方正友好交流の会
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星火方正
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第15号(2012年12月発行) / 1冊32記事 を表示しています。

  第15号(2012年12月発行) 第15号(2012年12月発行)表紙

方正県政府による公墓維持管理費辞退に思う1
大類善啓
方正県政府が日本政府の日本人公墓維持管理費を辞退する、という記事が出ていたと友人に教えられて驚いた。まさかそんなことがあるとは思えなかったのだ。記事は2012年7月28日付読売新聞朝刊の記事だった。書いた竹内誠一郎記者とは以前に何度か電話で話した間柄である。改めて電話で問い合わせると、竹内さんは県政府の外事僑務弁公室主任の王偉新さんに直接取材して書いたと言う。 /// 続きは本誌ご参照
方正県政府関係各位へ:公墓管理維持費辞退の報に接して(※中文も添付)2
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)
このたび中国黒竜江省方正県人民政府が、日本政府からの公墓維持管理費を辞退する旨の報に接し、非常に驚いています。1963年、周恩来総理によって建設を許された中国唯一の方正地区日本人公墓に対しては、日中国交回復以前も以後も、長年にわたって維持管理をしてきていただいた貴国及び方正県政府への感謝をこめて、日本のさまざまな民間友好団体による支援と友好交流が続けられてきました。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓「支援受けず」―中国・方正県、日本に方針伝達4
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2012年8月16日付朝刊)
中国黒竜江省方正県が、敗戦時の引き揚げ途中に死亡した旧満蒙開拓団員を慰霊するために建てた共同墓地「日本人公墓」の維持管理費の一部を2009年から支援してきた日本政府に対し、今後は支援を受けない方針を伝えたことが15日、外務省などへの取材で分かった。 /// 続きは本誌ご参照
方正友好交流の会記念講演会、大好評5
大類善啓
《「満州」、原発棄民の荒野》と題した第8回方正友好交流の会・記念講演会は多くの人たちに新鮮な印象を与えた。下記の記事は公益社団法人日中友好協会の旬刊紙『日本と中国』に大類善啓が執筆したものである。 /// 続きは本誌ご参照
「満洲国」から原発危機へ:欺瞞言語の脅威6
安冨歩(東京大学東洋文化研究所教授)
今日が原発の再稼働が決定されるという日になるとは思いませんでした。午前中に2時間ほど「再稼働反対」のデモに行って来ました。さて、私が研究を始めたのは、バブルが始まって崩壊した頃です。その直前に、住友銀行に2年半ほど働いていました。住友銀行に入った理由は、大学時代のしつかりした立派な先輩方が多く入っていたからです。それでそういう人が集まっている中に私も参加したいと思ったわけです。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児及び原発問題を通して日本を問う20
河合弘之(弁護士)
私は、1944(昭和19)年4月旧満州吉林省長春(新京)で生まれ、父は満鉄の関連会社、満州電業の社員で、四人姉弟の三番目です。8月15日敗戦の時、1歳で、葫蘆島から引き揚げました。その船内で、弟が栄養失調で死亡、水葬にされました。両親は満洲時代のこと、特に引き揚げの状況については話してくれませんでした。その後、安富先生日く「東大話法」(笑)の東大法学部を出て弁護士になりました。学生時代は卓球部のエースで、4年先輩に東京電力の勝俣恒久氏がいたので、5年前、勝俣氏への年賀状に「原発止めましょうよ」と書いたところ、彼から「原子カルネッサンス」とだけ書いた返事が来ました。 /// 続きは本誌ご参照
東日本大震災後の日中民間交流一方正日本人公墓開拓団石碑事件を中心に41
猪股祐介
東日本大震災後ほど、中国世論が日本に好意的であった時期はなかったでしょう。背景には2008年の四川大震災の際、日本救助隊の活躍が他の国際救助隊に抜きん出ていたことがあります。東日本大震災後、中国人の約83%が「日本を助けよう」と回答したという調査もありました。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児のアイデンテイティー45
藤原知秋
僕は今年の3月で、ちょうど来日22年目になり、中国で生まれ育った20年間よりも2年長くなりました。フリーの中国語講師、通訳と翻訳を生業にしていますが、すでに日本国籍を取ったのです。身の上のことを言いますと、母方の祖母が日本人です。第二次大戦が終結しようとする時に、家庭の事情に加えて、東京も米軍による空襲で危なくなることもあり、家族で朝鮮半島を経て、当時満洲国だった中国東北部に渡りました。その家族には、まだ幼い僕の母親も含まれます。渡満して間もなく日本が敗戦したので、波瀾万丈の逃避行を余儀なくされました。家族もばらばらになり、祖父が行方不明、祖母が幼い子どもを三人も抱えて、とても自力で日本本土へ帰ることはできないので、やむなく子どもをばらばらに中国人の家に預け、祖母も中国人の男性と再婚して、中国に留まりました。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路1:再会の歓びと辛さ47
奥村正雄
毎年恒例の「方正日本人公墓への旅」(6月27日~7月1日)は中国南方航空の新ダイヤによって、行きは成田から大連で国内航空に乗り換えハルピンへ、帰りは例年通りハルピンから新潟へ、という変則行程となった。日程を1日変更すれば予定通りの往復になったのだが、すでに仕事の予定を当初の日程に合わせていたメンバーがあり、この変則コースとなった。参加者9人のうち、一人、毎回参加してくださる樗沢仁さんが新潟県在住のため、前日に成田で一泊、という予定外の負担をかけることになったが、さらにこの「つぎはぎコース」の難点は、大連で5時間半もハルピン行きを待たなければならないことだった。この国内便がまた1時間余も延着、ハルピン郊外の空港に着いて、市内のホテルに着いたのは夜中だった。 /// 続きは本誌ご参照
孤児の原点を訪ねる―徐士蘭が実母と永別した場所ヘ49
飯白栄助
羽田澄子の記録映画「嗚呼 満蒙開拓団」で、厚労省は認めてくれないが私は日本人だ、母の記憶はないが、周囲もみんな私を日本人だと言っている、と強く訴えた徐士蘭さんに、「なんとか一目、祖国を見せてあげたい」という多くの人の思いが実を結び、昨年6月、彼女の訪日が実現した。 /// 続きは本誌ご参照
方正の旅初参加の印象51
近藤喜一郎
私は今年76歳、69歳の退職を契機に中国語を学び始めましたが、今では中国語電子辞書は私にとって“総是不離身”となり、以前からお付き合いのあった中国や台湾の友人はもとより、最近では中国大使館の方にも知り合いが出来、何かと中国の方々との交流が広がるにつけ、年甲斐もなくこれからも学習を続け将来は日中友好の為に少しでも貢献出来ればと願う一都民です。 /// 続きは本誌ご参照
8年ぶりの公墓再訪53
是洞三栄子
初めて「方正日本人公墓への旅」に参加したのはもう8年前になるが、二度目の今回は墓参のほかに、昨年6月、日本に10日間滞在した未認定「中国残留孤児」の徐士蘭さんとの再会と、彼女の周辺のあれこれを収録するという目的があった。あのペンキ事件が一応収束したかに見えるこの6月末に、今回は直接、成田空港から旅立った。それに大連空港でのトランジットの大幅な時間調整の関係で、大連のバス観光という、願ってもないおまけも付いた。 /// 続きは本誌ご参照
方正の旅行に参加して55
佐藤美子
とうとう念願が叶った!!方正友好交流の会が企画する2012年6月27日~7月1日の『方正日本人公墓への旅』に参加した。参加の動機は、2009年に公開されたドキュメンタリー映画『嗚呼 満蒙開拓団』(羽田澄子監督)を観たこと、その際にギャラリーで販売していた『星火方正』の会報を拝見し、方正県という場所に亡くなった日本開拓村の難民のために中国人が建立してくれた日本人墓地があることを知り、いつか訪れてみたいと抱いていた。以前から中国残留孤児問題については、報道やドラマ等から知っていたが、映画が公開される2年前の大学4年次に、帰国者である千葉県中国帰国家族互助会の安達大成さんのお話を伺ったことで、より関心を持つようになった。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路259
奥村正雄
6月28日、方正の日本人公墓参拝に方正を訪れた8人のうち、映画『祖国よ なぜ!? 徐士蘭さんの叫び』(仮題)の最後のシーン撮影のため方正に留まる3人を残して私たち5人はハルピンへ戻った。 /// 続きは本誌ご参照
養父母連絡会レポート62
石金楷(秘書長)
2012年7月30日、日本の京都大学大学院、文学研究科博士課程の留学生、郝洪芳さんがハルピンヘ調査に訪れ、当連絡会がいろいろ世話をしてあげた。今年30歳の郝洪芳さんは黒竜江七台河市の出身、2005年東北師範大学を卒業、その後北京外国語学院で勉強、2009年に京都大学に留学した。 /// 続きは本誌ご参照
残留日本人孤児の記録後世へ―中国の民間団体が常設展63
石田耕一郎(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2012年8月16日付夕刊)
中国の残留日本人孤児と、中国人養父母に関する常設展が16日、黒竜江省ハルピンで実現した。戦後67年を経て養父母も孤児も高齢化が進み、資料の散逸が懸念されていた。歴史を後世に語り継ぐ「中国初の取り組み」という。 /// 続きは本誌ご参照
「大陸の花嫁」3代で伝承―91歳 京都の井筒さん 苦難の引き揚げ ネットに俳句64
読売新聞     転載元:読売新聞(2012年8月15日付夕刊)
戦時中に旧満州(中国東北部)へ渡った京都府城陽市の井筒紀久枝さん(91)は、ソ連軍の侵攻などで目の当たりにした悲劇を、俳句や手記に残してきた。平和への願いは、娘の新谷陽子さん(55)と孫の大学4年生、有里さん(21)に引き継がれ、インターネットで発信されている。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓の悲劇 後世へ―黒竜江省方正県 ゆかりの地 保存運動65
石田耕一郎(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2012年8月4日付朝刊)
旧満洲に渡った旧満蒙開拓団員約5千人が、日本の敗戦前後に命を落とした中国・黒竜江省方正県で、ゆかりの地の保存運動を進める中国人郷土史家がいる。開拓団員らは、中国からみれば「加害」に連なる役目を担わされた日本人だが、敗戦の混乱の中で日本軍に見捨てられた。その被害者としての面にも目を向けるべきだ、と訴えている。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路3:68年前の松田ちゑさんが蘇る…片岡稔恵さんの小説『流氓に非ず』―中国残留婦人の物語66
奥村正雄
北靠山屯村山郷開拓団…かつて松田ちゑさん(方正地区日本人公墓の生みの親)が語る話の中で聞き慣れ、人に話し慣れた、山形県が中国黒竜江省に送り出した開拓団の名である。ここで戦争末期、1945年8月9日、ソ連軍が国境を越えて旧満州に侵入した前後の、あわただしい様子から、国策を絡ませながら松田さんたちの避難を克明に描いてゆく。 /// 続きは本誌ご参照
満洲逃避行の検証―第13次興安東京荏原郷開拓団68
宮下春男
1945(昭和20)年8月9日、「満洲国」の国境各地からソ連軍が一斉に侵攻した時、満洲の僻地に入植していた農業生産を主とする約1200もの開拓団等は戦争を避けるため的確な情報がないなかを日本人が多く住む都市や“南下”を目的に退避・避難したが、比較的順調に避難できたのはごく一部の開拓団で、特に国境沿いに配置されていた開拓団は避難途上で多くの犠牲を払った。その一つがこの開拓団であり避難時の証言である。 /// 続きは本誌ご参照
垂水健一さんを偲ぶ88
大類善啓
年を取れば友人知人の訃報に接することが多い。とりわけ今年はその感が強い。思い出してみても、(社)日中友好協会の機関紙『日本と中国』元編集長の金田直次郎さん。『女湯に浮かんでみれば』『神保町タンゴ喫茶劇場』と小さな詩集を遺し、38歳で逝った堀ミチヨさん。20代の半ばからの付き合いで、新生塾という名のサークル共同体や「台湾の政治犯を救う会」などの活動を共にした河戸道子さんは当会の活動も支援してくれた。まだ60代半ば、これから益々活躍してほしいと思った人だった。 /// 続きは本誌ご参照
悲劇を風化させるな―「方正友好交流の会」が再出発へ89
中日友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2005年4月15日)
中国・黒竜江省の方正県に約5千人の日本人入植者が眠る「方正地区日本人公墓(共同墓地)」がある。その方正県と日本との友好促進、公募の存在を広めようという「方正友好交流の会」は、柱になっていた人の死去で活動が停滞していた。「方正の入植者の悲劇を風化させるな」と、関係者が6月に会再出発に向けた総会を開く。 /// 続きは本誌ご参照
今こそ、「愛国」より国際主義的精神だ―生き続ける周恩来の思想と人間的な魅力90
大類善啓     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2012年11月15日)
2009年10月から始まった「周恩来と日本」展は、その後各地で巡回し開催されている。つい最近は青森市(青森県日中友好協会主催)で開催され、周恩来総理に対する人気の高さと広がりを改めて感じさせた。また現在、尖閣問題で悪化する日中関係だが、「日本軍国主義と日本人民を区別した周恩来総理の知恵に立ち返るべきだ」(西堀正司・長野県日中友好協会理事長)との声も挙がっている。危機にある日中関係の中、周総理の思想と行動に焦点を当て、関係改善へのヒントを考えてみたい。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓 立ち入り再開へ―中国・方正県 石碑問題で作夏から規制91
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2012年4月28日付朝刊)
日本と中国のぎくしゃくした関係を背景に昨夏以降、中国黒竜江省方正県にある旧満州(中国東北部)開拓団員らの共同の墓「日本人公墓」に近づけない状態が続いていたが、5月にも立ち入り可能になることが27日、友好団体関係者らの話で分かった。昨夏、方正県が亡くなった旧開拓団員の名を刻んだ石碑を公墓近くに建てようとしたところ、同国内で激しい反対が起きた影響で公墓に近づけなかった。 /// 続きは本誌ご参照
窓:大地は天からの借り物だ92
大類善啓     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2012年5月5日)
いにしえの昔から、人々が住む大地は天から、あるいは神から授かったものだ、お借りしているのだから大切に使うべきだという考えがある。 /// 続きは本誌ご参照
窓:無頼漢の最初の拠り所92
大類善啓     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2012年7月5日)
政治家という人種は本当に目立ちたがり屋が多い。こういう人間の大向こうを狙うような発言などは、メディアが取り上げないのに限る。と言っても、そうはいかないのが浮世というものだ。 /// 続きは本誌ご参照
建設進む「満蒙開拓平和記念館」93
寺沢秀文(本会理事、一般社団法人「満蒙開拓平和記念館」事業準備会専務理事)
「方正友好交流の会」会員の皆さま始め全国の皆さまより温かいご支援を頂いて建設準備を進めてきた「満蒙開拓平和記念館」。ようやく念願かない、先般9月11日に起工式を挙行し、現在、来年4月下旬開館予定に向けて建設が進んでいます。平成18年の構想着手以来、建設着工までに6年もの歳月を要してしまい、また厳しい経済環境等の中で、建物規模等も当初計画よりはかなり縮小してではありますが、それでも来春には全国で初めての満蒙開拓に特化した記念館が完成します。 /// 続きは本誌ご参照
私たち若い世代に引き継がれたもの96
藤原知秋(方正友好交流の会・青年グループ)
先ごろ、方正の日本人公墓わきで、急ごしらえの死亡者名を刻んだ石碑に赤ペンキがかけられ、これを建設した方正県政府があわててこれを撤去するという事件が起こりました。刻まれた名前が約250名、敗戦時に各地の開拓団から方正めざして苦難の避難をし、ようやくたどり着いて亡くなった老幼婦女子が約4500人と推定されています。ペンキ事件の対象になった石碑に刻まれた人数はそのごく一部、大多数の犠牲者氏名は不明のままです。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓への旅(2013)98
方正友好交流の会・公墓訪問班
6月19日(水)新潟空港ロビーに集合 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い99
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
書籍案内100
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」ーハルビン市方正県物語一(方正友好交流の会編著)』、『東京満蒙開拓団(東京の満蒙開拓団を知る会著)』、『戦場へ征く、戦場から還る一火野葦平、石川達三、榊山潤の描いた兵士(神子島健著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記101
大類善啓
12月の慌しい日々、今回も森一彦さんと詰めの編集作業を行い、なんとか発行にこぎつけることができました。原稿についている写真は全部カラーにしたいところですが、費用の点で難しく、ご容赦ください。 /// 続きは本誌ご参照
 
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