方正友好交流の会
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星火方正
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第7号(2008年12月発行) / 1冊30記事 を表示しています。

  第7号(2008年12月発行) 第7号(2008年12月発行)表紙

私にとっての「方正」1
渡辺一枝
「方正」という地名を初めて聞いたのは、いつどこでだったろう。哈爾濱の外僑養老院を訪ねた時だったろうか、あるいは哈爾濱から佳木斯に足を延ばした時か、それとも訪日中の“中国残留孤児”の面会に代々木のオリンピックセンターに行った時だったろうか。1945年1月に哈爾濱で生れ、翌年9月に母に背負われて引き揚げてきた私だが、母の語った“満州”の思い出話に、方正の名は出なかった。幼い頃の私は母の思い出話の“ハルピン”に異国情緒溢れる情最を想い浮かべ、スンガリーが流れ、キタイスカヤ、モデルンなどと片仮名で表示される地名のある地で生まれたことを、誇らしく感じていた。 /// 続きは本誌ご参照
羽田澄子さんの映画『鳴呼 満蒙開拓団』と日本政府の方正支援について3
大類善啓
当会の会報で方正日本人公墓の存在を知った記録映画監督の羽田澄子さんは、「残留孤児」の取材、方正への2度のロケと、精力的に取材を行っていたが、このほど『鳴呼 満蒙開拓団』(2時間の記録映画)を完成させた。その初公開が、第21回東京国際女性映画祭の初日、10月19日(日)午後12時からあった。 /// 続きは本誌ご参照
記録映画『嗚呼 満蒙開拓団』(羽田澄子監督)の撮影現場から8
奥村正雄
ハルピンから方正へ高速道路で185キロ、3時間近いマイクロバスでの移動。この間、トイレ事情はどうなのか、羽田さんは方正ロケを決断する前、「私は生まれつき腸が弱くて…」と言って、この不安で方正行きを迷ったようだった。が、訪中を決断し、いま見渡す限りとうもろこし畑のつづく広野を疾走するバスが、途中、ガソリンスタンドでトイレ休憩しても、彼女はその不安がウソだったように、バスから降りて一息入れている同行者にインタビューし、カメラを向けさせ続けた。 /// 続きは本誌ご参照
大好評のハルピン公演―神田さち子さんのひとり芝居『帰ってきたおばあさん』12
石金楷
2008年10月26日、日本の「神田さち子中国の旅」一行15人がハルピンを訪れ、残留孤児の養父母および今も中国に残る残留孤児のために慰間公演を行い、また黒竜江省竜江劇場でも一般公演を行い、広く各界から好評を博した。 /// 続きは本誌ご参照
日の丸は踏まれて―慰安婦は私の家から出て行った16
飯牟礼一臣
先日、大類善啓さんから『星火方正』第6号が送られてきた。「方生」?「ほうせい」なのか「ほうまさ」なのか、正しい読み方すら知らなかった私に何か満州の想い出を書いてみないかとのお誘いであった。一体どんな本なのだろうかと、ページをめくって驚いた。ー読三嘆擱く能わず。想いのたけを込めた文章に圧倒された。日本人公墓の存在も初めて知った。私は開拓団員ではない。投稿する資格の無い人間だと思ったが、開拓団の悲惨な状況はこの目で見てきた。ったない文章だが、私が小学生の時に体験した一部をしたためてみることにした。お読み頂ければ幸いである。 /// 続きは本誌ご参照
あびこ舞台が「声なき氷像」―戦争の悲劇を劇化 10日アミュゼ柏20
柏市民新聞     転載元:柏市民新聞(2008年8月8日付)
「戦争により一番被害を受けるのは民なのです」―。市民劇団「あびこ舞台」(飯牟礼一臣代表)は10日、旧満州にいた日本人開拓団の悲劇を描いた「声なき氷像」をアミュゼ柏で公演する。終戦記念の特別公演で、飯牟礼代表は「公演を通し戦争の悲惨さを考えるきっかけになれば」と話している。 /// 続きは本誌ご参照
明日へ 63年目に聞く:「満州」と向き合い続ける―残留孤児支援する元開拓総局官吏・大迫勝弘さん21
永井啓子(朝日新聞)     転載元:朝日新聞東京本社版千莱地区(2008年8月14日付)
習志野市の大迫勝弘さん(88)は月2回ほど、千葉市の県中国帰国者自立研修センターに出向く。中国残留孤児の帰国後の生活を支援する同センターで20年近く、相蕨などに携わってきた。 /// 続きは本誌ご参照
方正に集結した開拓団―長野・小県郷開拓団と大羅勒蜜九州村開拓団の記縁22
高橋健男
2008年度「方正友好交流の会」総会にて年度の活動のひとつとして「敗戦時、各地のさまざまな開拓団から方正へ逃れた人たちの状況を、可能なところまで整理する」ことが示された。私は総会の1ヵ月後に『満州開拓民悲史』(批評社)を公刊したが、その中で「方正へハルビンヘ」「方正にたどりついた開拓団」「士塊の中の白骨と中国唯一の『日本人公墓』」の章立てをし、方正に集結・越冬したいくつかの開拓団のことと中日友好園林のことを詳述した。 /// 続きは本誌ご参照
知られざる日中関係28
岩噌弘三
(社)日中科学技術文化センターと方正友好交流の会による時宜を得た企画のお蔭で、中国黒龍江省のハルピン東方約18Okmにあり、道路標識まで日本ソックリの高速道路で結ばれた方正県にある「日本人公墓」を、7月に訪れた。「百万戸計画」の国策で満州に移住された開拓民は敗戦で悲惨な境遇に追いやられたことは、よく知られている。その内、約五千人が、零下40度、飢え、栄養失調、発疹チフスなどで、方正で亡くなられた。それから数年たち、累々たる白骨の山を見た残留婦人が埋葬したいとの願いを政府に出した。 /// 続きは本誌ご参照
友好の原点を歩く旅に参加して31
石橋実
平成17年7月7日の夕刊読売で方正の日本人公墓の記事を読み、中国政府のとった人道的な行為に心をうたれました。そして、少年の頃「満洲国に関東軍」「大睦浪人」「特急亜細亜号」「満蒙開拓団」「大陸の花嫁」など通りーペんの知識として頭に入れ、戦後は「舞鶴港の引揚船」「残留孤児調査」「残留婦人」などを、新聞記事やテレビニュースで頭に入れていたにすぎなかった私の頭を、旧満洲国でどんなことがあったのかに向けさせました。 /// 続きは本誌ご参照
確認できた侵略の事実32
鵜澤弘
戦後65年を迎えた今日、戦争を知らない世代が多くなり、また記憶も風化しつつあります。しかし、今回の「友好の原点を歩く旅」に参加させて頂き、日本帝国主義の生々しい侵略の事実を確認することができました。方正県を表敬訪問したあと、日本人公墓をお参りしました。残留婦人の皆さんの働きかけにより1963年未だ国交回復のない時期にもかかわらず、方正県人民政府により「日本人入植者も、中国人と同じ軍国主義の犠牲者だ」として、遺骨を集めて埋葬し墓石を建てて頂いたとのことです。 /// 続きは本誌ご参照
友好の原点を歩く旅一検証と謝罪と誓いと35
藤井正義
2008年7月9日から7月13日までの5日間、「社団法人日中科学技術文化センター」と「方正友好交流の会」の共催で「友好の原点を歩く旅」と銘打つ訪中団が結成され、中国東北地方(旧満州)の各地を訪間した。関連する文章は多くの参加者から本号に寄稿されているが、私もその一員として若干の言葉を添えさせていただく。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州を訪ねて38
小関光二
平成20年7月、方正友好交流の会からのお誘いを受け、4泊5日の日程で、旧満州の旅に女房と参加した。私の家族には、直接、旧満州と係わりはありませんでしたが、今日の日本と日本を取り巻く社会の状況を考えると、どうしても、明治維新から終戦までの出来事を歴史的に整理し、今後日本の進むべき方向やあるべき姿を自分なりに考えてみたいと思っておりました。旧満州で起こったことは、今日でもまだ生々しい過去のことだとして、歴史研究対象としてあまり扱われないように思う。早く、社会学や歴史学で学者先生方が堂々と研究し発表してもらいたいと思っている。このことが、国民に議論が広がり、世界平和に貢献できる日本の姿を見出す基礎になるのではないでしょうか。 /// 続きは本誌ご参照
平和を願って39
小関征子
初めて二人の海外旅行が今回の訪中でした。私は何時か北京へ行きたいと思っていたので、参加させてもらいました。大連飛行場での第一歩の感想は、夫が接している中国人の方達とは全く異質なものでした。しかし、旅行が始まって方々見学するうち、私の心に変化が起き、歴史的に正しく捉えての謝罪の気持ちが第一となりました。また街で会う男の子や大勢の人々に親しみと優しさを感じました。彼の地も今は秋、寒くなったでしょうとあの広い農地を思い出しています。 /// 続きは本誌ご参照
方正地区日本人公墓一友好の原点を歩く旅で考える40
西忠雄
7月の方正県は北国の夏空の下に、農閑期に入った田んぼが青々とした稲穂を伸ばし広がっている。松花江の南岸に広がるこの地域は、丘陵地帯に囲まれるように平地が広がり、彼方には低い山並みが連なっている。北国のさわやかな夏の空気に包まれた広がりは、かつて想像を絶する悲惨なドラマが繰り広げられ、人びとの数だけあったさまざまなエピソードの存在すら思わせないような静けさを保っている。 /// 続きは本誌ご参照
私と方正42
橋本消一
「橋本さん、方正へ行きたいやけんどおぉ、無理かなぁ」と、初めて「方正」という地名を聞いたのは、30年近く前の金沢でした。「方正へ行きたい人がたくさんおるんやけどおぉ」と訪ねて行った当時の石川県日中友好協会(正統)の事務所で、事務局長から是非とも行きたいと色々お話を伺いました。私の日中旅行社名古屋営業所勤務時代の頃でした。当時、北陸に事務所は無く名古屋営業所が北陸3県を担当していました。早速事務所へ帰り、「方正」のことを調べましたが、当時は末開放地区が多く「方正」も開放されていないため訪問することはできませんでした。「残念ですが今は末開放だから行けませんが、きっとそのうちいける様になりますよ」となぐさめの気持ちを込めながら、回答したことを昨日のように覚えています。 /// 続きは本誌ご参照
日中友好の旅に思う44
野田尚道
中国東北部を尋ねる旅を重ねることになったのは、日中国交三十周年の2002年7月、地元に住む元満蒙開拓団青少年義勇軍の一員であった長田末作氏の殉教者慰霊法要に同行したことが最初のきっかけである。 /// 続きは本誌ご参照
方正を訪ねて45
矢島由利
私にとって中国は遠かったが、かつて日本が“満洲”という国を造ったということに最近非常に興味を持った。5月に父と日中科学技術文化センター主催の、大連と瀋陽を訪れるツアーに参加した後、もう一つ方正へ行くツアーがあるという話を聞き、続けて旅をするのは贅沢だと思ったが滅多にない機会なので行くことにした。方正の地名はそのとき初めて知った。ツアー前にセンターの講浪会で井出孫六さんのお話を伺うことができた。40年前にハルピン駅で日本語を聞いたというエピソードや所謂“残留孤児”が帰国後、日本政府を相手に裁判を起こした話は非常に印象深かった。 /// 続きは本誌ご参照
前事不忘後事之師47
徳毛貴文
前事不忘後事之師(qianshibuwanghoushizhishi)。「過去のことを忘れなければ、将来の手本になる」「前の事を忘れず、後の戒めとする」といった意味だ。2008年7月9日から13日までの「友好の原点を歩く旅」に参加し、方正、撫順、瀋陽などを巡った。各地の戦跡に、この「前事不忘 後事之師」が大書されていた。「前事」を忘れるどころか、知る機会が乏しいのが今の時代だ。旅先で「見たこと」を正しく理解できているかどうかも疑問だが、思いつくまま、まとまりなく、すこしスケッチしてみたい。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓への思い52
木村直美(社団法人日中科学技術文化センター理事)     転載元:日中科学技術文化センター『きずな』(2008年10月)
私が初めてハルピン市方正県にある日本人公墓と中国養父母公墓の存在を知ったのは、「ハルピン市方正地区支援交流の会」の会長・故石井貫一氏のお手伝いを始めた平成6、7年のことである。 /// 続きは本誌ご参照
溥傑さんの瓢箪池52
大類善啓(社団法人日中科学技術文化センター理事・事務局長)
この6月に開いた第4回「方正友好交流の会」の総会で、珍しく若い女性がいたので気になっていたら、彼女が愛親覚羅溥傑とひろ夫人のお孫さんであることがわかった。 /// 続きは本誌ご参照
「友好の原点を歩く旅」<備忘録的旅行記>53
藤井正義
出張目的:ハルピン市方正県所在の「日本人公墓」と「中国人養父母の墓」他に墓参し、県要人との交流を行い、更には、撫順戦犯管理所など各種戦争記念館を訪ねて歴史認識を新たにすることにより日中友好交流に資する。出張期間:2008年7月9日から7月13日まで、5日間。訪中団体名称:「友好の原点を歩く旅」。主催:社団法人日中科学技術文化センター、方正友好交流の会。 /// 続きは本誌ご参照
日本の「友好の原点を歩く」訪中団、ハルビン市及び方正県と友好交流62
石金楷
2008年7月9日、日本の「方正友好交流の会」事務局長・大類善啓氏を団長とする「友好の原点を歩く」訪中団一行17名は、ハルビンに到着。ハルビン市日本残留孤児養父母連合会の熱烈な歓迎を受けて、空港の入り口前で記念写真を撮った。訪中団一行は午前中に日本を発って大連に到着し、その後乗り継いでハルビンに着いた。連合会秘薯長の私と残留婦人二世の牛世光は、連合会代表として空港に出向き日本の友人たちを迎えた。 /// 続きは本誌ご参照
周恩来に見る国際主義的精神64
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)     転載元:日中友好99人委員会依頼原稿
都心の大きい書店に行けば、嫌中感情や反中感情を煽るような書名の本が、溢れるように平積みされている。中国では江沢民指導による「愛国教育」の影響もあり、「9・18を忘れるな」、といった9・18歴史博物館の展示構成に見られるように、反日感情を醸成する雰囲気がまだ残っている。そういう状況を見て思い起こすのは、瑞瑞しい国際主義的な友愛精神が躍動していた1940年代から50年代にかけての、中国共産党指導部の思想と行動であり、とりわけ周恩来の役割である。 /// 続きは本誌ご参照
『満州開拓団・義勇隊関係史』編纂状況65
高橋健男
今、満州開拓団個々の詳細を知ろうとするときに第一に参照するのは、1966年に全国拓友協議会が編纂した『満洲開拓史』(1980年に復刊)であろう。満蒙同胞援護会編『満蒙終戦史』(河出書房新社、1962)が別の角度から開拓団や在満一般邦人の避難・引揚げを補完してくれる。基礎資料を参照したい向きには『満州移民関係資料集成』(不二出版、全40巻)、『海外引揚関係資料集成』(ゆまに書房、全33巻)、『満洲開拓叢書』(満洲移住協会、全10巻)、『満洲叢書』(図書刊行会、全7巻)などがある。 /// 続きは本誌ご参照
方正県等からの「中国帰国者」:子どもたちへの日本語支援―中国帰国子女教育のはじまり69
山田陽子
長野県下伊那郡に泰阜村という、人口わずか1960人ほど(2008年8月現在)の過疎村がある。この泰阜村は「満洲移民の村」(小林、1977)として知られている。1972年の日中国交正常化以降、泰阜村に帰ってきた中国残留孤児・残留婦人等の多数は、中国黒龍江省ハルビン市方正県からの帰国である。村は1930年代後半に旧満州へ開拓団として全村人口のおよそ3分の1近くの村民(約1,200人)を送出していた。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い76
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
読書・にいがたの一冊:満州―開拓民悲史(高橋健男著)77
奥村正雄(方正友好協会顧問)
前作の大著『赤い夕陽の満州にて―「昭和」への旅』(二〇〇六年)を総論とすれば、今度の新作はいわば各論である。国策によって旧満州に入植した開拓団二十七万人が敗戦時、ソ連軍の侵攻などで惨劇、餓死、凍死、避難逃亡に追い詰められた歴史については、これまでもおぴただしい数の証言や記録が公刊されてきた。しかし本書が読者をとらえて放さないのは、国内と中国で個々の関係者を訪ねて取材した、その生き生きとした臨場感だ。 /// 続きは本誌ご参照
書籍案内78
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『天を恨み地を呪いました一中国方正の日本人公墓を守った人々(奥村正雄編著)』、『二つの祖国 ある中国残留孤児の証言(北澤博史著)』、『赤い夕腸の満州にて「昭和」への旅(高橋健男著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記79
大類善啓
羽田澄子監督の記録映画『鳴呼 満蒙開拓団』が完成した。来年2009年の6月13日(士)から7月末まで、岩波ホール(千代田区神保町)で一般公開されることが決まった。ぜひ、多くの人たちに見てもらい、国策で入り込んだ開拓民たちが、いかに悲惨な状況に追いやられたか、日本という国家が、多くの遺棄された人たちにいかに無情であったか、を知ってほしい。自衛隊のトップに位置する男が、先の戦争を「アジアを解放する戦争だった」というような歴史認識しか持てないという実情、その発言者が戦後世代ということにも驚くが、同時にそれを支持するような状況があることに、いったい戦後教育とは何だったのかと思う。ともかく、そのような「空気」を醸成する状況をいかに打破していくか。戦争体験、旧満州での体験を伝えることの重要性を思う。 /// 続きは本誌ご参照
 
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