方正友好交流の会
トップ | 会報『星火方正』 | 規約・役員 | 関連書籍 | 入会案内
 
星火方正
全てから題名・転載元著者要旨・書き出し
 
巻号・発行年月指定

[ 全ての既刊号を表示 ]

第29号(2019年12月発行) / 1冊39記事 を表示しています。

  第29号(2019年12月発行) 第29号(2019年12月発行)表紙

日本国家の棄民体質を問う―中国残留孤児問題とフィリピン残留日本人問題に携わって思う1
河合弘之
私は1944年4月18日に満州の新京で生まれました。1946年に家族全員で帰国する際、年子の弟は引き揚げ船の中で飢え死にをしています。日本に着くとすぐに病院に連れて行かれ、「この子もあと1日遅れていたら亡くなっていましたね」と医者に言われたそうです。そういうことがあり、中国残留孤児のことはずっと気になっていました。今から30数年前に一人の女性が、日本に帰ってきたが実は父親と名乗り出た人は赤の他人で、危うく強制送還かという報道を読んで、「そんな馬鹿な話があるか、私が戸籍を取るからやらせてくれ」と支援を申し出て、就籍という手続で戸籍を取ったのが私の中国残留孤児支援の第1号の話です。それ以後、中国残留孤児の国籍取得の仕事を本業の傍ら30年以上続けています。その数は約1250人になりました。 /// 続きは本誌ご参照
『日本人の忘れもの フィリピンと中国の残留邦人』の映画監督として6
小原浩靖
終戦75年目の2020年初夏に劇場公開される「日本人の忘れもの フィリピンと中国の残留邦人」で脚本・監督を務めた小原浩靖と申します。この映画は、中国残留孤児の身元未判明者の国籍取得を支援してきた河合弘之弁護士がプロデュースしたドキュメンタリーです。私が河合弁護士から中国とフィリピン、この2つの国の残留者問題をテーマとした1本の作品を作れないか?との依頼を受けたのは2018年の初めなので、2年の制作期間を費やした作品となりました。河合弁護士がフィリピン残留日本人の国籍取得を手がけ始めたのは、2002年が終わる頃。ちょうど中国残留孤児のみなさんが国家賠償訴訟を起こした時期と重なります。フィリピンの問題は、今もほとんど知られていない残留者問題であり、日本政府からの具体的な支援が未だもって講ぜられていない戦後未処理問題です。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓と日中関係10
丹羽宇一郎
《解説》本講演は今年、2019年6月9日(日)、第15回方正友好交流の会総会後の記念講演の採録である。丹羽さんのプロフィールについては冒頭、司会をした森一彦が紹介しているのでここでは省略する。丹羽さんについては、中国大使に就任後すぐに『星火方正』を北京の日本大使館に送ったところ、一か月ほど経った頃だったか、北京から返事をいただいた。大使という大変忙しい業務をぬって返事をいただいたことに驚くとともに感激した。またとても律儀な方だと思った。便箋に書かれた手紙には、我々の会へのねぎらいの言葉と、中国の東北へ行ったら必ず方正公墓に参拝しますと書かれてあった。その言葉通り、厳しい状況にあった日中関係の中での公墓参拝だったのである。(大類善啓) /// 続きは本誌ご参照
一殺多生―その身を命にかえて:「黒川開拓団」にみる女性たちの悲劇21
エィミ ツジモト
2018年初頭、わたくしは、独自の宗教観を信条に、希望に胸を膨らませて満州に入植した開拓団の敗戦後の悲惨な道行を描いたルポルタージュを上梓した。完成まで相当の歳月を要したが、調査・取材の過程で、敗戦後の満蒙開拓団におけるおぞましい実態、特に女性たちのおかれた劣悪な環境が次々と浮き彫りになって、驚愕した。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館「セミナー棟」完成の報告と御礼26
寺沢秀文
日頃は当誌読者の皆様方を始め多くの皆様方より満蒙開拓平和記念館への心温まるご支援、励まし等頂いておりますことに対し厚く御礼申し上げます。さて、この度、当記念館としても開館以来の念願であった新たな「セミナー棟」が完成いたしました。セミナー棟の実現に向けて尊い浄財をお寄せ頂いた皆様を始めご支援、ご協力、ご尽力頂きました全ての皆様方に厚く御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙の歴史忘れず平和の種まきに 記念館にセミナー棟竣工29
二神花帆(中日新聞)     転載元:中日新聞(2019年10月20日付朝刊)
満蒙開拓の歴史を伝える満蒙開拓平和記念館(阿智村)の新館セミナー棟竣工式が十九日、同所で開かれた。同館でガイドを務める松川高校ポランティア部の生徒らも参加。新たな平和教育の拠点として歩みを進めていくことを再確認した。 /// 続きは本誌ご参照
胡暁慧名誉会⻑一行来日30
大類善啓
ハルピン市日本人残留孤児養父母連絡会名誉会長の胡暁慧名誉会長を団長とする訪日団が来日し、2019年10月10日、方正友好交流の会と日中科学技術文化センターへの表敬訪問があり、大類と社団顧問の凌星光が応対した。一行の来日に関しては、日中の草の根交流の推進のため当社団が招聘状を発行した。胡さんら一行には、黒竜江出版集団・副総経理で黒竜江省出版協会会長の丁一平女史、また徐士蘭さんの孫、また未認定の残留孤児、白凱躍氏らも参加された。一行はその後、中国帰国者・日中友好の会の理事長・池田澄江さんらを訪問して帰国した。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児 養父屈の思いは―育てた記憶を証言 若者が撮影31
平井良和(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2019年8月27日付朝刊)
終戦の混乱期に旧満州(現在の中国東北部)で肉親と別れ、孤児となった日本人を引き取った養父母たちの思いを、電子記録や動画に残して後世に伝える取り組みが中国・黒竜江省で進められている。戦後74年が経ち、関係者の高齢化が進む中、若い世代が記憶をつなぐ役割を担おうとしている。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児養父母の愛―子育ての記憶 証言をサイトに32
東慶一郎(読売新聞)     転載元:読売新聞(2019年9月1日付朝刊)
中国黒竜江省の出版社が、「中国養父母記憶館」と題するホームページの制作を進めている。終戦後に満州(現中国東北部)などに取り残された中国残留孤児を育てた養父母のインタビューを動画などで紹介するものだ。戦後74年がたち、当事者の話を聞ける機会が少なくなる中、編集者たちは「可能な限り取材を続け、責重な証言を残したい」との思いで取り組んでいる。 /// 続きは本誌ご参照
中国黒竜江省方正県の「中日友好園林」の紹介33
石金楷
「中日友好園林」は中国における唯一の国際的園林である。その園林は「北方の華僑の故郷」と呼ばれる方正県にある。園林の南は風景が綺麗な砲台山にあり、北は川の水が奔流している松花江にある。中国の国内だけでなく、海外でも著名な旅行の観光地である。「中日友好園林」の前身は「方正地区日本人公墓」であり、敬愛なる周恩来総理の許可によって1963年につくられたものである。日中国交正常化の後、特に1980年代以降、日本の「水稲栽培の王」とも呼ばれる藤原長作先生が黒竜江省科学委員会の要請で方正県に行って寒冷地での稲作技術を伝達した。これは日本政府と民間団体が方正県との友好往来の歴史の始まりとなった。そのあと、日本政府と民間から20個以上の団体が方正県へ友好訪問し、旅行観光や墓参りをした。 /// 続きは本誌ご参照
『満州に渡った朝鮮人たち』を読んで35
李香花
今年6月に行われた李光平写真展をきっかけに、『「満洲」に渡った朝鮮人たち」写真でたどる記憶と痕跡』を手にすることができた。そこには、小さい頃目にしたことある風景が沢山載せられていた。最も印象的だったのが伝統文化の写真だった。小さい頃、正月やお祝いことがあると家族全員が民族衣装(チマチョゴリ)を着て楽器(チャンダン)を鳴らしながら歌を唄い、踊りながらお祝いをしていた。親戚の多くは、今は中国国内の各地、日本、韓国、オーストラリア、アメリカで生活しており、親戚皆が集まるのが難しく、残念に思う。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州の朝鮮人 苦難の足跡―移民2世が記録集を発刊36
安藤恭子(読売新聞)     転載元:東京新聞(2019年6月25日付朝刊)
戦時中、朝鮮半島から1日満州(中国東北部)に渡った中国籍朝鮮族の人々約600人にインタビューした移民2世の李免卑さん(74)=写真=が、その研究を写真と文でつづる記録集を、日本で刊行した。故郷を追われた朝鮮人の苦難の背景には、植民地支配をした日本の集団移民政策がある。李さんは「二度と悲劇が起こらないよう、知られざる事実をありのまま伝え、日中朝の人々の努力で平和につなげたい」と願う。 /// 続きは本誌ご参照
雲南にある日本軍兵士の墓37
古島琴子
雲南省南西部の騰冲(騰衝)に「倭塚」という墓がある。太平洋戦争末期、日本軍は戦死者の遺体を遺棄したまま敗走し、遺体は中國側の手で葬られた。写真(次頁の1)の「倭塚」は激戦地の一つであった謄沖にある中國軍戦死者墓苑の一隅に建てられ、「2万余の日本軍の眠る処」と説明されている。1942年5月、日本軍は中国遠征軍を追ってビルマ(現ミャンマー)から雲南に侵攻した。中国軍はサルウィン河上流の怒江にかかる橋を落として日本軍の侵攻を止めたが、怒江以西の地域は以来2年8ヶ月にわたって日本軍の占領下に置かれた。 /// 続きは本誌ご参照
舞鶴港39
柳生じゅん子
吹雪の車窓に舞鶴港が近づいてきた 目をこらすと 旧満州から引き揚げてきた私達家族がいる /// 続きは本誌ご参照
母の夕陽40
柳生じゅん子
どうしてあんなに大きく朱かったのかしら 満洲の夕陽は。地平線に燃え落ちていく火の玉を見ていると ここは日本なんかじゃないと つくづく思った。嘘の固まりだったものが ドロドロと溶けて とっくに家の入口まで流れて来ていたのに 私は気がつかなかったのね。 /// 続きは本誌ご参照
日本敗戦後の方正での生活を振り返って42
中島茂
1945年12月収容所から、中国人「隋」家に救われ新年を迎えました。それは2番目の姉(千世子)が隋家の兄弟4人の内2番目の人と結婚することで、中国人家庭に入りました。当時私の家族は、母と姉二人と弟の5人でした。隋家は、方正県庁のある街の中に家がありまして、家族総勢7人居たので合わせて12人が一つの屋根の下で一冬過ごしたのです。あまり狭いので翌年母が付近の豆腐屋を営む一人の中国人と再婚することになって、私と弟を連れて隋家を出て暮らすことになりました。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓を訪ねて45
堀内博史
ハルビンの東に位置する方正というところに日本人の墓があることを知ったのは、北京に仕事で駐在していた2018年初頭の頃でした。きっかけはたまたま買った「地球の歩き方大連 瀋陽 ハルビン2019~2020」の346頁に「満蒙開拓団の痕跡を訪ねて」というコラムを見つけたことでした。私はまもなく2018年4月に帰任しましたが、いつかは方正を訪問し日本人のお墓に行きたいと思っていました。そして2019年6月ついに友人と2人で方正を訪ねることができましたが、その際には方正友好交流協会の大類様には大変お世話になりました。また方正では大変印象深いことがありましたので、直近の方正情報提供のためにも訪問に関する出来事を寄稿させていただくことにいたしました。 /// 続きは本誌ご参照
ノモンハンへの旅47
野田尚道
毎年、8月になるとテレビで過去の戦争に関する番組が放送され、お盆の時期と重なることもあり、なかなか直接見ることが出来ないので録画をして後から見るようにしている。昨年8月にNHKスペシャルで『ノモンハン 責任なき戦い』の放送があり、同様に録画をして、お盆過ぎに見た。関東軍の暴走によって無益な戦争が引き起こされ多くの戦死者を出したと記憶をしていたところ、今年になって、昨年縁があった旅行社から第六回戦争を語り継ぐ特別企画「ノモンハン戦跡・内モンゴルと北京ー歴史に触れる旅ー」の案内が届いた。 /// 続きは本誌ご参照
日中友好協会福岡連合会「東北三省をめぐる平和の旅」50
後藤富和
日中友好協会福岡県連合会は2019年9月14日から6日間、「東北三省をめぐる平和の旅」に取り組みました。参加した川添緋砂子さん(83歳)は、市を流れる大河「松花江」の岸辺に立ち、今は亡き養父母に「会いに来たよ」とお孫さんとともに線香を捧げました。哈爾濱市は川添緋砂子さんが幼少期を過ごした街。郵便局員の父は、佐賀県唐津市北波多町から転勤で旧満州の市に、そこで川添さんが生まれます。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙の地「方正」のうた56
千秋昌弘
第二次世界大戦では、8000万人余の人が亡くなりました。ホロコーストで570万人、中国人約2000万人、日本人約300万人、満洲で戦争中亡くなった日本人は24万5千人にものぼり、これは広島・長崎21万人、沖縄戦19万人、東京大空襲97000人を大きく凌ぐ、非常に多くの犠牲者となりました。開拓団の総ては、日本政府に捨てられ、満州国政府に捨てられ、関東軍に捨てられてきました。そのことは何故か今日まで日本政府も国連も世界世論も取り上げず今日に至っています。しかし非業の死を遂げた事実は、消すことのできない冷酷な事実であります。 /// 続きは本誌ご参照
極寒の地に果てた開拓団の人々64
丸山勝子     転載元:朝日新聞(2019年6月15日付)
子供の頃、旧満州(中国東北部)の撫順駅の近くに住んでいた。敗戦から間もないある日、線路上を延々と、長蛇の列をなして歩いてくる人たちを見た。道程の長さ、悲惨さは明らかだった。髪はぼさぼさ、顔も手足も泥だらけ。着衣はぼろぼろで、腰にむしろを巻きつけただけの人もいる。満蒙開拓団の人たちだった。 /// 続きは本誌ご参照
週刊うたごえ―中国の日本人墓地の歴史65
千秋昌弘     転載元:うたごえ新聞(2019年10月21日付)
合唱構成「紫金草物語」(大門高子:詞、大西進:作曲、山下和子・張勇:編曲)を持って何度も中国公演を行ってきた大阪・男声合唱団昴団長千秋昌弘さん。昨年、日中交流ツアーで訪れた「方正」で戦前の満蒙開拓団の犠牲者が眠る日本人墓地を知る。この事実を伝えようと「満蒙の地『方正』のうた」を作り、歌い広めている。歌の背景、千秋さんから。 /// 続きは本誌ご参照
『日中未来遺産』を上梓して―藤原長作氏の「記憶」を日中の未来に向けた「遺産」に66
岡田実
『星火方正』25号に、拙文「「平和の時代のベチューイン」藤原長作と「旅日僑郷」方正県を訪ねて」を掲載していただいたのは2017年12月であった。翌2018年12月、中国は「改革開放」40周年を迎えた。中国はこの40年間、世界第二の経済大国へと急速な発展を遂げたが、その初期、“草の根”で黙々と汗を流し、農村の発展を支えた日本人たちがいたことは、日中双方の国民にあまり知られていない。 /// 続きは本誌ご参照
創作書簡集『11通の手紙』を上梓して69
及川淳子
「日本政府の公式見解を聞きたいのではなく、日中間の歴史問題について君自身がどう考えているかを知りたいんだ」。彼はゆっくりと言葉を選びながら、まっすぐに私の目を見てそう言った。低い声がよく響き、特徴のある話し方で、穏やかに諭すようだった。それは、2005年晩秋の北京で作家の劉暁波を訪ねた時のことだ。1989年の天安門事件に深く関わり、幾度も逮捕されながら、海外亡命という道を選ばずに中国に留まって執筆活動を続けている理由が知りたかった。徹底した非暴力を貫いて、天安門広場でハンガーストライキを決行したことや、武力衝突を回避すべく戒厳部隊と学生たちとの間で交渉役を担った経験談などを期待したが、それよりもまず先に、私が日本人と知って冒頭の問いかけとなったのだ。 /// 続きは本誌ご参照
『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』(津成書院)を上梓して71
藤沼敏子
この本は、私のホームページ『アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言』http://kikokusya.wixsite.com/kikokusya から生まれたものです。中国残留孤児・残留婦人等とその支援者、関係者の方々の協力を得て、2000年7月から2019年8月まで、200人前後の方にインタビューをさせていただきました。その中の中国残留婦人等(「中国残留邦人支援法」対象者。男性、サハリン残留邦人も含まれる。終戦時13歳以上だった方々)34人のインタビューをまとめたものです。 /// 続きは本誌ご参照
『忘れえぬ人たち―「残留婦人」との出会いから』(日本僑報社)を上梓して77
神田さち子
目の前に葉書とFAX一枚を置いてこの稿の執筆に取りかかります。それは私の新著「忘れえぬ人たち」(日本僑報社)に対して山田洋次映画監督からのコメント2葉なのです。“過去の歴史を無かったことにしよう、もう忘れて未来指向で行こう、という今の国にあって、とても大切な御本だと思います“、“「もう何も日本に言いたいことはありません」という、痩せ細った小さい体の残留婦人が言われた言葉を、ぼくは中国引揚者の一人として重く受け止める―神田さち子さんが生涯をかけた作品“。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児二世の移住と定着に関する博士論文を書き終えて79
張龍龍
2013年に残留孤児とその家族研究を始めてから7年経った。その研究の旅を振り返ると、2013年4月に、筆者は中国を離れ、下関市立大学大学院修士課程に推薦入学した。入学後まもなく、北九州市のスーパーで、ある残留孤児と出会った。その時、はじめて「残留孤児」という人びとの存在を知った。「残留孤児」とは、ほとんどの中国人にとって馴染みのない言葉だった。日本と中国の社会を生きてきた残留孤児の生活史を記録したい、という単純な思いを抱き、その翌日、この考えを指導教員に伝えた。「修士論文のテーマとして取り組んでみたら」と指導教員に励まされ、そこから、残留孤児研究がスタートした。 /// 続きは本誌ご参照
戦争体験の継承82
聞き手・青木美希、伊藤恵里奈     転載元:朝日新聞(2019年8月8日付朝刊)
証言発掘近現代史に迫る(羽田澄子さん)、「今と地続き」伝え方腐心(吉田裕さん) /// 続きは本誌ご参照
満州 奪われたピアノ83
読売新聞     転載元:読売新聞(2019年8月9日付朝刊)
世界的なジャズピアニスト秋吉敏子さん(89)=米国在住=が、戦時中の旧満州(現中国東北部)での生活や、引き揚げの苦労を語った証言映像が今月、完成した。当時10歳代だった秋吉さんの生活を一変させ、後の人生に大きな影響を与えた戦争体験。「若い世代に知ってもらいたい」と、平和祈念展示資料館(東京)のインタビューに応じた。9月から同館で上映される。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州から引き揚げ 迫るソ連兵 「自決しか」84
福浦未乃理(東京新聞横浜支局)     転載元:東京新聞(2019年8月12日付朝刊)
「満州はわかる?」―小谷洋子さん(86)=横浜市港南区=が、模造紙に描いた自作の旧満州(現中国東北部)の地図を広げた。一歳の時に家族で満州に渡り、敗戦から約一年後の一九四六(昭和二十一)年十月、十三歳で日本に引き揚げてきた小谷さん。当時の歴史はある程度知ってはいるものの、実際に話を聞くのは初めての私を見て、ひと呼吸置いて語り始めた。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓団「死の谷」伝える―中国・方正の郷土史家 終戦直後、数百人犠牲の地85
東慶一郎(読売新聞)     転載元:読売新聞(2019年8月12日付朝刊)
中国東北部の黒竜江省方正で1945年8月の終戦直後、当時のソ連軍から逃れようとした日本の満蒙開拓団の数百人規模が渡河に失敗し、命を落とした。地元の郷士史研究家らは、民間人が犠牲になった戦争の残酷さを示す史実として伝えていくべきだと訴えている。 /// 続きは本誌ご参照
澤地久枝さんに聞く―国に捨てられた 敗戦時の苦難が原点86
佐藤直子(東京新聞)
東京・永田町の国会議事堂前に毎月三日、「アベ政治を許さない」と書かれたポスターを掲げる人の群れが現れる。安倍晋三首相に退陣を突きつけるデモだ。先頭に立つのはノンフィクション作家の澤地久枝さん(88)。シュプレヒコールもない。組織もない。一人ひとりの意志だけに支えられた行動は四年を超えた。猛暑の夏も体の限界に挑むように澤地さんは路上に立った。戦後七十四年。日本を見つめてきた作家は、何を思うのか。 /// 続きは本誌ご参照
友好訪問:なりたかった自分へ、今からでも遅くない―NPO法人「ほんにかえるプロジェクト」発起人・汪楠さん 受刑者の更生のために本を活かす88
吉井忍(フリーランスライター)     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2019年8月1日)
日中国交正常化の1972年、吉林省長春市に生まれた。母はバスガイド、父は地元の病院の副院長も勤めた外科医。教育熱心な家庭で、父は毎朝家の壁に掛けた黒板に「お題」を書き、その日のうちに詩を作るよう息子に指導した。小学校でも成績は常にトップだったが、親の離婚で一変した。父はのちに残留孤児の日本人女性と再婚、その父に誘い出されて86年、姉とともに神戸行きの船に乗った。 /// 続きは本誌ご参照
開拓民も日本軍国主義の犠牲者89
丸井健太郎     転載元:週刊金曜日(2019年11月1日付)
映画『山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日』を見た。教師・山本慈昭(内藤剛志)は、阿智郷開拓団として、妻・千尋(渡辺梓)と2人の娘を伴い、教え子である国民学校の生徒を引率し、満州(中国東北部)北哈嗎へ赴く。1945年5月のこと。校庭で児意たちは、宮城(皇居)に向かって、遥拝。歌声は明るく響く。 /// 続きは本誌ご参照
ひと:初のエスペラント訳『蟹工船』を出版―堀泰雄さん(77)89
清水博(しんぶん赤旗)     転載元:しんぶん赤旗(2019年6月20日付)
「ヘイ!ニ・イラース・アル・ラ・インフェーロ」―日本語原文の冒頭のせりふ「おい、地獄さ行(え)ぐんだで!」と、調子がよく合っています。 /// 続きは本誌ご参照
Kial mi ekis porti jupon?(エスペラント原文原稿:なぜ私はスカートをはくようになったのか?)90
ブリアーノ ルッセル
私はよく人から、スコットランド人かと聞かれます。なぜでしょう? 私は男ですが、よくスカートをはいているからです。ご存知のようにスコットランドの男たちは、キルトという男性用スカートをはいています。子どものころ私は、異性装者やドラァグクイーン、つまりスカートをはく男性をおかしい人だと思っていました。それ故、自分自身がスカートをはこうと決めたなんて、変なことだろうと実際思ってしまいます。そこで、私がなぜスカートをはくようになったのか、その理由についてお話しましょう。 /// 続きは本誌ご参照
ブリアーノさんとの出会いと彼の原稿について92
大類善啓
この原稿を送ってくれたブリアーノ・ルッセルさんに出会ったのは、この夏(2019年)、スペインのカタロニアの州都、バルセロナで開催されたエスペラントSAT世界大会である。SAT(サートゥと言う)はSen Nacieca Tutamondo(世界無民族協会)の略称であり、国家や民族を無くそうとするエスペランティストの、いわば少数派の世界組織である。エスペラントの最大の世界的な組織はUEA(ウエア)と言って、毎年夏に開催する世界大会には1000人以上、時には2000人近いエスペランティストが参加する。もちろんベテランのエスペランティストの友人に聞けば、半分以上が初心者であり、観光を兼ねて参加する人も多いとのことである。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い94
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記95
大類善啓
今号も多くの方々からの寄稿があり、なかなか充実した誌面になっているのではないかと思っている。寄稿された方々には改めて感謝します。今秋は、中国からの視察団ラッシュの応対で私も、本会事務局がある日中科学技術文化センターでの本業!?の仕事が忙しく、編集業務も慌ただしかったが、ともかく発行することができてほっとしている。 /// 続きは本誌ご参照
 
トップ | 会報『星火方正』 | 規約・役員 | 関連書籍 | 入会案内
「方正友好交流の会」事務局

〒101-0052 東京都千代田区神田小川町3-6 日本分譲住宅会館4F 一般社団法人日中科学技術文化センター内
Tel: 03-3295-0411 Fax: 03-3295-0400 E-mail: ohrui@jcst.or.jp