公室主任・王偉新であることがわかった。滞在中、彼はときどき私たちの前に姿を見せたが、旅の終盤から帰国後にかけて、彼は思いもかけないことで私に力を貸してくれることになった。それについては後で改めて触れることにしたい。 /// 続きは本誌ご参照
「日中友好交流と歴史検証の旅」に参加して4
吉川雄作(千葉県)
人は全てを知ることはできないし、世の中には知らずともすむこと、知らぬほうがよいこともないではないが、「知らない」ではすまされないこともある。今年6月、奥村正雄氏(『天を恨み地を呪いました』の編著者)が主宰する「千葉健生病院健康友の会中国語教室」に参加していたことが縁で、同教室のメンバー3人とともに、総勢10人で方正の日本人公墓を訪れる旅に参加した。 /// 続きは本誌ご参照
交流と慰霊、不戦を誓ったハルビン4日間の旅6
猪瀬和道(中国東北地方の教育を支援する会事務局)
「歓迎!歓迎!」。元気な声を上げながら、笑顔で迎えてくれた愛くるしい子供たち。ここはハルビン市方正県の郊外にある沙河子至誠学校。私たち「中国東北地方の教育を支援する会」の交流訪問団が念願の同校を訪れたのは、真っ青な秋空が広がった9月27日だった。訪問団は沖縄、烏取、埼玉県などの日本各地や中国の大連、上海から集まった一行19人。9月26日から4日間の日程で方正県とハルビン市内を訪れ、子供たちとの交流に加え、「日本人公幕」や第七三一部隊遺跡を見学するなど、団員それぞれが心に深く刻んだ旅となった。 /// 続きは本誌ご参照
中国東北地方への旅―開拓団最期の地に立って9
加藤文子(NPO法人中国帰国者の会)
私たち「NPO法人中国婦国者の会」は戦後61年を迎える今年の夏を前に、6月22日から27日まで、中国東北部を訪ねました。私たちの会は、国策により開拓団として満州に送られ、敗戦後は中国に置き去りにされ、長年放置された婦人や孤児たちの早期帰回実現を目的に、残留婦人としてやっとの思いで帰国した鈴木則子が、帰国4年後の1982年に設立した会です。国による帰国の施策が遅々として進まず、民間組織の活動なしには、婦人や孤児の祖国への帰国も、また帰国後の自立もままならない現状を帰国後初めて知り、誰かがやらなければと、談立したのでした。 /// 続きは本誌ご参照
風化させてはならない歴史事実―方正日本人公墓と人々の心12
高橋健男
高速道路の高架をくぐり一面の水田の中の道路を左手に進むと、小高い松林の丘があり、その麓に広がる「中日友好園林」にたどり着く。その中に中国人が日本人のために建てた唯一の公の墓がある。一番奥まったところに「方正地区日本人公墓」「麻山地区日本人公墓」の墓碑が並ぶ。墓碑の後ろ手に、方正の凍士に眠った日本人満洲開拓民約4,500体の遺骨が、そして麻山で集団自決した日本人満洲開拓民400余体の遺骨を納めた円形墳墓がある。その慕碑から右手に20メートルほど歩を進めると、孤児となった開拓民の子供たちを養育してくれた「中国養父母公墓」がある。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州二題15
寺沢秀文(方正友好交流の会理事・長野県飯田市)
去る6月25日、中国・遼寧省の葫蘆島市にて中国側主催による日本人居留民送還事業60周年記念事業式典が開催され、日本側からも日中友好協会(全国本部)の代表団(団長・村山富市元首相)、信州葫蘆島の会の代表団(団長・穂刈甲子男同会会長)など、全国各地から約180人が参加した。終戦の冬を多くの犠牲者を出しながら旧満州各地で越冬した日本人居留民は、翌昭和21年春から引き揚げが始まり、特にその中心となった葫蘆島からは約105万人の日本人が引き揚げたとされている。 /// 続きは本誌ご参照
「満州」/「引揚げ」の記憶をたどって―泰阜村・方正・コロ島等を点にして17
南誠(方正友好交流の会理事・京都大学大学院生)
かつては、満洲開拓団の跡地を訪れた日本人ジャーナリストが書いた次のような文章を読んだことがある。現地の子供を見ながら“この子達はいつか、満洲のことについて勉強するようになるのであろう”、と。私はまるでそれに導かれたかのように、修士課程に入った2001年から満洲について勉強するようになった。もちろん、当時の指導教官小林英夫教授のご教示に負うところが大きかったことは言うまでもない. /// 続きは本誌ご参照
残留孤児の郷・方正の『礎』となった民族の懐の深さ―「日本人公墓」のある黒龍江省方正県は、民族の寛大さが表れている 「生きた化石」、特殊な歴史によってつくられた特殊な華僑の郷だ19
顔乗光・崔峰(人民日報)     転載元:人民日報海外版(2006年6月8日付)※中文原文添付
「日本人公墓」の傍らにもう一つの「中国養父母公墓」がある。この二つの公墓の間が独特な「歴史の対称」のような雰囲気を醸しだしている。一つは戦争被害国が、戦争を仕掛けた相手の国の受難し在留した人々の為に建てたものであり、もう一つは戦争を仕掛けた国の在留した人々の子孫が、自分たちの命の恩人である戦争被害国の国民の為に建てたものである。 /// 続きは本誌ご参照
徳をもって恨みに報いる義挙が日本を感動させる22
国際先駈導報     転載元:国際先駈導報電子版(2006年6月6日付)※中文原文添付
中国が「日本人公墓」を建立したやり方は、日本人の一部の民衆と学者の賞賛と感動を呼んだ。「この公墓は日本にもある程度の知名度があり、20世紀80年代から毎年約20団体以上の日本政府及び民間団体が方正に来訪して観光と墓参りを行った。90年代に入ると日本政府と民間の友好団体が公墓拡張のため、資金援助を行った。近年、毎年延ぺ30から40以上の日本人観光ツアーが来訪して見学を行い、最も人数が多かった団体は、1290人にのぼった」と方正県政府外事弁公室主任王偉新が「国際先駆導報」に語った。 /// 続きは本誌ご参照
怪物的な元気さを誇る韓慶愈さん24
大類善啓
長年、日中友好運動の先頭に立って活動されている本会顧問の韓慶愈さんは今年で80歳である。しかし通常考える年齢以上にとても元気で、頭の回転も衰えることはなく、また目配り、気配りもおさおさ怠りなく、しっかりしている。毎日仕事で接している者がいうのだから間違いはない。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓 知る旅へ―満州の歴史 若い世代に25
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2006年5月22日付)
中国黒竜江省方正県と交流する市民団体「方正友好交流の会」(事務局・東京)が六月、満州開拓団員らの遺骨を納めた現地の「日本人公墓」などを訪ねる「歴史検証の旅」に出掛ける。戦後六十年の節目の昨年、日本人公墓の存在を広めることなど目的に県内関係者も加わって活動を再開した交流の会にとって、再出発後初の訪中。今後の活動に弾みをつけると同時に、小泉純一郎首相の靖国神社参拝を巡り緊張が続く日中関係を、市民活動から改善していく一助にと願っている。 /// 続きは本誌ご参照
にいがた時評:三波春夫と旧満州―命懸けの逃避行 歌忘れず26
奥村正雄(方正友好交流の会顧問)     転載元:新潟日報(2006年7月22日付)
終戦前後、満州開拓団を襲った悲劇の数々を取材していた私は、四年前の夏、新潟市東堀で染物屋を営業しておられた野口幸次郎さん(84)を新潟市国際諜の近藤淳一さんから紹介され、お話を聞く機会があったが、その中に三波春夫のことがでてきた。 /// 続きは本誌ご参照
方正友好交流の会とODAの関わり27
牧野文敬(方正友好交流の会参与)
方正県に対する日本政府からのODA実施については、次の4点を基本として1996年3月25日、ハルピン市科学技術委員会主任と国際協力事業団専門家派遣事業部長との協定書署名調印によって実施された。 /// 続きは本誌ご参照
天を恨み 地を呪いました―中国・日本人公墓のうめき(2006年12月3日・幕張9条の会発足記念講談台本)28
奥村正雄(方正友好交流の会参与)
今からお話いたしますのは61年前、実際に起こったお話でございますが、それよりさらに13年さかのぼります1932年3月1日、中国の東北3省、今で申します黒竜江省、吉林省、遼寧省の3つを合わせたところに「満州国」という国が誕生いたしました。国とは申しましても日本が朝鮮を植民地としたあと、ここに中国の辛亥革命で皇帝の地位を追われたラストエンペラー・溥儀さんを連れてきて皇帝に据えまして、13年間、日本が思うままに操った、いわば幻の国でございます。 /// 続きは本誌ご参照
お元気な松田ちゑさん34
大類善啓
方正県にある日本人公墓の建立のきっかけを作ったのは、周知のように松田ちゑさんだった。方正県にある砲台山の麓に散乱していたおびただしい白骨を見て、なんとか骨を拾い、お墓を建てたいと、県政府に願い出たことが中央政府をも動かした。 /// 続きは本誌ご参照
日本に残留し定住したある中国人―在日華僑・韓慶愈が生きた「もう一つの昭和史」(第1回)35
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)
本編の主人公、韓慶愈は当会の顧問である。昨年再編総会のおり、韓が挨拶した際、自分が敗戦後、日本に残留せざるを得なかった当時の思いを重ねて、中国に残留した日本婦人のことを語ったところ、参加者に少なからぬ感動をもたらした。それから1年後の今年3月、総会後の懇親会のことである。15人ほどが集まり、各自に簡単な自己紹介をしてもらった。その時韓は、中国に帰国しようとした船が広島の原爆投下、日本敗戦により再び日本に舞い戻った経緯に触れて自己紹介をしたところ、多くの人から、「そういう体験を聞くのは初めてだ。ぜひ本にしたらどうか」という意見が出た。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い46
方正友好交流の会
中国ハルピン市郊外の方正県に日本人公墓が建立されているのをご存知でしょうか。1945年の敗戦のさなか、祖国を目指して逃げ惑った旧満洲の開拓団の人々は、難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々がこの方正の地で息絶えました。それから数年、累々たる白骨の山を見た残留婦人が骨を拾い集めました。そして力を貸した中国人たちが集めた遺骨はおよそ五千体ともいわれています。 /// 続きは本誌ご参照
執筆者及び関係団体の紹介47
方正友好交流の会
吉川雄作さん、加藤文子さん、高橋健男さん、NPO法人「中国帰国者の会」について、NPO法人「中国焔国者の会」訪中団について /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍案内48
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『日本と中国 その底辺を翔けた70年(石井貫一編著)』、『天を恨み 地を呪いました―中国方正の日本人公墓を守った人々(奥村正雄編著)』、『二つの祖国 ある中国残留孤児の証言(北澤博史著)』、『赤い夕陽の満州にて 「昭和」への旅(高橋健男著)』 /// 続きは本誌ご参照
編集後記49
大類善啓
この6月のことである。仕事で付き合いのある知人の中国人が大連から電話をかけてきた。「いやぁ大類さん、ぴっくりしたよ。中国最大のインターネットの検索サイトで、方正のことが出ていて大類さんの名前も出ているよ」と教えてくれた。そこで初めて、『国際先駆情報』に記事が出ていることをインターネットで知った。まさにインターネットの時代だと実感した。大連の知人も方正の公墓について初めて知ったという。 /// 続きは本誌ご参照

  第2号(2006年3月発行) 第2号(2006年3月発行)表紙

方正訪問記―「方正日本人公墓」と私1
南誠
まだ、10月末だというのに、中国東北地域は既に冬景色に染まっていた。見渡すかぎりの畑は雪に覆われていた。街の人は寒さに身を縮みながら、冬支度に励んでいた。今回は麻山事件の生存者(老婦人)、高校の教師、カメラマンと私の四人旅であった。目的の一つは麻山事件のドキュメンタリーを作ることである。三泊四日という短い旅だったが、麻山事件の跡地(西大坂)、青竜村、方正などの地を訪ねた。 /// 続きは本誌ご参照
北京での新年5
今村春江
新年明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いします。私は今、家族4世代で北京に来ています。1982年一家で日本に引越しをしてから、家族がそろっての中国は初めてのことです。今回の北京旅行には一つ大きな目標がありました。それは、私の祖母に今の中国を見せる事です。 /// 続きは本誌ご参照
方正6
伊藤俊(和光大学4年生)
ハルピンから北東へ車で3時問半、方正県の日本人公墓へ行くと決まったのは急なことで、訪問日の二日前だった.ヤマザンこと山崎文徳くんが、方正で日本語学校の名誉塾長をしている王鳳山さんや役所の方に連絡を敢つて実現したのだ。 /// 続きは本誌ご参照
千葉県“方正郷”はいま7
吉田照也(千葉市)
千葉市周辺には方正出身の帰国者が多い。それには理由があった。その理由について、現在、東京地裁で進められている中国残留孤児国家賠償訴訟・千葉県原告団の代表者、吉田照夫さんに寄稿をお願いした。原稿は中国語、日本語どちらでも書きやすい言語で、とお願いしたら、すべて日本語で書いてくれた。(編集部) /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓と伊那谷―慰霊碑は語る」の出版にかけた想い10
寺沢秀文(長野県)
かつて中国東北部に13年問だけ存在した幻の国「満洲」。この満洲に全国から約27万人余の開拓団等が渡満し、その中で最も多かったのが長野県であり、そして県内でも最も多かったのが私の住む飯田・下伊那地方を含む県南・伊那谷地区でした。言わば全国で最も多くの開拓団を送出したこの伊那谷だけに、戦後、満蒙開拓に係わる慰霊碑等が各地に建立されています。しかし、戦後60年を経る中で、元開拓団員等も高齢化が進み、こういった慰盤碑の維持管理等にも支障を来たしつつあり、山中に埋もれどこにあるかさえわからないようなものすらあります。 /// 続きは本誌ご参照
ニュース:加藤紘一氏の公墓参拝を確認!12
大類善啓
1月27日、衆議院議員会館に加藤紘ー氏を訪問した。当会の参与である木村直美が旧知の加藤氏のアポイントメントを取り、当会顧問の韓慶愈(社団法人日中科学技術文化センター理事長)と大類が一緒に加藤氏を訪れた。木村から、当会の設立経緯を紹介しその後、方正についてお聞きしたところ、次のようなことがわかった。 /// 続きは本誌ご参照
記憶・戦後60年:4500柱、公墓に眠る開拓民―「小泉首相もお参りを」13
林涼子(東京新聞社会部)     転載元:東京新聞(2006年11月20日付)
枯れ草をかき分けると、風化した無数の白骨が散乱していた。一九六三年四月。中国東北部の黒竜江省ハルピン市方正県にある砲台山のふもと。中国人の夫とともに荒れ地を開墾していた松田ちゑさん(86)には、それが何かすぐに分かった。 /// 続きは本誌ご参照
日本政府に忘れられた中国の日本人公墓14
陳志江(華人週報)     転載元:華人週報(2005年12月8日付)※中文原文添付
方正県は黒龍江省ハルピン市の東南165キロのところにあり、人口わずか23万人の小さな県である。この中心、方正の街が有名なのは、この街に建設された世界でも類のない公墓によってである。それは戦争の被害を受けた国の政府が侵略国自身の犠牲者のために建設したものだからである。当時、みずから日本人公墓の建設に関わった元黒龍江省政府外事部門の趙喜晨先生が、その由来を詳しく説明してくれた。 /// 続きは本誌ご参照
北京放送が方正日本人公墓を取材し放送!―60周年特別番組「ポプラが語る日中の物語」17
大類善啓
会報1号で、北京放送(日本語放送)が昨年8月15日と16日に特別番組として、日本人公墓を取り上げて放送したこと、私(大類)にも北京から取材があったことを紹介した。その後、北京放送の王丹丹さんから、その時の録音テープ、また放送台本も送付していただいた。 /// 続きは本誌ご参照
執筆者紹介/ご支援ご協力のお願い22
方正友好交流の会
記事の構成上、紹介できなかった執筆者のプロフィールを、簡単ですが紹介します。なお、文中で執筆者のプロフィールがわかる人は省略しました。今村春江さん、伊藤俊さん /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓 墓参の旅23
方正友好交流の会
6月中旬に公墓を訪れる旅を企画しています。墓参だけでなく、60年前、多くの同胞が各地の開拓団から命からがら方正にたどり着いた時の収用施設跡の見学や地元の人たちとの懇談など、方正公墓の意味を問い直す、当会ならではのメニューも考えたいと思っています。 /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍のご案内24
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『日本と中国 その底辺を翔けた70年(石井貫一編著)』、『天を恨み 地を呪いました一中国方正の日本人公墓を守った人々(奥村正雄編著)』、『二つの祖国 ある中国残留孤児の証言(北澤博史著)』 /// 続きは本誌ご参照
編集後記25
大類善啓
昨年6月再編総会を終え、会報を9月に発行してから、半年ほど経過したことになります。昨年方正を訪問した若い世代の原稿を掲載でき、なんとか2号目を発行することができました。その間、いろいろ新聞等で方正の公基を紹介していただきました。当会の重要な目的の一つである、公墓の存在を多くの日本人に知っていただくという意味では活動の大きな成果とも言えますが、それ以上のことが出来たかといえば正直いって忸怩たるものがあります。しかし焦らず、小さい会なりに出来ることを着実にやっていけたらと思っています。今後ともご支援ご協力をいただければ幸いです。 /// 続きは本誌ご参照

  第1号(2005年9月発行) 第1号(2005年9月発行)表紙

会の再出発に当たって1
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)
日本人公墓は、ほとんどの日本人に知られていない。中国通といわれる人々の中でも知られていない。中国通のジャーナリストや中国研究家も知らない。このことは、何もその人たちが無知だからではない。中国政府も恩着せがましく公墓の存在も建立したこともPRしなかった。本当に悲惨な目に遭われた遺族とその関係者、日中友好運動に携わった中の数少ない人たちの間にしか、公墓の存在は知られていなかった。 /// 続きは本誌ご参照
大きな反響を呼んだ再編総会3
方正友好交流の会
「方正友好交流の会」の再編総会は、6月19日(日)午後1時から都内・中央大学駿河台記念館で開催された。当会の活動が、日中友好協会の機関紙「日本と中国」で大きく紹介され、また朝日、読亮両紙の都内版に開催案内記事が紹介されたこともあり、私たちが当初予想した以上に参加者が多く、50名近い参加があった。 /// 続きは本誌ご参照
日中の友愛 後世へ―満蒙開拓団公墓で交流会発足6
望月迪洋(新潟日報編集委員)     転載元:新潟日報(2005年7月2日付)
六十年前の一九四五年ハ月、現在の中国黒竜江省ハルピン市郊外にある方正県に、ロシア軍の攻撃にさらされた満蒙開拓団が各地から雪崩をうって集結した。だが食料も暖房も医薬品もなく、厳冬の荒野に放置された人々は翌四六年春までに、飢えや凍死、病気あるいは自決なと次々とたおれ推計五千人を超したといわれる。その後、黒竜江省政府の手で四千五百余体の遺骨を納めた方正日本人公墓が立てられた。靖国参拝や歴史認織などで中日両国が対立感を深める今、この日本人公墓のことを広く世に伝えようと「方正友好交流の会」が六月末、東京・神田酸河台で発足した。 /// 続きは本誌ご参照
「友好の原点」交流再び―中国・黒竜江省の「日本人公墓」7
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2005年6月20日付)
満州開拓団員らの遺骨を納めた「日本人公墓」のある中国黒竜江省方正県と交流してきた市民団体が十九日、都内で活動を再開した。会長の死去に伴い休止状態だったが、戦後六十年の今年、公墓の存在を多くの人に知ってもらい、冷え込んでいる日中関係の改善につなげたいと再出発を決めた。祖母が県内出身の帰国三世らが役員に加わり、若い世代が活動の中心を担って友好促進に取り組む。 /// 続きは本誌ご参照
「日本人公墓」が中日友好に特別の重みを支えている8
黄文煒(日本新華僑報記者)     転載元:日本新華僑報(2005年6月28日付)※中文原文添付
6月19日、方正友好交流の会が東京で設立総会を開いた。この会の全身は1993年5月に創立されたハルピン市方正地区支援交流の会で、かつて方正県の農業の発展や日本語教育に貢献した。2002年石井貫ー会長がなくなった後、交流会の活動が停滞した。方正県と日本が特別な関係を持つというのは、ここに中国で唯一の日本人公墓があり、40年余にわたってユニークな中日友好を見届け「記録」して来たからである。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州の墓 守ろう―「日本人も同じ犠牲者」中国側が建立10
読売新聞     転載元:読売新聞(2005年6月28日付夕刊)
中国東北部・黒竜江省のハルピン市方正県に、旧満州入植者のために中国側が建てた「日本人公墓(共同墓地)」がある。日中両国の専門家にもあまり知られていないこの墓を、友好の礎と考え、維持費を負担するなどして交流を進めようと、中国残留日本人の2世、3世たちが活動を始めた。戦後60年、そして日中関係が冷え込む今、「二つの祖国」に思いを込めて―。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓を風化させるな―「方正友好交流の会」が再出発へ11
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2005年4月15日)
中国・黒竜江省の方正県に約5千人の日本人入植者が眠る「方正地区日本人公墓(共同墓地)」がある。その方正県と日本との友好促進、公墓の存在を広めようという「方正友好交流の会」は、柱になっていた人の死去で活動が停滞していた。「方正の入植者の悲劇を風化させるな」と、関係者が6月に会再出発に向けた総会を開く。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓 悲劇忘れず交流再開―黒竜江省方正県支援交流の会 継続へ19日に総会12
朝日新聞     転載元:朝日新聞(2005年6月8日付)
中国の黒竜江省方正県との交流を進めてきた「方正地区支援交流の会」が19日、再出発のための総会を開く。 /// 続きは本誌ご参照
中国の日本人墓地通じた交流再出発12
読売新聞     転載元:読売新聞(2005年6月17日付朝刊)
戦後60年の今年、中国・黒竜江省の方正県にある「日本人公墓(共同墓地)」の存在を広め、友好活動を進めようと、休眠中だった市民団体「方正地区支援交流の会」が19日、都内で再出発の総会を開く。同会は「公墓を両国の交流の原点と位置づけ、冷え込んだ日中関係を改善する一助にしたい」とし、広く参加を呼び掛けている。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓を風化させるな―「方正友好交流の会」が再編の総会12
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2005年7月5日)
「方正友好交流の会」の再編総会が6月19日、東京で開かれ、約45人が参加、交流のの再出発を確認した。 /// 続きは本誌ご参照
墓は生者に平和を問いかける13
スベンドリニ・カクチ     転載元:IPS-JAPAN(2005年7月18日付)
遠藤勇さん(66)は、日本人孤児の世話をした中国人養父母のために公墓を建立した。第二次世界大戦末期、開拓移民であった親たちがソ連軍や中国軍に追われて避難したために、多くの日本人の子どもが中国東北部に棄てられ孤児となった。 /// 続きは本誌ご参照
再編総会に寄せられたメッセージ15
方正友好交流の会
再編総会の案内の際、葉書を入れ、出欠に関わらず一言メッセージをお願いした。頂いた全部また全文をページ数の関係で紹介できないのは残念だが、ほんの一部主に欠席された方を中心にご紹介します。出席と明記していないのは参加できなかった方々である。 /// 続きは本誌ご参照
再編総会に寄せられた中国からの祝辞17
方正友好交流の会
中国黒龍江省方正県人民政府、元方正県中日友好交流協会常務副会長王鳳山、方正県日本語学校校長柳長晴・名誉塾長王鳳山 /// 続きは本誌ご参照
ニュース18
方正友好交流の会
再編総会を終えて一ヶ月も経ない7月に入り、方正県政府代表団が日本を訪れているという知らせが方正出身の華僑仲間から入った。そこで急逮7月12日(火)午後4時から、日中科学技術文化センターの会議室で、「方正友好交流の会」の事務局メンバーと方正出身の華僑グループが、6人から成る方正県人民政府の代表団と会談した。 /// 続きは本誌ご参照
方正友好交流の会 規約・役員人事19
方正友好交流の会
第1条 名称 本会は、方正友好交流の会と称す。 /// 続きは本誌ご参照
書籍のご案内20
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『日本と中国 その底辺を翔けた70年(石井貫一編著)』、『天を恨み 地を呪いました一中国方正の日本人公墓を守った人々(奥村正雄編著)』 /// 続きは本誌ご参照
編集後記21
大類善啓
再編総会までの慌しい日々、そしてなんとか総会を終えたという安堵感と疲労感の後に来たのが各方面からの大きな反響だった。感動した、支援をしたい、カンバしたいという電話を頂き、すぐにでも新生第1号の会報を出そうと思ったが、なかなかエンジンがかからない。中国との交流会の開催準備など多忙を極め、それでも休日を活用して会報の原稿を書き、整理して、やっと発行にこぎつけることが出来た。電話を頂いた方々には、会報を通してのご報告が遅れたことをご容赦顧いたく思います。 /// 続きは本誌ご参照
 
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「方正友好交流の会」事務局

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