方正友好交流の会
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星火方正
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第21号(2015年12月発行) / 1冊29記事 を表示しています。

  第21号(2015年12月発行) 第21号(2015年12月発行)表紙

徐士蘭さんのウソと真実ー孤児には重すぎた二つの十字架1
奥村正雄
私が徐士蘭さんと劇的な対面をしたのは、今から8年前、2007年の6月だった。この頃、私は毎年、この時期に中国黒竜江省方正県にある日本人公墓参拝のツアーを組んで方正を訪ねつづけていた。この時期を選んでいた理由は2つある。一つはこの頃、日本はうっとうしい梅雨の時期だが、中国の東北部は毎日、湿度の低い、カラッとした晴天続き、年によっては道路の両側に植えられたアカシヤの花が舞い落ち、方正へ向かう私たちを笑顔で迎えるように、バスの窓から入ってきたりした。もうひとつ、この時期を選んだ理由がある。7月に入ると、夏休みをまぢかに控えて航空運賃が高くなるから、だった。 /// 続きは本誌ご参照
難民を呑みこんだ河―方正への逃避行調査報告5
郭相声・石金楷
1945年8月15日、日本の敗戦投降後、北満(現在の黒竜江省)に滞在していた日本の開拓団は、何の助けも得られないまま、本土への大逃避行が始まった。筆者は1983年、地方誌を編纂していた時、当時三江地区すなわち佳木斯(ジャムス)の広大な地区から方正県に至る開拓団難民の逃亡状況について広範な調査を行なった。現在既に90歳になる老人孫慶方に詳しく話を聞き、当時大羅勒密西河を渡った時の開拓団難民の死亡状況について検証した。 /// 続きは本誌ご参照
家族の「満蒙開拓」体験に思う8
村上二保子
私の祖父母、父と3人の叔母は珠山上高井開拓団として旧満州宝清県珠山にいました。そのため私は小さい頃から「満州」という言葉をよく耳にしていました。私は「おばあちゃんが満州にいた頃はね…」という祖母の言葉を日常的に聞いて育ちました。 /// 続きは本誌ご参照
私にとって「満州」とは何だったのか―つれづれ思い出すままく満州覚書>10
篠原浩一郎
本誌編集人の大類善啓氏と思わぬ出会いがあり、旧満州生まれということもあり、このような原稿を書く羽目になった。本稿はいわば私の満州覚書といったものである。1938年5月4日、満鉄撫順病院で生まれた私の家族を簡単に紹介しておこう。 /// 続きは本誌ご参照
「日本人孤児と中国養父母展」を開催12
大類善啓
ハルビン市養父母連絡会の名誉会長・胡暁慧女史が朝日新聞国際報道部の石田耕一郎さん(前溜陽支局長)を伴って8月中旬、事務局に来られた。胡さんとは方正でもお会いした仲である。主な要件は、ハルビン市にある「侵華日軍731部隊罪証陳列館」に常設されている日本人孤児を育てた中国養父母の写真展を日本で開催したいということである。開催時期はなんとしても11月初旬を希望するという。少々慌てたが、日本教育会館1階のギャラリーがちょうど空いており、11月11日から16日まで開催することに決めた。 /// 続きは本誌ご参照
「日本人孤児と中国養父母展」をどう見るか―戦後70年、いま2つの「もしも・・・ならば」を巡る若干の考察15
田村美佳
先般、神田の一ツ橋画廊にて「日本人孤児と中国養父母」と題する写真展が行われた。この展示会は、中国・ハルビン市養父母連絡会が主催する「中国養父母常設展」の内容を、日本国内展示用に編集し、パネル20数点に内容を凝縮したものである。本展示会の特徴は、過去の歴史に思いを馳せ、中国(旧満州)で「日本人孤児」となった現役世代、もしくは、同じときを生きた世代、さらには、我々後世の世代に向けて、メッセージ性の強い企画構成となっており、注目すべきは、現役世代の来場者間の交流・情報交換の場、というシンボリックな場として機能していたことである。 /// 続きは本誌ご参照
母の愛は永遠―中国養父母写真展 東京で開催17
石金楷
2015年11月11日から16日まで、中国ハルビン市日本残留孤児養父母連絡会、黒竜江省社会科学院、日本日中科学技術文化交流センターが主催し、中国帰国者日中友好の会、長野県満蒙開拓平和記念館、方正友好交流の会が協賛する『中国残留孤児養父母写真展』が東京都千代田区の日本教育会館で開催された。中国紅十字報、朝日新聞、信濃毎日新聞などがこれを伝えた、多くの参観者から「残留孤児のことはよく知っていたけど孤児を育てた中国の養父母の具体的な映像を見るのは初めて。とても感銘を受けた」という声が聞かれた。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留孤児の生活伝える―養父母との歴史 千代田でパネル展19
朝日新聞     転載元:朝日新聞(2015年11月12日付朝刊)
戦後、中国に残された日本人孤児と中国人の養父母との歴史を紹介するパネル展が、千代田区一ツ橋2丁目の日本教育会館で11日から始まった。 /// 続きは本誌ご参照
阿智の満蒙開拓記念館など協賛―「残留孤児と養父母」都内で展示20
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2015年11月12日付)
中国残留孤児と中国人養母の歴史を紹介する「日本人孤児と中国養父母歴史展」が11日、東京都千代田区の日本教育会館1階にある一ツ橋画廊で始まった。養父母の生活支援をしている「中国黒竜江省ハルビン市日本孤児中国養父母連絡会」などの主催で、下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館などが協賛した。養父母と孤児の歴史に光を当てて不戦を誓い、日中友好の土台としたい考えだ。 /// 続きは本誌ご参照
日本人孤児を育てた中国人養父母の歴史20
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2015年12月1日)
70年前の日本の敗戦により、中国大陸に残された日本人孤児と、孤児たちを育てた中国人養父母の歩みを紹介する「日本人孤児と中国養父母歴史展」が11月11日から16日まで、東京・千代田区の日本教育会館で開催された。(一社)日中科学技術文化センターとハルビン市養父母連絡会などが主催し、方正友好交流の会、満蒙開拓平和記念館、NPO中国帰国者・日中友好の会が共催した。 /// 続きは本誌ご参照
知ってほしい中国残留孤児の歴史21
別府薫(朝日新聞編集委員)     転載元:朝日小学生新聞(2015年11月12日付)
今から70年前に戟争が終わった前後の混乱で、中国大陸では多くの日本人の子どもたちが親とはぐれて孤児になりました。「中国残留孤児」といいます。こうした子どもたちや養父母の歴史を、語り継いでいこうとしている人たちがいます。 /// 続きは本誌ご参照
《日本人孤児和中国養父母》展 在千代田区的日本教育会館隆重挙弁22
小峰(網博週報記者)     転載元:網博週報(2015年11月27日付)
11月11日-11月16日,由日中科学技術文化中心和旧満洲的中国黒龍江省残留孤児養父母連絡会共同挙弁的《日本人孤児和中国養父母》展在千代田区的日本教育会館隆重挙弁。 /// 続きは本誌ご参照
残胄孤児育てた人々の思い―旧開拓地で聞き取り調査23
南信州新聞     転載元:南信州新聞(2015年10月21日付)
阿智村駒場の満蒙開拓平和記念館はこのほど、4泊5日の日程で中国東北部の旧開拓地を訪問し、残留孤児を育てた中国人養父母や当時を知る古老、未認定残留孤児などの聞き取り調査を行った。証言は今後映像などにまとめられ、同館で上映する。また11月中旬以降に、中国養父母を紹介するバネル展示を企画している。 /// 続きは本誌ご参照
新中国で体験したこととは…―1946年~1969年、文革初期まで中国に住んでいた私24
岡崎温(公益社団法人日中友好協会理事長)
《解説》この岡崎温さんの講演は、今年(2015年)6月7日、方正友好交流の会.第11回総会後に行われたものである。岡崎さんは1946年、日本敗戦後の中国・長春で生まれた。旧満州にいた日本人が日本に帰国し始めの頃だが、岡崎さんはお父上の関係で、中国に残り、そのまま中国で学校生活をされたという非常に珍しい体験の持ち主である。機会があれば、一度ゆっくりと中国での生活などをお聞きしたいものだと思っていたが、このような形でお話を聞けたのは良かったと思う。岡崎さんはこの講演で、1969年に帰国されるまでのことを縷々語っていただいたが、帰国後のことは語られていないので、ここに簡単に記しておこう。岡崎さんは、帰国後すぐに日中友好運動に携わろうと、1969年秋には日中友好協会に入り活動を開始。71年には愛知県日中友好協会の専従職員になり、名古屋で開催された「第31回世界卓球選手権大会」に携わった。いわゆる「ピンポン外交」と呼ばれた歴史の転換点に立ち会われたのである。その後、事務局長になり、2014年には公益社団法人日中友好協会の理事長に就任され、今なお日中友好運動の第一線に立たれている。(大類善啓記) /// 続きは本誌ご参照
天を恨み、地を呪いました―松田ちゑさんの半生・94春秋 その2(3)37
奥村正雄
1945年8月、松田ちゑさんたち三江省依蘭県北靠山屯村山開拓団の一行は命からがら方正の近くにたどり着いたが、収容されたのは方正郊外の伊漢通開拓団跡だった。ここはもちろん定住地ではなく、ハルピンを経て祖国日本へ帰るための通過点のはずだった。だがここで新たな悲劇が避難民を待っていた。松田さんの『天を恨み地を呪いました』は次のようにレポートしている。 /// 続きは本誌ご参照
澤地久枝さんの阿智村での講演42
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館)
去る11月3日、ノンフィクション作家の澤地久枝さんが、満蒙開拓平和記念館並びに飯田日中友好協会の招きにより記念館のある長野県阿智村に来られ、『私の満蒙開拓団体験』という演題で講演して頂きました。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館を訪れて46
風間成孔
戦後70年、わがふるさと信州阿智村に常設されている「満蒙開拓平和記念館」を訪れた。7月25日(土)に新宿から伊那行き高速バスにて中央道を4時間半乗車、上飯田バス停までお出迎え頂いた寺沢秀文専務理事の車で、我々3名は午後2時記念館に到着した。折りしも記念館のセミナールームでは、満蒙開拓団の語り部(私と同年代の男性)が終戦時満州から逃れてきた生々しい体験談を語っている最中であった。 /// 続きは本誌ご参照
「中国帰国者戦後七十周年記念公演会」を鑑賞48
吉川雄作(会員)
去る8月26日、所沢市民文化センターで開催された「中国帰国者戦後七十周年記念公演会」に、ちば帰国者支援・交流の会の一員として、座席を与えられる幸いを得た。私的に撮った写真を主に、概要を紹介する。 /// 続きは本誌ご参照
ある中国残留孤児が綴る『この生あるは』を読む50
石尾喜代子
中島幼八さんは、かつて私の勤務した日中友好協会の同僚である。1966年3月末に、私は学校を卒業してすぐに大阪から上京し、飯田橋の善隣学生会館(いまは取り壊されて財団法人日中友好会館が建っている)の1階にあった日中友好協会に勤務した。ちょうど同じ時期に、中島さんも事務局に入ってこられた。この年は、中国では毛沢東主導の下、プロレタリア文化大革命が勃発したこともあって、日中友好協会はこれを批判する「共産党系」と、大衆運動ではこれに対する賛否両派があるのは当然であるという「非共産党系」の二つに分裂、その後「日中友好運動」はしばし混迷の状況下にあった。そういう状況下であったために事務局に勤務した人々は、その後の人生は様々な道を歩むことになった。私は、「非共産党系」の組織を選んで、1969年3月まで勤務していた。中島さんも同じ組織に所属していたので、約3年間は同僚であったが、その後の中島さんがどのように生きておられるかは全く知らなかった。 /// 続きは本誌ご参照
忌まわしい負の事実を問う:小林節子著『私は中国人民解放軍の兵士だった―山邊悠喜子の終わりなき旅』を読む53
石飛仁
日本と中国の戦前戦後の関係史には、今も尚多くの戦争の傷痕が残っている。一部では化膿して永遠に治療が出来ないのではと思いたくなるほど悪化しており、その爛れぶりは年々深刻にさえなっている。戦後は70年にもなるのに一向にその傷が癒えないのはなぜか、ということをもっともっと真剣に事実を掘り起こして確認し、事実をして特効薬を見つけ出し完治するまで徹底するしか方法はないと私は思っている。 /// 続きは本誌ご参照
戦後70年、『「北支」占領 その実相の断片』を刊行して56
田宮昌子
本書(社会評論社刊)は副題を「日中戦争従軍将兵の遺品と人生から」とするように、日中戦争に従軍した日本軍将兵の遺品を、主に中国山西省従軍期の写真を中心に、裏付け調査と現在の視点からの考察を加えて公開しようとするものです。第一章では、山西省孟県を中心に、占領の拠点となった県城、占領と抵抗の攻防が繰り返された城外の農村地帯、遺品写真に映し出される占領の具体相、占領軍と現地住民の間に立たされた「対日協力者」の人生と遺族たちの現在、の4節に分けて、ほぼ八年に及んだ「北支」占領の実相に迫ります。特に第1節において内陸部の小さな街の「占領期」を詳細に再現することで「事実としての」占領を読者に伝えようとしています。 /// 続きは本誌ご参照
「大東亜聖戦大碑」について(続)58
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館専務理事)
前号の「星火方正」20号にて金沢市の石川県護国神社にある「大東亜聖戦大碑」について触れさせて頂いたが、その時に写真を掲載出来ませんでした。今年5月に訪れた時の写真です。このような大碑が建てられていることに改めて驚きを隠せません。 /// 続きは本誌ご参照
周恩来と国際主義的精神(第2回)59
大頼善啓
《前回までの粗筋》周恩来は、1898年3月、現在は淮安と呼ばれている江蘇省淮安府山陽県で長男として生まれた。本籍は浙江省の紹興である。周一族は300年前から紹興に住んでいた。紹興は12世紀からイスラム教徒が住んでいた国際的な町だった。周は「私の一族にもきっと少数民族の血が混じっているに違いない」と、周の詳細な評伝を著したハン・スーイン(韓素音)に語っている。生母は周が4歳の時に亡くなった。父は後妻を迎えた。周の極めて濃やかな心配りは、このような環境に生まれたこと、また長男という意識も大きかったのではないか。父の仕事の関係で、周は瀋陽で働いていた伯父のところに呼び寄せられ、遼寧省鉄嶺の銀崗書院で学び、その後、瀋陽で開設された奉天東関模範学校に入学した。家を離れ、東北に行ったことは周恩来にとって、生活や思想を大きく変える鍵になったようである。 /// 続きは本誌ご参照
旧満洲の日本人公墓を訪ねて66
しんぶん赤旗     転載元:しんぶん赤旗(2015年8月28日付)
8月中旬、中国黒竜江省ハルビンから200キロほど東にある方正県を訪ねました。トウモロコシ畑などが地平線まで広がり、この地域の大地の豊かさを実感しました。ここには、70年前に旧満州(中国東北部)で亡くなった日本人の公墓あります。 /// 続きは本誌ご参照
「平和」って?安保法案審議:若者は近現代史学んで66
鈴木敏夫(元都立高日本史教員)     転載元:東京新聞(2015年6月7日付朝刊)
東京都立高校で四十年以上日本史教員を務め、退職後の現在は、大学の非常勤講師をしている。サザンオールスターズのヒット曲でも歌われていますが、日本史の授業は終戦ごろまでが精いっぱい。例えば戦前の韓国併合は知っていても、植民地化が戦後の朝鮮半島にどのような悪影響を与えたかは分からない。そこを学ばないと、現在の日韓関係について正しく理解することは難しい。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州・撫順:収容日本兵に寛大処遇―「赦しの花」咲かせたい大阪の女性朝顔の種配る67
高知新聞     転載元:高知新聞(2015年7月28日付夕刊)
撫順の朝顔を知っていますか―。中国東北部(旧満洲)遼寧省にあった撫順戦犯管理所が収容する元日本兵を寛大に処遇し、釈放時に看守が朝顔の種を渡したエピソードから「赦しの花」と呼ばれる。大阪市福島区の野崎朋子さん(60)は現地で得た種を増やし、いわれを説明した上で知人や学校に配布。沖縄県・尖閣諸島をめぐる対立などで日中関係は悪化しているが、野崎さんは「平和と友好を考えるいい機会になる。人の手から手へ、取り組みが広がってほしい」と話している。 /// 続きは本誌ご参照
戦後70年京都・明日につなぐ:芸術への弾圧 忘れない―戦争直前に廃刊「京大俳句」を読む会68
田中京子(京都新聞)     転載元:京都新聞(2015年8月21日付)
「新興俳句の金字塔」と呼ばれながら、太平洋戦争直前に廃刊に追い込まれた俳誌がある。旧京都帝大(現京都大)0Bらが1933年に創刊した「京大俳句」だ。社会や恋愛など、幅広いテーマの作品を発表したが、治安維持法違反で15人が検挙され、発行できなくなった。創刊から80年余たった現在。JR芦屋駅から歩いて約10分の場所にある市民センターの会議室に、ひとり、またひとりと人が集まる。月に1度開かれている「京大俳句を読む会」だ。関西の俳人や俳句愛好家たちによって、7年間続けられている。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い69
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記70
大類善啓
12月は、毎年忙しい時期だが、今年はとりわけ忙しく、年内の発行を断念せざるを得ないかと、一瞬頭をかすめた。しかし、なんとか年内に発行できる運びとなった。原稿も当初の予想を超えて集まった。最近知り合ったご婦人は10歳のときに、フィリヒンのミンダナオ、ダバオで日本の敗戦を迎え、ジャンクルでの逃避行を余儀なくされた方だった。改めて、敗戦に伴う日本への引揚げ体験はさまざまで、本誌もできれば、旧満州以外での体験記事などを掲載し、戦争を知らない人たちに伝えていかなければいけないと思った。 /// 続きは本誌ご参照
 
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