方正友好交流の会
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星火方正
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第26号(2018年5月発行) / 1冊21記事 を表示しています。

  第26号(2018年5月発行) 第26号(2018年5月発行)表紙

満洲泰阜村分村史についての教科書を!―「なぜ祖先が生き地獄に堕ちたのか」を子どもたちに探求してほしい1
安冨歩
泰阜村からは、277戸1174人が満蒙開拓団として入植し、1945年8月9日時点で984人が大八浪の分村に在籍した。そのうち、死者612人、未帰還者57人、不明者50人という被害を出し、無事に引き揚げた人は265人に過ぎなかった。特に10歳以下の子どもたちの大半は、帰還し得なかった。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓団の女性たち―ドイツ追放女性同盟での経験を通して5
フックス真理子
2017年9月30日、「満蒙開拓団の女性たち―戦中・戦後・現在」という演題で、ドイツ、ヘルムシュテット市で講演を行った。第二次世界大戦後、ドイツの占領地だった東欧地域から、敗戦によって追放され、引き揚げてきた女性たちの会のセミナーに招かれたのだ。これら引き揚げドイツ人全体の数は、1500万人以上と言われており、その中には、ナチス・ドイツの時代に移住した人々のほかに、200年以上前からそれぞれの事情で移民したドイツ人の子孫も数多く含まれる。また、避難する途上命を落とした人々は、50万人から200万人にものぼると推定されていて、「追放・引き揚げ」自体、歴史上の大きな出来事であったと言えるだろう。もっとも、私自身は、この分野の研究者でもなく、まったくの偶然から引き受けたことだったので、準備に際してはかなり大変な思いをしたけれど、貴重な経験となった。 /// 続きは本誌ご参照
義勇隊に唯一の現地隊があったご存知でしたか。8
末広一郎
満蒙開拓青年義勇隊は一次から八次(昭和13年から昭和20年)までに、347ヶ中隊が日本国内から満洲にある訓練所に入隊しています。その数は8万6千人に及んでいます。なのに唯一満洲国内から募集された義勇隊があります。昭和19年4月、七次高田中隊、勃利訓練所96名が内原訓練所で1年間の訓練を受けて、翌20年5月に勃利訓練所に入所しております。これを現地隊と呼んでいます。現地隊の悲劇というか熊難辛苦を背負った、二重、三重不合理と苦しみをあびせられた中隊は他にはありません。実態を知って頂くため拙文ながらお伝えするのが今回の目的であります。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓青少年義勇軍「満洲現地隊・高田中隊」13
高橋健男
2017(平成29)年10月初旬、この年の4月に終焉の会を迎えた撤訓八洲会(旧満洲国北安省撤江青年義勇隊訓練所修了生の会)の有志からの誘いを受け、長野県軽井沢の大日向地区を訪れた。国道18号線借宿から標高1,500~600メートルの浅間台をまっすぐ北に上る。ここを訪れるのは2007年、2012年につづいて3回目である。大日向村開拓団に関しては、母村竜興寺にある慰霊碑や軽井沢開拓地の記念碑、そして開拓記念館を調査・訪問済みであった。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓平和記念館」館長就任に当たって17
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
2013年(平成25年)4月、全国初の満蒙開拓に特化した記念館として長野県南端の阿智村に開館した「満蒙開拓平和記念館」、早いもので開館満5年を迎えます。これも偏に、開館前から、そして開館後もご支援を頂いた多くの皆様方のお陰と厚く御礼を申し上げます。この開館5周年を迎えるに際し、去る3月8日開催の当記念館の役員会において、これまで館長をお務め頂いた河原進館長に代わり、不肖私が記念館の館長を務めさせて頂くこととなりました。今後とも引き続きどうか宜しくお願い申し上げます。 /// 続きは本誌ご参照
ドラマ『どこにもない国』の放送実現と葫蘆島からの引き揚げ21
寺沢秀文
去る3月下旬、2週にわたりNHKドラマ『どこにもない国』が放送された。ご覧になった方も多いと思う。このドラマ、以前にこの「星火方正」でも触れた通り実話をドラマ化したものであり、原作はアメリカ在住のポール邦昭丸山氏。同氏はドラマの主人公である丸山邦雄氏(内野聖陽さんが演じた)の三男である。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館の感想26
水越景人
満蒙開拓団について私は、記念館を訪れるまでは、「国策で満州に送られた日本人の移民がいて、戦後日本に帰国できずに大変な思いをした」程度の知識しかありませんでした。記念館を訪れることでその前提が大きく覆った、という訳ではありませんでしたが、時代背景から当時の生活、戦後の開拓団、中国残留孤児を巡る日中関係まで、網羅的に知ることが出来、とても勉強になりました。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館を訪れて27
梯頼子
3月17日・18日にゼミ合宿で長野県阿智村を訪れました。私の地元(徳島県)と街並みが似ていて、ふだん人の多い東京で生活している自分にとってはとても居心地がよかったです。ウィンターナイトツアーでは満点の星空を見ることができ、朝市では地域の人々の生活を体感することができました。食べ物も美味しくてとても良い合宿でした。 /// 続きは本誌ご参照
昭和天皇の戦争責任と日本人の加害責任認識の欠如28
野崎朋子
6年前、即位60周年を迎えた英国・エリザベス女王。その祝賀行事をBBCが中継していた時、国会議事堂前で議員らが「君主制反対」の横断幕を掲げていた。日本との余りの違いを痛感した瞬間である。日本で同様のことをしたら、たちまち右翼やネット右翼が攻撃するだろう。命を狙われる可能性も少なくない。 /// 続きは本誌ご参照
方正県城西日本軍飛行場の顛末(※中文も添付)35
曹松先・石金楷
1931年の“満州事変”以降、日本は中国の東北を占領するために、ハルビン東部の特殊な地理的位置にある方正県を戦略的要地とみなし、多くの軍事施設を建てた。特に1939年から1945年にかけて、方正県内には軍用飛行場が三か所も造設された。それらは、天門村陳家屯飛行場と会発村西海屯飛行場、方正町城西飛行場である。 /// 続きは本誌ご参照
私も日本国家から棄民された!―中東のクウェートでイラクの人質になった私たち39
長谷川捷一
1990年8月2日イラク軍はクウェート国に侵攻し、私たち夫婦を含め日本人約250名がイラクの人質になった。私はそれまでアラビア石油(株)のサウジアラビアのカフジ鉱業所に2回の赴任で計14年勤務した後、1988年に3回目の赴任でクウェートへ派遣されていた。カフジ鉱業所の操業とクウェート石油省との技術調整をする任務だった。何故クウェート石油省と関係があるかと言えば、アラビア石油が原油を生産していた石油鉱区はサウジアラビアとクウェートとの中立地帯であったため両国が半分ずつ権益を持つためだ。 /// 続きは本誌ご参照
「文化大革命」をどうとらえたらいいのか?―文革時期、新聞記者として北京に滞在していた私45
秋岡家榮
中国で文化大革命という時期がありました。その文革初期には、何人かの北京駐在員、特派員が国外追放になりました。それは1967年11月、私が北京に着任する前のことでした。私が新聞記者として北京に滞在中、国外追放になった特派員はいません。当時、国交のない記者の滞在期間は1年、それも半年ごとに滞在許可を更新しました。滞在許可の1年期限が切れると、国外に出て、改めて入国許可を申請するのです。 /// 続きは本誌ご参照
自然エネルギーという言葉に騙されないで!―山田征著『、自然エネルギーのホントのこと』を読んで48
江藤昌美
チェリノブイリの事故、そして2011年3月11日の福島の大事故で、原発の恐ろしさは世界を震撼させました。しかしいつの間にか人々から、地震・津波・原発大事故の恐ろしさが忘れ去られたような気がします。もちろん反原発の声を挙げる人々の活動は続いていますが、国を動かすような運動には未だ至っていません。そして、「何とか原発を止めたい」と活動していた人たちは、「脱原発自然エネルギーへの転換」への運動に変わっていきました。ところで風車は風では動かない原発と同じで、外部の電源がないと始動したり風の向きに合わせて羽の向きを変えたり止めたりすることなどの操作ができないのです。 /// 続きは本誌ご参照
対立・侵略・追放・和解―ドイツ・ポーランド関係史から考える東アジアの隣国関係(上)49
木村護郎クリストフ
今日は、ヨーロッパの事例から東アジアを考えるという話をさせていただきます。あえて離れたところを参照することによって、日本および東アジアを考えるうえでも、得るところがあればと願っています。今日の話の目的は、三つあります。一つは日本の海外居留民、特に満蒙開拓団の経験と本当によく似ている東方ドイツ人の戦争体験(敗戦体験)に注目するということです。ここで東方ドイツ人というのは、ポーランドなど現在のドイツより東の地域に住んでいたドイツ系の住民を指します。 /// 続きは本誌ご参照
沖縄を侵略したのは大和(薩摩藩)とアメリカだ!―進貢使の足跡を辿る3泊4日の旅をして思う55
友寄貞丸
3月中旬、中国へ派遣された進貢使の足跡を辿る3泊4日の旅(総勢31人)に同行した。中国と琉球の交流は「冊封関係」が始まる14世紀にさかのぼる。中国の君主が冊封を媒介として近隣諸国、諸民族の長と取り交わす名目的な君臣関係を伴う外交関係(手段)で、琉球はその対象国にあった。 /// 続きは本誌ご参照
日本方正総商会設立さる―活躍が期待される方正出身の起業家たち57
大類善啓
ハルビン市郊外の方正県に建立されている日本人公墓の存在が示すように、方正と日本との結びつきは大きい。日本には、残留婦人や残留孤児だった人々の縁戚なども多く、日本に住む方正出身者は現在、6万人になるという。 /// 続きは本誌ご参照
一般社団法人日本方正総商会大阪分会正式掲牌成立(※中文)59
関西華文時報     転載元:関西華文時報(2018年4月15日付)
日本方正総商会大阪分会正式に成立 /// 続きは本誌ご参照
こちら特報部:「通州事件」遺族の思い―「事実だけ知ってほしい」「祖父の死を利用しないで」60
佐藤大(東京新聞)     転載元:東京新聞(2017年12月3日付)
日中戦争の発端となった1937年の慮溝橋事件から約3週間後、中国・北京郊外の通州で多数の日本人と朝鮮人が中国人部隊に殺害された「通州事件」。日本人の反中国感情をあおり、戦争支持を決定づけた事件とされる。だが、「こちら特報部」でこれまで2度にわたって紹介してきた遺族らは、親族を殺害された恨みよりも「戦争の悪」を強く訴えた。今回新たに事件当時、母親の胎内にいた女性が取材に応じた。事件が頭から離れなかった女性の思いとは一。 /// 続きは本誌ご参照
過ちを繰り返さない日本に―藤原敏子からの手紙62
大類善啓
今年1月に入って藤原敏子さんから手紙(1月10付消印)をもらった。藤原さんは、岩手県北上市に在住、藤原長作さんの長男の夫人である。本誌の読者ならご存じだと思うが、藤原長作さんは方正県に住み着き、米作りを指導し、黒竜江省を米作中国一に仕上げ、多大な貢献をされた方である。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い63
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍案内を兼ねた編集後記64
大類善啓
かつて中国東北地方のある町を歩いていた時、本願寺系の寺院の跡地だったという場所に出会った。そうか、日本の宗教教団は旧満洲の日本人たちへの布教目的に、この大陸まで来たのだ、とその時改めて思った。その事実に驚いたわけではない。しかし、本書が明らかにしたように、悪名高い関東軍の731部隊に天理教団が協力していたという事実には驚いた。 /// 続きは本誌ご参照
 
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