方正友好交流の会
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星火方正
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  第5号(2007年12月発行) 第5号(2007年12月発行)表紙

黒龍江省ハルピン・方正を訪ねて1
南野知恵子
日・中双方は、国交正常化35周年に合わせて、日本からの直行便を有する中国の19の都市に、総計2万人規模の訪問団を派遣するなどの計画を共に実施する事が話し合われ、双方合わせると3万人にも達するのではないかと予想される程、日中国交正常化35周年記念観光交流事業が活発に行われております。交流計画の一つとして黒龍江省のハルピンに、団長として訪問する機会をいただいたのは、自由民主党・ニ階俊博総務会長からで、当時私は総務会副会長で、日中友好等の話をしている時でした。私は、ハルピンより更に北方に位置するチチハルで生を受けており、またハルピンは、大戦時疎開した所でもあり、里帰りの様な気にもなり、二階先生の命を感謝の心でお受け致しました。今回ハルピンの記念訪中団は;300人にもなる大きな団体でありました。 /// 続きは本誌ご参照
初めて訪れた方正県3
伊藤忠彦
9月27日突然、二階俊博先生から、北京に行き、その後黒龍江省のハルピンに行って日中国交正常化35周年の会合に出てきてくれと言われた。35周年を記念したレセプションに日本国を代表して出席すると共に、温家宝総理との会見を人民大会堂でさせていただく事となったのである。事の重大さに驚いてしまった。思えば、10年前の25周年の時、石川好先生団長のもと任景国さんと一緒に新褐空港から錦鯉をたくさん飛行機に乗せて四川省成都と北京へ(釣魚台国賓館)へ行ったのが、私自身の初めての訪中であった。あれから10年、35周年では一人の国会議員として訪中し、温家宝総理にお目に機会を得るに至った。二階先生のお陰でこの35周年の一番大切な時にこうして訪中させていただいたこと、また今日まで私自身を支えて下さっている皆様には深く感謝を申し上げなければならない。 /// 続きは本誌ご参照
故郷チチハルより、まず方正へ―南野知恵子、伊藤忠彦両議員の方正日本人公墓参拝レポート5
大類善啓
南野知恵子参議院議員に初めてお目にかかったのは、2年前の7月、法務大臣に就いておられた時である。前任の法務大臣であった野沢太三さんが(社)日中科学技術文化センターの会長に就任され、その挨拶のため大臣室を訪れた際、私も同道したのだ。野沢会長と南野大臣が、一通りお話を終えたころを見計らって、会報の「星火方正」を取り出し、日本人公墓のことをお話したところ、チチハル生まれの南野さんは、たいへん驚き、親しくしておられる密教の僧侶による供養ができないかというお話をされた。それから二週間も経たないうちに、密教の老師とともに事務所にお見えになった。 /// 続きは本誌ご参照
注目され始めた日本人公墓の存在―マスメディアで相次いで紹介された方正公墓9
方正友好交流の会
方正友好交流の会が再発足してから2年半ほど経つ。ここに来て会の活動の成果が表れてきたようである。参議院議員南野知恵子・元法務大臣の方正公墓参拝もその大きな出来事だが、新聞と放送メディアが相次いで方正公墓に光を当てた。すでにご承知の方も多いだろうが報告したい。 /// 続きは本誌ご参照
水/地平線:福田さん、旧満州に来ませんか12
古谷浩一(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2007年11月5日付朝刊)
松の枝から漏れる晩秋の日差しが、石柱をまぶしく照らしている。中国黒竜江省ハルビン市郊外の方正県。ここに中国当局が1963年につくった「日本人公墓」がある。終戦の混乱の中、日本への引き揚げがかなわず死んでいった旧満州の日本人を弔ったものだ。日中国交正常化から35周年を迎えた9月29日。ハルビンで開かれた記念行事に参加するため訪中した元法相、南野知恵子さん(71)らの一行とともに、この公墓を訪れた。 /// 続きは本誌ご参照
歴史を語る:「方正地区日本人公墓」の建立に携わった女性 松田ちゑさんに聞く13
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2007年7月5日)
敗戦の混乱の中で旧満州の開拓団員らが集結した黒竜江省方正県。ここに国交正常化前の1963年、同省人民政府の手で「方正地区日本人公墓」が建立された。公墓の建設を県政府に嘆願したのが、元開拓団員の松田ちゑさん(88)。終戦記念日を前に、現在、東京に住むちゑさんに当時の話などを聞いた。 /// 続きは本誌ご参照
鎮魂の夏2007:友好の原点「記録に」―中国が戦後建設 日本人開拓民墓地14
宮尾幹成(東京新聞千葉支局)     転載元:東京新聞(2007年8月14日付)
記録映画監督の羽田澄子さん(81)=東京都世田谷区=が、新作の構想を練りに今月下旬、旧満州(中国東北部)を訪れる。足を運ぶ先は黒竜江省ハルビン市郊外の方正県にある「方正地区日本人公墓」。終戦直後の混乱期に亡くなった日本人開拓民の遺骨を納めた公墓で、中国人が戦後日本人への恨みを乗り越えて建設した。だが、一般には存在はほとんど知られておらず、旧満州で生まれ育った羽田さんも最近まで知らなかった。「一度現地を見て、作品かできるか確かめたい」。羽田さんは現地入りを心待ちにしている。 /// 続きは本誌ご参照
映画監督・羽田澄子さんが方正へ―“残留孤児の映画作りたい”15
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2007年10月5日)
昨年は最新作『終わりよければすべてよし』を発表するなど、50年以上にわたり精力的な活動を続けている記録映画監督の羽田澄子さん(81)が8月、中国で唯一の日本人公墓が建つ黒竜江省方正県を訪れた。中国残留孤児をテーマにした作品づくりのヒントをつかもうという思いに突き動かされての旅だった。 /// 続きは本誌ご参照
私の視点:日本人公墓を知ってますか16
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)     転載元:朝日新聞(2007年10月10日付朝刊)
今年は日中両国が国交を正常化して35年になる。記念すべき年ということで、両国ではさまさまな交流行事が行われている。お互いに胸襟を開いて語り、知り合い、今まで抱いていた悪い固定したイメージが、氷解する話を聞くのはうれしい。 /// 続きは本誌ご参照
日報文章“日本人公墓”体現中国人胸懷17
徐群(参考消息)     転載元:参考消息(2007年10月11日付)
《解説》「私の視点」の記事が、中国で最もインテリ読者の多い『参考消息』に掲載された。見出しは「中国人の懐の深さを表す日本人公墓」となっている。 /// 続きは本誌ご参照
China caring for remains of war-displace18
Yoshihiro Ohrui     転載元:International Herald Tribune/The Asahi Shimbun(2007年10月20日付)
《解説》10月20日、英字紙「ヘラルド・トリビューン/朝日」にも翻訳掲載(中国、戦争で置き去りにされた日本人たちの公墓を建立し保存) /// 続きは本誌ご参照
「方正日本人公墓」が語るもの19
凌星光
大類善啓氏から方正日本人公墓のことを聞き、大きく心を動かされた。その物語は次のようなものである。中国黒竜江省方正県にはいくつかの満州開拓団があったが、ソ連軍進入後、奥地の開拓団員が方正収容所に集まってきたため、人数が急速に膨張していった。零下40度の厳寒下で、1945年末から46年にかけて、方正に集結した多くの開拓民が飢えと凍えで亡くなった。1946年に方正県人民政府が誕生し、散らばっていた遺体4500体を一箇所に集めてガソリンをかけ、三日三晩焼いた。そしてその遺骨は野ざらしにされ、白骨の山となっていた。 /// 続きは本誌ご参照
中国人の寛大さと慈愛心23
金丸千尋
中国で唯一の日本人を祀る「方正地区日本人公墓」が1964年、中国によって建立された。この「公墓」は、『侵略戦争に責任がある一握りの軍国主義者と日本の国民大衆とは別であり、日本国民は戦争の犠牲者である』という中国政府の理念と政策が根底にあったことはいうまでもない。 /// 続きは本誌ご参照
遠く万里離るとも いよいよ深し中日の情25
石金楷
2007年6月11日から13日まで、日本の友好人士、山村文子さんと相坂百合子さんが訪中、黒龍江省と吉林省で日本の残留孤児と養父母を訪ね、行く先々で熱い歓迎を受けました。同時にお二人は日本人民を代表して養父母と孤児をやさしく見舞いました。 /// 続きは本誌ご参照
長野県開拓自興会結成60周年記念訪中記27
永原今朝男
今回の訪中は、旅行期日を急逮4カ月ほど早めた事情もあり、僅か28名の参加者(前回は98名、前々回は130名)であったが、募集窓口側としては、訪中コースの設定、旅行社との折衝、人員掌握、事務連絡等の作業も順調に進み、チームワークも取りやすく、私自身も緊張感から解放され、楽しい有意義な旅であった。 /// 続きは本誌ご参照
草の根の友好運動29
伊藤州一
「あの叔母さんは本当に可哀そうな人だから、皆で話をしたらいかんよ。満洲から帰ってくる時に背負っていた赤ん坊が死んだもんで道端にうっちゃってきた、可哀いそうな叔母さんだからね」母は私にそう言い聞かせました。静岡県と長野県の県境の山に囲まれた横山小学校3年生。戦争が終って2年過ぎた年でした。住む家がなかったのでしょう。幼子を2人つれて学校の用務員室に住み込みましに。開拓団として中国に渡り、命からがら帰国した叔母さんでした。これが私が始めて中国を意識した時でした。(その叔母さんは私が卒業するまで用務員室に住んでいましたが一度も笑顔を見せたことがありませんでした) /// 続きは本誌ご参照
残像32
樗沢仁
10歳で家族と敗戦直前の満州へ渡り、命がけの避難で母と妹を失った。あれから62年、この体験が新潟県で獣医を営む樗沢仁さん(72歳)を中国へ駆り立てる。毎年、私たちと方正を訪ねた後、独りとんぼ返りでハルピンに引き返し、その晩、夜行列車でソ連国境の綏芬河へ向かう。忙しくて3ヶ月も中国へ行けないとじっとしていられなくなる。今回の方正行きは今年6回目の訪中となった…。(方正友好交流の会) /// 続きは本誌ご参照
シャボン玉と般若心経34
伊原忠
ハルピンを訪れたのは二回目。一度目は2005年に「731部隊」の歴史を知るために。その時、日本のメディアは、「反日デモ」を盛んに報道していました。しかし、危惧する事がなく、親切なガイドのお陰で、充実した旅行ができました。 /// 続きは本誌ご参照
731部隊記念館で忘れたもの35
津久井洋
8月22日「中国・交流と歴史検証の旅」に参加した。方正にある日本人公墓は黄金の稲穂と、熟れたとうもろこしに囲まれ収穫の秋を迎えていた。路上で食べた炭火焼のとうもろこしは、甘過ぎずモチモチした食感で昔を思い出した。墓参後、731部隊記念館を訪ねた。この部隊はハルピン市平房区に1935年細菌兵器製造を目的に作られた。細菌兵器の効果を確かめるために生きた人間を生体実験したのであるが、1980年作家森村誠一著「悪魔の飽食」によりその全貌が明らかになるまで闇に包まれていた。 /// 続きは本誌ご参照
「中国・交流と歴史検証の旅」に参加して36
栗林稔
8月22日より4泊5日の日程で初めて方正県を訪間してきました。「中国語新潟」に参加したことがご縁で方正友好交流の会の奥村さんから参加のお誘いを受けました。「天を恨み地を呪いました一中国方正の日本人公墓を守った人々」や「星火方正―燎原の火は方正から」、今回同行した石原さんの手記など頂いた資料を事前に読み「方正日本人公墓」について学習しました。 /// 続きは本誌ご参照
今年も会いに来ましたヨ37
奥村正雄
毎回、墓参団として公墓の墓前に花束を供えるほかは、参加者それぞれ思い思いのやり方でお墓に向い合う。ある時は小雨の中、懐から取り出した鉦をたたいて般若心経を唱え続ける人がいたし、またある時は、日本から携えてきた故郷の味を墓前に供えて合掌する人もいた。今回、思いがけない光景を目の前にして深く感動したのは、ご夫婦で参加された小、中学校の教師夫妻が子供たちが遊ぶシャボン玉セットを取り出し、それぞれ口にくわえたストローから静かに吹き出された無数のシャボン玉が、お墓の周りを漂っては松林の中に消えていったシーンだ。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓 鎮魂歌39
福久かずえ
私は大正末期、中国大連に生を享け、七歳の時から父の仕事の関係(電気技師)で中国三省を転々と住所と学校を変えながら、幼少・青春時代を過ごしました。終戦時(日本運命の日)、旅順師範学校在学中で寮生活をしていた私は、身を寄せる親戚、友人もなく、一家離散の憂き目に遇い、遂に天涯孤独の身となり、置き去りにされたのです。同年九月十八日、旅順は中国とソ連に接収され、母校も立ち退き命令が下り旅順を脱出。大連に避難中に結核が再発し、翌年春大連港から引き揚げの機会を逸してしまいました。路頭に迷っているとき、優しい中国人に助けられ、病院で手当を受け、健康を取り戻したあと、その命の恩人と結婚。 /// 続きは本誌ご参照
「方正」はわが心の座標軸41
藤井正義
私が「方正」という語を知ったのは、平成十九年五月、社団法人日中科学技術文化センターにお世話になってからのことであるから、まだいくばくもない。これを機会に旧満州に対する私の想いは、今までと一変し、その深さと膨らみを増した。 /// 続きは本誌ご参照
中国思い出の旅43
石原政子
私達は八月二十二日 日中友好の旅十三人の団体に参加し新潟発十一時半の飛行機で中国ハルビンに向かい、二時間後に到着、ホテルのバスが迎えに来ました。翌二十三日九時、貸切バスで方正に向かい三時間で着きました。一九八一年帰国以来方正は初めてです。戦後六十二年ぶりの墓参です。墓地も大きく立派な碑が立ち、これも中国のご尽力に依るものと感謝いたしました。 /// 続きは本誌ご参照
我が半生記一凍土の地、旧満満州の空の下で43
石原政子
「中国残留孤児」と呼ばれる人々は戦後のドサクサで肉親と離ればなれになり、自分の身元がわからなくなって「孤児」となった、という言われ方を一般によく耳にする。また、いわゆる「残留婦人」についても、自分の身元はわかっていても日本に帰れなかった様々な事情を抱えていたと言われる。そう言われれば、聞く方も何となく納得してしまうが、そのドサクサや様々な事情が一体どんなものであったか、実際のところ当事者でなければわからないことである。 /// 続きは本誌ご参照
カメラマン・高部心成さん:中国残留孤児・婦人の2世、3世、写真・ルポで「自分探し」―ルーツ求め心の旅56
山根祐作(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2007年11月3日付朝刊)
敗戦の混乱の中で旧満州に取り残された中国残留孤児や残留婦人の2世、3世の中に、自分のルーツをたどり、写真やルボで表現しようとする人がいる。日本と中国のはざまでアイデンティティーが揺れ動く中で、日本社会への同化ではなくルーツにこだわることによる「自分探し」の試みだ。 /// 続きは本誌ご参照
記憶をつくるもの:中国から見た残留孤児57
古谷浩一(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2007年10月30日付朝刊)
旧満州の大地に取り残された「残留孤児」をめぐり、日本では国家の責任が問われる。中国の人々の目には異なった像を結んでいる。 /// 続きは本誌ご参照
記憶・20代記者が受け継ぐ戦争:祖国を愛しているから―4年の賠償訴訟 矛盾に悩む 中国残留日本人孤児 井上征男さん(63)58
宮尾幹成(東京新聞千葉支局)     転載元:東京新聞(2007年8月15日付朝刊)
飛行機の窓から見える美しい日本の国土に、涙がこみ上げた。一九八五年九月八日。肉親捜しの「訪日調査」で、四十年ぶりに祖国に戻った。成田空港では、祖国の発展ぶりを誇らしく眺めた。翌朝、宿泊施設に掲げられた日の丸を見上げて、また泣いた。 /// 続きは本誌ご参照
《短編小説》赤々と燃える楓の葉59
井上征男
私はずっと彼女を探し続けてきた一あの年、10人の小さな弟妹たちを連れて死地を脱し、1年をかけて広大な東北を歩き抜き、千里の道を逃げ切ったこのお姉さんを、である。錦秋の10月、私の願いはついに叶ったのだ。50年描いてきた夢が叶ったのだ、夕靄が立ち込めた楓林の中で..。 /// 続きは本誌ご参照
日本に残留し定住したある中国人―在日華僑・韓慶愈が生きた「もう一つの昭和史」(第3回)65
大類善啓
《前回までの粗筋》遼寧省の貧しい村で1926年(昭和元年)に生まれた韓慶愈は、1943年「満州国政府」から派遣され、茨城県の大田中学に留学した。しかし戦局は悪化、韓にも帰国命令が下った。新潟から帰国直前、広島への原爆投下、帰国船上ではソ連参戦と日本の敗戦を知らされた。出港した船は中国へ行かず、迂回して敦賀に入港。予想もしなかった日本に舞い戻ってきた。やっと日本から解放されたと思ったが、蒋介石の国民党代表団からは、韓たち留学生は「祖国を裏切った漢奸」とみなされ国民党に失望、帰国できずにいた韓は、新聞記者の見習いをしながら東工大に進学した。新中国の誕生は、華僑たちの帰国熱を促した。韓も1953年の第1回の帰国船に学生代表として中国に行き、3回目あたりの帰国船で帰るつもりだった。ところが天津で廖承志に面会したら、「日本に残り、華僑向けの新聞を出せ」という。新中国を背負う大幹部からの直々の要望である。帰国して祖国に貢献しようと思っていた韓は、ここで気持ちを切り換え、日本に戻り、さっそく新たな活動を始めるのだった。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い72
方正友好交流の会
中国ハルピン市郊外の方正県に、日本人公墓が建立されているのをご存知でしょうか。1945年の敗戦のさなか、祖国を目指して逃げ惑った旧満洲の開拓団の人々は、難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が、この方正の地で息絶えました。それから数年、累々たる白骨の山を見たある残留婦人が骨を拾い集めました。そして力を貸した中国人たちが集めた遺骨はおよそ五千体ともいわれています。 /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍のご案内73
方正友好交流の会
『中国残留邦人一置き去られた六十余年(井出孫六著)』、『天を恨み 地を呪いました一中国方正の日本人公墓を守った人々(奥村正雄編著)』、『二つの祖国 ある中国残留孤児の証言(北澤博史著)』、『赤い夕陽の満州にて 「昭和」への旅(高橋健男著)』 /// 続きは本誌ご参照
編集後記74
大類善啓
「三号雑誌」という言葉がある。同人雑誌などを創刊したはいいが長続きせず、3号くらいで廃刊するという意味である。それだけは避けたい。なんとしても3号で終わりにはしない、というのが編集子の意気込み!であった。当初の予定より発行は1ヶ月ほど遅れたが、今号は5号目であり、最長の頁数になった。 /// 続きは本誌ご参照
 
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