方正友好交流の会
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星火方正
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第18号(2014年5月発行) / 1冊31記事 を表示しています。

  第18号(2014年5月発行) 第18号(2014年5月発行)表紙

満洲移民の加害と被害1
渡辺一枝
私は1945年1月に、ハルビンで生まれた。翌年秋に母に背負われて、引き揚げてきた。だから私に生地の記憶は無い。子どもの頃の私に母は、ハルビンのことや父のことをたびたび語った。物心ついてからの私は、いつどこで死んだか判らない父を語る母を、ハルビンでの暮しを懐かしげに語る母を、疎ましく思うようになっていた。母の言葉に耳塞いでいたその頃の私は、たぶん、聞き分けの無い子どもだった。根こそぎ動員で父が現地招集された時、私は6ヶ月の赤ん坊だった。なぜ父を止めなかったかと母を恨み、侵略地を懐かしむ母を許し難くも思っていたのだ。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓平和記念館」を訪ねて5
新谷陽子
2014年3月7日~8日の二日間、「方正友好交流の会」企画による「満蒙開拓平和記念館」を訪ねる長野県下伊那の旅に参加した。連日、抜けるような晴天。春光に輝く雪嶺がまばゆかった。澄みきった早春の山の空気とピリッとした寒さも心地よく、快適な旅だった。 /// 続きは本誌ご参照
下伊那への旅―増野と福島小高への思い11
長谷部郁子
今回の「満蒙開拓平和記念館」への旅は、全体の内容も順序もよく考えられ、準備されていて満足したが、全行程を終えて気がついたのは、増野への再入植者の皆さんが目指したものが、ただ安穏だけの暮しではなく、人間らしく、なっかしく、永く住み続けたいと思える故郷創りだった事です。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館を見学して13
酒井旭
関東軍が企んだ満蒙入植政策が如何に無謀で残酷なものであったか―記念館の展示は必死に訴えていました。開拓団員は3回見捨てられました。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館訪問の旅に参加して15
石田和久(福岡)
方正の会報で上記のツアーを知り、一度は訪間したいと思っていた記念館なので参加を考えた。新宿からだと前泊しなければならないので、飯田あたりでの合流をと打ち合せたが、昼神温泉のホテルでの交流会のみの合流となった。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館を訪ねて16
塚田恵子
満蒙開拓平和記念館(長野県下伊那郡阿智村に2013年4月開館)は、すぐ側を阿智川(天竜川の支流)が流れる鄙びた村の一角にありました。記念館の裏手から歩いて直ぐのところに長岳寺というお寺があります。ここの前住職の山本慈昭さんは中国残留孤児の身元捜しに生涯を捧げられ、日中友好に尽力された方で、このお寺も訪ね、今の住職の方から山本慈昭さんのこともお聞きしました。今、山本さんを描いた‘望郷の鐘’という映画が製作されているとのことでした。 /// 続きは本誌ご参照
「被害」と「加害」の交差する満蒙開拓団18
鈴木敏夫
このたびは、「満蒙開拓平和記念館」を訪ねる旅にご一緒させていただきありがとうございました。授業では満蒙開拓団をとりあげ、民放の放送大賞をとった「少年たちは戦場に送られた」(2010年)というテレビ番組を見せます。また2.26事件後、広田弘毅内閣が「満州開拓移民推進計画」を決議し、1936年から20年間に(1956年まで!)100万戸(500万人)の日本人移住を計画したことが背景にあることを明らかにします。 /// 続きは本誌ご参照
「下伊那の旅」参加者の発言を聞いて―満蒙開拓平和記念館を訪ねて19
凌星光
「方正友好交流の会」企画の今回の旅には多種多彩の方が参加しており、また今晩(3月7日夜の交流会)の皆さんの話を聞いて大変勉強になりました。記念館を見学して、満蒙開拓団の悲劇がよく分かりました。とりわけ印象が深かったのは、対ソ連防衛と余剰人口のはけ口として満蒙開拓団が国策として推進されましたが、敗戦後は完全に見放されたという事実です。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓団・私が歩んできた道21
石橋辰巳
1940年10月、私が小学校3年生の時、父母に連れられて満洲国三江省方正県大羅勒密開拓団に武装移民として入植した。大豆、トウモロコシ、野菜などは収穫できたが、稲作は日本と気候が違い、9月には霜が降りできず、3年が過ぎてようやく収穫できるようになって終戦を迎えた。 /// 続きは本誌ご参照
私が体験した死の逃避行25
中島多鶴
(満蒙開拓平和記念館・寺沢秀文専務理事からのご紹介挨拶)それでは、私から中島多鶴さんをご紹介します。ご存知の方も多いとは思いますが、中島多鶴さんは、『沈まぬ夕陽』(中繁彦著、信濃毎日新聞社)や『忘れられた女たち』(NHK取材班・中島多鶴編、日本放送出版協会)といった本でも紹介されている方です。 /// 続きは本誌ご参照
母の愛は永遠―「中国の母親の大きな情愛」と題した展示会の報告35
石金楷(ハルピン市日本残留孤児養父母連絡会事務局長)
2012年8月16日、ハルピン市紅十字会と侵略日本軍731部隊罪証陳列館が主催し、黒竜江省社会科学院、ハルピン市日本残留孤児養父母連絡会が協賛した『中国の母親の大きな情愛』というタイトルの展覧会が731陳列館で開幕式を行なった。張顕友ハルピン市副市長、中国並びに黒竜江省、ハルピン市紅十字会責任者、残留孤児義父母、中国在留孤児の代表、ほか各界から80人あまりが参加した。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路:ドキュメント『10日間だけの祖国』―総会前の特別試写会へどうぞ!36
奥村正雄
厚労省が「孤児である物的証拠がない」ことを理由に中国残留孤児と認めない徐士蘭さん(推定年齢72歳)が、羽田澄子監督のドキュメント『嗚呼 満蒙開拓団』の公開と、これに先立って北京の日本大使館で行われた試写会で、映画を見た当時の中国大使宮本雄二さんが、「この女性は気の毒だ、私のポケットマネーででも、ひと目祖国を見せてあげたい」と漏らしたひと言が多くの人の共感を呼び、署名とカンパの運動が広がって行った。 /// 続きは本誌ご参照
4人で作ったドキュメントー『10日間だけの祖国』を総会に先立って試写38
飯白栄助
3年前の6月8日、快晴の日本海上空にハルピンからのCZ615便が機影をあらわした。そしてやがて入国手続きを終えた徐士蘭さんと3女の从会霞さんが急ぎ足で待合室ロビーに現れ、私たちは彼女と祖国日本で初めて対面した。このロビーの高い天井近くの壁面に飾られた、新潟の有名な郷土の凧合戦の大きな武者絵が5人を温かく見下ろしていた。 /// 続きは本誌ご参照
“厳冬の”ハルピン・方正40
吉川雄作(会員)
当会参与奥村正雄氏のもとの四人組で、2011年、多くの方々のご協力により招日が実現した(未認定中国残留孤児)徐士蘭さんを主人公に、ドキュメンタリー映画の制作を進めていることは、すでに奥村氏が会報15・16号で予告されており、私も前号に中間報告めいたことを書かせてもらった。目下鋭意制作中…と言いたいが、“心余りて力足りず”(?)、諸般の事情により遅れに遅れ、招日4年目を目前にして、なお未完成状態にある。しかし、まだ完成をあきらめたわけではない。 /// 続きは本誌ご参照
高社郷集団自決の悲劇を繰り返さないために―終戦の事実を告げられなかったための悲劇42
篠原孝
私は、予算委員会で特定秘密保護法に関連し、国が国民に重大な秘密を知らせない罪の例として、1945年8月24日の高社郷の集団自決事件を取り上げた。関係者の皆さんの涙声での電話等もあり、多くの反苦が寄せられたので、非力でありうまく伝えられるかどうかわからないが、ここに悲劇の一端を時系列で簡単に紹介しておきたい。 /// 続きは本誌ご参照
歴史記憶の共生と研究実践に関する国際的対話の試み―国際シンポジウム「東アジアにおける歴史記憶の共生と研究実践」の開催50
南誠〔梁雪江〕(長崎大学)
2014年3月8日・9日、長崎大学東アジア共生プロジェクト国際シンポジウム「東アジアにおける歴史記憶の共生と研究実践:日本、中国大陸と台湾の台湾を手がかりとして」が長野県下伊那郡阿智村コミュニティ館2Fホールで開催した。本国際シンポジウムは筆者が企画・主催したものであり、長崎大学東アジア共生プロジェクトとしたのは筆者がテニュアトラック教員として、2011年10月より、本プロジェクトに所属しているからである。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓」五題57
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館専務理事、当会理事)
かつて日中双方含め多くの犠牲を出した「旧満州」(中国東北部)、その地に国策により「開拓」という半ば偽りの美名の下に全国各地から送り込まれ、多くの悲しい犠牲を出した「満蒙開拓団」の史実。この「満蒙開拓」に特化した全国唯一となる記念館を、全国で最も多くの開拓団を送出した長野県南部のこの地に建てようと、飯田日中友好協会等が中核となって、足かけ8年の紆余曲折を経てようやく開館まで漕ぎ着けたのは昨年4月のことでした。そして早くも開館1周年を迎えます。 /// 続きは本誌ご参照
“満州疎開”の開拓団―東京都満州開拓団の送出特質66
高橋健男
満州開拓団、満蒙開拓青少年義勇軍、あるいは満州建設勤労奉仕隊等の送出に関しては、全国津々浦々例外なくその募集が行われた。大都会の東京都においてもしかりである。しかし東京都からの開拓民等の送出は、全国各県の状況と比較検討すると、ある特徴があることに気づく。本稿では2013年12月出版の拙著『渡満とは何だったのかー東京都満州開拓民の記録』からその特徴をいくつかの観点にまとめて簡潔に解説してみたい。 /// 続きは本誌ご参照
時流底流:市民が発掘 満蒙開拓史―誤った国策 悲劇と向き合い70
青島顕(毎日新聞)     転載元:毎日新聞(2014年2月10日付)
戦前、戦中に約27万人が旧満州(現中国東北部)に農業移民として送り出された満蒙開拓団は信越、東北地方の農山村の人々の悲劇として知られてきた。だが近年、市民たちが独自の調査で、ほとんど知られていなかった沖縄や東京発の開拓団の実態を掘り起こしている。「誤った国策による庶民の受難を記録し、ニ度と繰り返さないように」という思いが労作を生み出している。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い71
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
書籍案内72
方正友好交流の会
『ハルビン往来(宮原咸太郎・宮原恵子写真集)』、『証言それぞれの記憶(満蒙開拓平和記念館発行)』、『大陸の花嫁(岩波現代文庫/井筒紀久枝著)』、『ウクライナに抑留された日本人(0.ポトィリチャク・V.カルポフ/竹内高明著・長勢了治編訳)』 /// 続きは本誌ご参照
市民団体 満蒙開拓学ぶ73
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2014年3月12日付)
中国黒竜江省方正県と交流している市民団体に「方正友好交流の会」(事務・東京)の会員ら31人がこのほど、阿智村駒場の満蒙開拓平和記念館を訪れた。元開拓団員の中島多鶴さん(88)=泰阜村温田=の旧満州(中国東北部)での体験談を聞いたり、展示を見たりして、国策に翻弄された開拓団の歩みへの理解を深めた。 /// 続きは本誌ご参照
こちら編集委員室:首相官邸にアサガオを73
五味洋治(東京新聞)     転載元:東京新聞(2014年3月18日付朝刊)
中国東北部、遼寧省撫順の「戦犯管理所」には、終戦後、シベリアで捕虜として働かされていた約千人の元日本兵が移送され、戦犯として収容された。軍事裁判を受けるためだった。 /// 続きは本誌ご参照
歴史展示のあり方語る―日中の関係者が阿智村で74
南信州新聞     転載元:南信州新聞(2014年3月16日付)
長崎大学の重点研究課題プロジェクトが主催した「東アジア共生プロジェクト国際シンポジウム」がこのほど、阿智村コミュニティ館で開かれ、歴史に関連した展示について日本と中国の研究者、関係者が「歴史記憶の共生と研究実践」をテーマに今後のあり方を語った。 /// 続きは本誌ご参照
来館者3万人を達成―満蒙開拓平和記念館 開館1周年を目前に75
南信州新聞     転載元:南信州新聞(2014年4月19日付)
阿智村駒場の満蒙開拓平和記念館(河原進館長)は17日、開館1周年(25日)を前に来館者3万人を達成した。3万人目となったのは、岐阜県中津川市から訪れた新婦人会中津川支部のひまわり班(安藤由紀子班長)の一行。証言や記録から開拓団の歴史を振り返り、平和の尊さを感じていた。 /// 続きは本誌ご参照
記憶を次代へ:満蒙開拓平和記念館開館1年76
前野聡美・菅沼勇(信濃毎日新聞)     転載元:信濃毎日新聞(2014年4月24~26日付の連載3回)
第2次大戦中を中心に、国策として旧満洲(中国東北部)に渡った満蒙開拓の歴史を伝える全国唯一の資料館「満蒙開拓平和記念館」が、下伊那郡阿智村に開館してから25日で1年になる。当初見込みの年間5千人を大きく上回る3万人余りが入館した。語り部として体験を語る元開拓団員、新たに持ち込まれる開拓の資料…。つらい記憶が、未来に生きる歴史として受け継がれようとしている。 /// 続きは本誌ご参照
方正友好交流の会が6月に総会―藤野文晤氏が講演79
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2014年5月1日)
ハルビン郊外にある日本人公墓の存在を通して、国際的な友愛精神を広めようと活動する方正友好交流の会は、6月8日(日)14時からJR御茶ノ水駅そばの中央大学駿河台記念館510号室で総会と講演会を開く。 /// 続きは本誌ご参照
FOCUS:どこへ行くのか日本79
藤野文晤(公益社団法人日中友好協会参与・藤野中国研究所代表)
最近の日中関係を見て亀井勝一郎、陳毅副首相の会談のことを思い出している。半世紀前の北京でのことだ。陳毅氏は「亀井先生は、日本軍国主義が中国を侵略したことを永久に忘れないとおっしゃる。私達は忘れたいと考えている。 /// 続きは本誌ご参照
第18号会報の編集を終えて80
森一彦
第18号会報の原稿に目を通しながら、満蒙開拓平和記念館を訪ねた下伊那の旅を思い出していた。今回の旅での一番の収穫は、寺沢秀文さんのバックグラウンドが理解できたことであるかもしれない。満蒙開拓平和記念館の開館に向けて、なぜあれほどまでに情熱を捧げ、奔走されて来られたのか。ご自宅がある、入植地 増野の急斜面に広がる果樹園、雄大なアルプス連峰の山々、その現場に立ってみて、私は初めて寺沢さんのお気持ちの一端が理解できたような気がした。そして山本慈昭さんや中島多鶴さんの存在。満蒙開拓平和記念館には、魂が宿っている。土地の歴史と記憶とに包まれて、貴重な証言をつづけていしていた。くだろう。 /// 続きは本誌ご参照
ミラー:中国の日本人公墓知って80
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)     転載元:東京新聞(2013年12月27日付朝刊)
私たちは二〇〇五年に方正友好交流の会を設立せ、年二回『星火方正』という会報を発行している。方正とは中国黒竜江省ハルビン市郊外にある方正県のことである。ここには、旧満州に「開拓民」として入った五千人に近い人々が葬られた中国で唯一の日本人公墓がある。 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記81
大類善啓
満蒙開拓平和記念館を訪問する旅は、全国各地から定員いっばいの35名もの人々が参加。それぞれの体験を踏まえての自己紹介など、実に豊かな交流になった。ご参加された方、また寄稿いただいた方、いろいろとお手数をおかけした寺沢秀文さんに感謝!である。 /// 続きは本誌ご参照
 
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