方正友好交流の会
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星火方正
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第8号(2009年5月発行) / 1冊26記事 を表示しています。

  第8号(2009年5月発行) 第8号(2009年5月発行)表紙

「戦争をやめる」という選択肢があるとは思わなかった!―羽田澄子さん、大連での敗戦前後を語る1
大類善啓(聞き手・文)
記録映画作家である羽田澄子さんのお名前は、もちろん以前から知ってはいた。が、正直に告白すれば、作品を見ているのは今回の『鳴呼 満蒙開拓団』以外では、『終りよければすべてよし』だけである。それも、羽田さんが方正日本人公墓に関心を持っていただいているということがわかり、これは見なければという思いで上映中の岩波ホールに駆け込んだ。 /// 続きは本誌ご参照
映画「鳴呼 満蒙開拓団」を作って19
羽田澄子(記録映画作家)     転載元:日本中国文化交流協会『日中文化交流』(2009年3月1日)
これは昨年(2008)仕上げた映画ですが、この映画を作ることが出来て、私は大きな重い宿題をひとつ果たしたような気持ちです。私は旧満州、大連生まれ。父は女学校の教師でした。父の転勤で一時日本に帰りましたが、転勤で再び満州に戻り、旅順と大連で暮し、日本に引揚げて来たのは戦後3年経った1948年です。 /// 続きは本誌ご参照
映画「嗚呼 満蒙開拓団」上映について20
株式会社自由工房
私どもは、ドキュメンタリー映両「嗚呼 満蒙開拓団」(羽田澄子演出)を製作いたしました。戦後60年以上経った現在の日本では、遠い昔のこととして忘れ去られているかのような「満蒙」という言葉。しかし、満蒙開柘団の悲劇は、今に続く間題です。 /// 続きは本誌ご参照
私の知る羽田澄子さん23
佐渡京子
私が羽田さんの演出助手として働いていたのは1999年~2001年までの3年間、作品では、「続・住民の選択した町の福祉」、「平塚らいてうの生涯」の2本に関わった。子供の頃から映画が好きで、漠然と映画の仕事につきたいと思っていた私は、大学卒業の年にたまたま観た「住民の選択した町の福祉」がきっかけで、どうしても羽田さんと仕事がしたいと思い、羽田さんと同じ学校を卒業したというだけで、強引に演出助手にしていただいた。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓建立史の影に隠れた部分は…26
可児カ一郎
泰阜(長野県)中川(埼玉県)七虎力(岡山県)読書(長野県現在南木曽町)、四つの開拓団約3000人の集団が行軍開始して二日目、八虎力と言う河の中州を通過中に襲撃を受けて、暴徒と白兵戦をまじえ、次々と凶弾に倒れて行く同胞達の血で染まった中州では、怪我や病気で動けなくなり、荷車に乗ってここまで来たが車は移動出来なくなり、肉親を置き去りにするしかなかった人達や、父親が現地召集され母親に手を引かれて行動して来たが戦闘で往きはぐれた子供達が、かあちゃん母ちゃんと泣き叫びながら隊に着いて行動していた。 /// 続きは本誌ご参照
『鳴呼 満蒙開拓団』をぜひDVDに!31
可児力一郎     転載元:木曾ホームニュース(2008年10月18日付)
「今年の夏、南木曽町天白にある満州開拓移民殉難者の慰霊碑の清掃にはわずか7人が集まっただけ。あの悲惨な歴史が風化していくのは堪えられません」 /// 続きは本誌ご参照
孫たちへ言い残すこと―ユウちゃんとコウちゃんへ32
酒井武史
ここには、オジイチャンがこどものときに、自分と自分の家族に起こったことが書いてある。きみたちはいま5歳と3歳半だから、この文章を読んで理解できるようになるのは、あと数年は先になるだろう。その時になっても、オジイチャンはたぶん元気でいるかもしれない。でも、オジイチャンはもう70歳、いつなにが起きても不思議はない。だから、いまのうちに誓き残しておこうと思う。 /// 続きは本誌ご参照
「帰ってきたおばあさん」を演じて一私が辿った道36
神川さち子
石金楷さまお久しぶりです。お変わりございませんか?今年はハルピンの町も暖冬だったとか。そのため“氷祭り”の賑わいは今ひとつでしたかしら。昨年10月28日ハルピン市龍江劇場での私の一人芝居「帰ってきたおばあさん」の満場の中で嗚り止まなかった拍手が、今も鮮やかに耳に残っています。石さまの粉骨砕身のお働きで当日、集まられた養父栂さん残留孤児そのご家族のみなさんとの交流会&舞台観劇のひと時は、平和の旅に参加したメンバーにも終生忘れることが出来なかったようです。 /// 続きは本誌ご参照
中国で「残留婦人」一人芝居―祖国への思い 演じて知る39
吉良敦岐(読売新聞)     転載元:読売新聞(2008年11月7日付)
中国残留婦人をテーマに一人芝居を続けている調布市富士見町の女優神田さち子さん(64)が、10月下旬の中国での初公演を終えて帰国した。会場は残留孤児やその養父母、大学生らで満員となり、祖国の地を踏みたいという孤児の思いに、じかに触れる機会もあった。神田さんは「芝居を見てもらっただけでなく、孤児らと直接話ができたのは大きな収穫。もう一度、中国で演じてみたい」と気持ちを新たにしている。 /// 続きは本誌ご参照
女優・神田さん 中国公演を実現―残留婦人の半生を熱演「語り継ぐのが天命」40
西日本新聞     転載元:西日本新聞(2008年12月29日付)
中国残留婦人の半生を描いた一人芝居「帰ってきたおばあさん」を十三年間演じ続けている福岡県甘木市(現朝倉市)出身の女優神田さち子さん(六四)=東京都在住=が、長年の夢だった中国公演を黒竜江省ハルビン市で、今秋実現させた。舞台に自らの境遇を重ね嗚咽する残留孤児に思いを寄せ、初めて聞いた中国人養父母たちの言葉を胸に刻んだ旅。神田さんは「あの時代の愚かさ」を訴えていく決意を新たにした。 /// 続きは本誌ご参照
漫画家にはなぜか旧満州出身が多い―神田さち子さんを支援するちばてつやさんらが南京で展示会41
大類善啓
右の記事は、2009年4月5日の朝日新聞に掲載された記事である。ちばてつやさん、森田拳次さんのお二人とも、旧満州出身者だ。ちばさんは、神田さち子さんの「帰ってきたおばあさん」を支援されている。2007年9月、銀座の博品館劇場での上演では私も見に行ったがその日、ちばさんも観劇されていた。ロビーで私もちばさんと少しお話し、方正のことをお話した。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓と世代友好碑42
武吉次朗
中国の杭州市西湖湖畔の柳浪聞鶯公園に、「日中不再戦」と書かれた石碑が建っている。1962年に当時岐阜市長だった松尾吾策氏が揮毫したものだ。中国侵略戦争期間、岐阜にあった旧陸軍歩兵第68連隊は、慮溝橋事変の翌月から戦争に参加した。その深い反省に立ち日中友好の誓いとして建立された、という経緯がある。他方、岐阜市の岐阜公園には日中友好庭園があり、王子達杭州市長(1962年当時)が揮毫した「中日両国人民世世代代友好下去」(中日両国人民は世世代代友好的にしていこう)の石碑が建っている。二つの碑文は1962年10月に交換され、翌年、両地にそれぞれ建立された。 /// 続きは本誌ご参照
方正県政府より緊急支援の呼びかけ44
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)
方正県人民政府外事弁公室主任の王偉新さんより、上記のような手紙が4月27日にFAXで届いた。我々の会は、多くの日本人に方正の公墓の存在を伝えることが使命だと考えている。本来、日本人公墓の維持、修理などについては日本政府が関わるべきことであると思っている。公墓の現在の状況については、これから関係者たちと話していきたいと考えているが、会としては方正県人民政府からの要請もあり、10万円を送ることにした。 /// 続きは本誌ご参照
班忠義さんと方正45
奥村正雄
班忠義さんといえば、いま日本の中国侵略戦争と性暴力に対する最も先鋭的な追及者として注目を浴びている映像作家である。しかし私が班さんに初めて会った20年前、彼はその一作で鮮烈なデビューを飾って間もない、気鋭のノンフィクション作家だった。1958年中国遼寧省撫順市に生まれた彼は黒竜江省大学日本語科を卒業。中国残留婦人の人生を描いた『曹おばさんの海』で第7回朝日ジャーナル・ノンフィクション大賞を受賞したばかりだった。私とは一面識もないその彼から、ある日突然電話がかかってきた。「会いたい」という。 /// 続きは本誌ご参照
前史と方正交流の歳月47
林郁
「趙尚志将軍の頭がついに見つかりました。ついては『趙尚志伝』の映画を作り、テレビでも中央電視台から全国放送しますので、お会いして話したい」という手紙を2005年2月に中国の映画監督峻厳氏から受け取り、中国東北人のねばり強さに私は改めて感じ入った。そして、ほっとした。1987年新年、単身で中ソ国境を訪ねたとき、最初にハルビンでお会いした李敏女士から「将軍の首探し」を頼まれてから18年。その年月が一気に凝縮して感じられた。 /// 続きは本誌ご参照
日中友好よ、永遠に50
吉川春子
日本の侵略戦争の傷跡は中国にとってはもちろんの事、日本人民にとっても痛ましいものですが、満蒙開拓団の悲劇は私はとても他人事とは思えません。私は、いわゆる残留孤児といわれる方々と同世代なのです。そして私が3歳から小学校卒業まで過ごした長野県は、満蒙開拓団として全国一、大勢の県民を送り出し、その半数の人々は再び祖国の地を踏むことはできなかったのです。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓移民について想う:坂本弘子著『父の足跡―満州の回想』と可児力一郎著『風雪に耐えて咲く寒梅のように―二つの祖の狭間に生きて』を読んで53
藤井正義
最近読んだ旧満州に関する二冊の本を紹介する。一つは坂本弘子著、「父の足跡一満州の回想」であり、もう一つは、可児カ一郎著、「風雪に耐えて咲く寒梅のように―二つの祖国の狭間に生きて」である。 /// 続きは本誌ご参照
私と中国:中国の「日本人公墓」訪問を呼びかける56
今村春江(中国帰国者3世、方正友好交流の会理事)     転載元:日中友好新聞(2009年2月15日付)
中国ハルビン市郊外の方正県に、日本の「満蒙開拓政策」で犠牲となった5000人近い人びとが眠る「日本人公墓」が存在していることは広く知られていません。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓と映画「嗚呼 満蒙開拓団」56
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)     転載元:日中友好新聞(2009年5月5日付)
1945年夏、旧「満州」にいた多くの開拓民たちは、ソ連の参戦と日本の敗戦によって逃げ惑い、やっと辿り着いた先がハルビン市から約180キロ東にある方正だ。 /// 続きは本誌ご参照
「方正県」との出会いとその関わり―ある一つの方正支援活動報告57
大類善啓     転載元:風雪に耐えた「中国の日本人公墓」ハルビン市方正県物語(2004年4月発行)
中国東北地方において、日本とひときわ縁が深く、いわば日中友好の魂の地としての方正県に対し、多様な支援を行おうとして結成された「方正地区支援交流の会」はその後、いくつか名称を変えて継続した。この会も、誕生経緯を翻って見れば実にドラマティックな紆余曲折の歴史があった。本稿は、当初から末席の一人として会に関わった私のささやかな思い出であり、同時に―つの「歴史回顧」である。後に続く人々のための参考になれば幸いである。 /// 続きは本誌ご参照
方正地区日本人公墓の由来63
王鳳山(訳:森山誠之)     転載元:日中友好協会『日本と中国』 その底辺を翔けた70年(2003年4月発行)
歴史は一面の鏡である。歴史をもって興隆を知り、善悪を明かし、得失を論究する。本世紀の初めから40年代の半ばまで、日本軍国主義は侵略の魔手を中国に伸ばし、中国人民に重大な災難をもたらし、長い中日関係の歴史に点々と血痕の1ページを留めた。このほぼ半世紀来、平和の鐘声は世界の大地を震憾し、平和の慈雨は中日両国人民の心田をうるおした。今この1篇を草する唯一の目的は歴史の悲劇を繰り返させず、中日両国人民が世々代々友好を継続させることにある。 /// 続きは本誌ご参照
中国・交流と歴史検証の旅(第6回)67
方正友好交流の会
7月29日(水)新潟空港ロビーに集合 /// 続きは本誌ご参照
近現代の歴史検証と北東アジアの未来を展望する旅―普通の旅行ガイドでは出てこない旧満州の奥地ヘ68
社団法人日中科学技術文化センター
8月28日(金)成田発(CZ630) /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い69
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
書籍案内70
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『天を恨み 地を呪いました―中国方正の日本人公墓を守った人々(奥村正雄編著)』、『風雪に耐えて咲く寒梅のように―二つの祖国の狭間に生きて(可児カ一郎著)』、『父の足跡―満州の回想(坂本弘子著)』、『二つの祖国 ある中国残留孤児の証言(北澤博史著)』、『赤い夕陽の満州にて 「昭和」への旅(高橋健男著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記71
大類善啓
先日、大阪から会員の山本義輝さんが訪ねて来られた。山本さんは農業機械の指導で、黒竜江省に3度行かれた方だ。今でも阪南市日中友好協会でご活躍だ。中国の農業機械化の発展のためにと、55年余りの間、農業機械の試験や研究、製品聞発、普及に役立ててきた図書や発表論文などを整理して、中国農業大学の図書館に寄贈された。 /// 続きは本誌ご参照
 
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