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星火方正
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第23号(2016年12月発行) / 1冊38記事 を表示しています。

  第23号(2016年12月発行) 第23号(2016年12月発行)表紙

天皇・皇后両陛下が「満蒙開拓平和記念館」にご来館1
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館副館長・専務理事)
去る11月17日、天皇・皇后両陛下が長野県阿智村にある満蒙開拓に特化した全国唯一の「満蒙開拓平和記念館」にご来館されました。伺ったところでは、両陛下はかなり以前から満蒙開拓について高いご関心をお持ちであり、その後にこの記念館の存在を知り、長い間ここへの訪問を強く要望され続け、それが今回実現したとのことでした。そのことを知った時には当方も正直驚きました。当記念館の開館(平成25年4月)により、少しずつながら「満蒙開拓」に対する社会からの関心等も高まりつつあるものの、やはり国策として押し進められた「不都合な史実」として余り省みられることの無かったこの史実は、当時、その送出に関わった立場、特に行政関係者等においては余り行きたい場所ではなく、これまでも一部の国会議員やこの建設に大きな支援をしてくれた阿部守一長野県知事等の一部の方は除いては閣僚、高官等が来館することは全くありませんでした。それだけに、皇族の方、ましてや天皇・皇后両陛下がこの記念館を訪問されたいと思っておられるなどということは思いもよらないことでした。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓伝承「多くの人に」―両陛下、阿智の記念館訪問7
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2016年11月17日付夕刊)
天皇、皇后両陛下は17日午前、満蒙開拓の歴史を伝える下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館を訪問された。館内を巡り、元開拓団員ら4人と懇談。天皇陛下は80~90代になった元団員らにいたわりの声を掛けた。満蒙開拓の歴史を語り続ける体験者らを「皆さんがつくった平和な日本です」「なお一層元気で頑張って多くの人に伝えてください」と励ました。 /// 続きは本誌ご参照
両陛下に思い伝えた―満蒙開拓語り続ける3人 記念館で懇談9
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2016年11月18日付朝刊)
忘れられず抱えてきた戦時の記憶を、両陛下は受け止めてくれた―。下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館で17日に、天皇、皇后両陛下と懇談した飯田下伊那地方の満蒙開拓団員や青少年義勇軍だった3人。満蒙開拓の歴史と平和を発信する記念館の活動に協力しており、戦争を語ることができる人が減る中、語り続ける思いを強くした。 /// 続きは本誌ご参照
天皇皇后両陛下の満蒙開拓平和記念館への訪問について10
大類善啓
訪問のひと月前ほどだったか、寺沢秀文さんから両陛下のご訪問を聞いていた。地元の新聞には報道されていたようだが、全国紙の東京圏にいる読者は当日まで知らなかったのではないか。TBSテレビが昼のニュースで放送して初めて知った方正関係の友人が電話をかけてきた。 /// 続きは本誌ご参照
両陛下 旧満州引き揚げ者とご懇談―「歴史伝えることは大事」10
産経新聞     転載元:産経新聞(2016年11月18日付朝刊)
天皇、皇后両陛下が17日、私的旅行中の長野県阿智村で、旧満州(中国東北部)の開拓団に参加し、戦後に故郷に引き揚げた人たちをねぎらわれた。苦難の道を歩んだ開拓団に長年心を寄せている天皇陛下は「こういう歴史があったことを経験のない人にしっかり伝えることはとても大事」と訴えかけられた。 /// 続きは本誌ご参照
両陛下、満蒙開拓記念館に11
朝日新聞     転載元:朝日新聞(2016年11月18日付朝刊)
私的な旅行で長野県に滞在中の天皇、皇后両陛下は17日、同県阿智村にある「満蒙開拓平和記念館」を訪れ、現地での体験を語り継いでいる80~90代の引き揚げ者らと懇談した。 /// 続きは本誌ご参照
両陛下、満蒙開拓記念館を訪問11
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2016年12月1日)
天皇皇后両陛下は11月17日午前、長野県下伊那郡阿智村にある「満蒙開拓平和記念館」を訪問された。両陛下は、館内を約20分間にわたり見学したほか、元開拓団員ら4人と懇談もされた。 /// 続きは本誌ご参照
方正県政府の公墓参拝者への対応について考えるー写真撮影止などの対処を憂う(※中文も添付)12
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)
天皇皇后両陛下が満蒙開拓平和記念館を訪問されるという一が、寺沢秀文さんからもたらされた時、両陛下は満蒙開拓団を襲った悲劇について、決してお忘れではなかったのだ、と改めて想起した。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留孤児としての思い18
中島幼八
長く歩いてきた日中畑では、この中島は見るからに中国帰国者だとわかりますが、しかし残留孤児の身であるということは旧い仲間の中でも意外と知られていません。昨年体験記の日本語版「この生あるは」と中国語版「何有此生」を刊行して以来、不思議がられるムキすらありました。ましてや、去る10月2日江戸東京博物館において、中国残留孤児問題フォーラムを主催し、基調報告まで行い、「敵国のこどもを育てる中国人養父母」をテーマにして、感謝の気持ちを訴えました。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児問題フォーラムの発展を考える19
石尾喜代子
10月2日、江戸東京博物館1階大ホールを満席にして「中国残留孤児問題フォーラム」が開催された。午前の部は山田火砂子監督の映画「望郷の鐘満蒙開拓団の落日」を上映し、満蒙開拓団についての認識を深めたうえで、午後は「敵国のこどもを育てた中国人簑父母」をテーマとするシンポジウムがあった。 /// 続きは本誌ご参照
ひと:中国残留日本人孤児と養父母の絆を伝える―胡暁慧さん(72)23
平賀拓哉(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2016年7月27日付朝刊)
「中国残留日本人孤児と、その孤児を育てた養父母の物語は日中友好の懸け橋となる」。そんな思いで養父母と孤児約40人から聞き取った内容を今春、歴史研究者らと「中国養父母の歴史記録」の題で本にまとめ、現地で刊行した。 /// 続きは本誌ご参照
悲惨と向き合うとは、歴史を鑑とするとは―会場の片隅で考え続けたこと24
木村知義
国家の罪と歴史に向き合うわたしたちの責任とはどのようなことなのか、会場の片隅に席を得て、この重い問いを自身の胸に問い続け、考え続けた1日であった。今回の「フォーラム」については、何人かの人から重ねて案内をもらっていた。さて、たしか会場はかなり大きいはずだがそんなに人が集まるのだろうかと、思案をめぐらせながら両国に向かった。開場の時にかなりの余裕を持って江戸東京博物館に着いたつもりだったが、入場者の長い列ができていた。さらにホールに足を踏み入れて驚いた。いまどき、というのは残念極まることなのだが、まさにこのご時世、中国と冠がついた集会、会合にこれほどの人が集まるとはと、半ば信じられない思いで席に着いたのだった。開会の時には文字通りの満席になった。当日でも入れるだろうと思って来た人たちは入場を断念して帰らざるをえなかったという。「中国残留孤児問題」という、重いテーマのフォーラムにこれほどの人々が参集することに、まず、開会前から、さまざまに思いがめぐることになった。 /// 続きは本誌ご参照
“日本鬼子”の歴史とこれからについて思うこと―歴史認識との関わり方を模索して27
田村美佳
2016年9月16日午後8時、アメリカ・ニューヨーク。市内最大のジョン・F・ケネディ空港から地下鉄で宿泊先の安宿へ。ふと耳に北京語が入る。「你们去哪儿?(どこへ行くの?)」見上げれば、対面に腰掛ける軍服風の服装に身を包む浅黒い男性。歳は50代半ばだろうか。思わずこう答える。「我们去南方的,去便宜酒店。下一站应该要换车吧?(南のほうの安宿へ行くの。次の駅で乗り換えよね?)」福建省出身だというその男性はニコリと頷き、言葉を続ける。「从哪里来的?(どこから来たの?)」反射的にこう答えていた。「我们都是从大陆来的(中国から来たの。)」この冗談に、男性はなぜか日中の戦争の歴史について語り始めた。第二次世界大戦だ。彼の口をついて出てくるのは「日本鬼子」。14年前に盧溝橋前で聞いたあの言葉だ。ズキンと胸にいいようのない痛みを感じながら、当時、北京旅行中に現地の小さな女の子に浴びせられた一幕を思い起こしていた。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留孤児問題フォーラムに参加して―2016年10月2日(日)江戸東京博物館一階にて30
今村春江
私は、牧野さんに誘われて、このフォーラムに足を運びました。そこで「望郷の鐘満蒙開拓団の落日」という映画をみました。実は、私は今まで全く戦争にかかわるドラマ、映画を見たことがありません。あの有名な大地の子も一回も見ていません。皆が見ていても、当然その話には加わったこともありません。この映画が私の初めて見た戦争映画となりました。映画の中での、道端に子供の遺体が映し出されたシーンに涙が止まりません。 /// 続きは本誌ご参照
中国人養父母について思うことーパネリストとして中国残留孤児フォーラムに参加して31
安原幸彦
10月2日に江戸東京博物館で開催された中国残留孤児フォーラムのシンポジウムにパネリストとして参加させていただきました。私は、担当した中国「残留」孤児国家賠償訴訟の経験から、シンポジウムのテーマ「敵国のこどもを育てた中国人養父母」について思うところをお話しました。その内容をご紹介しつつ、シンポジウムに参加した感想とそこで感じた今後の課題について述べさせていただきます。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留孤児―配偶者支援いまだ「法の隙間」 「60歳未満死去」給付受けられず32
佐藤大(東京新聞)     転載元:東京新聞(2016年11月24日付)
中国残留孤児の肉親を捜す国の訪日調査が始まってから、三十五年が経過した。遅々たる歩みながら法律が整備され、帰国した孤児らに対する経済的な支援は広がった。しかし「法の隙間」が残されたままになっている。孤児とともに祖国を離れて来日し、苦労を共にした中国人配偶者の一部に支援が行き届いていないのだ。 /// 続きは本誌ご参照
忘れない“敵国の子ども育てた養父母の恩”―東京「中国残留孤児フォーラム」に650人33
大田宣也     転載元:日中友好新聞(2016年10月25日付)
日本の中国侵略戦争によって、中国東北地方(旧「満州」)に送り込まれた「満蒙開拓団」。敗戦時のソ連の侵攻のさい、置き去りにされた「中国残留孤児」は4000人(中国側発表・厚生労働省発表は2818人)といわれています。戦後71年を経て、帰国した残留孤児の有志が呼ぴかけ、10月2日東京都江戸東京博物館で「中国残留孤児問題フォーラム=敵国の子どもを育てた中国人養父母」が開かれ第2会場を含め午前午後で延ベ650人が参加し熱気に包まれました。 /// 続きは本誌ご参照
東京 中国残留孤児問題シンポ “二度と戦争しない”―「敵国のこどもを育てた中国人養父母」に感謝34
しんぶん赤旗     転載元:しんぶん赤旗(2016年10月3日付)
「敵国のこどもを育てた中国人養父母」をテーマに、中国残留児問題を考えるシンポジウムが2日、東京都内で開かれ、約450人が参加しました。催は一般社団法人日中協会、NPO法人中国帰国者・日中友好の会などが後援する中国残留孤児問題フォーラム実行委貴会。 /// 続きは本誌ご参照
面影なき面影探して―「私は残留孤児」中国から訴え続け35
筋野健太(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2015年12月25日付夕刊)
終戦から70年たった今も、自らが中国残留日本人孤児だと訴え続けている人たちがいる。しかし、申請しても養父母や近親者などは亡くなっており、今となっては証明する手がかりすらない。日本への強い思いを胸にしたまま、申請者自身の高齢化も進んでいる。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留孤児と告げられて―祖国知るすべもなく36
筋野健太(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2015年12月26日付夕刊)
自分は、日本人なのか中国人なのかー。年老いて、周囲から「あなたは中国残留日本人孤児だ」と告げられた人たちがいる。しかし今となっては、証言してくれる人も証拠もなく、厚生労働省の孤児認定への扉は開かない。中国人として70年以上生きてきたアイデンティティーが揺らぎ、苦しむ人たちを追った。 /// 続きは本誌ご参照
国際善隣協会主催「引揚70周年記念の集い」に参加して37
高橋健男
教職退職直前からライフワークとして始めた私の満州移民研究は、まもなく15年に達する。文書・手記類の発掘・調査、関係者への体験聴取、旧満州入植地等への慰霊・調査旅行、国内の関係地や施設の訪問と重ねてくる間に、各種集会に参加する機会も多かった。今から10年前の2006(平成18)年11月27日、九段会館において「引揚60周年記念の集い~いま後世に語り継ぐこと」が開催された。会場は各階の通路まですべてを埋め尽くす1,500名が集ったと聞く。場内に入れなかった方々はロビーを埋め、テレビ中継で中の様子を見入っていた。ちょうど通路脇の席を得た私は、通路に座った年配者が「引揚船はこんなものじゃなかった…」と語り合っているのを聞いたことを思い出す。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州の実像 次世代に 関東の大学院生ら―見附で調査 資料収集、デジタル化39
新潟日報     転載元:新潟日報(2016年9月11日付)
旧満州の記録を収集・保存している関東の大学院生らが10日、見附市の満州移民研究家・高橋健男さん(70)を訪れ、県内の満州開拓団の会報などを収集した。デジタル史料化し後世に伝えるのが目的で、院生らは「失われつつある記憶をたどり、満州の実像を後世に残したい」としている。 /// 続きは本誌ご参照
「引揚70周年記念の集い」に参加して40
天野博之
今年は、敗戦の時に日本人がもっとも多く居住していた満洲からの引揚げが始まって70年に当たります。これを機会に、満洲ばかりでなく、朝鮮・台湾・樺太などからの引揚げを記念する集いが、10月20日、東京の銀座ブロッサム中央会館で開かれました。約750名の参加者の多くは70代、80代と思われ、敗戦前後の外地で苦難に耐え、帰国後の生活不安を抱えながら家族を守って引揚げてきた現役世代の方の参加が少なかったように見えました。10歳で満洲吉林で敗戦を迎えた私が今では81歳、歳月の経過の重さを考えると止むを得ないこととは思いながらも、寂しい思いをじることはできませんでした。 /// 続きは本誌ご参照
二つの集いに参加して―『残留孤児問題フォーラム』と『引揚70年記念の集い』に思う43
大類善啓
数年前だったか、今や「満洲ブーム」だといわれたことがあった。とにかく“満洲”に関連する書籍が相次いで刊行されたことがあった故なのだが、この傾向はなお衰退してはいないようだ。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館を訪ねて―ドイツ人の祖母の体験を重ねて思う44
木村護郎クリストフ
本誌「星火方正」で満蒙開拓平和記念館のことを知り、ぜひ見に行きたいと思っていました。9月10日、飯田在住の義姉夫妻に連れていってもらい、念願かなって、妻と子ども二人とともに訪ねることができました。 /// 続きは本誌ご参照
中国に想いを残して―中国残留婦人4人の生と死46
千島寛
本誌前号(22号)で『祖国に帰らぬ残留婦人たち』ーその孤独な心を撮るーを紹介させていただいた。この表題を『中国残留婦人それぞれの選択』ー中国残留、日本帰国、日本帰国後中国再渡航ーに訂正する。そこに登場した4人の残留婦人たちは、いずれも、すでにこの世にないが、ある女性は、あの強烈な表情で、ある女性は、平静を装った表情の裏で、どんな悲しみを秘めていたのか…私が彼女たちを撮りながら、あるいは話を聞きながら感じた、彼女たちの、ぎりぎりの生と死の一端を伝えなければ…という思いに駆られた。そのすべてを伝えることはできないが、彼女たちが、あの表情の裏で、どんな晩年を生きて死んで行ったのかを伝えたいと思う。 /// 続きは本誌ご参照
映画『望郷の鐘』の舞台・宝清県を訪ねて48
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館副館長・専務理事)
8月末から9月初めにかけて、あの映画『望郷の鐘』の舞台となった旧ソ満国境近くの(現)黒竜江省の宝清県を訪ねてきた。今回は飯田日中友好協会の訪中団(清水可晴飯田日中友好協会会長以下25名)派遣事業に合わせて、その旅行後半にて当方らB団16名(当方分団長)は足を伸ばして宝清県を訪ねることが出来た。 /// 続きは本誌ご参照
大連から方正へ―旧満小ゆかりの地を巡る52
田中佐二郎
この6月、「日本と中国」(公社・日中友好協会)に掲載の「星火方正」22号の紹介記事で松田ちゑさんの訃報を知り、26年前の記憶が卒然とよみがえってきた。1990年8月、単独で方正の日本人公墓を訪ね、松田さんとお会いした思い出だった。 /// 続きは本誌ご参照
特派員メモ:イルクーツク(ロシア)―戦没者への敬意56
中川仁樹(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2016年12月6日付朝刊)
ロシア東シベリアのバイカル瑚近くにある日本人抑留者墓地が10月、ロシアの木材加工会社により修復された。ここに埋葬されたとみられる60人の名を彫った白い石の墓言れいに並んでいる。同社広報のインナ・チュピコバさんは「日本兵に追悼を捧げ、日ロ友好の象徴にしたい」と話した。 /// 続きは本誌ご参照
いま問い直される重慶大爆撃―『重慶大爆撃を知っていますか』写真展を終えて57
鈴木賢士
方正友好交流の会に関係されている皆さんなら、日本軍による重慶大爆撃のことはご存知だと思います。実はこの夏、8月29日~9月2日、重慶大爆撃の被害者と連帯する会・東京の主催で、『重慶大爆撃を知ってますかー国際法違反の無差別爆撃を問う』という写真展が、東京の九段生涯学習館・九段ギャラリーで開かれました。会場には、爆撃当時の写真・地図や中国档案館の史料、日本軍の戦闘詳報など約190点を展示しました。期間中毎日会場でミニ講演会が開かれ、フェリス女学院大学名誉教授の石島紀之さん、軍事ジャーナリストの前田哲男さん、ジャーナリストの沢田猛さん、東京女子大学教授の聶莉莉さん、そして私もお話ししました。5日間で500人を超える来場者を迎えることができました。 /// 続きは本誌ご参照
母が死刑から無罪へ―3年半ぶりの再会62
崔鳳義(故松田ちゑさんの息子)
1971年11月22日、私は公安局の友人から、お母さんが間もなく釈放されるよ、という連絡をもらった。この知らせを聞いて、私は義父と、飛び上がって喜んだ。まるで暗闇の中で曙の光を見たようだった。私たち母と子が団欒できる時が、家族が団欒できる日がこようとしているのだ。私と義父は、この幸福な時刻が早く来るように待った。 /// 続きは本誌ご参照
徐士蘭の虚と実―新たにわかった15年前の厚労省調査65
奥村正雄
また一つ、徐士蘭をめぐるナゾが明るみに出てきた。厚労省が中国・ハルピンに何回か赴いて、自分が残留孤児だと認定してほしい、という申請者と直接、面談して、その申請の内容が妥当かどうかを「裁定」した。私たちは2007年に方正の宿で初めて徐士蘭に会い、その熱っぽい訴えを聞いた。この時、徐士蘭は「厚労省は私を残留孤児とは認めてくれない」と熱っぽく訴えたが、厚労省に孤児と認定してもらうにはどういう手順を踏むのか、について私たちはまだ知らなかった。そのため徐士蘭が「自分は中国残留孤児である。その根拠はこれこれである。どうか孤児と認定してほしい」とでもいう書類を日本の厚労省へ送った。しかし厚労省は私の訴えを聞いてくれない。なんとか助力してほしい…こうした訴えだと理解した。 /// 続きは本誌ご参照
中国の留学生 趙曼婷さんが葛根廟事件を研究67
大島満吉
2016年4月28日付けで趙曼婷さんから手紙が届いた。神奈川大学歴史民俗資料学研究科博士後期課程の3年で森武磨教授のもと、満州移民を中心とした勉強をされているという。中国の学生さんが葛根廟事件を研究するという内容なので、嬉しい半面、何が目的なのか、どうして葛根廟事件なのかと一瞬、不思議に思いながら手紙を読んだ。しかし本気で取り上げてくれるのなら当方としても有り難い。ひと通り読んだ後、早速、こちらからの質問も交えて返事を書いた。 /// 続きは本誌ご参照
戦争に思うこと71
有為楠君代
私も戦争を体験した世代の端くれなのですが、私には、戦争の辛い思い出がありません。終戦の年の4月に、小学校に入学する予定だったのですが、3月10日の東京大空襲で、家も学校も焼かれてしまい、4月の入学は出来ませんでした。そんな年齢ですから、空襲で逃げまどい、焼野が原のバラックで生活したはずなのですが、3月30日生まれで、空襲の時は5歳の終わり、4月になってやっと満6歳になったと言う年齢ばかりでなく、生来晩生の性質のようで、あまり覚えていないのです。大空襲の時は、防空頭巾をかぶって避難したのは微かに記憶の隅にあるのですが、大変だったとか、恐ろしかったと言う記憶は無く、ただ、空から火が降って来て、道路に等間隔で並んだのをきれいだと感じた気がします。 /// 続きは本誌ご参照
紹興と南京への旅73
下山田誠子
今年の6月に4泊5日の久々の中国を旅行しました。魯迅とその文学に敬意と愛着をもって少し学んできましたので紹興という地名に懐かしく心躍るものでした。上海から高速鉄道で南京に。市内の夫子廟の入口に赤いランタンが灯り、当時を模した町並みに観光客が溢れておりました。売店の入口に孔乙巳の等身大の像があり、そのうらぶれた姿に魯迅の作品『孔乙己』の世界に連れ戻されたようで、レプリカといえない賑やかな繁華街を書生になった気分で歩きました。しかししばらくして夢からさめてしまいました。 /// 続きは本誌ご参照
周恩来と国際主義的精神(第4回)75
大類善啓
国際主義的精神はすでに、現在の中国共産党指導部からも消えてしまった、と思われる。よく知られているように周恩来は日本人民と日本の軍国主義者とを区別し、その時々の日本政府の方針に批判的であっても、日本人民との友好は大切であると語り続けた。このような政府と人民を区別する態度は当然だが、アメリカに対しても同様だった。1955年、バンドンでの国際会議で恩来は各国の外交官から、アメリカとはどうなのかと聞かれると、「中国の人民とアメリカの人民は友好的で、中国はアメリカと戦争はしたくない、そんなつもりはない」と語った。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い80
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍案内を兼ねた編集後記81
大類善啓
今年2月、96歳の波乱に満ちた生涯を閉じた松田ちゑさんの生涯を描いたドキュメント。知のように松田さんは、残留婦人として日本人公墓を方正県政府に願い出た人である。 /// 続きは本誌ご参照
 
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